MEMBER'S  PAGE  YOSHIKI(4)
   
激震の事件から、正確にはまだYOSHIKIは立ち直れてはいない。「歩く会」の作文が、立ち直りの第一歩の足跡なら今度の「自伝」は長い時間を要した事件の克服の金字塔かもしれない。今回の自伝も、この辺の部分(第1章)で一度止まってしまった様に聞く。かつてロッキング・オフ『X PSYCHEDELIC VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK』(1990年10月30日初版発行)のパーソナルインタビューにも次の記述がある。「・・・]には、ヨシキの意地と執念が限界まで込められている。というわけで、パーソナル・インタビューが展開されるはずなのだが、実はこのヨシキのインタビューだけ他の4人のものと異なり、具体的に過去をたどっていないフリースタイルな内容となっている。正直書くと、一度は生まれてから現代に至るまでの半生を語った所謂「2万字インタビュー」を行ったのだが、後日本人から掲載を中止してほしいという申し出があったからなのだ。『あまりにも衝撃的すぎまして(笑)。出来上がったインタビューを読んでグサグサっときてしまったと。自分で読んでても涙が出てきそうというか、凄い衝撃的だったんで、とりあえずまだ今は語りたくないという。だから“現代”の状態をヨシキが語る、ってインタビューにしてほしいんですけど』。将来的に話せる時がくれば必ず話す――そうしたヨシキの心情を踏まえて、今回はそのセカンド・ヴァージョンを掲載することにした」(『同』P17)。  それは、もう言い表すことの出来ない状態を意味するのだろう。涙腺がこの事件を思い返すだけで無条件に堰切れてしまう。思い出を振り返る時には、]や]JAPANのつらい日々やその解散、HIDEの死の悲しみに一度は止まるものの、瞬間通り越してこの事件の鮮烈な記憶にまで行き着いてしまうかのような、昨年の1/27GIG最終日や12/3シンフォニー1日目の突然の感情の揺れ動く様は、泣いて泣いて泣き崩れたあの日がフラッシュバックのように吹き出して来たかのような涙声であった。悲しい思い出が渾然一体と堰切ってとめどなく溢れるその源泉が、父との突然の別離にあるのかもしれない。人の死というものがようやく捉えられる年頃の、突然にしてあまりにも衝撃的な喪失を、理解することもどうすることも出来ずにただ立ち尽くすしかなかったYOSHIKIの孤独は、誰も理解も表現も出来まい。将に“戦士の魂”が生まれる戦いだった。妖艶な容姿のうちに宿されている誰も理解できない孤独を思う時、この偉大な戦士となぜか心情的に無条件に共に生き続けたいとの思いがしてくるのである。