MEMBER'S PAGE YOSHIKI(3)
2〜3年振りに来た沖ノ島は、海の歌の波音は変らなかったが、人間によごされてしまったと怒りを感じている。「あのよごれ方、ビニールやプラスチックのごみの山だ。2,3年前はもっときれいだった。白い砂浜、青い海を見ようとして来たのだが大まちがいだった。これでいいのだろうか」と期待はずれの目的地の荒れように傷ついたのだろう。沖ノ島の一帯は、「富士見」という地域で、館山港もその地域内にある。去年、館山港に向かう途中、安房水産高校前まで来ると美しい夕日が沈むところであり、車を降りて見とれていたが、夕日の沈む少し離れた右手には遠く富士山が霞の上に勇姿をのぞかせていた。YOSHIKIの家から西へ1キロと言うこの地点での夕暮れの美しさは、富士見地域でも同じであろうし、小さい頃父や母に連れられて海岸伝いに散歩や海水浴に来た一帯、波静かな西方に、沈む赤い夕日の美しさは、YOSHIKIの心に赤の色彩を刻印していったのかもしれない。 2〜3年振りという表現に、私はこの間のYOSHIKIのあまりにも過酷な運命的事件の心理的空白を感じ取るのである。衝撃的な事件は、1年前の4年生(10歳)の時。さらにその前には父母の心労などが予想され、のんびりと海岸散策など出来る状態ではなかった。在りし日の楽しいひとときを、沖ノ島まで足を伸ばして遊んだ思い出をも一度眺めたかったのかもしれない。小学校からは自分の家を通り越して、4培以上遠くにある距離を課題の目的地に選び、着くや半時間を置いて11キロを反転して行く強行軍を普通ならしたくないと考えてしまう。かつての美しい思い出が、事件を境に見るものや行き交うものがもう別の次元の世界で見えてしまう。通常人でも自分ちの不祥事には世間の目、人の変化、さらし者の圧力を感じ取るように、YOSHIKIの事件後の心情は、当の自分が目撃発見者というショックと、世間や友達の中を冷たい視線を感じながらも学校へ通わざるをえないと言う外部の圧力にも耐えなければならず、4年生と言うものごころが出来かけているか弱い芽生えの心理に、負担し切れない事件の重さであったに違いない。YOSHIKIが個人インタビューを受けても触れる事を憚る事件と時期を、この2〜3年と言う期間が表しているのじゃないか。やや無謀な計画は、友達の発案かYOSHIKIの発案かは不明だけれど、少なくとも、事件を乗り越えて元気になりつつあるYOSHIKIが、立ち直りを公言した一文と見て取れて貴重なものと思うと同時に、沖ノ島の怒りは、怒れる心を取り戻したYOSHIKIの心理回復宣言と思うのである。