REPORT 3
2005・7・16 東海林のリ子トークショー(2時30分からの2回目) 和歌山レモネードカフェ papa
2時5分、2回目のトークショーの案内があり、2階へ。1回目も1時半ごろまでサイン会・写真撮影など参加者めいめい、東海林さんとの機会を楽しんでいるようだった。一旦1階に下りて休憩。東海林さんたちも食事かどこかに行かれたようだった。2時前には、2回目の参加者の方々が店内のシートを埋めていた。2時30分、お母さんの司会で、参加者への礼、東海林さんのお話前3回違う事&また東海林さんに来ていただきたいこと、トークショー後のサイン写真会、お店の宣伝・グッズの案内など司会業でも食ってゆけるようなお話。設定は1回目と同じであった。
紹介を受けて東海林さんが登場。『お母さん、しっかりうまくなって職を奪われそう。こんにちは。現場の東海林です。初めての人も多い中で、どこかで会った人もおられるでしょう。どこかで会ったら声かけてください。レモネードで会ったと。真由子ちゃん、下でニコニコしてて、店長行ってきますからと声かけて来ました。東京へ来られた時もいつもニコニコしてて、お父さんお母さんもニコニコしてて、エネルギーもらって。真由子ちゃん、きれいになって来られ、膚もつるつるで、近くにいる方は会ってあげて下さい。特別な女の子で、頑張るとか頑張らないとか、強い精神を持ってるとか、もうそういうことを超えてやっぱりね、素晴らしい人ですよ。素晴らしいものを持ってて、会うだけでエネルギーをもらえて、手を握ると東海林頑張れよとエネルギーをくれます。それもこれもこの人(hide)が結びつけた縁で、ホントにね和歌山の真由ちゃんと横須賀のhideちゃんと私とを結びつけた線が自然に結ばれたと言うのは不思議なくらいです。それはね、たぶんまん中にhideちゃんがいて真由ちゃんがいて、バンドのメンバー、スプレビのメンバーやkiyoshiもホントに真由ちゃんが好きだと言うんですよ。じゅずつなぎで広がっていって、そして今日来てくれた人も含めて全員が幸せになっていってもらいたいと思っております。レモネード建てられた時に和歌山に来て、開店時2階へ上がってきて、あらっ、と思ったのは、横須賀のhideミュージアムにもこんなカフェがあるんですよ、カフェラサイエンスと言う、そこのテーブルやイスとおんなじじゃないの、と言うとおんなじじゃないんだけどイメージおんなじように作ったと言うんですよ。ファン同士の方々の交流の場になればと思います。今日はレポーターなんで、今からインタビューしますので、びっくりしないで。各テーブルを回りながら、ご関係はとか尋ねて行くと、骨髄バンクで知った方、お店のご近所、真由ちゃんのお家のご近所の方、姉妹で東海林さん来られるのでと言う方、お母さんと息子の婚約者の彼女のお二人で嫁姑の問題生じないですねと東海林さんコメント。真由ちゃんのリハビリ担当の先生ご夫妻。お父さんの元職場の方、女性2人と男性1人のテーブルでは、『こちらは奥様ですかありがとうございます、こちらは奥様であちらは愛人ですか』で一同大笑い。また東海林さん自信を持って『こちらはご家族ですね』というと即座に「違います!」、4人掛けテーブルでは隣は別人。さらに男性に『隣は奥様ですか、きれいな奥様で』と言うとその男性「きつい!」。着ている服から]ファンの所では、東海林さんの経験の一こまを話してくれて『私はルナシーを紹介してもらったのがhideちゃんなんですよ。ゴールドというライブ場で、DJをやると言うので行ったら、これから売り出すバンドと言われたのがルナシー。hideちゃんがZeppet
Storeと言うバンドを、事務所の中に転がってたカセットテープがあって、みんな送ってくるわけでしょ、こんな音楽やってるって言って、それを拾って聞いたらいいじゃないかと、もしそのままにしていたら世にでてこないじゃないかという思いで紹介したのが始まりで、世の中に出てきた。追っかけやってる間に、真由ちゃんが出て来て、このお店が出来て、会える機会が出来て、東京ドームへ来た時にはすごいコスプレだった。このお店が出来たのも真由ちゃんのお陰で、お父さん良かったですね、退職金つぎ込んでしまいましたが・・』。どこかのテーブルでは『現場の東海林です。のりピーと言ってくれたらうれしいのですが、おすぎだけ“のりばー”と言うので・・』と笑わせた。
急に全員インタビューさせていただいて親近感が沸きました。26年間、事件をレポートしてきました。事件をレポートして落ち込むんじゃないかと心配されたんですが、いろんな疑問が湧いてきてこないだも少年事件で、ガス爆発の事件で、長くお父さんを手伝ってきた少年で、お父さんの事業の失敗をお前は馬鹿だとか少年にあてつけていたようで、お父さんいじめるぐらいなら良かったが、それがお母さんのしんどい、死にたいという思いを感じていたらしく、事件自体は少年が悪く見えるが、巻き戻すとそうじゃないことも多い。凶悪犯の東京の19歳の少年がいて、なんでそういう少年が出来たんだろうと思い、お母さんに何回もインタビューお願いしていたんですが、始めはずっと断られ続けていたんですが会ってもいいと言うので、私と若いデレクターの2人が行くと、前庭にブランコがあって、草ぼうぼうでブランコも鎖が切れて落ちていて長いこと手入れがなされてない。玄関入って行くと、入口に万葉集の本棚があって見ていたら、お母さんが東海林さん私万葉集読むの好きなのというので、ちょっと変だなこのお母さんと思ったですが、この子の犯した罪の事での取材で行ったのに万葉集が好きなのと言う趣味の話を最初から口のされるのは・・で中に入ってゆくと言うには、あの子は小さい時から嘘ばかり言ってきましたが、今日始めて正直に自白したんで、私褒めてあげたい。褒めてあげたいんじゃない人を殺してるんですからね。そして写真を見せてもらったんですよ。小さい時のアルバムを写真で見ると、坊ちゃん刈りでかわいく、クリスマスや誕生日のパーティでピースしてるかわいい写真があったが、そのうち妹が出来て、よくできる妹で、そのうち坊ちゃんの写真が出なくなった。お母さん写真が無いですよというと後ろにありますよ。後ろで特攻服着てる姿があった。なぜと聞くと、小学校4年ぐらいからかわいくなくなったと。私の子も小学校の時は学校でいじめられ、家ではいい子であったが、その頃から自我に目覚め反抗期に入る。その頃より塾に通い始めたが、負担じゃないかと聞くと楽しいと言うし、先生も楽しくやってると言う事で、そのうちの元通りになった。お母さんがかわいくないって言った時に、その子はかわいそうだなぁ、寂しい思いをしたんだろうなぁと考えた時に、原因はお母さんですね。写真がないということは家出したんですね。暴走族としてリーダーになれば、存在感が出てくる。やっぱりお母さんが変で、裁判傍聴したら、私が立ち直らせると言う情状書が出されて、そのお母さんが来るというので待っていたら、10時になっても来ない。急病で来ないとなったが、少年はたのしみにしていただろうが、そんな事で裁判はのびのびになったが、夕刊見ていたらその子が3ヶ月前に死刑になった。少年の寂しさ、悲しさは少年一人が背負うばかりだが、その記事で胸が詰まった。その時にこの子は、小さい時に寂しい思いをした為にこうなった。事件と言うのは、細いボーダーラインで変ってしまう。このお母さん、もうちょっと何とかなるはずだった。育てて行く段階で愛情がなくなった。離婚したりすると、環境で事件が出てくる。神戸少年事件でもお母さんが本を出した。「A少年をこう育てた」と言うのもおかしい。お母さんが少年の自画像を書いている。怖い顔を普通に描いてるが、お母さんにはそんな考えしかなく、面会に行った時にお母さんに会わないとなった。普通、その子を愛してたらその本は書くかとなり、何年後の中に父の手記で妻は少年に会い、妻は父に「これは冤罪じゃないでしょうね」と確認したという。それにしても冤罪を確認したとは。表に出れば少年は悪いが、その子の周りにある環境がわかれば、憎しみがその子に行く圧力が小さくなるはず。そういう風に取材してゆくとなぜかやさしくなった。すさまじい所に行くんですがやさしくなれた。受け止めてあげたい、いろんな事見て、もっともっと見届けてやりたい気持ちから、やさしくなった。
その気持ちの中で真由子ちゃんと出会って、また励まされ、私を大きく育ててくれるようになると思った。インタビューでなぜかシビアな話になった。「現場の東海林」をやめたのは阪神大震災だった。1/17の朝連絡を受けて10時にフジテレビ出て一旦徳島に入って、タクシーも無く、18日0時に東灘区に入った。その時は大通りに避難の車が止まってて、自分はあす朝の報道しなければとなったが、みんなインタビューに答えてくれない。その時大きな余震があった。両足を引きずり込まれる余震で、そのレポートした。そのレポートの中で一人の人が出てきて「東海林さん、怖かったでしょう」と言った。「ええ、怖かったです」と言うとその人に初めてインタビュー出来た。ご家族どうだったですか、というと家族4人は大丈夫だが家がどうなってるのか、と言われた。大きな体育館の中の避難の人の中にインタビューに行ったが、シーンとしていた。大勢の人がいるのにシーンとしている事にびっくり。隣に死体の安置所があって、枕元に顔を見ている人がいたが、泣いてない。泣く余裕も無く、ジッーと見ているだけで、余裕が無い。胸が痛くなった。9歳の男の子が3日目、瓦礫の下で生存してて救出を取材に行った。7階建てのマンションのがれきの下の救出で、煙が上がり、3日も経って生存者は救出しないと思ったが、自衛隊の隊長が来て、この中に必ず生存者がいる。ショベルカー(ユンボかな)が来てるが、服とか何か見えたら、全部止めて救出に当たる。大きながれきで機械が登ってゆくし、見た目とても生存者がいるとは思えない現場であったが、救出時はそうして助け出された。いろんなものが出てきて、アルバム、手提げなど、その救出をじっと取材していたら、3時までかかって、毛布が下げられて、「生存者がいたんですか」と聞くと、生存者、生存者と言うことで、カメラの立ち入り禁止を超えて取材。西宮の病院へ追いかけた。ICUへ入った坊やを取材したが、ぎりぎりで何とか助かった。お父さんの言葉「東海林さんが取材で見守ってくれたから、助かった」と言われてうれしかった。病院に見舞いに行ったら、大きなショックを受けてるので外科の先生と、神経科の先生が見ておられて、絶対地震のこと聞かないでくださいと言われて取材すると、お母さんは前の日に死体で発見されているこの子は、小にくらしい子供の元気さで「東海林さん、ガム買って来て」と言うので山盛り買って行くと、「これじゃない、おまけ付きの」と言ったり、病院の非常ベルを押してしこたま叱られたりしてたが、我がままをする事でだんだんショックを緩めてゆくらしく、だんだん我がままが強くなって子供返りして、さんまのまんま連れてきてというので、人形もって行くと、これじゃないよと言う。動く大きな奴という。志村ケンのバカ殿つれて来てとかも言われて、志村さんに言えば叶えてくれたかも知れないが、これはその子に断ったが、その子は半身複雑骨折で頑張っている。お母さんを歩けるようになって見舞いに行きたい。僕の血をお母さんにみんなあげてくれと言ったが、後にお父さんがダッコしてお母さんが死んだ事を伝えた。「わかった」と言って泣いたらしいが、今高校生で徳島に住んでいて、音楽のクラブに入ってる。素直に育ってるのでうれしい。阪神大震災を取材して、真由子ちゃんみたいに強い生命力を持ってる人とかの両方を見てると、テレ朝から司会の話があって、今までいろんなもの見てきて、あの阪神大震災以上のものを見ないだろうと思って、誰にも相談しないで「やめる」とした。相談したら、その人の意見なので、自分とその人の間で揺れてるのではあかんのでやめた。テレビの時は1週間の拘束があったが、今はこうして一区切りつけたので話す機会も出来てきた。新しいスタートをした現場の東海林ですと言うことで、バライティーで話てるんですが、真由子ちゃんが良くなってくれたらお手伝いも出来るし、前3回の話とはシビアになりましたが、以上「現場から東海林がお伝えしました」。15時45分終った。
その後すぐにサイン会や写真撮影が思い思いになされた。我々も再度、着込んでいるよーせーさんグッズの黄色のTシャツに、前をひっぱ出してサインをして頂いた。テレビで見るとおりの、穏やかな、気さくな、東海林さんであった。話も人を引きずりこんでゆく話し方で、昔は成績がビリのアナウンサーとはとても信じられない(失礼しました)。こういう冗談を言っても決して怒らないだろうなぁという心象を十分に与えてくれる人柄があふれ出ていた。またいつか来られるという事なので、現場の東海林さんの「現場」に参加させて頂きたい。大ほら吹きの話もありましたが、確かに東海林さんの話を聞くと元気が出るように思いました。
(注)話の内容や筋は、メモの具合で違ってるかもしれません。特に少年事件の東海林さんのお話は、もっと丁寧に言葉を尽くされておりましたが、話の2〜3割しかメモできませんし、前後の脈絡も違ってたりして誤解を生じるレポになってるかも知れません。ひとえに誤解を生じる表現は、私一人の責任でございますので、東海林さんの実際の話の内容には、そのような誤解の生じる内容は無かったと言うこと、ご理解いただきたく思います。
間違えた所もたくさん有ると思いますが、最後まで読んで頂いて有難うございますm(__)m