REPORT 1
2007,12,14〜15 梅村総一郎(TOKYOYANKEES) お通夜、葬儀告別式 太宗寺 papa
梅さん、最後の別れ
関係者には事前の情報がもたらされていたかもしれないが、ファンにとっては唐突な訃報であった。明日はhideバースディという前日の午後8時ごろ、帰宅した自分にもたらされた訃報に絶句した。信じられない情報に彼のまじめそうな顔が浮かび、ステージでの首筋の血管を浮き立たせた、力んだボーカルの情景が目に浮かぶ。あまりに早すぎるではないか。まだまだエクスタシー軍団をまとめ率いて、折に触れ、ファンを楽しませる大きな役目もあったし、何より東京ヤンキースとしてコンスタントにライブ活動を繰り広げている活動の、もっと大きな果実をこれから実らせなくてはならなかったのに・・。目黒鹿鳴館のすぐ坂下側に、「うめ何々」という喫茶店があり、梅さんがやってるような冗談をいいながら、ここでライブ前休息をとることも一つの楽しみにしていたほど、「梅」という名前は自分には親しみある、肌になじんだ感覚だった。「梅」をどれほどか頼りにしていたYOSHIKIの落胆は、またも10年目の大きな衝撃となって彼の心を深くえぐっているに違いない。またXのメンバーや彼らと共に運命共同体の戦いに参戦した面々も底知れぬ落胆の中にあることは察しできる。長いトンネルを越えて、XJAPANのプロジェクト名で再結成を夢のまた夢の如く復活させてくれたYOSHIKIの一番の頼りがいある同志の若すぎる他界に、彼自身の宿命ともいうべき大きな試練がいつも前途に横たわっているようで、それに打ち勝つ精一杯の声援を惜しみなく捧げたいとは思うが、彼の心中を慮ると、いたたまれない気持ちになってくる。世界進出を夢見たXJAPANの夢が、映画の世界を通して正夢となって世界進出の緒に就いた矢先の大きな支柱の倒壊に、言葉もない。「梅」の願いも、その夢と戦い続けていたに違いない。彼の信望という影響力が行き渡るからこそ、ファンは安心という傘の下で、今後の夢の構築を築けたようにも感じてしまうほど、彼の見えざる活動は偉大なものだったと思っている。ガクンと片ひざつくような落胆の衝撃を感じずにはいられない。縁の下の力持ち的な彼の存在は、失なわれては非常に困るという感覚、なにかしら前途厳しいなぁと述懐が出てしまうのである。信望の要(かなめ)、要が無くなってどうなってゆくんだろうというそこはかとない不安。ここんところ満ち潮のように感じているのに、いっぺんに引き潮をムードに裏返ってしまうんじゃないかという漠然とした不安。そんな不安を引きずりながら、hideも存命中なら参列したであろう梅さんの別れに、急遽日程を組み替え参列させてもらった。
運悪く、14日は大阪近辺で午前中一つの葬儀に参列、飛ばしに飛ばして新宿太宗寺6時に間に合わすのに苦労した(15日早朝には、大阪の親戚の訃報が入り、梅さんの別れを終えれば、また飛ばしに飛ばして大阪に戻らなくてはならないという過密)。余裕も(余韻も)なく、走りに走った。5時55分太宗寺到着。幹線道路から少し中にはいる角々には、梅村家葬儀会場の立て看板。門前にはガードマンが案内整理に出ていて、喪服姿をみて指図を与えてくれる。多くの参拝者が路上の危なくないところに立待ちをしている。境内に入ると、結構広い。左前方(60〜70m先)にテントの屋根が見え、その下に大勢の黒服姿のうごめく人々。記帳所の看板が見えたので、そのテントに直行。記帳は、備え付けカードに住所氏名等を書き、受付に差し出すと、引換券を渡してくれる。本堂は、受付の先に、6〜7m幅のコンクリートの階段60段ぐらいが上に続いており、中央に仕切りが設けられ左上がり部分右下がり部分に分けられ、上がり部分上から順に並び始めていて、階段1/3ぐらいまで埋まった続きに4人並びで待つことになった。時間も時間なのに少ないなぁと思ったが、何のことはない猛烈な勢いで後ろに人の列が続いて行き、右下り部分にも4人並びで埋まり、階段はすぐにいっぱいになった。スピーカーからは、激しいロックの音が抑えた音調で流れ(やさしい曲も流れたり)、目を瞑ればライブ前の感覚に似ている。待っている階段の上りきった踊り場には、左に親族や取引会社や個人の付き合い方の献花名札、右にはバンド仲間関係の名札が何段かに分けて掲げられてるボードが置かれているのが見えるが、人の肩で中身はほとんど見えない。(相棒、前方何段か前にPATAの髪形によく似た人が待ってると確認していたらしいが、自分は気づかず)。6時5分「ただいまより、梅村総一郎様のお通夜を執り行います。一同ご起立黙祷」のアナウンス。1分ぐらいの黙祷だっただろうか、それが終わると略歴のご紹介に移り、「1966年12月2日東京にて生まれる。1983年バンド活動開始。1990年3代目ボーカリストとしてヤンキースに入る。ツアーバンドとして活動。1991年エクスタシーより・・・。1992年エクスタシーレコードより・・・○○発売。同年武道館・大阪城ホールのエクスタシィサミット。1993年メジャーデビュー。コロンビアより○○発売。ロスで収録。1994年4枚目のアルバム○○発売。ロスで収録。1998年エクスタシーレコードの取締役に就任。15年続く東京一家など全国的なライブ開始。2002年韓国、香港の海外初ライブ。2003年2度目の韓国香港公演。同年フォーサーティトラックスに移籍。2005年初のカバーアルバム発売。2007年新作レコーディングをアレンジング中、12月11日41年の生涯を閉じる。」と紹介される。「ここで、ご遺族を代表し、梅村真二郎氏よりご挨拶」『本日はお忙しいところ、お寒い中、ご出席いただき、まことに有難うございます。このような大勢の方がお別れに駆けつけてくれたことを、梅は喜んでいます。梅は秋ごろから体調を崩し、がんにかかっていることがわかりまして、火曜日の朝、急な発作で他界しました。小さい頃は電車が好きで、免許を取ったあとはアメ車にはまり、一人で旅に行くことも多く・・・。梅は両国生まれの、生粋の江戸っ子です。そんな下町の風情が(声が詰まり、涙声の変わる)、情の厚い男に・・・。バンド活動はメディアや皆様の方がよく知っておられ・・・このような式が出せたことは、今までの皆様のおかげで、かわいがって頂いた皆様のおかげです。すばらしい皆様にめぐり合えて喜んでおります。残された者、今後も変わらず、お付き合いくださいますでしょうか。本日は本当に有難うございました』と言うような挨拶をされる。内容はメモなので違ってるかもしてません(すすり泣く声があちこちで聞こえる)。「これより献花のご案内を・・。喪主様、ご親族様より、献花を・・・」。スピーカーからは、透き通るようなきれいな女性のボーカルが流れ始める(6時15分)。いつの間にか男性のボーカルに代わり、曲は流れて行く。5分ぐらいしたのだろうか6時20分ごろから「ご参列のかたがた、前列の方より、献花をお願いします」で列が動き始め、階段踊り場正面には、生花が2脚立てかけられ、白幕で仕切られた左の入り口へ、列はすぼめられ、式場への入り口で2列になった列の左右から、式典会社のスタッフが白のカーネーションを1本ずつ手渡してくれる。ホールは、今まで親族や関係者が座っていた椅子が、傍らに通り道を空けて片付けられ、前方正面には、ステージのようなセットで、ステージの背の壁には東京ヤンキースのステージ幕が掲げられ、その前に前に乗り出すような生き生きした梅さんの快活な正面向きの遺影が飾られ、その前には、中央にドラムのセット、左右にアンプやスピーカーのライブで使用した機材を2機ずつ、その前に右にギター、左にベースが立てかけられている。ステージ右端には皮ジャン、左端には黒地に襟など赤を配した開襟シャツの梅さんのステージ衣装が立脚ハンガーで飾られている。遺影は菊の丘を模した祭壇の上に、天国の花畑を遊び回るようなイメージで丘の上に飾れていた。そのステージ前に献花台が5mぐらいの長い机であつらえられ、カーネーションを受け取ると、5〜6列になって献花台の順番を待った。献花をし、拝礼をし、数珠で手合わせをしたが、ここには宗教の色合いは何もなかった。誰でも自由に、服装だって黒ではなく普段着でも一向に違和感のない雰囲気の献花であった。ステージを模した献花方式のお別れは、個人の意思でもあったのかどうか不明だが、気楽に僕の最後を見送ってくれればいいよ という梅さんのやさしい人柄が垣間見れた。献花を終えると各自右へ移動して行く。そのところにはまだ親族の方々だ座っておられ、その向こう壁伝いに。喪主さん、お母さん、あと1〜2人がおられ、礼をして挨拶。その壁伝い前方には東京ヤンキースの残された3人が挨拶のため立っていてくれた。そして式場を出ると言う流れとなっている。白幕で通路に仕切られた細い通路を進むと、出口の辺りで引換券を出して、CDを手渡してくれた。道は宴会場のはたを通っていったが、中で簡単な食事が用意されており、上られる方はどうぞと案内されていたが、階段を下に下りて出口に出た。(相棒は、前方を歩いていたが、やっぱり4〜5人前をPATAが進んでいたとのこと。細い通路辺りで、関係者に引っ張られてどこかにつれて行かれたとのこと。PATAは式場に入って僕らより先に重要な献花をしないといけないのに、梅さんもこんな面々を喜んでいるかもしれない)
6時35分ごろ外の境内に出てくると、まだ式場への階段には大勢の人が並んでおり、その列はテント前にも伸びていた。
梅さんの葬儀・告別式の当日は、9時50分ごろ、太宗寺に到着した。開式は11時からであったが、別れの朝の雰囲気やその場の状況などつぶさに感じたかったから早めに来た。タクシーの運転手は、太宗寺辺りの特性について、聴きもしないのに話してくれた。前日、お寺近辺の駐車場を探して帰る予定だったのに忘れてしまい、タクシーでの到着となったが、太宗寺すぐ横に、かなりのスペースの100Pがあり、昨日の仕事を忘れたことで時間と出費を無駄にしてしまった。まだ誰も一般の参列者はいないようで、門前でタクシーを降りるのもはばかられ、少し行過ぎたところで止めてもらう。誰もお参りらしい人影がいないという空間には、言い知れぬ弾力があって、突き進むのに抵抗感がある。門前から境内のテント辺りを見通しても、分厚い空間が厳然と近寄るものを阻んでいるような、視線の嵐にふぶかれる思いがしたが、嫌がる相棒を、記帳だけでも済ましておこうと、テントに向けて引っ張って歩いた。テントの辺りは、今日の関係者が暖を取るように温風装置やストーブの辺りに固まっており、それぞれの話題に弾んでいるようだった。当方が近づいても、話題の輪は乱れることもなく、視線の嵐は結局こっちの自意識過剰、思い過ごしというほかなく、来た道にあったはずの厳然と近寄るものを拒んだ空間は、胡散霧消ゆめまぼろしという虚構に過ぎなかった。が、代わってぜんぜん相手にされないというのも、一つの抵抗感が感じられ、そそくさと昨日のカードに記帳し、受付に差し出すも、中のスタッフは座ったままの話題の中におり、「すいません」の問いかけで、初めて気づいたような態度でぎこちなく、男性スタッフ一人、受付のカウンター前に出てきてくれた。カードを差し出すと、引換券を今日も渡してくれた。「昨日と同じように、階段の上から並んでいたらよろしいですか」と尋ねると、詰まりながらその善後策がはっきり決まってないような戸惑いをにじませて、「は、はい」と躊躇している。「階段の上に行っときますね」と念押しして、階段を上りかけた。相棒は、階段下のテントの影に、スタッフじゃないようなお参りの女性一人を見つけて、話しかけてそばにおいてもらったようだった。黒白縞模様に巻かれた階段中央を仕切るテントの支柱が、人影のようにすれ違って降りてゆくと、階段上部の踊り場に出た。10時前だったか。昨日階段下から覗き見したが、並ぶ人肩で視界のほとんどがつぶされた献花供花の名札のボードが、今は自由に眼前にあった。つぶさに見て行くうちに、悲しき性か、メモ用紙を取り出してしまうのであった。誰がどういう順番でということと共に、梅さんの交際の縮図がここに現れてるように、生前の活動や交際の深さ広さが垣間見れる。ホール入り口に向かって左が親族やお取引会社や個人関係者、右がバンド仲間やライブ関係者という区分けがされてるようだった。プライバシーもあるので、バンド仲間やライブ関係者の右方だけをを見たままに記すと、4段に名札が重ねられ、一番上段の左端から「YOSHIKI、XJAPANToshi、PATA、HEATH、フリーウィル代表ダイナマイトトミー、荒山正廣−AMI−、LADIESROOM、板谷祐、The
Heaven−ycurve一同、ラルクアンシェル yukihiro、LUNA SEA、河村隆一、SUGIZO、INORAN、J 、真矢、BEAST、BEASTスタッフ一同、ラヴァンローズ、アナーキー、彩冷える、伊集院 明郎、ウィガード、everset一同、8eit、有限会社ファーストセル ガーゴイル、GAUDY
MODE、カリスマ竹内雅樹、CHARISMA MATSUMOTO、Gish、(2段目)清春、サンジュッパーセントレスファト、シリアル⇔NUMBER、G.D.FLICKERS、ジャンヌダルク シュウジ、ジュリィー、ジョリーピックルス一同、人格ラヂオ、ストーンデイビス一同、SPIKE
HONEYメンバー一同、ソフィア、S.O.A.P 、TYSON Z、タケイリバンド一同、竹入隆行、ダスター3、CHUCKY&KATZ、坪井健一郎、ディル アン グレイ、デイドポップスターズ、DOVERMAN
カズ・ケンイチ・ギゼル、ニューロティカ、根本尚司、Heidi、ハーケンクロイツ、HIME、妃阿甦、ムック、メフィストフェレス、メリー、(三段目)Ra:IN、Y.K.ユナイテッド、W.A.R.P.メンバースタッフ一同
、バトルフィールド三橋徹・蝶野夕子、山形 SESSION、ライブハウス高岡もみの木ハウス、仙台マカナスタッフ一同、株式会社ジャンクボックス社員一同、有限会社柏Zax天池文博・スタッフ一同、クラブアライブ、高崎クラブフリーズ、水戸ライトハウス,ライブハウスへブンズロック黒田靖、千葉ルック、ライブハウスルート14杉野一同・暁子、浦和ナルシス(有)ジェイナイトミュージックファクトリー代表取締役坂井昌子、クラブチッタ、横浜セブンスアベニュー椙江茂樹、有限会社ゴールドトップ サンダースウーク厚木、池袋音処手刀CHOP、エリアスタッフ一同、鹿鳴館、有限会社ライブステーション、ライブハウス新大久保アースダム、shibuya-o.Group、株式会社ロフトプロジェクト、ライブハウス クレッシェンド、株式会社ハートランドスタジオ代表取締役桑原司、名古屋ミュージック ファーム、ライブハウスBIG
CAT、(4段目)ライブハウスヴィンテージ、有限会社フィリーズ正木毅・株式会社チキンジョージ児島進、有限会社ナミキジャンクションスタッフ一同,有限会社セカンドシーン代表取締役中井亮一、有限会社サロンキティ代表取締役伊賀千晃、ライブハウス九州ドラムグループビーワン代表西本真也、大分TOPS従業員一同、大分地元バンド一同、鹿鳴館元スタッフ ヒロ、元CLUB
GIO市川 山下・明石、スタジオピープ413TRACKS、中野マッドスタジオスタッフ一同、Boxing
Kitty代表田中千恵(AYAME)、・・・後は個人名ばかりなので割愛(16名札)」。左ボードの方には「親族の後に株式会社ジャパンミュージックエージェンシー・株式会社エクスタシーレコード、コロンビアミュージックエンターティメント株式会社、株式会社ヘッドワックスオーガナイゼーション松本裕士、松本裕士さんのお父さんの会社、株式会社バックステージプロジェクト、岡田卓也、東海林のり子、ロッキンf、フールズメイト編集部一同を含む関係会社個人等96名札」。半時間以上かかって、一人メモしていたが、途中この踊り場のバンド関係ボード前に、親族(喪主さんかも知れない、後ろ向きでわからず)の方と梅さんのお母さんが出てこられて、葬典会社の人と打ち合わせをされていて、お母さんと目が合ってしまい、お辞儀をした。「何でこの人こんなところに・・・」と思われたかも知れないが、にこやかにお辞儀を下さり、不審な表情は少しも見えなかった。半時間の間には、多くのスタッフが出入り、階段を上り下りして行ったが、誰も見ぬ素振りで通り過ぎていった。自分の世界に入って一心にメモしていたが、後ろに人が続いてくるだろうとタカをくくっていたので、堂々と待つという形で存在する熱心な挙動は、まだここに存在してはいけない不審の影を消していたのかもしれない。35分メモも終わり、階段下をのぞくと、並んでいるはずの人がまったく皆無、そして階段下で手招きする相棒。テント前は、関係者の黒いリボンの人の方が多く一般の記帳もまばら。境内にも2〜3人一般らしい塊がちらほら。降りてゆくと、一般が階段に上るのをスタッフが止めているとのたまう。止める前に入り込んでしまったビールスだったのかと苦笑。そうだろうなぁ、お通夜でも開始数分前にあわせてどっと押し寄せる東京気質からすれば、開式1時間以上も前に階段をのぼってゆく一般など想像もつかないはずで、誰も不審がらず、、でもちゃんと許諾を得て、待つ場所を尋ねて上ったんだから、本人もなんらやましい気持ちもなく、大いなるミスマッチでこんなことになってしまった。が、そのツケはしっぺ返しとなってすぐに来た。階段を下りると、今日朝発生した大阪の濃い親戚の不幸のことで、携帯が鳴った。テントそばを後ろに進んで、この寺とゆかりの深い内藤家の菩提などを遠くに見ながら、長電話で打ち合わせをしていると、45分ごろ、一般のせき止めが開放されて、記帳のすんだ人は階段に並んでくれるよう指示があり、上り始めたのである。電話は終わらない。電話を終わって並んだのは、階段の一番下の位置であった。
開式までのしばらく、階段下の順番で待つことに何の不足もなかった。昨日見れなかったボードはもう十分見させていただいた。気がかりな親戚の葬儀のさしあたりの打ち合わせもひとまず終えた。あとは心安らかに待つだけである。すがすがしく晴れた今日、空気は透き通り、肌を通り抜ける微風は冷たいが清涼感を持って気を引き締めてくれる。すがすがしさは、梅さんの人柄にも通じるようであった。昨日と同じようなロックの激しいものから静かな女性ボーカルの曲まで、音量控えめに清澄な空域を満たしている。11時、「ただいまより、梅村総一郎様の告別式を・・・・黙祷」というアナウンス。1分間ぐらいの黙祷。そして、略歴がアナウンスされ(昨日と同じ)、終了すると弔電拝読、日本クラウン株式会社サトウトモノリ、ソニーミュージック・・・タカハシヨシカツその他多数・・・。それが終わると遺族を代表して梅村真二郎氏よりご挨拶。『本日は、お忙しいところ、寒い中、会葬くださり有難うございます。挨拶に先だち、兄総一郎に親しみ・・・このように多くの方が別れに駆けつけて下さり・・・。梅は秋ごろから体調をくづし、検査の結果、がんにかかっていることがわかり、これより専門的な治療を進めようとしていた矢先、発作にみまわれなくなりました。兄は免許の取得後はアメ車にはまり、釣りに行くのも車で・・・総じて旅好きな人でした。忠臣蔵の地、両国の下町の風土が吹き流したような情の厚い人でした。バンド活動は皆様の方がよく知っておられ・・・。こうした式が開けますのも、梅の今までの歴史とかわいがって頂いた賜物と思い、深く感謝しております。本当にすばらしい人々にめぐり合えたとうれしく思います。これからもヤンキースのメンバーや東京一家を暖かく見守って頂きたくお願いいたします。有難うございました』(メモなので、不完全、ニュアンス違いがあると思います)。12分「これより献花をご案内申し上げます、親族の方、喪主の方より献花をお願い申し上げます」。昨日と同じ、透き通る曲が静かに流れ始める。女性ボーカルの澄み渡った厳粛な高音の響き、引き締まった空気がほほをなぜる微風を通して心洗われるようなわずかな刺激を伝えてくる。大きな桜やケヤキの下の、この階段のテントに張り詰める空気。深いところで物悲しい感情が動き出してくる。22分、列は動き出す。階段を1段づつ上る。今日は左側の階段にだけ、人の列が上ってゆく。本堂入り口のところは、すべて白布でおおわれ、間口の中央は衝立のように遮断の目隠しになっていて、そこに生花が2つ立てられて、衝立の左へ回り込むようにホールへの入り口が切られ、そこでカーネーションが2列になった左右からスタッフによって渡される。ホールの中は、椅子が傍らに寄せられ、献花台に向かって5〜6列の縦隊をつくる。献花は、空いたところへ進んで献花をして行く。肩肘をついて少し前のめりに話し出すようなポーズで正面(こっち)を向いている遺影に、「有難うございました。安らかに。また向こうで旧友とエクスタシーを始めてください。またファンとなって・・・」という話を交わすが如く、遺影に向かって最後の別れ。右へ進んで、親族の方や喪主、お母様に一礼、少し離れた出口側の所にいるヤンキースのメンバーに一礼をして、入り口の反対側の出口へ出る。昨日は左へ進んだが、今日はまっすぐに階段踊り場へ出て、下り階段をおりてゆく順路に変わっていた。
階段下で引換券と交換にCDが渡される。テントの前の境内反対側には、今日の関係者の車が駐車され、その辺りにまばらに献花を終えた人が最後の見送りのための待機をしている。自分もその辺りでテント側に向き直って待つことにした。45分ごろだろうか、車が動きますとのことでテント側に移動。その駐車場の2台のセンチュリーが駐車の車の前に並び替える。しばらくして外から黒のベンツが入ってきて、センチュリーが移動して駐車場の空きに入った。さっき(入場前)はあった車で、伊藤さん(警備の)が行くのが見えたというし、僕らが並んでいる間に、献花を終えたYさんが帰られたのかもしれないという憶測ができた。そうこうする内に霊柩車がバックで入ってきて、目の前に止まった。後ろのバックハッチは通り過ぎたが、車体の中央部が目の前に来た。黒い霊柩車のなんともいえない黒光り。56分、葬儀告別式の終了がアナウンスされる。12時07分、バンド関係者が階段ををりて来る。PATAさんは落胆したすさんだ感じで降りてくる。Toshiに似た人もいる(と思ったが、本人だったらしい)。霊柩車の後方ハッチを取り巻くように並んだように見えた。こっちで待ってる一般の誰一人、声も立てず、彼らの動きを見つめるだけである。しばらくして階段を小走りにエバカンさんが降りてくる。ハッチの向こう側、階段方向に向き直り、ハンカチを取り出して眼を覆う。その直後の15分、梅さんを包んだ棺が濃い身内などに抱えられて階段を下りてくる。エバカンさんの傍目もはばからず目頭をハンカチで覆った号泣は、そこにいるエクスタシーのメンバー全員の痛恨の嘆きを如実に反映しているだろうし、一般もすすり泣く声がそこかしこ巻き上がる。「有難うございました!」の掛け声や名前を呼ぶ切り裂く声。こみ上げる感情は、もう抑えることができない。すすり泣く声の中、厳粛に手順がすすんで合唱、22分出棺となった。 出棺前、葬儀委員長東京ヤンキースのギタリスト橋本さんよりご挨拶があった。よく聞き取れなかったが「やさしくて、すごく寂しがりやだったこと。湿ったことが嫌いだったので、明るく見送ってほしい」という意味のことを挨拶されたように思う エクスタシーのメンバーらは、3台のマイクロバスに分乗して斎場にお供して行った。
車の移動をするとのことでテント前に移動した辺りから、出棺を見送るまでの間、誰一人、ひそひそばなしを一切しなかった。じっと念じて待っているようだった。すなわち梅さんをの逝去に打ちのめされた衝撃を物語っているようだった。一般の中で、私は東京ヤンキースのファン暦の浅い方だろうが、梅村さんの存在は、エクスタシーにとってはなくてはならない存在だと思い知るようになって、身近に感じるようになった。梅村さんがいれば安心できるという感覚、そういう感覚が失われるというのはものすごい不安に感じる。梅さんにおんぶしていたGEORGEに頑張ってもらうしかない。
8時ごろ、大阪の親戚に着いた。東京から直行というのに、正装で現れた2人に、わざわざ家に帰って着替えて来てくれたのかと恐縮されたが、ここままの姿で東京から戻ってきたと言うとさらに驚かれた。それにしても強行軍であった。あと50年はこんなことがないように頼みますぞ。その頃は先に天国のエクスタシーサミットにファンとして参加してるだろうから、現世の忙しい目はないだろうから。
間違えた所もたくさん有ると思いますが、最後まで読んで頂いて有難うございますm(__)m