REPORT  1

2006・01・27   TOSHI ミニコンサート    papa
 

1月24日、いつもよく行く病院に行った。診察ではない小さな処置ですぐ終る予定で、診療科の前に座っていた。前面壁には診察の状況や当日の先生名などが映るモニターがあって、携帯の注意などへと画面が変って行く。何気なく見ていたら、Toshiと言う名前がある案内が出てきた。「?」と思い、次のその画面に目を凝らしていると
      
  「癒しのミニコンサート」開催
出演者:Toshiさん(元]−JAPANボーカリスト)
日 時:平成18年1月27日(金)17:30〜18:00
場 所:2階受付ロビーにて 
 短い時間ではありますが、心にしみる「癒しのメロディー」をお楽しみください

とある。Toshiのコンサートのことは知ってるが、あまりかんばしくない風評なので無視していて、よそに出向いてまで行く気はなかったが、今回は自分の生活の領域に入って来たと言う感覚で、一度その実際を見て自分なりの納得をしようかと行ってみた。ToshiのHPにはこのコンサートのライブ予定は当日も上がっていなかった。
 病院の受付ロビーは広く、受付けカウンターに平行に3人掛けの椅子が並んでいる。25分前、その椅子を引いて45°斜めに置きなおし、大きな3角形の広場(底辺10m斜辺7mぐらい)が作られた。この時点でToshi目当ての人数は我々含めて8人、最前か2列目にすばやく陣取った。20分前にはその頂点辺りにToshiスタッフらしい人が出てきて、病院スタッフと話しながら、マイクスタンド、小さなアンプなどを準備。事務用の椅子も2つ出てきたが、しばらくして赤いパイプ椅子も出てきた。10分前来院・入院の方へのミニコンサートの館内放送。5時30分には椅子全部が埋り立ち見も多く、総勢100から150人で、さらにエレベーターからまだ人が吐き出されてくる。
 5時35分、ギターケースを持ち、旅行用バッグを引きながらToshiが現われる。観衆の方を見渡し、ギターを椅子横に置き、一旦事務室に消える。やや肥えてる様で、表情がやつれている風貌。服装は薄いクリーム系ズボン、同系のセーターにマフラ掛け。38分出てきて、赤いパイプ椅子を三角頂点中央に取り出しギターを置き、マイクスタンドにマイクセット、小さなアンプ(w30cmH15cmぐらい)をカウンターに乗せコードを接続。一人で全ての準備していて、Toshiスタッフらしき人はどこにもいない。終ってToshiがどこかに行った所で、病院スタッフより、トイレに行かれたとのことで注意点。携帯の撮影は控えること及び後でCDの販売もあるとのこと。
 41分、Toshi戻ってきて、一旦事務所に入りかけてすぐUターン、イスに座りギターの調音。マイクの調子も見て、42分普通のしゃべり声より1オクターブ高い声で『皆さん、こんにちわ。大変お待たせしてしまいまして、大変申し訳ございませんでした。ではさっそく歌の方に参りたいと思います。大変短い時間ではございますが、最後までお付き合いください。それではよろしくお願い致します。ではまず最初の曲は「君はいないか」という曲からお聴きください(ここで、病院のBGMを消してくれるよう関係者に指示)』。左足でリズムをとり、時に目をつむり、またゆっくりと観客を見回しながら、サビでは眉間にしわ寄せ大きく体をゆすって歌っていた(歌詞は著作権があってダメとおもうので書かない)。
 1曲目歌い終わって長いMC『どうもありがとうございます。「君はいないか」と言う曲を聴いていただきました。ぼくが今、この歌っているような歌、この音楽と出会ったのは、今から10年近く前になります。もうだいぶ前ですね。逆に言うたらもう10年ぐらい前の曲という事になります。当時僕は、世間的に言いますと、スターと言いますか芸能人みたいな、ほんとにお恥ずかしいですけれども、以前は髪の毛を金髪にして、こう逆立てたり、顔に変なお化粧したりしてもうすごいかっこしてました。そういうのがビジュアル系とかって言ってはやったりして、僕はスターになって行きました。今でも若者達に大きな影響を与えてしまっていて、そんなものをはやらしてしまって本当に申し訳ないなという風に思います。実際はそんな風に自分のことを偽って、自分のことを目立させようとか、なんかすごいもんに見せようとか、かっこつけようとか見栄を張ったりですね、まあそういう演技をしている自分が、いくら賞賛されてもチヤホヤされても、もう本当にむなしい気持ちになってゆく。もう当たり前と言えば当たり前なんでしょうけれど、あるいはロック特有のすさんだというか荒いような、そんな生活の中で本当に疲れちゃいまして、もう死んじゃいたいとか、そういうトラブルの中で心が殺伐としてしまった時に、たまたまCD屋さんでCDを買って来たんですけれど、そのCDの音楽聴いてたらですね、なんだか涙がポロポロこぼれてきてですね、当時の僕にとってはその音楽を聴きながら涙してますと、なんか心がホッとするような気がして命が救われるような、そんな経験を致しました。その僕にとってかけがえのない音楽を今は歌わさせてもらう様になって、念願かなって、やっとの思いで、で本当にやりたいことをやって行こうと言うことで、そういうスターの、そういったことを全部やめまして、なんですか直接こういう形で皆さんに歌を聴いてもらう旅に出る様になりまして、もう今年で8年になりました。もういろんなとこに旅を続けて参りましたが、まあホントにそんな音楽に出会えてよかったなぁとつくづく思いますけれども、こういう活動も順風満帆に行っていた訳ではなくてですね、もう紆余曲折と言うかトラブルばっかりの人生でした。逆境ばっかり。なぜなら僕はホントにロックスターの頂点におりましたので、僕自身にすごく商品価値が高くついていたり、要は利権とか、要は金ずるだった為に、そういうとこに戻れ みたいな、そういう力がいっぱい働くんですね。まあそういうので、もう今は癒しの時代と言われるようになりました。あるいは心の時代なんて言われます。まあ癒しが必要なんですね。まあ10年前に癒しの歌とか心の話なんてしようものなら、Toshiはなんか変な宗教なんじゃないんだとか、Toshiは洗脳されてるんじゃないんだとか、なんかいろんな変なこと言われました。人生何の関係もないんですけど、人生おとしめられてしまいました。またそういうの自分の家族が仕組んでたりするもんですから、もう本当にドロドロになりました。また僕は人に誤解されたりすると弱虫なもんですから、すごく怖くなってくよくよしたり悩んだり、落ち込んだり、ムッとしたり,ふてくされたりと言う風に、もうネガティブになって、もう滅入りそうになりました。でもそんな時に、僕よりももっとひどい目にあわされちゃった人達が、そういう逆境の時こそもう1000倍ぐらいの力ではね返して、そういう時こそ明るく輝いて元気に、もう純粋さと真っ直ぐさで貫ぬくんだと言うことで応援して下さって、人純粋に生きることはできませんが、何とかここまで自分で選んだ道を貫いて来れた事を、ホントに有り難く、幸せなことと思います。では続きましての曲は「はるかなる自分」(ギターを抱えて弾き始める)。 
約5分弱の「はるかなる自分」を歌い終えて、5秒ほど黙して静止。次第に拍手が湧きあがり、黙礼で応え、姿勢を立ててMCに入った。『どうもありがとうございます。「はるかなる自分」と言う曲を聴いていただきました。ではあと1曲だけお付き合いください。まあこのような曲は歌っておりますが、僕はもう小っちゃい時からすごい劣等感のかたまりで生きてきました、もう恥ずかしいんですが。劣等と言うのは、人と比較をして自分の方が劣っているっていうことはいけないことなんだとか、負けてるのはダメなんだみたいな、なんかすっごい変なこと信じて来てしまいました。僕は三男坊の末っ子として生まれましたけれども、何が許せなかったって、この3番目に生まれたってこと自体許せませんでした。俺はなぜ3番目に生まれちゃったのかなぁみたいな、そんなこと言ったってしょうがない、一番下っぱですごいいじめられちゃったり、扱われちゃったり、みそかすみたいな、みそのカスですから、いらない子なんじゃないんだとか、自分がやめてくれって言わなきゃ、もう自分の弱虫の問題なんですが、怖いもんだからもういい子ちゃんやって表面で、顔色ばっかり伺っているっていうか、人に合わせてるっていうか、だからこそ腹で文句ばっかり言ってるみたいな人のせいにして、人のせいにしてるって言うかそういう感じですね、もう腐った生き方してきました。それともっと大きな劣等感、許せなかったことは、自分の顔が嫌いでした。顔が許せないブサイクだからですね。特に僕はアゴがこれ出ちゃってるんですね。アゴがどうしても許せなかったですね。これ小学校2年生の時にクラスメートの女の子にですね、お前アゴ出てるよーって教えてもらったんですね、○○○○さんっていう女の子に言われちゃったんですね。まあそういう劣等、人と比較して自分だけが変、自分だけがダメなんだみたいな、すごい劣等が強いんですよね。だからもうなんですかね、劣等側から優越側に回ればいいんだろうみたいな、そういう所から僕は地位や名声を求めました。あるいは父や母がお父さんやお母さんが、芸能人とかスターとかが好きだったから、彼らが望むそういう者になったら、要はもう完全な順応ですね、もう反発してもおんなじだと思うんですが、いずれにせよ幼少時に家庭で得られなかったもの、もう優しくしてほしい愛してほしい認めてほしいみたいな、そういうの外側に外側にって、何かになればとか何かを得ればみたいな、そんな所から突き上げて来たなぁと思います。劣等側から優越側に回るための塔にずっと登って来ました。ある程度の所まで登れましたけれども、でもこうなんですか(ギターに向いてさわりながら)、あのー豊かさっていうのはもうホント素晴らしいなぁって思います。どんどん豊かになった方がいいと思いますけれども、そこにもう心の健康って言ったらいいのか、健康な心が伴ってないとですね、もう何を身に着けても何を得たとしても、もう何様になったつもりで何か偉そうになってひけらかして、もうホントに苦しくなったり、空しくなったり、もうつらーい気持ちになっちゃうんだなぁということ、まあこれも当たり前のことかも知れないんだろうけど、僕は無知なもんで本当にもう分かりませんでした。でもつくづくと知りました。それどころか自分自分って自己中心的な生き方ですかね、もう自分さえよければいい、人を蹴落してでも自分が勝ってやるとか、自分だけは怖い思いをしたくないとか、何かそういう、要は自己顕示欲が強かったり、自己主張が強いような、そういう自我の強いエゴの強い生き方をしてますと、ホントに大切なものが、壊れちゃうんだなっていうことも知りました。まあ痛い思いをしていろんな意味で知ったとしてもなかなか懲りないんですね。ちっちゃい頃から信じ込んでる信念というのは、歌うことが出来ないって言ったらいいんですか、まあ間違ったこと信じちゃったなぁという感じが致します。まあそんな時に出会った音楽がこの音楽でした。たとえそんな自分だったとしても、もう有りのままを許したらっという音楽でした。有りのままを許すなんてよく聞いた言葉なんですけれど、僕にはよくわかりませんでした。あるいはこの音楽は全てはひとつっていう所から出来てるんだそうです。全ては一つにつながってるんだから、もう有りのままを許していいんだよ、全ては一つで有りのままを許すってどういう意味だと言うんで、この音楽を作っていた、この音楽家プロデューサー(ここやや声高に言った)に質問しました。そしたらですね、お前はアゴが出ているのがいけないとか、負けてるのはダメだとか、そんな変なこと信じているのはお前だけなんじゃないの、と言われてしまいました。アゴが出てるだけだろうって言われちゃいました。出てるだけなんだろうって出てるから問題なんじゃないですかって、僕は言ったんですけれども。出ている事が問題なんじゃなくて、出てるのがイケないって信じてるのお前の問題だろうって言われてしまいました。アゴに何の罪もないよ出てるだけなんですから。要は誰かが勝手に決めた良いとか悪いとか、そんなもの信じたら苦しくなるさということです。事実は自然にそうなっているものって言うのは、ただそうなっているだけだということだけです。例えば、外に出たら、風が吹いてますとかというのも、まあお日様が昇ったり沈んだり、波が寄せたり返したり、まあ何でもいいんですが、赤ちゃんが生まれたり育っていったり、あるいはおじいちゃんやおばあちゃんになっていったら老いていったり病んでいたり死んじゃうみたいに、全部自然界の流れ、川が流れてゆく、誰にも止められないし、良いか悪いかなんて誰かの勝手な都合でそこにくっついてるだけであって、例えば雨が降った時に、遠足の時に子供達が雨が降ったらとてもイヤな雨になるし、水不足の時に雨が降ったらすごくいい雨になるみたいな、雨はただ降ってるだけなんていう事、勝手なその人の都合がついてる。だから事実はたとえ何が起きたとしても、もう安心してて良かったんじゃないかって言うような。あるいは例えば赤ちゃんがですね、今日も赤ちゃんがいるんですが、赤ちゃんは例えば僕が空を見上げるとですね、おー空ですね、雲だなぁっと思うわけです。空と雲、って言うように分かれて見えます。でも赤ちゃんは当然空だぁとか雲だぁなんて、誰かが勝手に決めた日本語の名前、名前なんか信じてませんので赤ちゃんにとって見れば、別に空でもないし雲でもないわけです。当然空と雲なんて隔たりがないから、赤ちゃんが空見上げるのもなんだかわかんない方が、うぉーどこまでも広がってるぞーみたいな、すごいとんでもない世界。ここを(自分の領域を両手で示しながら)自分だと思ってる、自分という枠があって皆さんの事が他人に見えるわけです。自分と他人が別れて見えるからものすごく怖くて、今も皆さんにどう思われてるかなんてビビッたり怖くなったり、緊張したり、なんかうまくやらなきゃなんて、安心感、要は癒しがないわけです。比較や競争を信じてます。でも赤ちゃんは、赤ちゃん自分がどこまでかなんてわからないから、自分と他人の境目がないといったらいいんでしょうか、隔たりなき世界、ぜーんぶ(全部)が自分みたいな、どこまでも広がっちゃうぞ見たいな、果の果て考えたら分かんなくなっちゃうみたいな、本当は大きいんだか小ちゃいんだか全然分かんない。何が右なんだか左なんだか、上なんだか下なんだか全然分かんないような、もうとんでもない世界に赤ちゃんは今も、ちょうど僕たちもホントはそういう一つの中にいるっていうんですかね、隔たりがない世界って言ったらいいのか、分らない世界、分けられない世界って言ったらいいんですかね。名称付けによる隔たりがない。要は一つの世界。もう心のふるさとというのはいつもホントは自分の中に、赤ちゃんのそれみたいに、赤ちゃんを見ていたら誰もがかわいいみたいにですね、無邪気さとか、無垢さとか、無頓着さとか、無我だから、無我ですから私がない。生まれる私も死んじゃう私も傷ついた私もいないなんていうか、もとの私がないためにものすごい○○(口ごもって不明)ですかね。僕たちの本来の心のふるさとって言ったらいいんですかね。取り戻したいものはいつも自分の中にあったんじゃないかと。全てホントは一つなんだから、真っ直ぐ生きてゆこうとか、もう純粋に生きて行くぞーとか、あるいは純粋に行けないぐらいに競争とか比較とか、勝ちがよくて負けがいけないなんてことを本気にしてしまった為に、もうそのためにホントはすごーい傷ついていて、痛みや悲しみでいっぱいですとか、あるいは自分のことしか考えられなくてもう失敬な痛みでいっぱいですみたいな。あくどいインチキな自分ですと、弱虫で、ビビってて、それ隠して、ごまかして、表面突っ張ってますーって、ありのまま、どんな悲惨な自分だったとしても、ありのままを許すとき、責めることなく、そこに本当の安心感や癒しはいつも自分の中にあったんじゃないかと。そんな所から一歩一歩始めてゆこーっていうような、そんな所から書かれている曲、なんだそうです。これ口で言うのはすごい簡単なんですけど、ちっちゃい頃から信じ込んで来ている、いいとか悪いとか、あるいは名前、自分の名前すら疑わしいですよね、親が勝手につけただけであって、ほんなもんにはホント属せない、はるかに超えたなんだかわかんないものだって言うような、そういう取り戻したい事実は、いつも自分の中にあったんじゃないかーっていうような、そんな心のふるさとから、本当の質って言ったらいいのか、本質から作られている曲なんだそうです。まあちょっと僕が歌っても説得力がありませんが、そんなところからの曲なんだそうです。では最後は「美しき町へ」という曲を聴いてください(ギターのアルペジオが始る)』(6時15分、歌終る)
 
 ・・・・何を言わんとしているのか、自分が歌いたい歌でも「“そんな所”から作られた“人”の曲」を歌ってる姿に、だんだん俺の姿勢は崩れてきて、目頭にも何かにじむ湿気を感じていた。やっぱり・・・。言ってる事を理解してもらうには、高いハードルがありそうだ。安心感や癒しは、人が勝手に決めた“基準(=比較や競争を作る)”のない、ありのままを許すことで得られる?。心のふるさと(=取り戻したい世界)は、隔たりのない一つの世界にある?。・・・ようわからんとしか言いようがない。何度か出てくる「そんな所から作られた曲」という言い方に、操られてる姿が浮かぶ。利権、金づる、仕組まれた所から脱して、“人の世界”の布教者になっただけに見える。脱した意味がない。人の世界に属せず、誰も頼らず、自分だけの力で歌ったら、もうちょっと理解してもらえるんじゃないかと・・・。ながながとしゃべってはせっかくの歌も引き立たない。“その世界”を脱しさえすれば、小さい頃のいじめや劣等など誰しも持ってる辛い経験の叫び、これを自分の言葉で書いて歌ってくれれば、みんな聞いてくれるのにと思う。“そこ”にいるだけで、洗脳疑い、変な宗教疑いが出てしまい、俺らは心を閉ざしてしまう。“そこ”を脱しさえすれば、癒しはhideの歌った『限界破裂』のセラピーじゃないのか。取り戻したい世界は、TAIJIの『取り戻そうよ』じゃないのか。なにかそういうものをイメージできる世界を、誰しも持ってるわけで、それを自分の言葉と自分の音楽で表現する道を歩んでくれればありがたいんだが・・・。ひとり立ちしてこそ、歌に真実がこもるぞ。

 歌い終わって礼を述べ、さようならで終った。観客はすぐに帰り始めた。そのすばやさには、歌の真意がそう伝わらなかったという雰囲気が感じ取れた。Toshiは一人で片付けている。ギターをケースに入れ、コードをしまい、そして事務室に入って2分ぐらいして出て来、すぐ前を通り、少し離れた所に設けられた長テーブルに、CD類を並べ、一人で販売相手をする。その売り場には20人ぐらいが群がったが、買ってるのは数人という所。購入者には求めに応じてサインや記念写真に納まっている。CDは10種類以上5枚ずつぐらい並べられてるように見え、4000円とか2500円とかの売値が聞こえた。CDの売り上げのメモが置かれていて、正の字の印でメモしてある。小さなポケットバッグに1万円札を押し込んで、記念写真に納まってるToshiの表情には笑顔がなく、サインも写真も売り上げサービスの事務手続きという感じ。どんな宣伝でこの病院のコンサートが実現したのか知らないが、観客は物見好奇心の軽い域に留まって、冷めた雰囲気には病院にもToshiにも思ったほどの期待した効果はないように見えた。6時半ごろ、寒い心に念押しのダメージを引きずって帰路に着いた。

間違えた所もたくさん有ると思いますが、最後まで読んで頂いて有難うございますm(__)m