レモネードカフェの2階、小さなライブ場の最前列に真由子ちゃんもスタンバイ、スタート18:30分の案内時間きっかりに、ぽるんさんが後ろから歩み出て、ライブ&トークショーが始まった。正面左手には、スタンドマイク、右手にはシンセサイダーが置かれ、ささやかなライブの開演という感じがした。私は、ぽるんさんが“シロ”といっていた頃、渋谷ON
AIR EASTであったYOSHIKI Presennts Ecstasy
Nightのライブ(2000年11月ごろだったと思う)で、YOSHIKIのピアノ演奏で歌う“シロ”の場面をよく覚えている。まだ立て替えられる前のON AIR
EASTは、掘っ立て小屋か何かの古い感じがしたが、その頃から行きかけた東京でのライブの先駆けのイベントのせいか、YOSHIKIの弾くピアノの前で歌う彼女の表情が、強烈な経験のように残っている。また津田さんは、Xを発掘した人として興味を抱いてきた。2人のコラボがあるというこの日は、朝からyoshikitty第2弾の発売日と重なり、さらに足となるマイカーのクーラーがつぶれるというアクシデントもあって、非常に熱い(暑い)一日となった。津田さんが何をしゃべってくれるのか、興味津々だった。ぽるん・津田さんの2人の会話(後ろで出てくるクマさんとの会話)、津田さんだけのおしゃべり と場面はいろいろ移ったが、メモはその辺の区別を省略、とにかく話の内容を書き写す事に集中したので、区別あいまいはご容赦願いたい。90%は津田さんが1人でお話しておられたので、津田さんの話と思っていただいても良いように思えなくもないが、全てではないのでお断りしておきます。いつものことながら、文章がおかしいところは、メモを優先して、あえてそのまま書いたもので、変に書き換えるよりましかなと思い、読者の方で解釈のふえん(敷衍)、お願いします。
歩み出たぽるんさん、マイクを取って、来て頂いた御礼、そして「今日はゆったりと、幸せな時間を過ごしたいと思います。歌、トーク、ピアノ、笑い、涙、また笑いがあって、ゆったりと進めて行きたいと思います。1人紹介したいと思います」と話すと、後ろから津田さんが「100mの世界記録、9秒62が世界記録です。194?年10秒の壁が切られたんです」と、とっぴな事を言いながら前に進み出た。「音楽プロデューサーで最近は作家でもある津田直士さんです。よろしくお願いします」「えーっと今日は、時間何時でしょう、6時半、今から1時間なのか1時間半なのかわかりませんが、せっかく東京から来ましたので、この空間のなかで、この時間が良い時間になる様、決めました。とても素敵な時間になると思います。興味あるので、近くで顔を見ると尋ねてしまう事があるかもしれません。それで何か察知してしまうかも知れません。それがインターラック(と、言ったように思うが・・・)。音楽プロデューサーで、日頃音楽を作っていて、ぽるんちゃんは歌手で、絵本も作ってて、6月に絵本の紹介もここでしまして、大人の人にどんな絵本が好きですかと聞いて、いい絵本を作っています。ぽるんちゃんがソニーミュージックに属してた時にプロデューサー、エクスタシーに移ったときにシロで、YOSHIKIプロデュースで私が音楽プロデューサー、そんな関係です。僕は音楽家なので、曲をやってしゃべるのは少しだけ。いつもしゃべり過ぎるのですが、今日はトークライブですんで、今日はしゃべって良いんですね。しゃべるのは好きなので、弾きながらしゃべります。1961年東京生まれ。3人の真ん中で、父は化粧品会社の社員。幼稚園から少し変な子供で、ある日4人乗りのブランコで乗っていたらいつの間にか1人。みんなは勉強で教室へ。ブランコが空に上がった時、遠くへどこまでも行けるんだと思った。小4の時にバッハを聞いて〔その曲を弾きながら〕、それを聞いた瞬間に机に突っ伏して、心臓が泣いているような感じで、音楽はすごいなっと思って、音楽の稲妻を感じた時です。ビートルズの“レット・イット・ビー”を聞いて音楽が好きになって、中一の時“なごり雪”、かぐや姫バージョンを聞いて参っちゃった〔ここで、退屈してません?自分のことしゃべるの、楽しいな と問いかける〕。姉貴(あねき)がクラッシック習ってて、姉がピアノ練習してるんですがうまくなく、すぐ止まってた。僕は絵が好きで、3歳の時に、富士山に新幹線が乗ってる絵が張られた。メロンの絵を描いたときに、先生の手が伸びて、影を入れられて、勝手に立体的な絵に変えられた。〔書きたいように自由にさせてくれたら良かったのに、という話があって〕それで絵をやめてしまった。中二で、弾きたい曲があった。サカタコウイチ(と言ったと思うが)の〔その曲を弾きながら〕曲で、姉に、ピアノ弾きたいので弾けるかなぁと聞くと、馬鹿じゃないの、私がこれだけ練習してるのに弾けないものを。そこでアコギやろうと思った。親は買ってくれず、ピアノやりなさいと言う。姉には弾けないと言われ、板ばさみになった。〔友達から借りたアコギで〕ギターの弦のEとか、ここがGとか探して、“なごり雪”を弾いて、それを弾いてるうちに、ピアノの鍵盤の音の出し方がわかってしまった。それをある日、全校生徒の前でやった。いつも3番だったのに、これをやったら女の子が集まってきて、これだ!と思って、中三になって、高校生になって、大学生になるとミュージシャンになっていた。ユーミンの曲(「ノーサイド」と言ったようだった)を弾いたのは、レイミちゃんにプレゼントした曲をはじめて弾いたのは僕。そこで、本題のこの本(『すべての始まり』)になるんですが、大学5年生(勉強しなかったので留年)の時に、ミュージシャンやってると月に50万稼げるんですよ。このままで食えて、作曲家やってゆこうかと思った。でもこのままではダメだと思って、作曲して、曲を誰かに提供する事がない〔曲を弾いて、この曲を作ってたとのこと〕。当時の日本の音楽業界に私、腹を立てていて、くだらない曲がはやっているのに腹を立てていて、本当に優れた曲が世の中に出てゆくよう頑張ろうと思ったが、私の曲が世の中に出ないと言う事は、2流でしかない。その辺で、ソニーミュージックの人に声かけられて、私の感じるいい音楽を世の中から探して出せば、私の曲もいずれ、出せるなと思った。そこでソニーミュージックの面接を受けた。
3年目になって、1987年、CDがなくまだレコードの時代、僕は何をしていたのか。ソニーミュージックの中で、新しいアーティストを見つけて、世の中へ送り出してくれといわれた。発掘のところに配属され、“テツ”さんを見つけた(どの“テツ”さんかは、詳しく話されなかったので不明)。アーティストを発掘して、ソニーミュージックのプロデューサーにプレゼンする活動をしていた。“エレファントかしまし(「星の砂」)”をプレゼンし終えた頃で、ディレクターに渡さなければならない時が、バイバイなんですよ。次に出会った人を絶対プロデュースしようとしてたが、なかなか出ない。ダンボールにいっぱいのデモ(テープ)が送られてくる。1987年、秋かなぁ。保坂コウスケがいて、Xというバンドがすごいんで、津田さん、本人に会って と言ってきたのが、Xと最初の出会い。それ、本の話の会話と同じで、青春小説という感じ。本の紹介でも、100年残る曲を手がけたかった の文章の最初、読んで。エレファントかしましを手放してしまって、次に出会ったXで、5人で東京ドームまでの物語。最初はメンバーと知り合って、アーティストとして分かり合えるようになって、半年たって、メンバーと一緒に合宿するんですよ。メンバーのことをよく知りたいし、メンバーは音楽を作る為、合宿をした。ある時、夜中まで音を作って、夜中1時ごろYOSHIKIが出てきて「曲、出来たの、聞いて」と言ってきた曲が“エンドレスレイン”のこのフレーズ〔その部分をピアノで弾く〕。YOSHIKIのメロディーの強さは強烈。YOSHIKIのメロディは、彼にしか作れない曲を産み出してる。生まれた曲は抱きしめたいような曲。少し幼稚だが、自身を持ってと言った。バニシングビジョンの“紅”は、一歩間違えば幼稚な曲になるが、マイナーな曲があって、いい曲をYOSHIKIに多く聞かせて、この曲、いいよねって 言って、作ってとは言わないで、いいよね って 言って、バラードの良い曲を聞かせて、それもこういうの作って と言わずに、いいよね って言って、100年残るいい曲を作ってくれると思って、みんなほめていたんだけど、“エンドレスレイン”の一部が来た時に、来たー!と思った。何か音楽やりましょう。僕、即興好きなんですよ。何か曲をやりましょう。本の中に、一つ、おもしろいエピソードがあるんですが、クリエイターとして、YOSHIKIが横にいて、そういう日が来るんじゃないかと思って言うと、「その日が来ると楽しいね」という事が実現したのが、ぽるんちゃんがエクスタシージャパンへ移った時で、ヤザキアイコの話をしてると、彼女も呼びなよ となって、“パール”という曲を作ってた頃です。YOSHIKIなりに手を加え、私の作った曲を、YOSHIKI風に変えてやってくれて、うれしかった。“エンドレスレイン”の一部を引っ掛けるのを(どの部分にどういうアレンジがあったのか、不明)僕が提案したのを、〔逆に〕この時はYOSHIKIが提案してくれた。この“パール(Pearl)”を一つやって見ましょう。〔津田さんの演奏でぽるんさんが歌う。7:15〜19〕これ、好きだけど、ぽるんちゃん、いいんじゃない。最近、あまり歌ってないんじゃない?。もっとぽるんちゃんの歌、聞きたい人?〔拍手が起こる〕。ぽるんちゃん、雑貨やインターネットやぽるんちゃんがインディーズの活動の中で作った曲“カフェ”という曲。ぽるんちゃんの曲のなかで可愛い曲“2人のビスケット”と言う曲をやります。〔カフェでの思いにふける歌詞の歌を津田さんの伴奏でぽるんさん歌う〕可愛いですよね、この歌詞は。時々不思議な気持ちになるんですが、何もない中に、突然曲が出来るんですよ。もしここにYOSHIKIがいて、YOSHIK!の中から作られた曲が、ドームの5万人が泣く曲になる。YOSHIKIの本も読んだが、たぶんYOSHIKIは、人生をかけて、ものすごい気持ちになって、感じたものが全部出るんじゃないか。俺も小さい時から、景色見たり感動したりするとよく泣くんですよ。この小さい頭から生まれたものが・・・〔人を動かしてゆく という意味が続いたと思う〕。hide ちゃんのクオリティ高い曲は、音楽で救われた衝撃だろう。肥満児のhideちゃんが、ロックで衝撃を受けて、そこから作っていった曲、人を救う曲を作ったんだろうと思う。ここでhideちゃんにまつわる人に登場してもらおう〔7:30〕。
いわゆるクマちゃん。プロデューサーのクマ。クマちゃんも東京から今日来ました。Xやhideがアルバム作っていた頃に、中三からそのスタッフにいて、最後はhideのフトコロ刀となっていて、いつも一緒にいた。仕事も寝起きも一緒。ファンがいるでしょ。近付きたいけど一線がある。クマちゃんはなんで入れたの?〔1ファンからスタッフまでなれたこと〕。最初はついて行くのに必死で、何でもいいから共にさせてください と頼んでた。メンバーが見てるんだろうね。今は立派な大人で、レーベルの社長やってるんで、このクマちゃんは、hideに対する思いは圧倒的で、この店もhideちゃんとつながりが強くて、何かhideちゃんのエピソードで皆が知らない話してよ。〔ここからクマさんの話。そこで始まったのが、広島のファンの子が病気で、hideちゃん何かしてあげたいと言う事で、スタッフが面会しに行ったら、全くの嘘で、hideちゃんに報告すると、嘘ついたことには全く怒らず、がっかりしていたという話しがあって、次に真由ちゃんとのお付き合いが出来て〕それこそ真由ちゃんが、体調が危ないという時に、クマ、今から会いに行くのに、クマ、真由ちゃん“たまごっち”欲しがってるから、〜に並んで、持って行ったら喜んでくれるかなぁ と言っていた〔ここで津田さんの話があった。津田さんにドームの公演後、楽屋に来てくれと言う話しがあって行くと、向こうの方で、東海林のり子さんやhideちゃんやメンバーに囲まれた真由ちゃんがいて、hideがうれしそうに話しているの見ながらしばらく待っていたが、その輪がはける事がなく、ドームを後にしたと言う話を披露、病気のファンに何かできたことを心底喜んでいるhide の姿がそこにあったとのこと〕。話も歌も今日はやってみたいが、曲作りの時に突然拉致られて、山中湖へ行って、ログハウスへ行って、クマと住むからこの部屋は2人以外は退いてくれ、と言って、アルバム作成の時だった。hideにとって、クマちゃんは曲作りの大事な要素。その時に、僕のことも心配してくれていて、クマ、美容師でいいんだよ。クマ、俺を利用してでもいいんだよ、何かしろよ と言ってくれた。クマちゃんがバンドしていた時に、それをわかって言ってくれていた。やってみろよと言ってくれた。それとわかってて僕を連れていってくれた。クマの曲のいろんな曲の細かい所までやってくれて、音楽の話、こんな細かい所までやるの っと言うぐらいやってくれた。それまで音楽やっていたの 俺 何やっていたんだろうと思うぐらい落差を感じ、hideの音楽への思い入れの違いを感じた。その時の曲をやろうよ〔その曲を、津田さんの演奏で、クマさんが歌う。7:41〜46〕。