REPORT 4

NHKハイビジョン「裸にしたい男たち」


日本ロック界のカリスマと言われ男 XJAPANのリーダーYOSHIKI。伝説として行き続けるXJAPAN。ファンの熱い願いから今も行われるFILMGIG 日本から韓国へ。スクリーンの中のXJAPANはファンの中に今も生き続けている。「変えられない物に対して悩むとこは止めようじゃ変えられる物をいろいろ変えていこう」

音楽の人生をかけてYOSHIKIは新プロジェクトVIOLETUKで世界に挑む!!

YOSHIKIを突き動かす物は何だろう半年の取材の中で全てが明らされる。2002年8月日本の音楽シーンから突如姿を消えたXJAPANのリーダーYOSHIKIがこのLAで本格的に活動を始めて行く

YOSHIKIさんの持つスタジオ one on one。数々有るスタジオの中で老舗として知られるスタジオ ここを拠点に復活のプロジェクトVIOLETUKを立ち上げようとしている。その曲作りに明け暮れる日々。YOSHIKIがVIOLETUKで目指すのは今までに無いまったく新しいジャンル音楽への挑戦!!

「ある時はロックバンドでバーンと現れたして ある時はデジタルでやったり、すべて姿を変えていくような もちろん同じ楽曲でやったり あの僕真剣なんで、1回]で遣ってなんか趣味で遣っていこうと思っているんじゃなくてもう一回戦おうとしています」 あらゆうる音楽の融合を狙うVIOLETUK   ハードロックやピップホップや規制のジャンルを破壊するのがYOSHIKIの狙い音楽シーンだけで止まらずなくファションや映像の世界に挑戦してVIOLETUKはアメーバーのように増殖して進化して行く。「凄く小さい音で敏感なんで人が入れないんです 向こう側だといいけど」。ギターの音をサンプリング録音するためスタジオに入るのはYOSHIKI一人。弦を引く瞬間は息も止める程神経を使うデリケートな世界  [低音のシだ」。ギターを弾き1音づつ取りそれをはじき方を変えて数種類をパターンを録音する

「16小節しかできなかった230有るのに VIOLETUKの音源を作って達成するまで今は人生はいらない それ程音楽をやりたい今は人生が無いと思っていますこれだけ音楽を遣りたい人がいるんじゃないですか?一緒に勝負していかないといけない。寝てる時意外は仕事をしてますので今僕は違います人間じゃないです。音楽に全てをかけています たまにガート呑んじゃう事がありますけど基本的には今全ての人生をかけてます」

この日尋ねて来たのはスタジオに尋ねてきたのは全米で人気が有る女性ボーカリスト二コル 人気ボーカリスト二コルと将来共に活動をしたいとYOSHIKIは考えている この日の作業を急に中止して自宅に二コルを招く事にしました。スタッフに「家はこんな事になると思っていないので変な物が転がっていたら嫌だな 全然散らかっているので下着とか有ったらあっまりひどかったらカットしてくれるんでしょうね」と笑って話す。ロスアンゼルス郊外の閑静な住宅街 門を抜けると玄関までの長い道を行くと瀟洒な白い広い家が見えてきました  ここがYOSHIKIがひとり暮らす家。二コルを自宅に招待をして 黒いスリッパでパタパタと音をさせて歩くYOSHIKI。「何か呑むおいしいワインが有る」とワインクーラーからワインを選んで出すが腱鞘炎だから誰か空けて貰えませんかお願いしますとワインをスタッフに渡す。台所が以前の時より使っている感じだったがトースト、コンロにやかんが有り洗剤らしきものやミキサーが2台、炊飯器にしゃもじは立てて飛び出て清潔なイメージのYOSHIKIの意外な一面を見たよう。台所よりワイングラスを3個を持って行く 暖炉に薪を入れ火をつける。普段は超多忙なYOSHIKIですがこうして仕事仲間を自宅に招くのが数少ない楽しみの一つ。

アメリカのアーティスト達はこういう機会を通じで音楽情報を交換します 数多くのアーテキストで成功すのはほんのひとにぎり 厳しい世界広い家はYOSHIKI好みの白と黒のモノトーンで統一されて車庫にはベンツとフェラーリとがずらりとならんでる。広い家の中もは白と黒のモノトーンに統一されている この所連日深夜に及ぶ仕事に追われてお昼過ぎに起きて直ぐに作曲の仕事を始める。「色んな事を考えたり今までの事を思い出したり無音状態で楽器や鍵盤を使わないので頭の中に考えた事昨日夢を見た事とか曲を作る時はイメージで感じた事を作る」

YOSHIKIに広い家を案内してもらう事になりました ここは簡単なジムです トレーニングルームここで週2回2時間のトレーニングを欠かさない ベットがあり ここで首が悪いのでここで週に一回か2回リハビリをするマッサージの先生に来てもらう。「そう簡単に直らないみたい ピアノが弾けたんであとドラムをどれぐらい叩けるかチャレンジ 腱鞘炎は軟骨を痛めたので直るのに2〜3年かかると言われた」コンピューターのキーボードを同じ角度の打ち込みで痛めた 寝る時もギブスをしてるのでお風呂とピアノを弾く時以外つけっぱなしではずさない。

こちらはベットルームで「昔LAで10年くらい前に買った、なんか目覚まし時計が手放されなくて一度壊れたんですがいつも起こされると情が移ってみんなになんでこの部屋に、この目覚ましと言われるけどこれで起きてる」猫の目覚ましが音を出す〜ぱっぱら〜ぱ〜

これが風呂場です 「唯一の楽しみここに入ってTVを見ながらお風呂に入る。ステレオシステムが付いているのでクラッシックの音楽を掛けるながら これを聞くと毎日が戦場みたいなの戦いみたいなので落ち着きます」ドライヤーが有ったけど黒い普通のであれを使っているのかな?

11月のロスは雨の日が続きました 午後4時YOSHIKIさんがスタジオに到着しました 「雨の中 ごくろうさま」 メタリカや多くのアーチストが使ったスタジオ ワン・オン・ワン ]JAPANの曲を作るために8年前にここを手にいれた このスタジオで多くの曲を生み出して来た あの大ヒット曲ここで作られた第1号は名曲DAHLIA 規制の概念をうち破り記録を次々と塗り替え続けたXJAPAN「DAHLIA」が流れる 1992年東京ドームを3日間始めて満員するライブを行った とにかく派手で有名なXJAPANのステージ なかでも有名なのはYOSHIKIの暴れぷり
まるで何かに怒りをぶつける様なYOSHIKIそうした行き場の無い怒りやほとばしる叫びに共感を受けるファン で一つの社会現象を作り出した。美しい旋律 洗練された歌詞 どこか寂しく切ない響き激しいアップテンポの曲とうって変わってバラードはもう一つのYOSHIKIの曲 [Endless rain]が流れる。

ここに4000時間に及ぶ]JAPANの未公開記録が有ります。TVでは初めて公開される秘蔵のテープです激しい苦痛と戦いと続けたYOSHIKIの姿がいる。今も伝説として語られるYOSHIKIのドラム 1分間に800回叩くハイパードラミング コンサート以外にも6時間もドラムと格闘するYOSHIKI 完璧主義のかれならでは技。しかしこれが原因で首の軟骨を痛めて椎間板ヘルニアを発症したが、それでもYOSHIKIは音楽に対する姿勢を決して崩そうととしません。

1995〜1996にかけて行われたDAHLIAツアーで連日の過酷なステージと移動でYOSHIKIの身体は限界に達した ツアーの中盤にさしかかったとき名古屋でのコンサートの最後でドラムを叩くYOSHIKIに異変が起きる 突然肩を抑え観客の大声援の中で倒れこむYOSHIKI。 この日YOSHIKIの肩の筋肉が切れてしまい急遽専門の医師による針治療を行い救急車ではこばれる。事務所は残りの3箇所の公演を中止を決定! 次にいつ会えるかだれにもわからず泣き崩れるファン復活を祈るファンのその姿は何時までも会場に有った。

LAに住み自分の音楽を追求するYOSHIKIに大手レコード会社の中島社長が尋ねて来た。violetUKを立ち上げようとしているのでアプローチをかけて来た
さっそくスタジオを案内するYOSHIKI このスタジオには彼が追い求めてきた音楽の全てが詰め込まれている。
いろいろとキーボードを説明するYOSHIKI まるで博物館のような機在室 世界中から集められた楽器は音にこだわり続けたYOSHIKIの宝物。この木製のキーボードはピンクフロイドが使っていたもの。これは3年をかけてオーダーメードしたオリジナルのキーボード 32もの音色が一度にだせる。機材にはまちゃったんで、これだけそろえるのに5〜6年かかった。メインスタジオA ここの機材もすべてYOSHIKI仕様です。レコーディング作業に必要なミキシング台は他に類を見ない長さの140種類のも音を記録することができるのですが本格的にレコーデリングには未だに不足だそうです。

スタジオの2階には専用のビデオ編集室。伝説の]JAPANのコンサートビデオがここで作られている。音づくりと同じく細かく出来上がっているYOSHIKI。『ロゴを有れば。。。パンフレットでOK なんできてないの時間が無い時に」。「2〜3日で上げてくれと言うのに日本から資料が届いてない信じられない」。スタッフはロス在住の若林さんはYOSHIKIさんのお気に入りの編集マンです。

このスタジオの全ての作業はYOSHIKIの指示で進められている。1日の全てをスタジオで送るYOSHIKI。何時声をかけられてもいいようにいつも待機しているスタッフ達 4歳でピアノを始めたYOSHIKIはクラッシックの基礎をみっちり身に付け、その後キッスに憧れ12歳でバンドを組み中学、高校とロック一色の日々を過ごした。高校を卒業と同時にべジャーデビューを目指してライブハウスを周り1981年に]を結成して自らデモテープをくばりCDを手売りした。地道な活動が認められて88年にメジャーデビューする(ここで京都スポーツバレーの映像が流れる)。

曲作りに時間がかかるのは]JAPAN伝説のひとつ。CDを完成に2〜3年はざら
自ら作曲や作詞を手がけて音にこだわるYOSHIKIにメンバーが段々と着いて行けなくなる。その後海外デビューの為XJAPANとして改名して活動したのは92年 活動の拠点はアメリカに移された。しかし3年後にはメンバーが独自のバンドを作り日本でソロ活動を始めだし、ただひとりレコーディング作業を進めるYOSHIKIの姿をみられました。YOSHIKIの夢、海外デビューが遠のいていった1996年の事です。

「やめようとデビューしても駄目だと思った。それなりに話題を作れるけどそれなりに枚数も出て見たいな事を思ったんですけど、長く遣っていると前が見えるので。。。。
だったらわかってることを遣っりたくなかった。メンバー全員がそれに向かわなくては・・・メンバーが1ヶ月オフと言うと日本に帰ちゃう。じゃ無くてアメリカでも日本でもデビューしたい人たちが死ぬほどたくさんいるのに自分たちが成功したいという気持ちがないと競争が激しいので勝てるはずが無い 同じ事をXJAPANに感じたので・・・」

4年の渡って抱き続けたXJAPANの世界進出の断念は始めてのYOSHIKIの挫折だった。

メンバーの間に出来た溝は知らないうちに少しづつ広がっていった。翌年1997年]JAPANは突然解散を発表。きっかけは幼稚園の時から音楽人生を歩んでいたボーカルのTOSHIの脱退宣言でした。この日全ての注ぎこんだ]と]JAPAN時代の合わせて16年の歴史に幕を閉じた。

翌年1998年5月2日メンバーのhideが亡くなった。突然のhideの死!!第2次]JAPANを立ち上げる事をhideと話し合った矢先に・・・YOSHIKIはこの日を境に表舞台がから姿を消した

千葉県館山 YOSHIKIさんの故郷音楽と出会った場所だがここは辛い思い出の地。それは10歳の時に父の死 33歳でした。それから20年1993年にその父にむけて一つの歌を書きました「Tears」・・・ 涙・・・・・「Tears」が流れる

父親の死と言う体験を思い出したhideの死 あの日から5年始めてカメラの前でからり始めた。もともと僕は父親の年まで生きないよねって言っていたのをそんな事無いって言ってたhideが亡くなった。もともと僕は外に出るのが好きでないので この家にこもちゃって。スタジオにも行けなくなった そとに出るのが勇気がいるというか 人に会うのが怖い「ステージにたちゃったら平気なんですけど」
人間恐怖症になってこの家に引きこもり誰にも会わない日が続く。まあ〜 そのあと生と死を考えて別に生きてるんじゃないですが、ただ単に存在しているのが嫌で生きようと思い出した。その後は変えられない物に対して悩むのは止めよう変えられる物を変えよう。苦しくてもなんであろうが生きてるじゃないですか だったらせいいっぱい生きようと言う結論に達した。変えられない物に対して変えていこう。今が駄目でも最終的になんて言えばいいのか成功すればいい。全てが過程だと思う。まあそうやって言っていても自分を説得してやっぱりギリギリにいます。

1999年思いもよらない大きな転機が訪れた。天皇在位10年作曲と演奏をピアノコンチェルト「アニバーサーリー」を熱演 其の7分間に過ぎ去った自分を重ね会わせていた。演奏が終わって久しぶりに表舞台に立った時にXJAPAN時代に聞いたファンの歓声でした。再び舞台に向かう気持ちになった そして復活が始まったのです。

2002年再び姿を現したのは韓国でした。解散後も日本各地でFILMGIGが行われる異例な状況が続く]JAPANの人気 初めて行われた韓国では5000人が集まった。画面に映るXJAPANの演奏に熱狂するファン解散から5年過ぎても今も続く]JAPAN伝説は世界に広がり続けています!!

愛知万博の音楽プロジューサーの就任やCMの合間をぬってVIOLETUKのレコーディングを平行して進める殺人的な忙しさ。そんな中日本で5年ぶりにYOSHIKIのソロコンサートと言うビックイベントが浮上した。「フランスのやつって締め切り25日でしたっけ 如何してもパリのが必要なんですが コンサートが終わったら遣るので年内には仕上がる」そのコンサートはYOSHIKIの音楽性の高さを買われはクラシックを中心に行われることに成った。急にVIOLETUKを中止してコンサートのオーケストラ用に多種 多様な楽器を組合さなければならないし アレンジもしなければいけなり事態の急変にスタッフも付いていけない

解散以来5年振りのコンサート]JAPAN時代と違って「後は頼んだと言えないプロジェクトなんで責任感で・・・精神的には一緒ですね駄目だったら死んでやるみたいな・・・」VIOLETUKの事で大手レコード会社の人とYOSHIKIの自宅で打ち合わせ。この数ヶ月契約の事で話し合いを続けていた 契約は大詰めに来ていた。YOSHIKIにとっても大きなチャンスです。ワインに料理は焼き鳥と寿司 寿司が入っている物を見ると丸い大きなスパー等で売っているアルミ容器に入っていたみたい。。。。YOSHIKIは串料理は串を外さず食べていた。

クラッシックコンサート3日前に最終リハーサルで楽団員と打ち合わせ。曲作りはなんとか間にあったがピアノの練習が出来ずに・・・オーケストラが休み時間に入ってもひたすらピアノの練習をするYOSHIKI。コンサートで演奏される12曲はYOSHIKIのオリジナルでみずからオーケストラ用に壮大な曲に仕上げた。4歳からクラシック始めたYOSHIKI その音楽性はクラッシック界でも音楽家YOSHIKIとして高く評価されている。ドーターはVIOLET UKのボーカル 今回アメリカから呼び寄せVIOLETUKの曲を披露する。

このコンサートでロックとクラッシックと融合された音楽なので、そこで気心の知った]JAPAN時代のスタッフが呼び集められた。「これで最後の曲ですっと言うとみんなクラッシッくコンサートが終わると思うから急にそこからガ−ンと変わる」
美と狂気を表したい。音楽でなくステージ・衣装と次々とイメージが湧いてくるYOSHIKI。ドーターの衣装の打ち合わせをする。violetUKなので紫の衣装を依頼するが今流行っていないので有るかどうかわからないが、探してみる。
「今日で もう少しでアレンジが終わるので帰って寝ます」「明日からピアノの練習をします」それから本番当日にだれよりも早く入り、だれもいないステージでピアノの練習をしていたが、膨大な楽譜を整理して本番直前まで手直しを加え全てが完成したのは開演2時間前でした。

幕が上がり予定された5000席は全て満席 5年ぶりにかかわらす未だに、YOSHIKIの熱狂的なファンは健在である。緊張してYOSHIKIが3曲目から登場して、THE LAST SONでYOSHIKIの5年振りのステージが始まる あの日別れを告げたTHE LAST SON。「駄目だ 無に言ってるかわかんない どうしてもTHE LAST SONから始めたかった
指から血が出てもピアノを弾いていた3日目が放送され当日はどの指から血が出ていたのがわからなかったけど薬指からだ。2時間のコンサートは大成功に終わりコンサートが終わって拍手が鳴り止みません。「放心状態です」指揮者のコンスタンチンが「YOSHIKIには音楽の才能が有り身体からにじみ出るオーラがあります」と語る。

楽屋に帰ってもひさびさびに味わったコンサートでYOSHIKIの興奮がしばらく収まらず。急に電動歯ブラシで歯を磨き始める。3日後LAに戻り「僕は素晴らしいファンを持っている なのに自分は何をやっているのか 8時間レコーディングスタジオで世界に立ち向かえるのか 自分で名刺を持っていないので人に説明しづらいのでとにかくアルバム1枚を完成するまでそれがなければ他の事をやっても仕方が無い」

violetUKを武器にYOSHIKIは一度あきらめた世界デビューに挑戦する。題名も出来ていない9・11を歌ったVIOLETUKの曲をレコーディングを始め、すでに撮りあがっている主旋律に、ボーカルの声を重ねる作業が延々と繰り返されYOSHIKIが「ソフトに・・・」と指示をだす。

9:11への鎮魂歌 YOSHIKIはこの歌で「悲しみを越え お互いを思う心が争いを無くす」その事を信じたい。

年が明けた1月YOSHIKIが日本に帰ってきた。この日、日本のTV放送が50年を向かえ韓国と中継を結ぶプロジェクトのゲストにYOSHIKIが選ばれてフィナーレはYOSHIKI作曲の「君だけだから」が放送された。

2時間もNHKでYOSHIKIの特集を放送して頂いて感謝しています。
未熟で間違っている所もたくさん有ると思いますが、最後まで読んで頂いて有難うございますm(__)m