REPORT 32

2013.07.13日&14日  長須賀・熊野神社例祭(25年度)

 7月13〜14日は、長須賀のお祭りであった。去年に続いて今年も見に行った。ただ見るだけじゃなく、お祭りの当事者気分が味わえるよう、はっぴ等今年は準備した。また、祭り関係者に挨拶や連絡もして、他所者の参加を許諾してもらう努力もやった。地元の人は、どういう風に考えているのか、その辺がわからないが、世話人のお話を聞く限り、参加は許されているように見える。安房高文化祭の時(6/22)までに、世話役の人にお電話することになっていた。しかし、通じない。文化祭当日、お電話しても通じない。仕方なく、祭り衣装をお世話になった金八商店に電話して、通じないがどうしたらいいのでしょうか と助け舟をお願いした。すると、いまお店に世話役の人が来ていると言われ、すぐ行きますと急いだ。ご挨拶と祭りへの参加をお願いすると、快く返事を下され、「平成25年度 長須賀熊野神社祭礼行事のお知らせ」という冊子を渡してくれた。両当日の予定や注意事項、みこし・屋台(だんじり)の運行コースが載っている。13日の朝しか到着できないので、去年の駐車場に止めさせて頂いてよいか尋ねると、さらに神社に近い駐車場を案内してくれた。神社に行く時間も、指定してくれた。足元は白い靴で、タオルは渡してくれるという。そういう簡単な話をして、13日の当日を迎えた。
 13日は、駐車場に8時半到着、9時半に熊野神社に参集であったので、9時過ぎ神社に行った。今日は神輿の練り歩きで、はくちょう(白装束)の衣装であるが、これは部外者は着ることができない。神輿運行に関与する担ぎ手や台持ちなどの衣装である。境内にはまだ人が少ない感じがした。境内中央に神輿が置かれている。昨年は、子神輿もあったように思うが、今年は大神輿一基である。幡や高燈籠(提灯)が去年と同じように2本ずつ、境内脇のところに立てられている。本殿も開け放たれ、神事の準備がされている。先日お会いした世話人の方がいるので、挨拶。平服でおられ、まさに世話をして、祭りの進行を支える立場に徹している。高校生ぐらいの若者から50代ぐらいまでの白装束の人がだんだん増え、女性の白装束もおられ、なかなか勇ましい。神輿長の花印を左腰上につけて、神輿の采配を受け持つ長も気合が入ってゆく様だった。9時半ごろから、本殿で神事が行われ、祝詞が奏上され、各界代表者の玉ぐし奉納が行われているらしい。途中で神主が本殿から降りて神輿前に進み、お祓いをしたのち、戻って行った。神事が終わると、各界の挨拶が始まった。怪我のないよう、楽しくやりましょうという趣旨の挨拶であった。その後、榊と備え台等持った7〜8人の人が境内から通りへ出て、次の辻を左へ折れていった。どこかのところで神事が行われる所がある。境内では、神輿の飾り付けが外されて行く。神輿の角に下がっている鳳凰の金金具、幕のように神輿周囲を囲っていた飾りすだれなどが、丁寧に外され、収納箱に収められた。運行中の落下や破損に備える為である。私らに世話人から、タオルと熊野神社のお守りが届けられた。タオルはえんじこげ茶色で、お守りとこのタオルが祭り関係者かどうか一目瞭然のしるしに見え、祭りの一員になった気持ちがした。ちょっとうれしかった。予定では10時神輿渡御開始であったが、ずいぶん遅れて、10時半頃の出発となった。外の神事に神主が遅れたと話しているのが聞こえた。やがて神輿長の合図で、神輿は担ぎ上げられ、掛け声と上下の搖動を繰り返し、境内を蛇行運行して、鳥居下から外に出て行った。
 本来なら、神輿の後をついてゆく予定であったが、午前は他に行くところがあり、午後は徹夜運転の疲れで休息にあて、13日は神輿が返ってくる夜8時、来福寺に行って餅まきを見学した。神輿は、8時過ぎ、市役所通りの長須賀交差点を北へ戻って、来福寺の手前まで来た。道の反対側の空きスペースで、休憩している。15分ぐらいは休憩していたが、ついに境内に入って来た。最後の練を爆発させるための休憩で養った力を、ここの花舞台で出し切るように、練り歩き、屈伸と立ち上がりの繰り返しを織り交ぜ、境内人の避難の動きを誘うようにどこに進むか不安定に動きながら20分ぐらいは躍動していたが、遂にステージ横に鎮座した。これから餅まきが始まると単純に考えていたが、横の屋台からは軽快な祭囃子が始まり、なんだか体がうきうきしてくるリズム。ステージの軒横一列の祭り提灯の色合いも雰囲気を醸し出し、何かが始まりだした。ひょっとこやおじいさん、おばあさんの愉快な笑顔のお面を被った小学生の子供が躍り出してくる。泳ぐようなしぐさで、ステージ中央に進み、臼を相手に杵を打つ動作など、餅つきの踊りを繰り広げる。民話の物語の世界である。観光客相手のものではなく、全く地元の祭りの手作り感ある踊りである。郷土芸能か継承民話か。子供が演じてるだけにかわいらしく、素朴感あり、見入った。こういう世界がまだあるのかと思った。20分ぐらいの踊りで、餅投げが始まった。出演した子供たちが投げてくれる。熱演に何かをお返しにステージに投げたい気持ちであった。笛や太鼓は、地元の人が演奏、踊りも子供たちが練習して引き継がれてきたものだろう。昔ながらの素朴な祭りを見た思いがする。9時前には餅まきも終わった。人が帰りかけた。そして、私らは次の場所に向かった。「是非、来なさい」とお誘いを受けていた。私は、居酒屋のそこのカウンターに座って、食事をしたいと念願していた。何回か館山に行くうち、YOSHIKIやToshIが当時練習した場所が、BSプレミアム放送のスタジオ以外にもあることがわかってきた。放送に出たスタジオは、当時有料でありしかも設備等すぐれていたので、いつも使用できるとは限らない。スタジオが使えないとき、あるいは使用料が出せない時に使っていた秘密の場所があり、当時のYOSHIKIやToshIが他のバンドと一緒に練習した場所、その順番待ちのために友人の部屋にたむろしたという場所があり、その友人のお母さんが現在も当時のまま、居酒屋をなされている。先日、お伺いした時には、親切にお話をしてくれ、またその秘密の場所も見せていただいた。「この2階に上がる階段に、練習待ちのバンドメンバーが、座っていた」。2階の部屋は、お母さんの息子さんの部屋だが、「勝手にみんなが使って、ここで思い思い休んで、順番を待っていた」「学校から帰ってくると、お母さんお腹すいた」というので「ちょっと、待ってなさい、カレー作ってあげるから」と出来上がったカレーを、そのカウンターに並んで食べていた。昭和43年開業のそのお店のカウンターは、今でも新しい感じがしたが、そこにバンド練習のメンバーが座ってカレーをほうばる姿が目に浮かび、是非カウンターで食事がしたいと希望を伝えてあった。YOSHIKIやToshIもそこに座って食べたんだろう。こういう場所もあったことを知っただけでもうれしかったが、お母さんの当時を振り返る言葉が、さらに貴重で、これは残しておきたい記憶遺産にも思える。ご迷惑がかかるといけないので、これ以上は書けないが、地元にはもっといろんな話が残っていると思えてならない。普通の音楽好きの青年が、突っ走ってゆく姿の原点は、どこにでもある生活から始まっていることを知るだけでも、勇気がもらえる。
 翌日は7時半にホテルを出て、祭り衣装を着せていただく金八商店に向かった。文化祭当日にお邪魔した時に、着れなかったらお願いすると頼んであったが、連絡も入れず、朝から突然お邪魔したのであった。店はまだ閉まっていた。どうしようかと一瞬迷ったが、2階の洗濯干し場にお母さんがおられ、声をかけると店を開けてくれ、衣装の着かたを手ずから指導してくれた。白い靴でもよいとのことだったが、やはり祭りには白地下足袋だろうと、ここで用意、さらに貴重品入れにはポシェットもいる。はっぴは持ってきたが帯がないというと、これも用意してくれ、あれやこれやと注文出して朝から迷惑かけたのに、御代は地下足袋の分だけでしかもそれもまけていただく結果となった。非常に申し訳なかったが、その親切有難かった。8時半神社に来なさいというご指示だったので、勢い勇んで熊野神社に向かった。すでに屋台は境内に引き込まれ、本殿すれすれまで近づけて止まっている。暑い日中を察して、はっぴは置いて、祭り衣装だけできた。慣れない衣装は気恥ずかしかった。地元の人は、祭り衣装か白装束姿でいる。神社前では、一団が打ち合わせをしている。屋台・本殿を背景に祭り主役(22〜23人)の記念撮影、「次、高校生」という掛け声で、10名(うち女性3名)、歳の召したおじさん10名と若い人7〜8名の記念写真。「昔は、こんな時代もあった」とおじさんの一人。若い同年輩の一団が8人(うち女性2名)の写真。その写真撮影が切れたころ。当方も2人記念撮影。衆目の中、物好きな2人を好奇な視線が追っていたのだろ。出発までのひととき、笑顔や笑い声が穏やかな雰囲気の中で流れている。ひときわ鮮やかな子供女性の着飾った2人が話している。屋台の先導を司る神社の使いのようである。子供の集団が、写真撮影に入った。幼稚園児から小学生ぐらいまで30人ぐらい、屋台前に整列。カメラマンのおじさんは、ポーズ等特に注文しているが、「お母さん、もういい」と飽きが来ている子も出ている。地区の皆さんが、祭りを楽しみ、盛り上げている姿がある。子供写真の一番小さい子がお父さんと私の近くに来て、地下足袋をはかせてもらう場面、見事に小さな足袋とその姿が何ともかわいらしい。8時37分、いろんな集団が屋台前に集合し出した。素肌にたすき掛けの若者たちもいる。役どころによって、衣装も分けられていると思うが、今はまだわからない。さっきお世話になった金八さんが、屋台前で清めの塩を踏んできなさいと教えてくれた。清めの行事が行われて、人が集まり出した訳で、出向くと塩を振りかけてくれた。45分、屋台前に祭り会長や役どころが5〜6人並んだ。84歳の中心にいる会長は、昨日あいさつで顔を合わしたとき、「何とかいう歌い手がいて…」とToshIのことを言わんとしたが名前が出ず、「そのToshIさんのお祭りを見たく、来ました」と挨拶した。それぞれに簡単な挨拶をした。最後に、全員(当方にも)にお酒が配られ、乾杯。49分、太鼓の囃子が鳴り出し、笛も引き出し、威勢のいい祭り囃子が境内を満たすとがらりと明るい雰囲気。9時、神輿長の鈴笛が鳴り響き、たすき掛けの若者が屋台に駆け寄る。屋台前でとぐろを巻いていた引き綱が、境内から外の道へ引き出されて行く。長い引き綱にまんべんに引き手が取り付き、
鈴笛合図に屋台が動きだし、境内から外へ、右折れして長い運行が始まった。私達は、屋台の後ろを付いて行く。後ろには、笛の吹き手が4人、その他の関係者がわずか付いている。熊野神社から一旦東に向かい、Uターンして神社前を通って一直線の道路を南進。直線になったところで、囃子のテンポが早まると、屋台が駆け出すのであった。普通に走っては追いつけない速さで走り出す。迫力がある。2回目に走り出してその勢いを少し緩めて、奥一軒家の敷地通路に入った。そして、軒先ぎりぎりまで屋台の鼻をつけるのである。屋台の先は、滑空する鳳凰のとさかの先端が最前部で、それを家の軒先の壁にくっつけるのである。ここは長須賀区壮年会会長宅とのこと。敬意を表してなるべく近接するのが礼儀となってるらしい。ヒヤヒヤする近さである。そこで休憩となった。飲料車がちゃんと中まで進入して、自由に麦茶など頂けた。また屋台の引き手や囃子演奏者には、休憩宅がビールやジュースなど精一杯のおもてなしをするようである。休憩が済むと、鈴笛の合図で後退、道路に出てさらに南進していった。ここで知人が到着、当方の祭り衣装の姿を写真に撮ると言っていたが、その到着となった。道路角に立つとそこに館山市議の方が屋台を見ておられ、知人と話。そして紹介をして頂いた。いろいろ話もし、課題も話して、来年の好転をお願いした(抽象的ですが、いい展開を期待したい)。屋台はずっと南へ行ってしまっているが、南進後、西折れして西進、さらに北進して館山病院の敷地で休憩となる。当方は、近道して館山病院へ向かった。すでに屋台の囃子が賑やかに聞こえ、近くまで来ているのかと思ったが、すでに病院敷地に入っていた。当方にはトイレ休憩でもある。暑い中、長い距離の運行で、時間通りの各所到着時間の心配が出るが、そこは無理のない予定が組まれていて、十分余裕がある。館山病院も10分の休憩だが、実際はもっと長く休憩時間があった。次がTSCホールという休憩場所まで150mぐらいか。例のごとく屋台はビルにすれすれに止められた。鉄製ベランダの隙間へとさかの先が入っているようでもある。着くとビルの1階床にござが敷いてあり、食事の準備が置かれている。また長須賀の屋台横では、軽四に乗せた太鼓小太鼓の演奏がなされ、ビルの向こうの通りでは、船そのものの屋台が出て、囃し立てている。はっぴには「下町」の染め抜き。長須賀祭りに敬意を表しての表敬演奏とでもいう場面と見た。他地区と接している各所では、お互いの祭り当日、屋台を出しで他地区のお祭りをお祝いする習わしで、下町のお祭り時には長須賀地区も同じように食事の供応、屋台の演奏で出迎えると思われる。疑問が一つ湧く。「やわたんまち」に参加しない各地区がまだありそうで、長須賀、下町以外に自身の地区だけでお祭りをやっている地区が少なからずありそうだ。当方は、食事の席に座るわけにゆかず、下座の空いたところで休憩。すると神輿長のお父さんが来られて、いろいろ話をしてくれた。何かあったらワシに言ってあると言えばよいからと言って下さった。よそ者が少しずつ地元に近づいてる感じがして有難かった。半時間ぐらい休憩したのか、出発すると本来直進を左折れ、下町屋台もビル後ろを前進、そして2つの屋台が出会ったところで、両者囃子演奏の競演、さらに握手など取り交わし、おもてなしの礼儀を交換した。屋台は元のコースに戻り、わくわく広場というスーパー兼直売所のところに入った。大きな敷地で、買い物客も車で来ているが、一角が開けられ、そこに収まった。買い物客には邪魔な存在にも見えたが、祭りの屋台は一目置かれ、暗黙の了解で屋台は休憩をした。15分前後休憩、屋台は北進、内房線手前を西に向かい、汐入川を越え館山二中前を通ってその通りが細くなるところまで進み、Uターンして戻り、汐入川を右折、駐車場で休憩昼食となった。1時から2時の休憩食事である、当方は、汐入川の角に食堂があり、そこで食べることにした。食事後、足も棒になって来たし、相棒も疲れたというので、この辺で屋台の同行は終了して、夜の餅まきに出ることにした。屋台の近くにいた世話人にその旨告げ、帰ろうとすると、「食事は?」と屋台引手の方が声かけてくれる。気を使ってくれているのがわかり、うれしかった。不届きな祭り参加者で、勝手な振る舞いが多すぎるが、午後は教えてもらった近くの里見の湯で休憩、夕方までゆっくりした。夕方7時ごろ、出ようとしてると居酒屋のお母さんから電話。「あなた方に会いたい方が来ているので、いらっしゃい」。行くとカウンターは一杯、端に座らせてもらい話をすると、YOSHIKIやToshIと同年という人が集まってくれていた。お母さんが呼んでくれたのか、いっぺんに話は盛り上がり、2人をブラバンに誘った人、東京の飲食店店長していた時、2年ほどToshIがアルバイトに来ていた話、チケット頼みライブに行くとBIG対応だったこと、自分も安房高校出身娘さん通学中の人にYOSHIKIのサインあるんですよと教え、今日本に帰ってますというと反対に館山に来てるという噂ありますと話してくれるなど、意気投合いろいろと話した。この人達の当時の話も記憶遺産かと思う。もっと聞いてみたい。祭りも楽しめたが、昔の情報にも接しられたことやその生き証人にで出会えたこと、うれしい。去年初めて祭り見学に来て、来福寺前で屋台の姿見て話を伺った人からも、その時間に電話があり、1年ぶりの会話となった。あの時親切に教えて頂いたことは忘れない。ブラバンに誘った人が今から餅つきの踊りをするという。昨日見た子供の餅つき踊りは郷土色のいい踊りだったが、今日は話で盛り上がった人が女役で踊るという、楽しみが倍増した。来福寺前の道路は通行止めの交通規制が敷かれ、歩行者天国である。9時頃、来福寺の北の路地から出てきた屋台は、来福寺まで来ると、道路の真ん中で止まった。引き綱が巻かれ、屋台前面に広場が出来た。餅つき囃子の軽やかな音頭に乗って、屋台脇から臼を転がし広場に出てきた。愛きょうある身振りで、臼を転がし、その後餅つきの役者が出てきて、ユーモラスに踊りながら餅つきのパーフォーマンス。楽しむことができた。また見たいなという心の欲求が出てきそうな踊りである。餅まきが行われ、取れなかったが、ブラバンの人が来て、女の人が出たので出番なかったと言って、お餅を持ってきてくれた。彼も明日は東京に帰るという。祭りのための一夜の出会い遭遇だったが、居酒屋に同年が集まってくれていたのには、びっくりであった。彼らの祭りへの思い入れ、そして郷土に残る同年との会合、そこへ別の思い入れの人間が合流して祭りを一つの機会として楽しい話し合いができる。祭りに参加することもなかなか素晴らしい波及効果があるんですね。


間違えた所も有ると思いますが、最後まで読んで頂きまして有難うございますm(__)m