REPORT 24

2012.09.15&16 館山・鶴谷(つるがや)八幡宮例大祭   papaさん

安房国司祭・鶴谷八幡宮大祭、通称「やわたんまち」を見学に行った。房州最大のお祭りと地元紙は述べている(房日新聞)。7月には長須賀熊野神社のお祭りを見学、そして今回は鶴谷八幡宮のお祭りの見学。いわずと知れた動機は、前者はToshIの、後者はYOSHIKIの地区のお祭りであるからである。今回のお祭りは北条地区を含む館山市他地区や南房総市からの参加もあり、盛大で大規模なお祭りであった。昔、安房国国府が置かれた南房総市府中(鶴谷八幡宮から北東へ約1.5キロ)に総社が建立され、その流れを汲むのが鶴谷八幡宮とのこと。平安時代末期、諸国で六所宮として、各地の神社の神々を、同じ社殿(境内)に祀り、国司の重要行事として六所祭を行った。ここ安房国ではその六所に八神社を祀り、さらに江戸時代には北条地区の山車4台と新宿(館山市の別大字)のお船(山車が船の形をしている)、さらに一神社、昭和になって一神社が加わり、5台の山車、11基のお神輿が参加する、荘厳で勇壮なお祭りに成長したらしい。
 ただ単に、お祭りを見ると言っても、この歴史的な状況や山車と神輿の参加形態の違い、なぜそうなったのか、どこがハイライトで、どういう流れで行なわれるのか、私にはさっぱりわからない。これを助けてくれたのが、今年のBSプレミアムの放送から知己を得、親切に御案内をして頂いた方がいたからである。しかもY氏と同地区の山車に、子供の頃より搭乗、小太鼓・大太鼓をたたいてきた方である。「山車が二の鳥居から駆け出すそのリズムが、YOSHIKIのドラムの流れですよ」と言って、車のダッシュボードをたたき、両手でリズムを取ってくれる様子から、私はこれは是が非でも見なくてはと心に決めてきた。もちろんこの知人の思いすごしもあり、YOSHIKIのリズムが祭りのリズムから生まれてきたなどとは思わないが、実際拝見した山車でたたく小さな子供の祭囃子の所作は、YOSHIKIのドラムの所作と似ている箇所もあるように思えた。これは私の思い過ごしかも知れないが。知人の言うには、昔は祭りの全体像は見たことがなかったと。朝から山車に搭乗、山車の中だけで祭りが終わってゆく事から思えば、さもありなん。今は祭りの一線を退き、自由な立場で何回も祭りに参加したその知識で、案内をして頂いた。ものすごい人ごみの中、移動だけでも大変であった。炎天下の日差しも加わり、長時間の立ち見となり、祭りの興奮はかえって気力を早く消耗させてゆく。結局主なところだけの観戦となり、全てを見学する事はままならなかった。
 現在、私は最も忙しい時期に遭遇している。なんとか9/15・16を確保すべく、段取りを考え、天候を見、一応の目処をつけ14日の夜9時に作業着のまま帰宅。そして10時に出発した。着の身着のまま逃げ出すように。7月には、祭りの段取りがわからず、午前11時前に長須賀到着で失敗した。今回は、事前に15日のハイライト時間が午後1時からで、鶴谷八幡宮に各所神輿が入ってくるのを案内するという連絡なので、12時50分の待ち合わせに間に合えばいいことになっていたが、待ち合わせとなれば、その時間に必ず間に合わないといけない。ご好意で忙しい時間を割いて、案内をして下さるのだから。午前7時には、館山道の富楽里(ふらり)PAに到着。館山市から10キロ手前辺り。休憩をして9時半に出発。長須賀のとある商店に立ち寄るべく、市役所通りを南進して、熊野神社から来福寺辺りに来ると、前方から神輿の一団がやってくる。提灯には「安房神社」とある。安房(あわ)神社(館山市大神宮)のお神輿が、すでに午後1時の鶴谷八幡宮入場の為、館山に到着である。写真をとらな と言っても急には車留めのスペースが見当たらない。神輿が通るために交互通行の手信号で車を流している。通り過ぎて止まった。7月の時の話で、安房神社の神輿がハイライトだと聞いている。7月安房神社にもお参りさせて頂いた。当神社は官幣(かんぺい)神社で、社格が靖国神社と同じという。各神社より一段上の社格のため、入場も一番、境内でねりをするのも一番。鶴谷八幡宮境内には、安房神社の為の分社「遥拝殿」が建立されていているほどで、鶴谷八幡宮の神輿でさえ、自分とこのお祭りなのに2番手になるらしい。神輿の屋根には、大きな菊の御紋が燦然と輝いていて、畏れ多くも・・・の世界になるのである。通り過ぎてしばらく、続いて「山宮(やまみや)神社」(館山市東長田)のお神輿が通る。氏子のはっぴには、地区名の長田を入れた「長田神社」の染め抜きが入っている。続いて「下立松原(しもだてまつばら)神社」(南房総市白浜町滝口)の神輿が通ってきた。氏子の頭には、ブルーのタオルの鉢巻き、通称ケンカ神輿と呼ばれている(付近の人に聞いた)。この南総三社のお神輿は、昔は、汐入川(長須賀地区の南側を流れる)に沿って湾口が内陸に入り込んでいた為、船で渡船をしてお祭りに参加していたらしい。そのお船の任務を担っていたのが、山車の新宿地区の「新明丸」と言う山車であるらしい。新宿地区は長須賀地区の北側に位置し、いわば長須賀地区は湾口になっていた地理的ないきさつがあるのかもしれない。知人の言うには、鶴谷八幡宮の二の鳥居から南に直線に延びる住宅地の道が、昔は「波打ち際」であったと。地震によって、だんだん西側が隆起して現在の地理になった。山車の新宿新明丸は、船に車輪をつけた形そのもの。渡船の任務がなくなったが、かつての祭りの安房国筆頭の安房神社のお神輿の渡船の任務が山車に形を変えたようである。これに関し、疑問に思うのは、長須賀地区のお神輿と山車がなぜ、この祭りに参加してないのかと言うこと。後から人が住むようになって、神社が出来、祭りも行なわれたが、昔からの祭りの輪には入れなかった。しかし昭和に入った神社もあれば、入れた可能性もあったが、地区の総意として、自分たちの祭りを孤高に伝えようした気概があったのだろうか。山車の新宿新明丸以外に、三軒町の山車、六軒町の山車(YOSHIKIとこの山車)、南町の山車、神明町に山車の計5台が祭りに参加していたが、これらの町には神輿がなく、山車が祭りの主役。なぜ神輿がないのか、わからない。昔からの複雑ないきさつもあるのだろう。一般人が勘ぐることでもない。
 ある商店とは「金八商店」というお店で、祭りの衣装を商いしているお店である。何の用かといえば、来年を期して、変わった形での参加をしたいという前回のレポの為である。長須賀世話役さんや熊野神社の祭り統領の許可も頂いたので、祭りに私服よりふさわしいものがあろうはず。そんな用のためにお伺いしたのであった。
 そんな事で、12時半に約束の場所に赴いた
館山市の簡単な道路の位置図を概略すると、南北に東からR27バイパス、市役所通り(官公署が通りに面している)、館山銀座通り、海岸通り(北条海岸沿道)、東西に北から鶴谷八幡宮南の新設道路、JA通り(市役所に、JA安房の支店や、北条幼稚園、第三中学が面してる)、R128となり、祭りの主なルートは東は市役所通り西は銀座通り、北は八幡宮新設道路、南はR128で囲まれた道路を山車が曳行され、神輿が通過する。

 午後1時、合図の轟音花火が、鶴谷八幡宮西の空で、3連続上がる。銀座通りと新設道路の交差点右に位置する石の一の大鳥居、そこを通過して参道を本殿へ向って約130m、二の鳥居をくぐって70m、本殿前の境内広場に至る。大鳥居付近から境内までの沿道には、出店が軒を並べ、華やかな色合いの被いで店の形を作っている。その間を、ものすごい人通りが行き帰りの流れで行き交っている。安房神社の神輿が、銀座通りを大鳥居へ進んで、木遣り歌が歌われ、「おりゃ、おりゃ・・」と交互のかけ声で鳥居をくぐって入り、40〜50人の白装束の担ぎ手が、勢い込んで参道を駆け上ってゆく。神輿の前には、関係者がはっぴをはおり、参道警備を事前に露払いして通り道をあけて行く。神輿の後にも続いて関係者が通ってゆく。昔は、銀座通りにも出店が多くあったが、縮小してきて現在のように少なくなったとのこと。私の目には、完璧な出店数に見えたが。神輿が本殿境内に入ってくると、女性アナウンスが紹介をする。この女性アナウンスは名物でもあり、ずっと何年も担当しているとのこと。歓声や雑音で紹介内容はよく聞き取れない。本殿で練り上げ、安房神社分社前へ進んで、挨拶をして、境内で練り回す。動きながら、分社前や境内を渦巻くように動きながら、20〜30回は大きく神輿を交互に傾けてもんで行く。1時16分、安房神社の夫婦神社、「洲宮(すのみや)神社」(館山市洲宮)が参道へ入ってきた。一の鳥居からゆっくり歩いて二の鳥居から「おりゃ、おりゃ・・」の交互かけ声で、勢いをつけ揺すり「オイサ、オイサ・・」と勇ましいかけ声で」駆け上がってゆく。神輿屋根には、桐の文様が見える。本殿前で、高く押し上げ、安房神社分社へ行って挨拶、2つの神輿が練りの共演。女性の担ぎ手も見える(えり、祭り参加のHP写真)。「そりゃこい、ホイサ・・」、威勢のいい、小気味よいかけ声。2つの神輿が境内、安房神社分社前で「夫婦神社」2つ並びで3回、上に差し上げられた。差し上げ延びる手が見事な腕の縦線が並び、綺麗に見えた。境内をそれぞれ平行移動しながら、洲宮神社が練り、安房神社も練り上げる。人の渦の上を、神輿が押し流されてゆくように動いて行く。こうした参上が、これから延々8基(一基は、鶴谷八幡宮本殿に安置している)、続いてゆくと知人は説明。平安時代から1000年以上続く祭り、境内に入る所にあるイチョウの大きな幹が、それを物語る。2つの神輿が並んで静止、木遣り歌が歌われた。1時30分、次の神輿、「莫越山(なこしやま)神社」が入ってくる。大太鼓を打ちながら入ってくる。この神社は、この祭りのためにお酒をつくる。国の許可を受けて。その次にも神輿が続く。太鼓をたたいて、2基がゆっくり(歩いて)入ってくる。「高皇産霊(たかみむすび)神社」ののぼり、高提灯、莫越山神社の高提灯2本がはいってくる。しかし二の鳥居前で立ち止まって待っている。奥の許可が出ないらしい。37分、動き出して境内に入ってくる。「莫越山神社」が先で、鬼の面を被った高位の人の次に、太鼓と長持ちを下げた人が続く。「莫越山神社」の紹介で入ったとのこと(祭りに参加の意)。「莫越山」は二の鳥居でランダムに動いたが、「あわてるんじゃ、ねえぞ。まだだどう」と先頭の音頭が言っている。「ほぃ、行くか」「ホイサ、ホイサ」のかけ声で突入してゆく。
神輿入場の際の当方の視点が、一の鳥居であったり、二の鳥居であったり、境内に移ったりと定まらない。これは、「今度は、向こうへ行きましょうか」と案内の知人が、いいポイントを探して移動を繰り返してくれたからである。参道200mの間を、一の鳥居側へ、はたまた本殿側へと日干しを受け、人にもまれながら動いた(相棒は、とっくにはぐれ、所在不明)。その移動途中には、昔の境内の事なども説明してくれた。参道は、今は砂利道で歩き易くなっているが、昔は雨でも降ろうものならぬかるみであった。昔は、農業際の一面が強く出ていて、クワやかごなど農業資材が売られていた。参道に面する出店の裏にも2重の出店があって、なるほど農業資材が売られている。農業人口が減り、参道前面に出店をしても売り上げが期待できなくなって、後ろに引き下がった形で、店は続いている。一の鳥居の門前は、改修工事で新設道路が出来て、大きく開けた形になったが、昔は新設道路はなく、銀座通りから斜めに一の鳥居へ入ってきたもので、境内の一部をつぶして立派な新設道路が出来た。新設道路の南側に広がる住宅の垣根である“まき”の垣根は、このお祭りに合わせて剪定されて行く。お祭りの花飾りは、各戸2本を門扉付近に立てかけて祭りムードをかもしているが、1本1000円で購入(or売られ)、町内の世話役がその収益の差額で、祭り費用の一部をまかなう仕組みになっているとか、裏話を移動途中にしてくれるのである。花飾りは、各戸が自分で作るものと私は思っていたので、購入(売られている)話は、そうだったのか と裏を見た感じがした。熊野神社も同じであろう。
 3基の神輿の入場が通って行ったが、次の神輿の担ぎ手のてほいには「高井」と金刺繍。「莫越山神社」に続く「高皇産霊神社」の木遣りに沿って、ランダムに42分、「ホイサ、ホイサ・・」のかけ声に神輿が揺れて入ってゆく。本殿前で高く差し上げ、先に入った「莫越山」の神輿との2基が、安房神社分社前へ進み、「莫越山(なこしやま)」の黄色い鉢巻きの担ぎ手が動いて激しく練り、続いて「高皇産霊(たかみむすび)」の神輿が激しく練る。一方の激しい練の間には、他方は水平移動の動き。白衣装の“白”と神輿の“金”色、神輿屋根から下がる房のダイダイ色、或いは金飾りが大波に揺られ、コントラストが美しい。「ホ、どっこい、どっこい、ほりゃこい、ほりゃこい・・」の相づちも軽やかに、2基が本殿前に進んで、高々と突き上げられ、黒と青のてほいが上に伸びて、燦然と差し上げられる。太鼓の低い響きの中、白装束の人波の上を2基の神輿が滑るように動き練り動いて華やかである。大銀杏前の視点で見ていたこの時、知人の知り合いと出くわし、この人のエピソードの繰り返しとなった。それは、山車5台がそろった中(これから行く神明神社か、明日のこの境内でのこと)で、「ToshI木遣り歌の声が響き通ってすごかった」の実際を聞いた本人で、かつての話をまた思い起こして話してくれた。
 1時53分、二の鳥居へ戻り、子供神輿が太鼓に合わせて入ってきた。「ホイサ、ホイサ・・」かけ声も将来の担ぎ手の主役を張っている。2時、一の鳥居へ戻る。ここ「鶴谷八幡宮前」交差点に入ってくる銀座通りを見渡しても、神輿が入ってきている気配はない。参道に並ぶ出店のマイクが、招き声を行き交わせ、雑多に通りをすれ違う話し声が、祭りの賑わいを充満させる。晴れ渡った参道の大空には、桐の紋が染め抜かれた大きな白いのぼりが立ち上がっており、さらには神社名ののぼりも立ち上がっている。二の鳥居前には、参道上に「安房国司祭」の渡しがかけられ、その裏側には「五穀豊穣」の文字が書かれている。豊穣を祈願する祭りの趣旨から言えば、かつて「農業祭」であったという知人の説明は、その通り。2時6分、境内に戻る。2つの神輿がまだ練っている。そして、本殿右奥に作られている長屋風の一角の収めどころに、安置されていった。知人の話は、神輿同士のケンカや、山車同士のケンカの話をしてくれた。6年ぐらい前には、山車のケンカがあり、六軒町の山車(YOSHIKIの地区の山車)が帰ってしまった。・・・帰ってしまった というくだりに、よくYOSHIKIが気に入らない事があると帰ってしまう 話しがあるが、祭りに由来する彼なりの、なんら異常ではない気風かも知れないと思えた。さらに、Xが登場した頃は、顔に大々的にペイントした出で立ちは異様に見える時代であった。しかし、ここ祭りの少年少女たちは、顔にペイント(派手ではない、或いは最近しだしたかもしれないが)を施し参加している。顔を派手やかにくまどるペイントは、館山では祭りにはつきものの出で立ち、祭り常識であるかも知れず、さればXのライブを祭りとなぞらえるなら、奇をてらう形で彼らがペイントしたのではなく、誠にライブという一世一代の彼らなりのお祭りイベントなぞらえて、ああいう格好になったのかもしれないと思えた。さらに、YOSHIKIが父親の事故の後、ドラムを買ってもらったいきさつも、普通の一般家庭ではとっぴな感じがするのだが、この祭りを見て、3〜4歳の小さな子供の男女が、山車に乗り、小太鼓をたたいている。小さい頃より太鼓をたたくのは祭りのありふれた出来事で、ドラムの太鼓も祭りの太鼓も、そうたいして変わらない所を見れば、ドラムを買ってもらったことも、ここでは普通のことであったと思えてきた。郷に入れば郷に入ったで、見えてくるものがある。話の流れで、ここで初めて、一つの町に「神輿」か「山車」のいづれかしかない事がわかった(実際は、長須賀のような例もあるが)。今回、山車の参加は、北条地区だけである。北条地区は、鶴谷八幡宮の氏子地区であり、すでに鶴谷八幡宮には、1基の神輿が存在する。すでにオラが神社に神輿が存在するなら、神輿は不要となり、山車という地区の祭り心を集結する形が出来上がったかと思われる。神輿は、神社のご神体が、お旅所(別の所にお渡りになる手段)へ行かれ時に使用される、いわば旅の移動手段。一つの神社の一つのご神体に、一基の神輿があればよい。各神社には、一基のお神輿があればよい。長須賀は、熊野神社が祭るご神体の移動手段のお神輿と、地区の民衆の祭り心の集結手段の山車と2つあるということか。
  2時22分、一の鳥居の方で、木幡神社(館山市山本)の神輿が入ってくる。二の鳥居手前で、時間待ちで止まる。神輿の前には、中学生ぐらいの女性の一団(7〜8人)が輪になってじゃれ動き、雑多なかけ声に黄色いかけ声が一際上がった。「さぁ 行くよ」との声、縦笛が鳴り「おーれ」で肩に担ぎ上げられ、「おいさ おいさ・・」の交互のかけ声に笛の音色を添えて、二の鳥居から本殿の参道を進み、真ん中辺りから早足で境内に入っていった。ここで知人が「木幡神社と六軒町の山車が6年前に大喧嘩、(山車が)途中から帰ってしまった」と話してくれた(既出)。木幡神社の神輿が、木遣りと共に大きく練り動き、静と動の水平移動や左右への傾き揺らしが繰り返される。2時40分、知人が「これから神明神社に向う」という。鶴谷八幡宮への神輿の入場は、午後4時ぐらいまでの予定で、さらに5基(下立松原(しもたてまつばら)神社、手力雄(たぢからお)神社、山宮(やまみや)神社、山荻(やもうぎ)神社、子安(こやす)神社)の入場(神輿着御)が続くのである。
 神明神社には、山車5台が3時に集結。各地区(館山市の北条と新宿)の山車が、今年ここで初めて一堂に会する。大きな通りは規制ががけられ、車の通行はままならないらしいが、裏道を知り尽くした知人は、細い裏道を最短距離で、神明神社へ向ってくれた。途中、安房高校西門前の銀座通りへ通じる道に、山宮神社の神輿や担ぎ手一団が休憩していた。銀座通りを北上、一の鳥居前へ進入してゆくその順番で、ここに休憩中である。山宮神社の神輿は、一の鳥居から、子供を先頭に笑いながら駆けて行き、家族も一緒に駆けて行くという、伝統を続けていると教えてくれた。見慣れた安房高校のレンガ造りの低い門柱が立っている。門柱の上には何も乗ってない。「高校出身の有名な二人の胸像なんか、いいのにね」と、相棒が願いを言う。銀座通りへ出ると、山荻神社の神輿が休憩をしていた。野暮な会話や祭りの裏舞台(順番待ち)を話見しながらのうちに車が止まった。これがまた驚きのところであった。なんと第三中学の東に位置する林の区画が、当の神社であった。館山に来る機会には、半年1年の期間が空いただけでも、卒業した中学の写真を撮りに寄ってきたが(相棒の希望で)、その際、車を止めるスペースがちょうどこの辺りで、林があることはよく知っていたが、まさかそこが当の場所とは奇遇も奇遇、今まで偶然にも至近距離にいたのである。すでに辺りには、囃子の太鼓音(ね)が響いている。林の北西の角の駐車場に車を止め、中学の東の道(神社の裏手)を回りこんで、南東の方向から、神社の境内入った。低い土塁的な盛土に樹木が立ち垣根もない、いけいけの境内の敷地。知人の急ぐ後を追うと、境内の平面の敷地から祠(ほこら)が立っている一段上の境内に入っていた。祠へ通じる3〜4段の石段があって、その分高みの見物が出来る位置に立った。普段は無人の祠のように見えたが、今日は、晴れ舞台、祠の正面内には、机を前に2人の巫女(17〜18歳ぐらい)が鎮座し、周りには関係者(禰宜(ねぎ)も含まれてるのか)の年配者がいる。時刻は2時58分。すでに神社正面の入り口、鳥居の手前辺りに今年の当番の山車、三軒町の山車が、笛・太鼓の音色を響かせながら入っている。東の道路から神明神社の境内に進入する東の道路は、市役所通りである。初めて館山を訪れた時、市の中心がどこかわからず、あてづっぽう適当に車の進路を取った道が、偶然市役所通りに入っていて、市役所交差点の歩道橋の、道を跨ぐ歩道の鉄骨に書かれた「館山市北条」の所在に、感動を覚えたが、それもそのはずその道を東へ行けば北条小・幼稚園。交差点角のモンフルニエの喫茶店に「北条」地区に到達のひとまずの休憩をして、店員さんにすぐそこが北条小と教えてもらって再び感動、そして実は今日に至る感動が隠し玉のようにまだそこに存在していた。神明神社の正門は、その交差点から200mぐらい南に位置している。北条小の西門までの距離より近いようである。ToshIやYOSHIKIが通過していた祭りの道(ToshIは、祭り地区ではないが、隣の六軒町や南町にお手伝いに行くことがあったらしい。現に今回も、熊野神社の祭り統領の方は、お手伝いに行かれていた)とは知らずに、通過していたことになる。今日も午前中には知らずに通過していた。
下の境内は、山車をロープで引っ張るはっぴ姿や祭り衣装の関係者が多数を占め、高みの見物境内は、見晴らしを求め、段差のヘリを何重にもなぞるように見物客が取り巻いている。私の位置は、高み最前のヘリから後ろになった。山車は、祭囃子を奏でながら、3〜4分そこで静止していた。演奏が止むと、木遣り歌が始り、複数人が歌っているように聞こえたが、声はよく聞こえるというものではなかった。たて笛、太鼓(小・大)が鳴り、木遣りがまた歌われ、3回目の太鼓で、山車から正面、祠のある高み境内への3〜4段の石段方向へ渡されたロープに沿って、座っていた山車の引き手が2筋の綱引き様ロープを持って立ち上がった。再び木遣り、そして山車音頭取りの呼子笛(ホイッスル)が鳴り、かけ声と共に3〜4段の階段めがけて突進をはじめ、引き手が引っ張る境内を勢いをつけ猛進、引き手は階段近くになると右方向(私の視点で)に進路を変えて逸れ、山車が階段下まで突っ込んでくる。知人によれば、階段にいかに接近するかが腕の見せ所とのこと。山車に乗って先頭で太鼓、小太鼓をたたいている演者にとっては、演奏もさることながら、階段に衝突すれば前に投げ出される危険とも戦いながらの乱さぬ演奏が求められ、気が気でない。“無謀な”アクシデントをはらんだ瞬間であったが、衝突寸前で止まった。階段にも見物客が陣取っていたが、接近する山車の方向と勢いで危険を察知、ひげ出す動きの中、寸前まで逃げ遅れる者もいて転んだりしたようだった。もちろん地元の人ははじめからそんな所には行かないはず。止まった山車の先頭から階段を登って、世話役の人が本殿(ほこら)にいる祭りの巫女2人に礼をささげた。山車は、音頭取りの呼子笛を合図にバックして方向転換、境内をゆっくり方向を変えながら、決められた位置についた(階段の向こう、祠に近い位置)。呼子笛を合図に前進後進を繰り返しながら、重量ある山車の移動は力仕事と危険が伴う。動くという合図が「呼子笛(ホイッスル)」であるらしかった。その笛は、山車の先頭に身を乗り出し、音頭(采配)をつかさどる「若衆頭」が吹いている。やがて山車の天が上に上昇、その山車が祭る祭神が天高く上る。祭囃子の音色は、この間(はじめから)、ひっきりなしにたたかれており、祭りの高揚に気をそぞろ立てる。知人が言う「この太鼓のたたくリズムが、明日の神社への突入では、このリズムが早くなったら、それがYOSHIKIのリズムですよ」。
3時19分、次の山車が境内に入って来て、鳥居手前で一旦止まる。南町の山車。赤系の祭り着の上に紺系のはっぴ。山車の静止は少しの時間で、ホイッスルを合図に、神社正面へ、綱引きに任せて寄せあがってくる。階段下まで突っ込んで、バックの運動へ入った。関係者が巫女に挨拶に行くわけでもなかった。人盛りでよく見えず、挨拶に行ったのかもしれない。山車はバックを5mぐらいして、先に入った三軒町の山車へ、先頭を突け、「挨拶」。2台の山車の音頭取り(若衆頭)同志が、コップ酒を飲み交わして、挨拶が終わった。山車は、左端(向って)へ、前進後進を繰り返しながら、先頭を中へ向けて定位置に収まった。2台の山車が、それぞれのペースとリズムで、笛・太鼓をはやし立て、賑やかさこの上ない。定位置で止まると、山車の天がさらに上に伸び、祭り神がそびえ立つ。祭り神の前には「武内宿禰命」の命名札が立った。3時33分、「船」の新宿の山車が来る。ロープの引き手は、若い女性が多い。女性のいなせな甲高い威勢な声に引っ張られて、山車が突っ込んでくる。屋根付きの山車は、大阪岸和田のだんじりのよく似ている。屋根の上には人が3人ほど乗っている。知人の言うには、この人は町内の人ではなく、隣町の人が乗っており、冷やかしらしい。突っ込んで停止、そこで三三七拍子の手拍子がうたれた。ホイッスルが吹かれ、前進後進の後、右側の定位置におさまった。3台の山車は囃子音頭を奏で続けている。3時54分、YOSHIKIの六軒町の山車が登場。通りから綱引きが一気に駆け込んできたが、鳥居の手前で止まった。1〜2分止まっていたが、ホイッスルの合図で一気加勢に駆け込んでくる。山車の先頭部の上には、金の鷲が滑空降下してくる形に取り付けられ、切っ先を切っている。衣装は四角い格子の模様に「六軒町」の名入りを染め抜き、青い鉢巻きが多い。突っ込んだ山車は、バックをしてすぐに定位置におさまった。今までの山車は、神社前に突っ込んだ後、バックして、年番の山車に「挨拶」に行き、その後定位置に着いたのだったが、六軒町の山車は、挨拶無しで定位置におさまってしまった。「ケンカが始るかも」と知人が言う。胸が急に息詰まって、事態の成り行きに固唾をのんだ。確かに、年番の山車前の5〜6人が、不穏な視線を六軒町に投げかけている。笑顔もない。ケンカが始るという話しから、事態が険悪な方に見えてしまう。遂に、年番山車の、険悪な視線が動き出し、六軒町に向った。六軒町山車の音頭取り(若衆頭)前に進んだ。どうなるのか と事情の分かる人は緊張した事だろう。どういう話が交わされたのか分からないが、すぐにぺこぺこ頭を下げている様子も見える中、笑顔も見え、ケンカとはならなかった。むしろ、頭を下げた方が、年番側にも見えたので、あれ?と思ってしまったが、それは見間違えだったかもしれない。ケンカ武勇伝を聞き及ぶ、かのリーダーの作った伝説通り、今ここに勃発するかと期待もしたが、気持ちが前のめりに傾いたに過ぎなかった。いつの間にか囃子小太鼓には、中学生ぐらいの女の子2人と4歳ぐらいの小さな男の子が、バチを振るっている。事件に視線が釘付け中に変わったらしい。10分ぐらい囃子太鼓をたたいた小さな演者は、六角形中に六を染め抜いたはっぴの17〜18歳のたたき手に変わった。4台の山車の笛・太鼓がひっきりなしに演奏、囃子リズムが鳴り続けている。山車の天には「楠木正成公」のご神体と命名札が立った。引き手や山車の舵切などは、立ち話をして、待ち合いを作っている。
4時17分、最後の山車が通りから走り込んで来る。この山車は、当神社神明町の山車。鳥居の所で止まり、綱引きの準備が出来るまでの間の4〜5分、じっとしている。ホイッスルの合図が長く吹かれて、山車は神社前に突っ込んでくる。突っ込んで階段寸前で止まり、三三七拍子を打った。威勢良く、音頭取りのかけ声が発せられるので、周りの観衆も、手拍子を打つのであった。山車はバックして、先頭を年番山車に寄せ、話を交わして「挨拶」。バックして定位置に向う所で、何かの弾みで大太鼓が山車から転げ落ちた。山車のブレーキが急に利くとかのアクシデントか。境内の土の上を転げる大太鼓は、起き上がりこぼしのように波打ってわずかの距離を転がったが、ケンカアクシデントの空振りを埋めるほほえましさがあった。次の瞬間前進に入った山車から今度は人が落ちかける。体勢を崩して山車の前に引っ掛かった形で止まって、下まで落ちなかったが危なかった。山車の下回りで動く舵きりなどは特に危険で、車輪の下敷きになれば「手足切断」と言う惨事になると知人がいう。大勢の力が働いて、個の力で防御できる力は限られ、安全の対策は必要だが、そういうことも言ってられない状況、安全対策は後回しになってる嫌いもある。この山車、静止操作に問題が残ると見えたが、さっき神社前に突っ込んで階段寸前で奇蹟のように止まったのは神の加護だったかも。山車は先頭を、南町につけて「挨拶」。次に船形・新宿につけて「挨拶」。最後に、六軒町の出しに付けて「挨拶」。山車は、ホイッスルを吹いて合図する「若衆頭」によって動く。前進・後進のその動き出すごとに、1〜2秒のホイッスルが吹かれて、山車は動き出す。また、挨拶に行くとか、定位置に入るとかの指示も、若衆頭が出しているようであった。神明町の山車は、各山車を丁寧に回って、顔合わせの挨拶をぬかりなくしたようだった。定位置に着いた山車は、「神功皇后」の名札を立て、少しずつ天が上がって、女性のご神体が頂上に立った。「下から押し上げているのですか」と天に上昇するからくりを聞くと、知人は「見に行きましょうか」とすぐに境内下の各山車の定位置広場前を通りこして、今まさに上昇しようという「神功皇后」の山車の車輪付近の低位置の操作部署まで早足で案内してくれ、その操作を見せてくれた。木製車軸に車輪のような輪が見え、車軸にはロープが播きついて動いている。車輪を回せば車軸のロープが引き寄せられて、ご神体やその台座幕が引きあがるというからくり。天に2人が動き、地に1〜2人が、合図で操作をしてゆく。晴れた日には、上げ下げの操作を一対すればいいが、非常時(急な雨)には、天と地の操作のチームワークが連絡しあっての作業、これも大変。下の操作部署は、山車底の小さな空間、暑さもひとしお、祭りも遠くから見れば華やかなものだが、各現場の部署は、必死の状態だろう。天に昇った「神功皇后」の頭の鉢巻きが、垂れ下がって、両目を隠してしまった。ご神体は人の背丈よりも高く、手を伸ばしただけでは鉢巻きを直せない。難儀して鉢巻きを頭に戻していた。囃子太鼓は、朝から晩まで鳴り続けているようだし、舵きり、綱引き、山車の前進後進の合図のタイミングなど、部署を受け持つ担当は、必死の形相でもある。見物客とは、のんきな邪魔ものかもしれない。5台の山車が、顔見世勢ぞろい。囃子音頭は、5台の山車が「お前ら、隣にまけるなよ!」の勢いで、どんどん打ち鳴らしている。山車は、この後4時45分に境内を出発、市役所通りを700mぐらい南進をして、新宿神明神社に7時半に入る予定になっている。新宿神明神社から、南へ100m、熊野神社がそこにある(南へ50mでJR内房線)。熊野神社の手前(50m)のJR内房線や境川が、祭り境界。市役所通りは、2本の祭り本通り(他、銀座通り)の1本であった。山車のハイライト、神明神社勢ぞろいが見れたので、4時38分、本日の見学はこれにて終了とした。長い時間、お付き合いの知人にも休んで頂かないといけないし、当方も半分徹夜の強行軍でここまで来たので、疲れもピークとなっている。明日は午後2時に待ち合わせて、鶴谷神社への山車入場を見学することを約束をした。「これがYOSHIKIのリズムですよ」をいよいよ目(ま)の当りにする瞬間が来るのである。本日夜になれば、鶴谷八幡宮に参集した神輿が、一列に並んで祭られている。「きれいですよ」と見学を進めてくれた。金色にさんざめく神輿が、1列に並んでたいまつ(or電灯)に照らされ、光り輝いている。夜も見たいと思った。
ホテルはJR館山駅すぐ南にあるホテル。5時過ぎには入れた。7月に熊野神社例祭に来た時、ストリートミュージシャン及川氏の演奏を聴きに来た時、次はここで泊まろうと思ったホテル。別段高級でもなんでもないが、地理的にいいと思った。実は、今回の「やわたんまち」に加えて、もう一つ、念願のやりたいことがずーっと残っている。何時か少し書いたようにも思うが、中沢けい『海を感じる時』という本があって、館山の著者の高校時代の生活を小説にした本。2005年4月16日の日経夕刊に載った「名作のある風景」シリーズ102回目の記事で、鏡ヶ浦湾の5段抜き写真に、日本丸のような帆船が向こうに浮かび、さらに遠景に三浦半島が黒くたなびく。少し左に振れば、富士山が見える写真になるが、三浦半島のさらに遠くには雲がうずたかく盛り上がって、記者の訪問時にはタイミングが悪かったようだ。長い桟橋を洗う白く砕ける寄せ波と沖にはやや荒れた荒波。新聞掲載の時点で、北条海岸のこの風景を何度か見た関係で、惹きつけられた。作品は、著者18歳の時に書かれ、当時、館山市にある千葉県立安房高校の3年生。YOSHIKI、ToshIより5年先輩にあたると思っている。その著作の中に出てくる館山駅前の喫茶店(中村屋か)や、安房高校までの道のりが近いという立地。YOSHIKI達も、同じような高校生活を送ったのではないかと思い、時間があれば、本の内容や市街がどう描かれてるのか、その散策に行きたいと思っている。しかし、立地を近くに取ったのに、今回も果たせなかった。ホテルについて、疲れて寝てしまった。夜の神輿の見学も、飛ばしてしまった。翌日、朝5時過ぎに目が覚め、神輿を見に行くことにした。6時前には鶴谷八幡宮に着いた。安房高校から直線に伸びる住宅街の道が、拡張新道を越えて二の鳥居まで続いているその地点まで来ると、夏用黒紋付の9人ぐらいの世話人が、本殿に向って歩いてゆく所だった。何かが始ると思って、後をつける。本殿境内に入る手前に、大きなイチョウの木があり、その反対側に手のすすぎ所がある、そこで清めの手すすぎをして、安房神社遥拝殿前に集合。遥拝殿と鶴谷八幡宮の間には、神輿の安置所が回廊の長い建物の中に9基一列に並んで置かれている。回廊と遥拝殿の角で、事態の推移を見ていると、自分の立つ所が遥拝殿左の部屋に近く、その中で、神主が白衣装に着替えている。その神主が出てきて、遥拝殿前で、左神主、右世話人一同に安房神社高提灯もち二名が向かい合って礼。鶴谷八幡宮本殿前に進んで、本殿に拝礼。そして、一列に並んでいる神輿ごとに、丁寧な拝礼を順次していった。一行が3〜4基目ぐらいの神輿まで拝礼を進めると、鶴谷八幡宮本殿前に、また神主と白装束の5人の神官らしき人が登場、拝殿をしている。先の一団は、神主の白かみしもに9人の黒紋付、白衣装の提灯持ちというメリハリのついた威厳ある一団、次は、神主に白装束の5人の一団、少々威厳が足りない。どうも、官幣神社の安房神社が別格上位にあり、安房神社の威光が祭例の主賓となってる関係で、まず安房神社が各所の神輿を拝礼、続いて鶴谷八幡宮の宮司が拝礼するという格式の違いの拝礼順序があるようだった。拝礼が終わると、威厳集団は、遥拝殿に上がり、お神酒を頂いているようだった。朝6時には、こういう儀式が執り行われている事が、幸運にも分かった。まだあたりは、鎮守森の明け渡らぬ薄暗さもあり、提灯のほのかな黄色に薄いモヤがさしてる様子もあり、幽玄の世界に一列に並んだ神輿は神々しく金色に燦然と輝き、見事なものであった。神輿には正装をした白衣装2名の夜通しの見張りがついて、各所の提灯やのぼりを突き出し、はるばる鶴谷八幡宮例祭に駆けつけた意気を見せていた。参道は人気がほとんどなく森閑としている。出店も戸締りの幕や囲いで覆われているが、原色の出店の色合いが静かな賑わいの列をなしていた。ホテルに戻り、10時前にはチェックアウト。夜の山車の駅前勢ぞろい見学を兼ねて、駐車場をJR館山駅近接のところにとって、時間つぶし。中村屋にも出向いて、涼しい店内で、長くたむろした。たむろの間に、地元紙の『房日新聞』4面に「右に左に激しく舞う神輿」の見出し、「八幡例祭 山車も出祭し熱気充満」の小見出しの祭り記事を読んだ。読むと「房州最大のまつり「やわたんまち」が15日、2日間の日程で始った。にぎやかな山車の合同巡行や勇壮な神輿の宮入りがあり、館山市内は盛り上がりを見せた。同市と南房総市から11基の神輿と5台の山車・お船が出祭。時折激しい雨の降るあいにくの幕開けとなったが、朝から山車、神輿が繰り出し、市内は祭りムード一色となった。午前中、各町内を回った山車・お船は、昼過ぎに北条海岸に集まり、市内を合同巡行。一方、朝に各社を出発した神輿は、昼過ぎから続々と同市八幡の鶴谷八幡宮に入った。神輿の担ぎ手たちは、同神社境内に入ると勢いよく参道を駆け抜け、本殿に神輿を高々と持ち上げてお宮入り。本殿前で「おいさ。こらさ」の掛け声とともに、激しく神輿を動かす「もみ」「さし」を繰り返し、詰め掛けた見物客らを圧倒していた。2日目の今日16日は、午後2時半ごろからの山車・お船の同八幡宮への入祭、夕方からの神輿の還御などが見どころ。6時半ごろには、山車・お船がJR館山駅東口に集まり、クライマックスを迎える。」と記事は伝えていた。記事には本殿境内で神輿2基が練っている写真が、3段抜きで載せられていたが、この写真、大阪に帰って気づけば、“祭りに行った”とHPに最初に載せた写真とほとんど同じ。撮影ポイントは相棒さんも記者も同じだったし、神輿の傾きなどからシャッターの瞬間も同じに見える。祭り雰囲気を伝える1枚を選んだ感覚が、地元紙記者と一緒だったことに驚かされた。房日新聞は、ほとんど宅配でコンビニには売ってなかった。2時の約束の場所に行く途中、タクシーに乗り、「祭り、にぎやかですね」と話しかけると「昼間から、大手を振って酒が飲めるので、うはうはですよ」という。房日の記事の話を言い、「新聞は売ってないですね」というと、タクシーの遮光板に差してあった房日新聞、「これ、あげる」と渡してくれた。もらえたので、写真が同じだったこと及び記事を載せることが出来るのである。親切な人が多い町である。
2時前、知人との待ち合わせ場所に到着。タクシーには、近距離もいいところだったが気前よく運んでくれ、新聞まで頂いたので、お礼を言った。待ち合わせのその場所の通りを、山車(六軒町だったと思うが、記憶あいまい)が通過してゆく。2時ごろには、最初の山車が鶴谷八幡宮に到着のはずで、銀座通りへ向かうこの山車がいずれ、鶴谷八幡宮の参道に入場する順番まで、銀座通りには、山車やお船の行列が続いてゆくのだろう。裏通りを通り、二の鳥居へ通ずる道の脇の専用駐車場に車を止め、二の鳥居へ急いだ。途中、合図を告げる花火が空中で爆音と火花を散らしたのは、2時、入場開始の合図か。パンフには、2時45分八幡宮到着とある。二の鳥居に近くなると、「あっ、もう入っている」と知人が言う。すでに参道には年番(三軒町)の山車が入場、笛や太鼓を奏で、本殿への突入に満を持していた。遅れを取った というあせりもあったが、山車は静止をしていて、脇を通り、出店の裏の、さらにある出店の裏に回って、松林の枯葉の上を本殿前境内に急いだ。広い本殿前境内は、人だまりとなり、山車の入場を待つ観衆と安全を采配をする山車の関係者・警察が、入り混じっている。知人は、人の合い間を縫い、本殿上がり口の一段高い基礎の敷地へ案内してくれた。一段高いので、よく見える。年番山車は、ほどなく、前進を開始し、境内になだれ込んできた。激しく打たれる太鼓や笛にホイッスル、揺れる車体にひさし提灯、綱引きの躍動や観衆のうねり、山車は本殿前に突入して止まり、バックして、安房神社前から神輿前へと人渦をかき回すように動き、戻って手すすぎ近くの定位置に入った。目が追うものが多く、圧倒されて、記憶があいまい(メモどころではない!)。昨日の神明神社の階段手前までの躍動が、鶴谷八幡宮本殿前で繰り広げられるこれが本番と見受けられた。知人が、「一の鳥居へ行きましょう」という。相棒はほっといて(まいご)、2人で参道の人の流れを逆を進む形で一の鳥居へ。銀座通りと八幡宮南の新道改修で、交差点「鶴谷八幡宮前」は、開放的な広い交差点。そこに立つ大きな一の鳥居は、八幡宮が相当な神社である風格を誇示している。振り返れば参道の二の鳥居付近に立つ、大きな桐文様の左右のぼり旗に鶴谷八幡宮明示ののぼり旗。水色に白砂の雲の中を、4本がゆらりと風にたなびきながら動くさまは、大魚の悠然と泳ぐ様に似ている。天候も味方して、山車の巡行本殿入祭が、祭り日和のなかで行なわれることは、誰にとっても願ってもない晴れ舞台だった。2時20分、南町の山車が、一の鳥居へ入ってきた。交差点を勢いをつけて一の鳥居へ入ってくる。見学地点が、鳥居へ膨らむカーブの頂点あたり、遠心力で山車が外に振られるその地点。勢い山車が、曲がりきれずにバランスを崩せば、倒れこんでくるその地点。迫力満点である。迫力過ぎて、山車の微妙な触れ具合、バランスの崩れ具合ばかりが気になり、その間に、山車は鳥居を通過した。頭の中は、岸和田だんじりのやりまわしの(交差点を勢いつけて回ってゆく)の過激なイメージがダブるわけである。山車は、加速による事故を避けているようだった。2時45分、銀座通りを新宿お船が進んできた。岸和田だんじり型の車体が、勢いつけて、鳥居めがけて突進、今度こそやりまわしかと思われたが、カーブ手前でブレーキがかけられた。車高の少し低い車体から、サイの突進のようなイメージをしてしまうわけで、立つ場所が悪かったのか、倒れこんでくる危険判断に気をそがれた。お船は、鳥居を過ぎて10分ほど停止、南町が本殿境内に入るのを待った。3時05分、六軒町が入場。一鳥居から二鳥居までは、子供達が引いてゆっくり入る。囃子は、まだ普通のまま。おととし年番を勤めたが、去年は新宿神明神社で人身事故、本殿入祭は取りやめとなったらしい。ここで、また本殿の上がり口まで戻った。本殿から二の鳥居付近の六軒山車を見ると、太鼓のたたき手や若衆らの扇子の動きが見て取れる。本殿境内は、先に入った山車が笛太鼓の音曲を奏で、踊れや歌えの賑わい。二の鳥居付近で静止している太鼓の、バチが止まると一気に入ってくるという。静止から本殿までの70mが知人の言う「YOSHIKIのリズム」になるわけで、バチが止まるのに目を凝らした。一瞬、止まったように見えたそこから、地すべりが起こる如く人が波状的に動き出し、一気に本殿めがけて突進してきた。太鼓は、全開速力で叩かれてる様だが、リズム音は、押し寄せる歓声や怒号の渦で聞き取れない。しかし、躍動する太鼓や演奏のりきみ、みなぎる躍動から迫力が突進、ほとばしるエネルギーが山車・人もろとも本殿上がり口に到達した。すぐに威勢良く、三三七拍子を打ち上げた。笑顔と満足に満ちた手拍子が響き渡った。そうか、山車にマイク、境内にアンプをつけてもらわないと太鼓囃子の躍動リズムが分からない!。山車の動き全体とリズム(音楽)が、祭り本番ではよく聞き取れないわけで、体感できるのは、山車に乗っている人達だけかも。知人は、かつて乗っていたわけで、彼には体感できたが、遠目の見物では一体で体感するのは難しい。残念、「YOSHIKIのリズム」はまぼろしとなり、彼方に消えた。山車には乗れないだろうから、山車の後ろを追う以外になさそうだ。山車は、バックして、安房神社遥拝殿前から、神輿前へと進んで、ぐるっと一周、先の山車に先頭をつけ、轍を踏まずぬかりなく年番三軒町、南町、新宿神明丸と挨拶を交わし、3時34分定位置に入った。
 山車入祭本殿到達前、本殿前では山車関係者、館山警察官の規制が始る。本殿境内前から大声で、「一般の人は下がってください」と排除してゆく。境内の外縁をなぞるように荒縄が張られているが、本来それが規制線らしく、そこから中は、入ってはいけない領域らしい。見る限り荒縄は、人盛りのずっと後方に張られ、誰しもそんな意味があることなど知らない様子だ。銀座通りにも、門扉・垣根に沿って張られていたが、荒縄から車道は、規制されてるという意味らしい。本殿山車関係者には、排除の任務が重要らしく、「もっとちゃんとせんかい」というような指示が山車責任者から飛ばされてることもあった。荒縄の外までの後退は、何ら呼びかけはなく、祭り最高潮の潮(しお)が引くようなことは、暗黙に控えられているのだろう。3時35分、5番目神明町の山車が二の鳥居に近づく。そうして本殿前に突っ込んで来た。昨日の神明神社では、太鼓が転げ落ち、人が落下寸前のブレーキ具合だったが、押し寄せる山車に違和感や振り落とされるものもなく、本番興行は成功裏に本殿に到達した。三三七拍子が打ちあがった。本殿の上がり口正殿には、4人の幼い巫女(12〜13歳)が、見届けるように視線を向けている。しかしどの山車も、拝殿到達の神事ごとはなく、手拍子のあとはバックして、安房神社や神輿前を一周して、年番に挨拶、南町、新宿、六軒町へと順次挨拶、50分定位置におさまった。この時点が、この神社の最高の人出になると知人が教えてくれる。最高の人出に、山車お船ごとの音曲ねいろは最高の共演を作って、山車の天に立つご神体も踊りだすような賑わい。パンフでは、山車・お船は、本殿と安房神社の間の神輿回廊(“御仮舎”というらしい)前に、右から新宿・神明町・六軒町・南町・三軒町の順に止まるような図であるが、実際は、その反対側、手すすぎ側に止まっている。今しがた勢ぞろいした山車・お船ではあるが、予定では4時、八幡宮出発となってる。4時01分、三軒町のご神体が下がり始め、4時3分、山車も動き始め、本殿前に進んで挨拶、バックして参道に帰ってゆく。4時05分、南町の山車が帰り支度。4時08分、若衆頭のホイッスルがなって、山車が動き始める。盛んに「一般の人は下がってください」の警察指示。若衆頭がもつ縦長提灯の指示を合図に、帰り参道へ入ってゆく。本殿挨拶なし。4時10分、新宿神明丸が出発準備。ここで迷子の呼び出しアナウンスがなり「林よし子」名が繰り返される。はっと思い出した。林トシ子さんのお店。9年前館山で初宿泊の夜、呑みにいった小料理店の女将の名前。YOSHIKIとToshIが合体した名前。地元の事をよく知っていたなぁ。11分、新宿のお船が前進・バックで本殿前へ進み、挨拶。この新宿のお船には、若衆頭の男音頭と30前後の女性の音頭が乗り合わせ、粋な鉢巻き姿に祭り衣装が威勢よく見え、女流会の長提灯を掲げ面目躍如(めんもくやくじょ)と言う所。15分参道に入って帰ってゆく。16分、六軒町が前進。神輿御仮舎まで前進してUターン。神明町の山車に挨拶、バックして、若衆頭の提灯采配で、本殿前へ前進して挨拶。大きくバックして22分参道を帰って行った。最後に残った神明町山車は、自分達の太鼓や音色を観衆に周知させるように演奏し続ける。大太鼓には、神明町太鼓自慢が、下の地面から太鼓の裏面へ踊る節回しの様に叩き始めた。2人3人と変わって、自慢主張の節回しを奏でる。そのうち、観衆も単調な長い演奏にダレてるようにも見える。7人目は左利きのたたき手が登場。38分まで7〜8人が交代演奏した。山車が動き始める人さばきが始まり、若衆頭の前方(安房神社方向)か左側(本殿方向)かの合図が躊躇ぎみ、下の者と検討。39分ホイッスルが鳴って少し前進、広げた扇子を差出し合図、安房神社遥拝殿へと前進する。安房神社の神輿担ぎ手が拍手して応え、また定位置までバックして、43分、拍子木が4回打たれ、木遣り歌。若衆頭が回って本殿前へ の手合図をした後、木遣り歌が少し続いて一気に本殿前に駆け出し、挨拶。バックして・・・、次の前進が続かない。車輪がわだちに入り込んだ様で立ち往生。48分、去ってゆく。空いた本殿前には安房神社の高提灯が5本並び立つ。神明の山車が二の鳥居に掛かると、太鼓が鳴って、一斉に安房神社の神輿めがけて走り出すらしい。予定では、5時各社・神輿還御となってる。本殿の上がり口回り廊下の安房神社向きの角には、大太鼓が座布団を下に少し傾き置かれ、神経質な宮司か祭り責任者が、太鼓の座り具合が気になるらしく、しきりに指示を出して号砲一打の緊張を高めている。4時57分、太鼓が鳴ると、本殿前に控えていた担ぎ手達が、安房神社遥拝殿の神輿へ駆け出し、一気に担ぎ上げ、高々と差し上げた。冗長な神明山車太鼓の一本調子から、躍動の掛け声と翻弄される神輿のうねりが、境内の雰囲気を生き返えらせた。担ぎ手の発するど太い掛け声が本殿前に近づき、本殿への挨拶を終えると、各社神輿御仮舎へ駆け出し、挨拶。境内を練り、御仮舎前へ戻って練り返し、境内狭しとおごり高ぶるが如く動き回る。「神輿が来ますので、境内の中の一般の方は、外に出てください」のアナウンス。木遣り唄に左へ右への移動、回転、本殿前では揺らす下げ幅を大きく振りこむと拍手があがった。「おりゃ、おりゃこい」掛け声も堂に入って心地よく響き、再び遥拝殿前で大きくうねり練り、14分、うねりは静かに立ち止み、拍子木が鳴って、安房神社の歌が歌われる。神輿が聞き入るようにおとなしく担ぎ手の相づちが入る。私の前の人が、白い紙を取り出し、歌の歌詞を見ている。スマホで撮れば拡大して歌詞が分かると とっさに「写真撮らせていただけませんか」というと、その若い男性は、「あげますよ」と言って渡してくれた。どこを切っても金太郎あめと同じく、館山どこに行っても親切だらけには感服。歌は「納めの唄」と言い、次のような序文と歌詞が載っていた。

「        安房神社 神輿唄(納めの唄)

  安房神社の神輿は、 しばらく境内でもんだ後 最後に安房神社遥拝殿の前で安房神社特有の、永いモミをみなさんにお見せします。
その際、モミの直前に 拍子木の合図 にて 神輿唄の納めの唄が、担ぎ手全員により唄われます。
その時に、みなさんも御一緒に唄ってもらえたり、合いの手を入れてもらえたりすると大変うれしく思います。
   みなさん どうぞ御一緒に、よろしくお願いいたします。

     納めの唄      ( )内は合いの手です

 ハー、まっちはナー、今日きり(コラショイ)
  コリャ、納めが迫る(ハー、ドシタイ、ドシタイ)
 位こーが、わめこーがナー、コリャホントニ
  明日は無い(ハー、ドシタイ、ドシタイ)

  それじゃナー、見せようか (コラショイ)
 コリャ、集まったみなさんに
             (ハー、ドシタイ、ドシタイ)
 今年、最後のナー、コリャホントニ
  ものくらべ(ハー、ドシタイ、ドシタイ)        」

 観衆も聞き耳を立て、静まっている。歌い手の、音吐朗々と響き渡る寂寥を帯びた歌声は、これで祭りもいよいよ終わってゆくと言う寂しさがにじみ出している。唄が終わると、遥拝殿前では、大きなうねりが起こり、神輿の乱舞の大ねりが始った。70〜80回、大きく揺すり続けてる間、女性アナウンスが「拍手をお願い申し上げます」とその健闘に賛同を募る。練り続けること、4分、もう一度「拍手をお願い申し上げます」のアナウンスが入ると、3回大きく空に担ぎ上げ、伸び上がる手の見事な支え林が雲上に延びるようで、美しかった。5時20分、一気に参道めがけて駆け出し、帰っていった。21分、太鼓が鳴って、鶴谷八幡宮本殿から、当神社の神輿が厳かに境内へ引き出された。渋い黄金色とでも言おうか、控えめな色に統一された神輿は、遥拝殿前で練り上げ、各所神輿の御仮舎前で数回大きく担ぎ上げ、「ホイサ、ホイサ」の掛け声で境内真ん中に動いて20回ほど練り、回転も見せ、「ホイサ、ホイサ」と再び御仮舎、遥拝殿前へ、前後運動等、多彩な練りを続けている。・・・5時26分、遂に当方に限界が来た。これから順次、各所神輿が別れを告げる練りを繰り広げ、その最後の火花を散らして去ってゆくはずだが、疲れも覚え、ここで神社での祭り見学を終了とした。
 JR館山駅まで送ってもらい、ここで知人ともお別れした。2日間、親切に御案内頂いたお陰で、初めて見るお祭りも、ポイントを得て見学でき、感謝感激。館山の最たる親切は、知人の御配慮であった。本当にありがたかった。
 駐車場の車で一休憩。館山駅の東口は、大きなロータリーとなっていて、予定では、6時半、山車お船の進入が始まることになっている。夜の山車やお船に、にぎやかな提灯が灯り、それが一同に揃うのは、考えただけでも華やかに思えた。6時半ごろには、お囃子も聞こえ、ロータリーへの進入も始ったようだった。私一人が見学に行った。7時ごろには2台の山車が進入を終え、ロータリー南側で、ご神体を祭り上げ、囃子音頭を打ち続けていた。駅舎とロータリーの歩道には、見物客がたくさん行き交い、縁石へ向って人が密集して行く。後ろから すごいなぁ と見とれていた。7時半頃になって、にわか雨が急に降り出した。駅舎の庇へ逃げ込む観客。庇下の雨との境界線から密集の人が奥へつながってゆく。急な雨だったので、山車の方も臨戦的に大変なようだった。ご神体をしまい、台座や回り幕をしまい、山車全体に透明ビニールの覆いをかぶせた。山車の屋根辺りには、山車の触覚のような銅線が渡されてあったが、それは雨合羽をささえる桟(さん)であった。ロータリーに入ってきた山車も、定位置に着けば覆いを被った。さながら、山車のさなぎが登場。まゆの中に照明がともり、生命の息吹のようにも見え、雨が光り落ちるビニールのしずくは、光を増殖させ、まゆをさらに光らせた。仕方ない、車に戻った。少々雨が期待をそいだ。8時半ごろには小止みとなり、再び出向いた。もう帰り始めており、ロータリーを数回周回して、銀座通りの方へ去っていった。最後に六軒町の山車が残った。3回ロータリーを勢いよく周回して、9時、去っていった。
 念願の鶴谷八幡宮のお祭りを経験できた。2003・10・25、館山訪問時の通りすがり、大きな鳥居を見て境内に入った。お祭りはと聞けば、9月14〜15日と宮司らしき人が教えてくれた。9年目の、“願えば叶う”であった。余談を言えば、市街には「里見氏を大河ドラマに」という白いのぼりがたくさん立てられている。里見氏大河ドラマ実行委員会が再来年以降のNHK大河ドラマに立候補しているらしい。もし実現すれば、祭りのカットも使われ、、世間一般にその盛大さが知れ渡るはず。ドラマ放映が叶う事願いたい。(完)

(参考)
   山車・お船 年番通過予定                   

15日 無料休憩所前 出発 13:30          
    神明神社   到着 15:00                
    神明神社   出発 16:45〜              
    税務署前      17:30
    南町信号      18:30
    新宿 神明神社   19:30
    解散        20:00
16日                              
    旧館山消防署前 出発 13:00               
    八幡宮     到着 14:45               
    八幡宮     出発 16:00                      
    JA安房前信号     18:00
    館山駅東口   進入 18:30
    解散          20:00
    館山駅出発       20:00〜20:30


   神輿の八幡宮での主な神

15日  午後1時〜4時 各社・神輿着御
     午後7時   六所祭
     午後8時   三芳・八幡太鼓の奉納

16日  午前4時〜6時 出祭各神社朝祈祷
     午前11時   安房国司祭・祭典
     午後3時    北条地区山車入祭・祭典
     午後5時    各社・神輿還御  


間違えた所も有ると思いますが、最後まで読んで頂きまして有難うございますm(__)m