REPORT 4
2007・06・30〜07・20 逍遥のエックス(61)〜(80) papa
2007・06・30 逍遥のエックス(61)
1998年4月17日(金)第2回hideのオールナイトニッポンRの「NRN9」は「<hideの注目するニューカマー達(3)> 〜ガールズ』(1'41") M
トーキュー・ガールズ/スペース・エイジ・プレイボーイズ 〜トワイライト』(3'02") M ミスター・トワイライト/カレン・ブラック」となってる。hideの注目するニューカマー達の第三弾目の紹介となる。1弾目は英語日本語圏関係なしにやってる“ギターヒーローっぽいヤツ”カズがいる『オブリビオン・ダスト』でボーカルがイギリス日本のハーフでバイリンガル(2ヶ国語を母語として話す人やその能力)だが、ゼロ地点にいる一介のバンドとしてロスでステージに立ってる姿が凛々しくて涙。2弾目は自分達が好きなロックをやってる「お前、このかっこいいの聞きたかったら日本、こい!」の中の一つのバンド『コールター・オブ・ザ・ディーパース』で、“掃き溜めに鶴”でボーカルがすごい。すごい爆音の中に少年が一人、ポツッと立ってて、森の中で歌ってる感じがする“天使の歌声”、“世界にほかにないオリジナル”。・・私、ふと思いつきで感じたんですが、逆境の中で凛々しくやってる姿、天使の歌声、世界にほかにないオリジナル・・もしかしたらhideの生来の惹かれる人間としての感受性・感性というものが、ここに出てるのじゃないかな と。そんなバンドが実は、昔自分の前にあって、なぜかなぜかそこに入ってしまったが、それは『けっこういろんなバンドに誘われたんですけども、「いや、明日からもう美容師になる。戻る。美容師1本でやって行く。ハサミしょって行くわ〜!」みたいな感じだったんですけど、なぜかヨッちゃんの一言には・・・「やってみようかな」っていう気にまたガラッとさせられてしまった優柔不断な私がいるんですよね』(逍遥24参照)というX加入のいきさつが、YOSHIKIの人柄・誘いに大いに起因していると思っていたのですが、hideはもしかしたら当時“関東3大粗大ゴミバンド”(『hideDAYS』p41)と呼ばれていたエックス・サーベルターガー・ディメンシアの、自分のバンドと同じ境遇にさらされ、さらには最悪の逆境の中にいるエックスの逆境性とTOSHIの“天使の歌声”と『その手法というかあの独特の世界、世界にただ一つのあの話術というかMCはねー、今でこそいろんな人があの話術を真似してますけど、あれがオリジナルですよ』(逍遥22参照)という“世界にほかにないオリジナル”の中に、ニューカマー達を見る目と同じ好感を抱いていたのではないか。『▼(市川)で、そこまでハサミ1本でいこうと決意していながらヨシキに誘われて―。そこがやっぱり不思議だよね。なんでそこで急に考え変えてXに入ったんですか。(hide)「そこばっかりは今はわからない」。▼(市川)まだわかんない?(hide)「わかんない。―なんか、凄くさ、いやらしい意味で利益があるようなさ、メリットがあるような素材があるなら別だけど―。はっきり言ってお金とか地位とか名誉とかなんだったら、美容師やってた方がもっと近道だったと思うし、有名っていうにはちょっと違うなあっていう感じだったし、当時のXは。だから結局、ヨシキの人間性っていうことになっちゃうのかなあ―」』(『PSYCHEDELIC
VIOLENCE CRIME OF VISUAL
SHOCK』p59)の中でも、YOSHIKIの人間性に起因を見出してはいるけれど弱い動機のような感じもする。hide本人も、加入動機がはっきりつかめないという曖昧模糊のなかで、このhideの“ものに魅力を感じる”感性の特性が、X加入の動機に働いた とふと思ったのですが思い過ごしかな。この3弾めにどんなバンドが出てくるかでさらにはっきりしてくるかもしれない。私の中のhideとしてはニューカマー論、今回はここを取っ掛かりに行きたいですね。hideのX加入には、YOSHIKIに起因する以外にhide個人の感受性・感性として“バンドX”が好きだという部分が働いていた というその“人間性”を語ってみたいですね。うまく語れるかなぁ。
2007・07・01 逍遥のエックス(62)
“子供の幼児遊びは、自分の空想の中に入り込んでしまうと言う遊び方ですね。それが楽しければ楽しいほど、大人に成長する過程でも夢見る人間としての残滓(ざんし)が残っているんですね。一人夢中になると言う、凝り出したらそのまま行くところまで行くと言う、極めタイプの人間ですかね。そしてまた、家の中では暖かい両親がいるというのが、そういう夢遊びには、大事なんですね。子供は大人以上に家の雰囲気を読んでるんです。親が仲がいいのか、何か困ったことがあるのか、と言うような心配を起こす気持ちの中では、落ち着いて遊べないですからね。まぁ陽気な両親でしたし、おばあちゃんがハイカラと言う類でしょ。夢遊びの材料を補給し続けてくれたのがおばあちゃんですからね。で、僕は友達からKISSを借りて、ある日、それを聞くとはなしに聞いて、なんじゃこりゃ とはまってしまったんです、遊びの中に音が入ったんですね。音の世界、空想の世界、見た目のインパクトの世界、遊びの要素がのちのバンドにそれらが渾然一体となって自分の表現スタイルとして現われてきたように感じるんですね。遊びの中で適材適所に配置した要素、勇ましい音楽やカッコいいヒーローの衣装や市民の安全を守る気持ちや敵をやっつける装備や自衛隊のユニフォームの柄まで、いろいろと考えたことが、自分のバンドを売り出す手法に役立ったですね。バンドが自分の運転する攻撃主体で、これをいかに強く勇ましく見せかけて戦い進んでゆくか、そういうところに気持ちが集中して来るんです。敵とは、まぁ、バンドの音楽を聞いてくれるお客さんですかね。敵の立場にも立って自分の攻める装備を作り上げてゆく。そんな子供遊びの延長戦みたいな感覚で、僕はバンド・サーベルタイガーの活動を夢見たんです。バンドの希少性、世界にここだけしかないもの、オリジナル性。お客の心を攻める武器は、最新で特殊なものでないと目立たない。バンドの特性をあらゆる手段で出してゆく。演奏や歌だけではない、パーフォーマンスや衣装やビジュアルや人目を引くもの総動員で、バンドたる攻撃艦の威力を増強させる。そんなイメージがよぎるんですね。僕がサーベルやめる時、いろんなバンドから誘いを受けんですが、自分がバンドの脅威を高めることに腐心した結果、他のバンドはお行儀よ過ぎて平凡で逸脱がなく、面白味を感じなかったんですね。僕がバンドの特異性を一生懸命考えて、同時代活動中の最高レベルでインパクトでは負けないと思って自負していたのが、ある日Xのバンドを見に行った時、打ちのめされたんですね、なんじゃこりゃ上には上があるものだ!。お客の立場で客席で見たんですが、お客を驚かせるバンド、世界にほかにないオリジナルとは、こういうバンドかなぁと感じ入ったんです。作ると言う部分の限界を超えて、バンドメンバーの個々のもって生まれた能力と言うものが、最後の優劣を左右する。ビジュアルや音・イメージ・見た目のインパクトは限界まで作って行くが、キレイなメロディや音の作り方やMCなんかも、客に訴える重要な要素であるにも関わらず、それはメンバー個々の能力と言うもので、XはYOSHIKIとTOSHIの類まれな才能が噛み合わさり、その他のメンバーの力量も発揮された自分達を超えたバンドだと気付いたんです。僕の中では忘れられない衝撃でしたね。その衝撃の主体が自分を招いてくれたんですから、自分の気持ちより体というか反射神経と言うか、他のバンドの誘いを断り続けた自分のタンカも何もかも一切忘れて、“入りたい、あの世界にほかにないオリジナル”の中でやってみたい との衝動に突き上げられたんですね。自分がバンドをやった上で同期のバンドに衝撃を抱いたことは、その部分で先を越されたと言うこと。そしてそういう観点が僕のニューカマー達を見る目につながってゆくんですね。Xの評価はその当時はよくなかったですが、自分達の信じるものにひたむきに、やっぱりお客を楽します、のせる、煽る、燃焼しつくすライブ主義が、衝撃ですよね。ステージから発信するばかりじゃなく、客席からのリアクションを作り出す、そして会場全体が怒涛のるつぼに化して灰になってゆく。そんなイメージが有るんですね。そんな芽がニューカマー達のバンドにあるかどうかが、僕が関心を抱くこれからのバンドですね。バンドの力でどう客の心を開かそうとしているのか、そのひたむきさ、気持ちの入れ方、また世界にここだけのオリジナル、唖然性にですね、僕の歩んだバンド人生で身に付いた感性が刺激されるかどうか。Xをやめた僕を誘ってくれたら入りたいと思うバンドですね。ニューカマー達を客席から見て、サーベルもXも叶わないなぁ と言うバンドの衝撃に、も一度見舞われたいですね。”
2007・07・02 逍遥のエックス(63)
hideの回答:『えーと、次、ご紹介したいのはですね、さっきもご紹介しました「オブリビオン・ダスト」。現在、彼らもロサンゼルスでレコーディング中なのですが、彼らの宿泊先がですね、次ご紹介する、LAの「スペース・エイジ・プレイボーイズ」っていうバンドのボーカルのコリーっていうヤツのうちに、ドラムたちはみんな住んでいる・・・住んでいるというか、お邪魔しているんですけども。えーと、彼らはですね、やっぱり、その「ヂルチ」でレコーディングしているときに知り合いになったバンドでして、ここのボーカルのコリーとかっていうのは、皆からルックスはボンジョ・・・、ボン・ジョ・・・、あ、ボンジョン・ブルビ? あ、ジョン・ボンジョビ?のルックスに、ポップのハートを持つ男と呼ばれていたような、わりとファンクで、グッド・ルッキングな兄ちゃんでしてね。で、彼のやってる「スペース・エイジ・プレイボーイズ」っていうバンドのべーシストっていうのは彫師で、僕も1個だけタトゥが右手にあるんですけども、そのタトゥ彫ってもらった彫師でもあるんです。コイツもけっこう芸歴長くて、昔・・・言うと彼に迷惑かかりそうなバンドにも所属してたりなんかするんですけども。音楽的には、わりとオーソドックスなパンクロック、70年代とかのパンクロック、ビートロックっていうか、パンクロックですね。90年代のリユニオンの下らない「セックス・ピストルズ」ではなくて、そのまま「セックス・ピストルズ」が、あの年齢のまま今やってたらこんな感じなんじゃないかなっていう、“バカ・パンクロック”をやっております。えーと、「スペース・エイジ・プレイボーイズ」で『トーキョー・ガールズ』。
「スペース・エイジ・プレイボーイズ」で『トーキョー・ガールズ』でした。先日もコリーは、僕の『ピンクスパイダー』の録りのときに遊びに来てくれましたが、相変わらずお元気そうで何よりでした。そいでですね、次にご紹介したいバンドがおるんですけども、「カレン・ブラック」というバンドなんですけどもね。あんまりご紹介したくありませんですし、まぁ、公共の電波ですし。あの、何だか知らないけど、ニューヨークに住んでる知り合いの人から「ヒデちゃん、これ好きでしょ」っていってビデオとCDもらったんですけども、ある意味ぶっ飛ばしてて・・・あの何でしょうねぇ、僕の友達曰くね、女版「マリリン・マンソン」だと言うんですが。「マリリン・マンソン」というのは、わからない方にご説明しますと、こちらアメリカでは、「マリリン・マンソンのCD、どこにあるの?」っていうと、レコード屋のお姉ちゃんとかが、「マリリン・マンソン?そんなもの買うの!?」っていうように忌み嫌われている、でも、けっこう好きな人はすごい好きなアンチ・クリスチャン・バンドっていいますかね。別に彼がアンチ・クリスチャンていうわけではなくて・・・単に自由だけを歌ってるんですけども、まぁなんか、頭の固い人には忌み嫌われちゃったりするバンドがいるんですけども。どっちかっていうと、マリリン・マンソンっていうのはゴシックな感じで、宗教的なイメージのステージを繰り広げるんですが、この次ご紹介したい、あの、ご紹介、本当はしたくない、「カレン・ブラック」っていうバンドはですね、ステージがけっこうモノスゴくて。なんていうか、ドラッグ・クイーンとか、わりとアンダーグラウンドなパーティとか、クラブのイメージ。昔『ピンク・フラミンゴ』っていう映画が、アンダーグラウンドにありましたけども、あれの主役をつとめていた、あの、ドラッグ・クイーンのディバインとかを彷彿させるルックスで。さっき見たって人がいらしたんですけども、“股間”から卵産んだりとかするらしいですよ。えー、で、このボーカルの人はね、カルバン・クラインのモデルやってたりとかね・・・モデルなんですよね。で、歌下手っぴなんですけど・・・ただね、このジャケットの中の写真ですとか、ビデオ見る限りでは、ライブは見たいが、音は“お前ら、おい!”って感じのグラムロックなんですよね。だから「ミロクドールズ」とか「シルバーヘッド」とか、なんかあのころの古くさい、グラムロックなんですよね。だから、たぶんもうちょっと、時間あったら、何かこう、曲、もうちょっと練ったほうがいいんじゃないかなあと思うので、あまりまだ紹介したくはないって思ったんですけども。今日はご紹介したいと思います。えと、「カレン・ブラック」で『ミスター・トワイライト』。』(hide回答終わり)
2007・07・03 逍遥のエックス(64)
(コメント):第三弾目は「カレン・ブラック」と言うバンドですね。世界にここだけしかないオリジナルと言う部分では、この『バンドはステージがけっこうモノスゴくて』と言う部分になるのでしょうか。『歌下手っぴなんです』『曲、もうちょっと練ったほうがいいんじゃないかな』と思うので『ご紹介、本当はしたくない』んです。でも紹介するのは、アメリカではけっこう忌み嫌われてるマリリン・マンソンの女版でアンダーグラウンドな感じ、ステージに特徴があるということらしい。
多くのバンドがある中で、すべてに目を通すことは不可能だし、hideにもやる仕事がたくさんある中で、今回のようなニューヨークの友人の勧めやライブを覗いた機会にhideなりの感じ方で記憶に残ったバンドたちがこの3バンドだったのかもしれない。将来を嘱望されても、その通りにはなかなか行かないのがあらゆる場面であり、その後のこれらのバンドがどうなったのか今はわからない。ステージに立つ人には、客席の目が、そのバンドの、他のバンドにはない「特徴」に興味を抱いてゆくというのがわかる。曲を演奏し、オリジナルな曲を聞いてもらいたい演奏者の真意とは別な所に、客席は興味を探していることもあり、ステージ全体やホール全体をいかに巻き込んでゆくかの全体で、演奏者はライブを考えて行くべきと言うことかもしれない。私のライブ経験でも、いい印象・あとに残る印象は、そういうことだったかなとも思う。「インビシブルデスベッド」や「夜叉」なんかをもう1回見たいと思う理由は、自分にとっての「バンドの特徴」が気に入ったからである。前者はボーカルやギターが、後者は楽しさで。夜叉は1回だけだが、そのインパクトと言うかおじさんバンドの油ギラギラがかもす拝金主義の「金もうけ、金もうけ・・・わしづかみ、わしづかみ」の歌詞がパーフォーマンス(衣装は上下白のスーツに白ハット、つかみ取りアクション、MC)にのって、愉快に歌われてゆく。強烈な個性を感じた。かっこいいとか歌や演奏がうまいとかいうバンドの本来の“売り”とはちがう“エンターテインメント”が気に入ってしまったのである。本来本命でないバンドに興味を抱くのは難しい話。対バンでのライブで、出演者がステージを終えると入れ替わりが生じるのは、本命のみが主眼で後は時間待ちのそれぞれのファンがいるということ。ライブ演奏者以外のファンを自分達の演奏に興味を惹きつけるのは、演奏以外の多くのものを総動員してそのライブの機会に訴えるしかない。なにか気に入ってくれたらCDも買ってくれるかもしれないし、次のライブに準本命ぐらいの意識で参戦してくれるかもしれない。その努力のしたむきさが感じ取れるぐらいのパーフォマンスやエンタテインメントを提供するのが大事だと思う。MCでも目線を宙に浮かすのではなく、客の目線の中に食い込む、演奏は客席も巻き込むようにしてゆくなどステージと客席が分かれていてはいけない。2つが合体しているようなライブ、客の一人一人にどうライブの動きに参戦してもらうか、その引きずりこませるテクニックがバンドの盛衰になるように思う。歌や演奏だけではなかなか一筋縄ではいかないのが学芸会と違う所以。興味を持ってない人に興味を抱かせるためのバンドの特徴をどう売り込むか、ニューカマー達が延びてゆくためにはそういうものも大事だとhideは暗示しているように思う。
2007・07・04 逍遥のエックス(65)
1998年4月17日hideのオールナイトニッポンRの第2回放送「NRN10」は「<現在のhideの考える音楽未来形(1)> 〜ヂルチ』(4'07")
M What's up Mr.Jones/ZILCH
〜いいですよ』(2'33")」となってる。約10年前にhideが将来の音楽未来形をどう考えていたのかという話。とりあえず10年後(hide43才)にはこう変っていると言う答えが“今現在”の音楽状況と言うことですから、答えはわかりやすい。今現在の答えを10年前にどういう問題意識で捉えていたのか、興味がありますね。さらに20年後(hide53才)30年後(hide63才)をどう見通していたのか、どんな話になってるのかラジオの回答を早く読みたいですが、ここは10年先を考えるのがいちばんわかりよいですので、10年前にさかのぼって現在の答えの問題を作れと言う話にしましょう。10年前は、パソコンやインターネットも流行り出して来た頃。その2年遅れで我が家もIT革命と銘打って、パソコン導入、インターネットに接続した訳で、hideはすでに97年にはインターネットをしていたことを考えると、音楽未来形もそのパソコンを利用した音楽を考えていたはず。10年前にタイムスリップしたhideさん、当時を語ってください。
“僕がミクロマン基地で遊んでいた頃(小5・逍遥47)、歌の発売も、レコード盤から丸い小さな円盤になるような話を聞いたんです。今で言うCDと言うヤツですね。技術が革新されて、これからの音楽も新しい機器によって作られるような感じがしました。おばあちゃんの仕事が、近くの米軍横須賀基地内でのヘアメイクの仕事だったので、そこで聞いたこれからの未来のことをよく僕に話してくれたんです。僕も小4の時の夏休みにカナダとハワイ1ヶ月ぐらい行かされたでしょ(『PVCOVS』P49)。そこで見た経験が、おばあちゃんの話とリンクされて、何となく将来の予感というものが感じられたんですね。英語とかも幼稚園から習わされていたので(『前掲』P51)、中学になって英語が始ってもバカらしくて、先々に勝手に勉強してたでしょ。将来を先取りすると言うことが、どれだけ有利で余裕ができるか、そのころなんとなくわかったんですね。そこで、PCがはやりだした94年ごろ、僕はこれをこれからの活動に生かされないかと考えて使い始めたんですよ。最初は、ファンとの交流に利用できると思ったんですね。メールですよ。その次に曲作りや保存に活用できると考えたんです。そして、これを利用すれば、ライブステージのメイクが、PCのメモリーからうまくできるように思ったんですね。これからの音楽、その発信やステージでの表現も、PCでいろんなことができる。前に時代の先を読んで、待ち構えてると言う話をしたことがありましたが、僕たちの音楽を聞いてくれるファンの志向を先回りすることも大事ですが、音楽環境がPCの出現によって大きく変ろうとしている時に、これこそ先回りしていち早くその流れの中に乗らないと音楽の先端性を疑われるように感じたんで、PCを全面的に利用した音楽の世界を作り出そうと決意したんです。XJAPANの時代からそのことを考えていたんですが、Xが解散になって、自分でやってゆかなくてはならなくなったでしょ。ロスでの活動もバンドを作って、アメリカでの活動を本格化する出発の時でもあるし、音楽も新しい出発のやり方で挑戦してゆこうとPCを使った音楽を目指そうと考えてるんです。アンプでもって音を増幅させると言う音の加工作業ですが、ゆがめた音を出せてもそれを保存して置けないですよね。それがPCのメモリーで瞬時に消える音も保存できるんですね。いろんなバージョンを保存し、また組み合わせて斬新な曲に仕上げてゆく。新たな境地の開拓が可能になって、電子音や擬似音やリズム的な繰り返しや付加音を重ねて行くことなど、PCの手作業で曲ができるという次元になってきたんですよ。元の音は丹念にメモリーする必要があるんですが、加工がいろんな変化をもたせることができる。音楽環境は、その機器というかそれよりももっと大きな社会の革新の中で考えるべきという音楽未来形があるんですよ。一つのステージを考える場合、オープン前のホールの音楽からステージが始まり、その演奏の合間のつなぎや、曲の入りや演奏中の伴奏までも組み込んだ、ワンステージの全体を照明や映像も組み込んでメモリーを仕上げておくと、時間の経過によって演奏がつながって、スタッフの負担が少ないし、演奏者の負担もだいぶ少なくなるんですね。その分、演奏やパーフォマンスに最後まで力を集中できる。よくステージで熱い演奏が終って休憩みたいになってる場合があるでしょ。それ、一息入れて次、と言う感覚ですが、お客さんは気分を冷やしてしまい、ステージの中断になってるんじゃないかと危惧するんです。演奏者は一息入れるとして、お客さんは休ませない、テンション上げたまま次へ導いてゆくという時に、組み込んだメモリーの音と映像を流してゆけば、お客さんを休ませることなく2時間3時間楽しますことができる。そういう利用も考えての音楽未来形を僕は考えてるんです。”
2007・07・05 逍遥のエックス(66)
hideの回答:『えー、私ヒデはですね、今年はですね、1月にシングルを出して、5月にシングル出してですね、たぶん、夏ぐらいにはですね、「ヒデ・ウィズ・スプレッド・ビーバー」としてのアルバムをお届けできるかと思うんですよ。それを今現在、レコーディングしてるワケでしてね。それで8月に『ミックス・レモネード・ジェリー』という私のレーベルのイベント。ワケわかんないイベントをちょっとやりますので・・・。あのですね、去年はですね、『ミックス・レモネード・ジェリー』の『1』というのをやったんですよ。
それは青山と六本木のクラブを5つ、あとインターネットをシーケンスして一斉に始って、誰がどこに出るかわからないっていうのを―カットハウスがあったりとか、DJプレイがあったりとかっていうのを― 一切わからずにオールナイトでやったんですよ。したら、けっこう苦情がすごかったんですよ。1カ所、1カ所のクラブを回る・・・やっぱり大変だ、足疲れるっていうこともございましたんで。今年は、もうちょっとそこら辺をですね、改善いたしましてですね、なんと、予定なんですけどね、1つの敷地の中に複数のクラブというのをやりたいと思います。あのう、前回より遊びやすいんっすよ。しかも、あの、あのう、たぶん飽きないと思います。イベントとかって、よくバンドが複数でても、そのお目当てのバンド以外はくっちゃべって座るっていうのが多いじゃないですか。僕、それが嫌でこのイベント始めたんですよね。で、今回はけっこう、カゼひいたりしてもらいます(笑)。今んとこまだ、本当、予定なんですけど。えーと、ウォータークラブがあります。あの、水着で楽しんでもらうクラブがあります、これも予定ですが。“えー?!”とか言っちゃって、“私は絶対、水着なんて着るもんか”“着れないわ”なんて、思ってる人は損をします。それだけは言っときます。他には、立体のクラブもあります。わりと大きめのオールスタンディングのクラブで、スケーターのクラブもあるんじゃないかなぁなんて思っています。5つぐらいのクラブがシーケンスしますが、同じ敷地の中にありますのでみなさま、ご安心を。ライブ見てない間もちょっと遊んでいられるスペースもありますっていうのでみなさま、ご安心を。そういうのをやりましてですね、それと同時に、「スプレッド・ビーバー」の全国ツアーもたぶん始まってるんじゃないかと思います。「スプレッド・ビーバー」は基本的には、7月の終わりくらいから年末まで、ずっとライブやってます。ライブやってる感じになります。
えーと予定が複雑になるんですけども、それとは別に私、「ヂルチ」というバンドをやっておりますが、それのレコーディングが去年の8月に終了しまして、OAはもうフルアルバム録り終わってるんですわ。それがたぶん、いよいよ夏ぐらいには発売できるかなということになりまして、それのライブもあります。何カ所かわかりませんが、体の続く限りやります。僕は果たしてこなせるんでしょうか?っていう、今年の課題というか、今年の不安というか、同時進行です。全部同時進行でやります。もういいんです。俺なんかどうなったって。なんかね、あんまり、なんかそんな面白いことがね、いくつもあるわけじゃあないですよ。ま、通り過ぎていく面白いものとかもたくさんありますよ。やっぱり今のうち・・・今のうちに!ってのもおかしいけど、面白いものが面白いものだ!と思ってるうちにやろうってのが私のコンセプトですね。なので、今年はいろいろとやりたいと思いますので、おつきあいくださる方は、よろしくお願いします。で、じゃあその「ヂルチ」の中から、またもう1曲聞いてもらいましょう。アルバム『3、2、1ヂルチ』の中から、えーとね・・・あ、そうだ、この曲、次の曲はですね、もしかしたら「X
JAPAN」のいちばん新しいダリアのアルバムを聞いたこと、あるんだったら、ちょっとびっくりするかもしれません。聞いてください。「ヂルチ」で『ワッツ・アップ・ミスター・ジョーンズ』
えー、「ヂルチ」で『ワッツ・アップ・ミスター・ジョーンズ』でした。
えーと、LAでレコーディングしてても離せないのがやっぱりマックなんですよね、インターネットのためなんですけども。何だかんだいっても、毎日インターネットで自分のホームページのメンテナンス、メンテナンスというか、交信なりとかしようかなあとか。掲示板があるんですけど、私のところは、たまにパニックになってるときとかあるんで、なんか1日も目が離せないっていうのがあるんですね。駅の掲示板みたいなんで、わりとどうでもいいようなこと書いてる人もいれば、何かこう、意見の交換をしてる人もいるんですけど。たまに大パニックになってるときとかありますしね。で、あれですよね、顕著だったのが、パニックじゃないんですけど、「X」が解散して新聞に引退公演があるみたいな話が出たときとかも、『えー、そういうのあるんですかぁ」みたいのがダッーと書かれてて、「や、聞いてません」とその場で言える所がけっこう面白かったりしますよね。んー、だから、もともとインターネットで何かやろうかなって思ったのが、どっちかっていうとね、パソコンやろうとかって僕、嫌なイメージだったんですよね。何か暗いジメジメしたイメージがあったんですけど、始めてみたら、もう、本当面白くてね。ただ、今は本当、投資ですよね。何ができるのかわからないところが、まだなんかいろんなことやりたいって思ってるから、まだいろんな失敗もこれからもするだろうし、僕のホームページなんかも、問題がいっぱいあったりなんかして。僕自身もすごい問題が・・・酔っぱらってムカついたことも書きまくって、その後、自己嫌悪に陥ったことも何度かありましてね。だけど、まあツールとしては、もう素晴らしいツールなんで、これからも冷静に使っていきたいなぁなんて思っておりますが。ページに来て頂けますと私にダイレクトでメールとかも送れますんで、あの誹謗中傷のない程度にとどめて頂けると幸い・・・これ幸いかなあと。えっと一応アドレスなんかも言っときますけど、あの、小文字でWWWので、えーと小文字でhideドット、ライブ、ドットcoドットjpですね。wwwドットえーとハイフン、ごめんなさい、ハイフン2つ、2本ですね。斜めハイフン2本でhideドットライブドットcoドットjpです。遊びに来てくれてもいいですよ。
www//hide.live.co.jp 』(hide回答終わり)』
2007・07・06 逍遥のエックス(67)
(コメント):3箇所「ドキッ!」としましたね。してやったり的な部分が『イベントとかって、よくバンドが複数出ても、そのお目当てのバンド以外はくっちゃべって座るっていうのが多いじゃないですか』と『LAでレコーディングしてても離せないのがやっぱりマックなんですよね、インターネットのためなんですけども。何だかんだいっても、毎日インターネットで自分のホームページのメンテナンス、メンテナンスというか、交信なりとかしようかなあとか。・・・まあツールとしては、もう素晴らしいツールなんで、これからも冷静に使っていきたいなぁなんて思っておりますが。』。予言的な部分が『体の続く限りやります。僕は果たしてこなせるんでしょうか?っていう、今年の課題というか、今年の不安というか、同時進行でです。全部同時進行でやります。もういいんです。俺なんかどうなったって。』
音楽未来形としては、んー、イベント未来形でもありそうですが、バンド演奏の合間とかお目当てバンドまでのつなぎの時間の、お客さんの手持ち無沙汰をどう解消してゆこうかという解決策を、『ライブ見てない間もちょっと遊んでいられるスペース』を作ることによって飽きさせないことにしようと考えた。この発想、将来的にはパソコンの『ツールとしては、もう素晴らしいツールなんで、これからも冷静に使って・・』というツールの可能性の中に見い出していったはず。お客さんの合間の『くっちゃべっ』は、とてもくっちゃべっしてる間を与えない連続のステージメイクが作り出されていたと思うし、hideのことだからもっと奇抜な発想で楽しませていただろうに残念。ステージの合間のあの野放しな時間帯、『僕、それが嫌で』MLJを始めたが、そこに問題意識を持っていたというのが、ちょっと私嬉しかった。複数バンドの出演でも1バンド半時間のステージがあって、次バンドの入れ替えに20〜30分がどうしても空いてしまうこの時間帯を、どうお客さんを飽きさせず楽しますのか、ここの解決策を見い出したらさらにお客さんは満足してくれるはず。そこにhideも気付いていた。改善策を考える時にきているんじゃないかと私も思うわけです。便利なツールを使いこなせば容易に解消できる問題になってきているんじゃないでしょうか。パソコンでバンドのHPを作ることはもう常識。バンドの会報やライブ情報、イベントチケットの案内など、自宅から直接コンタクト出来るのはありがたい。YOSHIKIのアメリカのライブ、完全じゃなくても見られる時代になった。「i−phone」もアメリカで発売になり、音楽・映像配信が可能なら、ライブの生ライブ配信も可能になるはず。有料支払い済みのパスワードを頂き、それを入力すれば1回だけ見れるようにすれば自宅でも見れる時代が来るかもしれない。いろんな問題が解決されてこうなったらいいなあ。そうなると会場に行く人が少なくなるから、会場参加者にはさらに特典をつけて優遇してもらって。将来会社の仕事や転勤、海外バンドツアーの追っかけ不能、自分の病気や家庭の事情など、参戦できない事情は山ほど出るが、こういうサービスが開始されればどこにいても見られる訳で、素晴らしいツールの恩恵、ライブと自宅の関係で発展してもらいたいと思うのは、私だけ??。
予言的なhideの発言は、それが2週間後の話でもあるだけによけいビクッとします。『体の続く限り』『果たしてこなせるんでしょうか』『今年の不安というか』『もういいんです。俺なんかどうなったって』。将来のこれだけの夢を語り、同時進行のプロジェクトをいくつも抱えながら、『面白いものが面白い』と思ってるうちにやろうというコンセプトだったのが、面白いものが多く重なりすぎて、一つの体、やっぱり無理が体の疲れに及んでいったのだろう。ちょうど1年前の4月20日でしたか、TOSHIの脱退でしょ。それからちょうど1年、XJAPANのことや解散後のhide自身の進路など、大きな気苦労が見えざる疲れとしてたまってきて、体の筋肉痛や疲れやすさにつながったのだろう。将来の軌道が着々と出来上がってきた中での、気のゆるみ、無防備。大きな困難を乗り越えた先のちょっとしたことでつまずくような余震の倒壊、なにかいたたまれないですね。ほんとに楽しいことが続いていた筈なのに・・・。
2007・07・07 逍遥のエックス(68)
1998年4月17日(金)第2回hideのオールナイトニッポンRの「NRN11」は「<現在のhideの考える音楽未来形(2)
*自分の楽曲を説明しながら・・・ 〜スパイダー』(2'20") M ピンクスパイダー/hide with spread Beaver
〜します』(0'50")」となってる。hide自身の楽曲を説明しながら、音楽未来形を話してくれるらしい。私の中のhideとしては、前回はインターネットやパソコンの機能を利用した音楽未来形、いわばハード面を話しましたので、今回はhideの曲作りのソフト面、音や歌詞にこめるメーツセージのことについて話してみようかと思っています。自分の音楽を必要としてくれる人へのメッセージを、どう考えで発していこうとしているのか、その辺を語ってみたいと思います。
“Xのレコーディングの合間を縫って、92年ごろからソロツアーを始めました。僕が遊んでいる“部屋”にみんなにも来てもらって一緒に遊ぼう という単純な発想でしたが、hideの部屋と言うイメージに、僕自身のこれからの未来に伝えたいメッセージを込められたら という思いもありました。大袈裟になることは嫌いですので、あくまでも遊びの中でやりたい思いでしたが、ではどんな遊びで となるとミクロマンでは大人気ないし、一緒の遊びがなかなか思いつかない。じゃ、みなさんを僕がマスターになってお招きするという形にして、ご招待のお客様をおもてなしする中で、遊んでいただいてはどうかな と考えまして、カフェラサイエンスの店長松本を考えた訳ですね。優雅な雰囲気の中で、ショーをするように僕の音楽も楽しんでもらい、何かお遊びするのも店長の発案で、いろいろできる形にすれば臨機に応じてできるんじゃないかと考えたんですね。“hideの部屋にようこそ”というフレーズで、なにか魔法の館、不思議の国の館にお招きして、現実を離れ、日常を離れて今宵ひとときを楽しく夢みていただく、そんなイメージを描いたんです。その世界に導くお客さんには、普段の生活のストレスやうっぷんと引き換えにリフレッシュと包み込むやさしさを持って帰っていただく。しおれた心を生き返らせ、たくましく成長する息吹を抱いて帰路についていただく。遊びに来ていただいた方が気持ちの上でますます元気になり、僕の音楽が、そんな元気の素になれば素晴らしいこと。hideの部屋に来ていただいたみんなには、もっとパワフルに人生の闘志を掻き立て、突き進んでもらいたい。
KISSが好きになって、ギターを始めるようになり、ステージをやるようになり、世界にここだけのオリジナルを目指し、自分のやりたい事を突っ走って来ましたが、みんなの応援のおかげで僕の立場ができてきたように思います。みんなの応援があればこそ、僕はここにパーソナリティとして話すこともできる訳で、僕への励ましはひしひし感じています。いい音楽をみんなに僕自身が作って提供して行くのはもちろん、巷に埋もれたいい音楽も発掘してお届けすというのも仕事ですが、僕は応援してくれるみんなになにか精神的なバックボーンの砦(とりで)のような立場にいたいなぁと感じています。応援されるばかりじゃなく、僕の必要な時はいつでもそばにいられるような、僕もみんなの応援者になって共に歩いていく という形にできたらと願っているんです。僕の音楽を聞いてくれる世代は主に10代20代の方が多いようです。受験や恋や社会へ挑んでゆく年代、なにか力になってすべてがうまく進んでもらいたい。夢を見てもいろんな事情で挫折があるかも知れない。挫折に当たって、そこからが本当の出発だということですね。渾身の努力、痛みと悲しみ、絶望と途方に暮れ、行き先もわからない状態になって始めて出発ですよ。そんな時にまた、ふと、やってみよう、挑戦してみよう、そんな復活の芽生えが叶うような音楽を作っていきたいし、歌詞のメッセージにもその思いを込めたいですね。誰もいなくなった中で、そっと癒してくれる部屋、そっと元気をくれる部屋、挫折に何度会っても不死身のように芽を吹いてゆく気持ちの回復、そんな音楽そんなメッセージを僕は込めて行きたいんですよ。病院なんかではモーツァルトの音楽の脳へのいい効果を認めてよくかけられていますが、音楽の持つ不思議な力を、僕は聞いてくださるみんなが元気になれるような、落ち込んでもいろんな失敗があってもまたやってみようと立ち上がれるような、なにか力を与えられる不思議な音楽、世界にここだけ(hideの部屋)しかない音楽、ソフト的にはそんな側面を持った音楽を音楽未来形に見ているんです。”
2007・07・09 逍遥のエックス(69)
(hideの回答):『えー、僕的な旬、音楽の旬ていうのは、今は停滞期ですね。特にこれっていうのを人の作品に見当たらなくて・・・日本のバンドではたくさんあるんですけども。もともと僕は、「X」に所属してる時代から、ソロをやり始めて、バンドを作ったわけじゃなくて、ソロだったので、やっぱりメンバーがいないワケなので、対マシーンということになってしまって。で、そこで、思いついたというか、やり始めた方法論ていうのが、自分の弾くギターであるとか、生モノをギターでやるとか、ボーカル・プラスコンピューターっていうものでやっていって、結局、今に至るわけなんです。けども、これからも僕は、この形態はたぶん変わらないだろうし、人間のグルーヴと機械のグルーヴっていうので物を作っていく、ロックを作っていくのは変わないんだろうなあと思うんですけども。で、わりと何でしょうね・・・日本のくくりの中でいえばですね、「ビジュアル・ロック」だとか―「ビジュアル・ロック」とは音楽のことさしてませんから、僕は「サイボーグ・ロック」ってのを提唱してみようかなあなんて思うんですよ。これも果たして音楽のことを言ってるかなってのは、はなはだ疑問なんですよ。ちょっと口からでまかせしてみようかなぁなんて思って、“流行った、流行った、こりゃ面白ぇ、こりゃ幸い!”みたいな。ていうかですね、洋楽聞く人でもインダストリアルっていう分野っていうのが、あんまり日本では芳しくないじゃないですか。インダストリアルっていうくくり自体、僕もあんまり好きじゃないんですけども。へビィロックでもいいし、ハードロックでもいいし、パンクロックでもいいし、どんなくくりでもいいんですけども、「サイボーグ・ロック」ってのをとりあえず、向こう2週間ぐらいは、ちょっと言ってみようかななんて思います。そんな感じで、その「サイボーグ・ロック」・・・これも「サイボーグ・ロック」だと思うんですけども、えーと今回の僕の5月13日に出るシングル『ピンクスパイダー』。これも「サイボーグ・ロック」顕著ですね。わりと人間のグルーヴとドラム・・・「スプレッド・ビーバー」のジョーと、「ゼペット・ストア」の柳田、2人が叩いてるんですけども。それプラス、コンピューターのドラムと私のベースと私のギターと私のボーカル、そんな中で繰り広げる「サイボーグ・ロック」を聞いてください。「ヒデ・ウィズ・スプレッド・ビーバー」・・・『ピンクスパイダー』。
「ヒデ・ウィズ・スプレッド・ビーバー」で『ピンクスパイダー』。えーと、私、たいてい曲を作るときはですね、対コンピューターとかいいましても、作るのは、アコースティックギターで弾き語りのように作っていきますね。それをいっしょに「スプレッド・ビーバー」の“I.N.A"と、“I.N.A”がドラムのルートを流したりとかしてくれる中で、僕が弾いて歌って、歌物として作っていくことがすごい多い。それで両方録ったものを機械と混ぜ合わせたときに、いい感じになったときは、だいたい曲ですよね。だから、普段は本当に何にもしてないですね。本当、ノンベンだらりと、もう飲んだくれオヤジですからね。本当、普段何にもしてないですから。ただその普段何もしなさ加減がイザ、こういったときに、どのような、このロックンロールのマジックになるのか、楽しみだったりします。』(hide回答終わり)
2007・07・10 逍遥のエックス(70)
(コメント):『僕的な旬、音楽の旬ていうのは、今は停滞期』。hideが停滞期と思っている原因は、なんだったんだろう。本来のヘビメタロックが作れてないという認識だったんでしょうか。対マシーン、対コンピューターを相手に作り出す音楽の手法は、これからも変らないと言いつつ、今回特に「サイボーグ・ロック」にこだわっているような口ぶり。今、ロックにつけられてるくくり方では「ビジュアル」「ヘビィ」「メタル」「パンク」に、洋楽聴く人の「インダストリアル」も含め、hide自身としては、口からでまかせ「サイボーグ・ロック」を提唱してみたいと考えていたようである。“サイボーグ・ロック”というイメージは、筆者としては、hideが子供の頃遊んだロボットの発する音や動作のロックへの加工というイメージでしたが、口からでまかせならぬ気から出まかせで、お遊びでGoogleの検索にかけて見ようと思い立ちました。何が出るかな、何も出ないじゃろうな と出てきた画面の見出しは「宇宙戦隊NOIZサイボーグロックショウ完全版」「サイボーグロック−Wikipedia・・・サイボーグロックとはhideがINAが確立したロックの新境地である。hide曰く、機械音と人間の奏でるサウンドの融合を目指したもので、hideの作品である『ピンクスパイダー』はサイボーグロックの最高傑作であるといわれている。・・」。さらに下の見出し「hide」となっているところには「例えば映画とかに出てくるサイボーグというのは、人間の形をしているから人目には人間なのか、サイボーグなのか分かんないじゃないですか。そのマシーンだということが分かんないところを目指しているんで、“サイボーグロック”って僕は呼んでいるんです・・」という短い解説。さらに進んで各見出し項目の中に入ると、Wikipediaの方は、同じ解説しかないが、hideの方に飛ぶと「BACK
IN TIME」のタイトルにhideのピンスパ写真にインタビュー文が続いてる。これは『J-Rock
magazine』という1995年から2000年(この年8月号で休刊)にかけて発売された雑誌のバックナンバーのおいしい部分の大公開となっていて、hideのインタビューは98年6月号に載った記事らしい。記事無断転載禁止の注意があるが、たぶんこの年4月に取られたインタビュー内容、“サイボーグロック”という言葉に関係して垣間見ると、『ピンスパ』に関しhide自身がどんなサウンドを目指すかの問いに『サイボーグロックという言葉を最近よく使うんですけど・・聴いた感じが生ドラムとマシーンという印象を受けると思うんですよ』。作り方がJoe
とゼペット・柳田『2人のドラマーに普通のドラムをたたいてもらって、それを合体させて1つにまとめてあるんです。それでまずドラムを作って、その後に16ビートのシャッフルをマシーンで刻んで、そん2つが合わさって初めてこのグルーブが生まれるという“サイボーグビート”なんです』。生の音楽と機械の音源とが合わさって生まれるこの音楽は『シャッフルとかのハネは機械でなかなか作れないんで、おもしろいんですよ。だから、人間臭いところと機械の正確なところの真ん中ぐらいのところでやろうということで“サイボーグロック”だと』。ソロの時からメンバーがいないので『相手がドラムマシーンだったり機械だったり』で、作業上結構クセになってて、本来バンドがあるべきですが、バンドがあっても『コンピュターは欠かせない』。でも『普通の素人の人が言う“コンピューター音楽”とは違う。例えば映画とかに出てくるサイボーグというのは、人間の形をしているから人目には人間なのか、サイボーグなのか分かんないじゃないですか。そのマシーンだということが分かんないところを目指しているんで“サイボーグロック”って僕は呼んでいるんです』。人間かどうかわからないサイボーグ流で言えば、音を機械で作ったかどうかわからない音楽が、サイボーグ音楽。マシーン(機械)とかコンピューターを使いながら、生の音楽と融合させて、機械の部分をわからないように加工してゆく音楽がサイボーグ音楽。機械で作るが機械の部分を極力隠してわからなくする音楽がサイボーグ音楽。・・・わかったことにしとこう。マシーンやコンピューターにこれだけ興味を持って、音の出し方作り方に腐心していた彼が亡くならなければ、このサイボーグ音楽は、想像できないくらいおもしろいことになっていたはず。ひとりの有名なロックミュージシャンがなくなっただけではない永遠に失なわれてしまった“音”がいとおしい。
2007・07・11 逍遥のエックス(71)
1998年4月17日(金)第2回hideのオールナイトニッポンRの「NRN12」は「後TM
CI〜
〜さよなら』(1'21")」となってる。本日の放送もタイムアップ。前回の“口から出まかせ”サイボーグ・ロックの提唱の話もありましたが、私の中のhideさんは“口から出まかせ”ばかりのオール出まかせ。でも、ちょっと“ほんま”かもと納得があったかもしれません。それは読んでくださる方の心理状態一つで、真実にもなり嘘にもなって姿を変えたことでしょう。今回も放送の締めくくりとして、私の中のhideさんは、何かを語らなければならないわけで、実は先程まで語っておりましたパソコンが、重要情報のダウンロード→インストール→シャットダウン→再起動の動作を勝手にやりまして、消えてしまいました。嘘と真実の話の佳境でもう少しで終るというそんな時に、重要情報とは運がなかった。逃げた魚は大きいのたとえの通り、いい話だったのに・・・。気落ちを建て直し、再度書こうと思いますが、テンションが下がってしまい
ました。うらみつらみでも述べてください、hideさん!
“私の話が消えてしまったと主人がのたまっておりますが、もともとでたらめ出まかせの類でしょ、たぶん話の内容より、書くことに要した時間がもったいないんでしょうって。僕の話は、主人には内緒ですが、はずればかりで為にはなりません。僕のラジオの話を、予想して当てるという試みの努力は買いますが、大はずればかりで落第ですよ。ちょっとこの辺で飽きてきましたので、再度勉強して出直して頂きたい所ですね。あと2回の放送分が残っておりますが、もうちょっと時間を置いて、再度挑戦してください。それの方がまた変った発想でいいでしょう。それにしても今まで多くのインタビューを受けてまいりましたが、すべて身構えるというか構えの心理がありました。でもこのラジオ放送は、何もかもしゃべっている感じで、自由にしゃべれるという時間は、実におおっぴらになってしまいますね。「語るに落ちる」とかいいまして、問い詰められると用心してなかなか白状しないのに、勝手にしゃべらせると、うっかり本当のことを白状してしまう という状態と同じで、障害がないとどんどんしゃべってしまいますね。よくお酒を飲めば本心を言う って話も聞きますが、それも障害が取り除かれた状態になったからでしょうか。大きく言えば言論の自由とは、人間を解放するいい原則ですね。難しい政治や法律の世界に入るつもりはないですが、自由にしゃべれるというのは、これは大事に思いました。で、長い時間、おつきあいいただきありがとうございました。お聞き苦しい点、多々あったかと存じますが、ご寛容を。今日の放送はこれで終わりとさせていただきたく存じます。ではバイバイ!”
(hideの回答):『えー、今夜も、そろそろお別れです。あの相変わらず、拙いしゃべりにおつきあいくださいまして、ありがとうございました。私はまだロサンゼルスにおるのですが、えーと、このエルニーニョの空気は伝わっているのでしょうか?また来週も「オールナイトニッポンR」はロスからお送りすることになります。で、ですね。あの、苦情その他、かけたレコードでもう1回聞きたいなあなんてのとか、あとですね、“俺の知ってるバンドはこのくらいかっこいいんだぞ、この野郎!”っていうようなバンド教えてくれたりなんかすると、嬉しかったりとかはしますよね。えー、宛先は・・・ハガキ頂きたいと思います。宛先は・・・
〒137−8686ニッポン放送ヒデのオールナイトニッポンRまで
おハガキくださると嬉しいと思います。励みになります。あの、初心者の私にはですね、お前、滑舌悪いとか、耳障りだとか、寝られやしねえじゃねえかよとか、何でもけっこうでございます。お寄せ頂いたら、あの苦情のお手紙とか、その場で燃やしちまいますんで。よろしくお願いします。では、というわけで、また来週も金曜、深夜3時に、えー、あのー、また必ず聞いて頂けると嬉しいかと思います。じゃ、今夜はこの辺で。私、ヒデがロスからお送りしました。それじゃ、さよなら.』(hideの回答終わり)
第2回の放送分まで終りました。あと4/24と5/1の2回分が残っております。この2つはまた気の向いた時にやりたいと思います。逍遥のエックス、次にさまよい歩く先は・・・私にもわからない。
2007・07・12 逍遥のエックス(72)
「逍遥のエックス」を始めたのが4月22日。Xの話題が少ないことにやるせないなら、自分で作って愉しもう みたいな発想であった。その後YOSHIKIのイベント出演の話題やXJAPAN
TOKYODOME
DVDの発売が決ったりで、気持ち的には少し潤っている。館山のことを書いて、5月からhideの話になって、ここらでまた逍遥して、どこをぶらつくか。得体の知れない男の話でも、創作しようかと思っている。自伝がついに発売になるという。9月か12月だろうか。YOSHIKIが唯一信頼した小松成美氏がライターとなって、どんな自伝になってるか、興味津々である。幼少の思い出、小学校のことや衝撃の出来事、非行に走った中学校やバンドを始めた中高校生活。Xの結成や87年のメンバーの固定、爆発的な人気と怒涛のツアーの模様、ライブの中止やYOSHIKIの故障、海外進出の野望、ロスでの定住、メンバーのソロ活動とXJAPANレコーディングの日程齟齬、不協和音の芽生え、XJAPANの解散、hideの事故、活動停止、活動の復活・・・などについて、時系列で活動や事柄への思いや考えを述べたものになって行くだろう。大多数のYOSHIKIファンやX
ファンが購入することを見越して、その不安や期待をうまくファンの心理に収まるようにライターは腐心して記述されてると思う。感動的な場面も多く登場して、英雄のような記述になってるかと思う。商業的なベースに乗った出版物である為、そう書かざるをえないし、そういう内容にせざるをえない制約が付きまとっている。しかし得体の知れない男の物語としては、ありきたりの自伝では不満が残ってしまう。青汁のテレビ宣伝に「あーまず、もう1杯」と言う文句があった。逆説的な効果で際立たせる売込み宣伝、商品は買わなかったが宣伝文は頭に残った。そんな何かひねりをくわえた、一味違った自伝を、得体の知れない部分として密かに期待するのである。その自伝の内容を、あれこれ想像するのはおもしろいとは思ったが、本に書かれていることは、本当のことでありながら本当のことでないという部分も多いはず。商業的であり、芸能人自伝であり、人気が出る要素を誇張的に取り入れても下がる要素は極力選別省かれる。YOSHIKIのこれまでの折々の活動や事柄を、もっと掘り下げて、どういう理由でどう考えるのが常識的範囲になるが、逸脱範囲に隠されたYOSHIKIの深層心理を探ってゆく、そんな試みにちょっと興味が湧くのである。YOSHIKIは、ある時点から自分の経歴を「X」として語らなくなった。それはどういう心理からか。邪魔臭くなったのか、Xとしておく方が神秘で何か現在の得体の知れない怪物のようなイメージの方がいいと思ったのか。必ずそうする理由がその前の行動や言動にあるはずである。YOSHIKIの思考傾向、その心理の移り変りの要因、考えてることなどを、彼が動く行動、ここには嘘はないと思うがこれにもいろんなカモフラージュが含んでいるかも知れない行動の中に、探って見たいなぁと思うのである。至って独断的な切り口、偏見にあふれた内容になるかと思いますが、YOSHIKI自伝仮説、もう一つの隠れた自伝、その深層心理を探る!という看板を、あげないで隠したままで、そっと趣味的に始めたい。たぶんに逍遥的であろうかと思いますが、思うが侭に書き綴りたいと思うのである。あくまでも筆者はYOSHIKIに好意的に書くつもりでいる。XやXJAPANのファンであり、メンバーのファンである為、敵対的な記述は出来ないという制約が出てきてしまうのである。厳しい部分も書くかもしれないが、YOSHIKIの苦しい心情をいろいろ想像しながら、時には自分のプライドを保ちたいYOSHIKIの心情を汲んで行きたい。芸能人に厳しい忠告をする細木数子も、この前の番組のYOSHIKIへの態度、いつもと違うぞ というファンの心理、なんで悪いこと書けますか。
2007・07・13 逍遥のエックス(73)
三児の魂百まで―幼い時の性質は老年まで変らない。そんな言い伝えがよく言われる。YOSHIKIの性格を形作っているものの原形が、そんな幼少の頃に出来るとすれば何が考えられるのだろうかとふと考えてしまう。ちょっと無謀な性格・・・とことんまでやってしまう性格がどこから生まれたのだろうか とか バリバリバリューのYOSHIKI邸訪問の台所、ワインセラーの横の棚にYOSHIKI人形があって、『僕、リカちゃんファミリーなんですよ』とYOSHIKIが一言いう下り、あれっ?と思ったのである。YOSHIKIがXで使用したライブ衣装のドレス類は、リカちゃんドレスへの憧れだった?。hideのビジュアル衣装や化粧とYOSHIKIのドレス衣装や化粧の動機は実はちがう所にあった と考えられなくもない。しかし、姉妹がいるわけでもないのに、女の子の遊びのリカちゃんに触れる機会がそもそもない。ではなぜリカちゃんファミリーになる状況があったのだろうか。女の子の遊びに憧れる、そこに興味を抱く性格的なものがどう形成されたのか、闇が広がる。幼少の頃の両親の子育てのやり方やお家の商売(一応呉服屋となっているが、地元の飲み屋に入った時に聞いたママの話は、同類だがちょっと違った商売名を即座に言ったのは以外だった)や、お母さんの趣味や家の前の産婦人科の関係やいろんな要素が考えられる。男性的な無謀な性格に女性的なかわいさの憧れという相容れないものが同居してるYOSHIKIの人物像は、ロックの激しいドラムにクラッシックのピアノが入る曲作りのように、何か合わさるはずもないものが組み合わさってるような、そんな印象が漠然としてくる。X時代対バンのバンドが打ち上げで『外見が女っぽいでしょ。それでライヴ終った後に対バンの奴らと一緒に飲みに行ったりするじゃない。そういう時、結構からまれるんですよ。東京に出て来てからは喧嘩するなんて思ってなかったんだけど、やっぱり「どうもどうも」みたいに飲んでいるうちに、なんかだんだん頭にきてドカーンと爆発する。だから、みんな俺のことをいちばん怖いって。一見、見た目は男の子って感じで、コロッと変ると鬼になるから。それでみんな、俺と喧嘩した奴らがかわいそうだみたいに言ってましたよね。「ヨシキはわからないからな。外見じゃ」とか言って。なんか俺の中にもうひとり別の俺がいるんですよ。とても凶暴な、普段は眠ってるんだけど何かのきっかけでバーンと飛び出してくると変身する。・・』(『月刊カドカワ』1992年1月号p132〜133)2重人格的なYOSHIKIの人物像。そういう性格は、三児の魂が育てられるなかで出来ていたんじゃないかと想像してしまうのである。その性格から生まれる感性なぜかXを愛するファンに受け入れられ、hideのビジュアルと結合して、大きな文化になってるようにも思う。漫画の世界からの影響もあるが、Xの音楽が熱烈に支持されることの動きが、その衣装やメイクも支持されるという流れとなって、若い年代に受け入れられていったと思うのである。そしてアメリカでオタコンやアニメイベント、フランスのジャパンエキスポ(マンガコスプレが大人気とニュースでやっていた)にYOSHIKIが参加するという当然なのか偶然なのか、時代はYOSHIKIやhideの感性の方向に世界が目を向け始めてるという思いもする。ファンの我田引水的見方かも知れないが、そんな感じがしないでもない。YOSHIKIのリカちゃんファミリーへの幼少のきっかけ、幼少の頃の育ち方に、彼を形作る何かが潜んでいると仮定して、ここに想像を掻き立ててみると・・。
2007・07・14 逍遥のエックス(74)
リカちゃんファミリーにリカちゃん憧れのロックスターとして登場した「スターライトYOSHIKI」。奇麗なドレスやかわゆい瞳に憧れの視線を集めるリカちゃんが、あるロックスターに憧れるそのロックスターがYOSHIKI。スターライトYOSHIKIの発売が正式に告知されたのが1992年7月30日(『イヤーズブック』p111)、すでにお姫さんドレス乃至はシンデレラドレスでのステージやテレビ出演をしていた事を考えると、YOSHIKI自身は自分のキャラクターグッズとして、タカラ側からはYOSHIKI人気にあやかるべくリカちゃんファミリーといううたい文句で「スターライトYOSHIKI」が誕生したのではないだろうか。詳しいことはわかりませんが、リカちゃんファミリーに入ることでYOSHIKIの衣装や化粧がリカちゃん同等の憧れにもなる。ロックという荒々しいイメージとは逆の姫とかシンデレラというビジュアル的な象徴を持ってくることの発想は、普通は及びもつかない。なぜそんな発想が生じたのであろうかという疑問が出て来るわけです。ファミリーという言葉にヒント的なひらめきが生じて、なぜあそこまで男なのに美しく化粧できるのでしょうか。衣装もヘアーと合わせて芸術的です。YOSHIKIが初めて化粧したのが高校生の時らしい(『XJAPAN伝説』p46)。このときYOSHIKを見た友人はそのキレイさに見とれたという。やや誇張があるとして、にわか化粧ではお笑いの種になったところだが、どうもそうではないらしい。さらに「YOSHIKIのメイクは、女性でもなかなかうまくできないところまでクリアーしています。YOSHIKIはどうやって、あれほどまでの色気を出すことが出来たのでしょうか。メイクの研究をしようと思ったら、まず女性雑誌の特集記事を読んだり、コスメティックの売り場へ足を運んで、販売員がメイクしているのを観察するとかでしょう。それとも身近にいる、例えば母親がメイクする姿を子供の頃から観察して見よう見まねで化粧していたのでしょうか」としてアマチュア時代は見よう見まね説がいちばん近いと言う(『XJAPANの超真実』p116)。本来男性にはほとんど興味がないところを女性よりも上手に出来るぐらい長けたというのは、本人の進んだ興味がないと出来ないのではないでしょうか。女装的な衣装や化粧は、役者や旅芸人を職業とするような人以外はなかなかうまく出来ないはず。YOSHIKIは並外れてうまい。彼の本来の趣向として、そういう事に興味があったのかなぁと想像するわけですが、もちろん「“バンドを有名にする為なら、何でもやる”」「売れなければ仕方ない。売れなければ、単なるカスなんだ」「少しぐらい笑われることは、どうでもいい。とにかく有名になること、そのためにはとにかく名前を売ること」(『伝説』p55〜56)の為に、こんな戦略を考え、実行したのかもしれない。しかし、それではにわか化粧や衣装はアンバランスなヘタなもので、女性のそれ以上にはなかなかならないはず。好きこそものの上手なれで、幼少時ひ弱な彼が、お母さんとべったりの生活をしたとして、化粧や呉服の仕事で見るきれいなものに、子供心に興味を持ったその感性が、バンド活動の注目の為に芽生えたという一つの仮説、どうなんだろうか。
2007・07・15 逍遥のエックス(75)
4〜5年前、館山を訪れた。平坦な土地が広がって、開放的な明るい感じの土地柄であった。市街を外れて国道のバイパスが作られ、ここだけ歩道も備えた大きな道路であるが、市街を通る国道は、軒を連ねた家の中を、道路幅の白線で車と人の住み分けがある道路である。東京方面から来る国道27号が、バイパスが出来るまで本来の国道として南進、JR館山駅の前を通過して交差点で房総半島東へ向かう国道になって行く。交差点から南進するのは国道で房総半島南端へ通じている。交差点は国道筋の終始点という要所であり、JR館山駅も近くにあるという立地にも拘らず、にぎわいに満ちたという感じではない。お店や銀行などがあるとはいえ、町の中心地ではあるが、どこかひなびたバブルにも踊らなかったという風景である。その中心街から離れるにしたがって、国道に並ぶお店も個人経営という感じが多く、昔の屋号なんかもあって、商売の田舎町という風情である。国道から市街の住宅地に入ると、どこにでもある静かな家屋が並ぶ居住地域で、マキの垣根や小さな塀などを備えた家屋が程よく続いていて、とても立て混んでいる状況ではない。YOSHIKIの家は、交差点から離れた閑静な住宅地の中になり、館山市街でいえば中心地域に入る地域で、小さな病院やクリニックもあり国道少し入ったところにある。道路が前を通過、少し行って角を曲がれば交差点へ直進する同街路が続き、塀囲いのマキの垣根をもつ家が近所にあったりする。普通の住宅地の中にあり、地方町のありふれた住宅地なのである。平凡な土地普通の家庭に育つ子供は、真面目な普通の子供であるはずである。街中に非行に結びつく施設もありそうもなく、住んでる人の心もゆったりとした日々の営みという感じ。堅実な両親平穏な家庭があれば、平凡な生活が続くという方程式が間違いなく成り立つ環境。その方程式が成り立たない育ち方をしてしまったYOSHIKIは、方程式の各項に特殊な要因がやはりあったのではと想像する。住宅環境に起因する特殊な環境は見当たらないとすれば、ご両親の育児方針が大きな要因に見えてくる。ご両親についての記述は多くないが、YOSHIKIが語ったわけではないので信憑性に欠けるがこんな記述があった。「YOSHIKIの父親は、気っ風がいいというか、やくざっぽくて、歯切れのいい人物だった。」「当時館山では、まさに一歩も二歩も進んだ人物だった。家業としては呉服屋を営んでいたのだが、なにしろ、生活そのものが派手。たとえば、その頃、館山ではまだ誰も持っていなかったキャディラックを乗り回し、町中を縦横無尽に走り回る。館山では、知らない人は誰もいないほど派手好きな人物だった。」(『XJAPZN伝説』p20〜21)。一方母親は、「若い頃の彼女は、まるでアイドル歌手のように可愛いかったという。いわゆる可愛コちゃんタイプで、若い頃は男性にもてまくった」「父親を失ってから・・2人の男の子をかかえて、たくましく生き抜いてきた彼女の姿を想像すると、まるで豪傑のような母に思えてくる。しかし、そんなイメージは全くなく今でも可愛いタイプの女性だ」「YOSHIKIとは、顔立ちも似ているが、“無類の酒好き”という点もそっくり。彼女は飲みだすと、2軒でも3軒でもハシゴしてしまう。音楽関係者の間では“肝っ玉の座ったブッ飛んだ母親”という評判があるほど。身勝手でわがままという性格もYOSHIKIそっくりという。“人の話は全然聞かず、自分だけで同じことを2時間でも3時間でも話し続ける”“可愛いところもあるが、自分はすごい存在なのだということを評価してもらいたがる”“自分の存在を無視する相手に対しては、嫌悪感を抱く”(『同上』p23〜24)。
2007・07・16 逍遥のエックス(76)
YOSHIKIの性格の特徴を際立たせる為の誇張が、少なからずあるように思うが、ご商売の呉服屋の主人と女房というちょっと粋のいい夫婦であったことは想像できる。1965年(昭和40年)YOSHIKI誕生から1974年(昭和49年)YOSHIKI小学4年までの期間は、日本経済の高度成長期で、団塊世代がちょうど高校大学就職という人生通過時点であり社会大量排出の時代で、たぶん昭和49年のオイルショックまでは、浮かれ好景気(一つのバブル時代)にあった時代である。想像するに田舎町の昔からの風習が依然と続いているような館山の土地柄、成人式や結婚の準備には可愛い娘に親として祝いの成人式の着物や嫁入り道具の着物をたくさん持たせることは普通であっただろう。世は好景気、時代の浮かれ気分な消費は、田舎町の呉服屋にも相当の恩恵をもたらしたことは想像に難くない。しかし、昭和48年10月の第4次中東戦争、それに伴う原油価格引き上げ、翌年昭和49年からは原油価格2倍の引き上げが決定されてしまうのである。トイレットペーパーの買占めなど、生活防衛に不安が立ちこめ、好景気引き締めに拠る公定歩合の引き上げ等の経済引き締め政策と物価上昇のダメージで、昭和49年は極寒の社会情勢になったと思われる。好景気に慣れた生活様式は見直しを迫られ、企業も個人営業のお店も消費減退、コスト増大のあおりを受け、経営の見直しとその対策に血眼になったことだろう。借金を重ねた企業や店舗は、売り上げ減少で返済が滞り、且つ一時しのぎの銀行融資も情勢の変化で銀行は急に貸さなくなったことによって立ち往生。そういう経済情勢を考えると、YOSHIKIの父親がここで行き詰まったことは、ひとり父親の派手な生活がもたらした責任というには説明不足で、社会情勢の急激な変動、半分は不可抗力とも言える戦争による原油価格の引き上げとそれまで続いていた経済引き締めのダブルパンチに飲み込まれてしまったという状況といえる。YOSHIKIの家庭も、好景気の恩恵で豊かな生活があり、可愛い子供には至れりつくせりの贅沢を施したに違いない。4〜5才からYOSHIKIがピアノを習い始めたというのが昭和44〜45年に当たり、45年が大阪万博の開催年を考えると、好景気の真っ只中。まさに好景気に豊かな家庭の習い事がもてはやされた時代だった。YOSHIKIが、ピアノのお習いを始められたというのは、まだ、普通の家庭ではそこまで習い事の一般化はなかったと思うが、家の好調な経済情勢や大阪万博前の好景気消費拡大時代、カワイやヤマハのピアノ教室がピアノ等売込み戦略として各地に教室設置を拡大、関東圏の館山にも大きな宣伝ポスターなんかで宣伝して進出しつつあった時かもしれない。偶然小学生時代TOSHIの家庭は『親父は公務員ですね、お母さんはピアノの先生』『ギター弾くにしてもピアノ弾くにしても、兄貴がやってたからお袋がやってたから・・』『兄貴がいたんで歌番組とかも流れてくるし、ピアノが家はいつも流れてましたから』(『PSYCHEDELIC
VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK』p82〜83)という家庭であったことを考えると、習い事のピアノは流行っていたのかもしれない。『ピアノが家はいつも流れてましたから』というTOSHIのお家は、ピアノを教えていた?とも想像でき、幼稚園時代YOSHIKI・TOSHIが「すみれ組」「ひばり組」で一緒だったことで2人の親も、直接には話はしないだろうが、お習い事とかのお母様方の話を小耳にして、うちは教えてる、習いに行かすわ等の雰囲気から、YOSHIKIのピアノ塾は始ったかもしれない。当初YOSHIKIは5歳からピアノを始めたとインタビューに応じているが、「裸にしたい男達」では4歳からと述べている。たぶんきっかけとしては幼稚園入園で新しい習い事を親も考えたのではないかと思いますが、幼稚園入学が1969(昭和44)年、YOSHIKI4歳で誕生日が来て5歳となり、幼稚園1年目「すみれ組」の時に始めたということだろう。始めた場所が、TOSHIのお家ならこれまた偶然びっくりだが、たぶん松田屋楽器店ショウルーム内にあるヤマハ音楽教室ではなかったかと想像する。YOSHIKIの家の前の道を北へ、国道を横切り真っ直ぐ。幼稚園登校道中の住宅地交差点を右へ曲がって行くと幼稚園、左へ曲がってすぐの所に音楽教室はあるからである。国道横断さえ気をつければ幼稚園児でも一人で通える距離である。
2007・07・17 逍遥のエックス(77)
ご両親のご結婚は、どちらかのお家のご商売の呉服商を共に手伝うという形で認められたのかもしれない。お母さんのアイドル的なかわいさとお父さんのかっこ良さがお互いを引き寄せ合い、相思相愛の形で恋愛の愛を育んだ。やがてご結婚、お産は、自宅か産婦人科病院ではなかったかと想像する。昭和40年当時は、どうだろう、お家でのお産が一般的で、病院産科や産婦人科病院は検診状況のいきさつを考え安全を期す場合にお世話になるという頻度ではなかったかと思う。いずれにせよ無事な安産で産声が聞かれた。ご両親の待ち焦がれた第一子は男の子であり、父親としては跡取りの出生に感慨もひとしお、母親としても無事な安産と待望の長男に夫の期待に応えられた喜びがあったに違いない。YOSHIKIの発言に『小児喘息だったから子供の頃しょっちゅう入院してたんですよ。小学校1年の時とか二ヶ月くらい入院してたし。それでベッドでね、「キュリー夫人」とか「ベートーベン」とか「シューベルト」とかの伝記を読んだんです。たまたま親戚に高校の先生がいて、その人がいろいろ持ってきてくれて。』(『月刊カドカワ』p129〜130)という発言に出ている親戚の高校先生にお願いしたのかもしれない。5年後に誕生する弟の光樹さんと共に、名前には『樹』という文字が入り、大地に芽生えた木の芽が根を張り、成長して大樹となるたくましい成長を込めた感じがあり、『佳』は「すっきりと形よくととのった人」(『新版漢字源』p73)という意味、弟の『光』も光を求めてたくましく成長する乃至は成長するにしたがって光り輝くようになれという意味合いに取れ、両者に『樹』を入れたなずけ親の確固たる信念を感じる。伝記にYOSHIKIが、自分の名前の由来について書いてくれてあったらいいのに。ともあれ親子3人の嬉しくも大変な子育ての日々が始った。私の実感として、楽しいというものじゃない。体力勝負という感じで、相手は言葉をしゃべらない泣き声だけの意思表示。夜鳴きでもされたら、もう大変。寝れないし眠むたいし、泣きやむまでの辛抱は一苦労、が、それですんなり寝るわけじゃない、またすぐ泣き始めるの繰り返し。夜中も昼も朦朧とした意識で子育てというのは大袈裟ではない。YOSHIKIは、どうだったのだろう。育てにくいという男の子、喘息もあったことを考えると、丈夫でよく寝てよく飲んでという育児の理想から離れていたように思う。初めての子供であり、自分達のノウハウがないから、余計な心配、余計な施しが加わって、毎日が休む暇もない疲労と気苦労の連続。お母さんはほとほと疲れた事だろう。お父さんは、仕事があるとか何かの用事があるとかで、そそくさと寝ていたに違いない。最終の引き受けがお母さん一人の手にかかったはずで、世のお母さん方の見えざる苦労は、男親には及びつかない。天気のよい日には、中央公園や海岸を散歩したことだろう。1歳を過ぎれば、呉服屋のお店にも連れて行ってお店で世話をしてもらっていたかもしれない。お母さんと片時も離れず、毎日を生活する中で、アイドル的なかわいさの化粧や香水の匂い、さらには、お店に買いに来るお客さんの化粧の匂いや生地反物の匂いに、YOSHIKIの鼻覚はふくよかな安堵をもたらしたのかも知れない。ひ弱な体を治す病院での痛い匂いに比べれば、幸せな匂いがする母親やお店の匂いは、彼の情緒の中に次第に刻み込まれつつあったのではないかと思いを馳せるわけである。
2007・07・18 逍遥のエックス(78)
YOSHIKIがもうほとんど記憶に残っていない幼い頃の在りし日。1969年4月幼稚園入園までの過ごした日々は、どんなのだったろうか。YOSHIKIに残っている、もの心ついた幼い頃の初めての記憶は、なんなのだろうか。私達も、幼い頃の記憶をどこまでさかのぼることが出来るのかという遠い昔の記憶、YOSHIKIにもあるはずである。彼の記憶の中には、楽しい思い出より、美しい風景とかの記憶が残っているのではないかと想像してしまう。彼の歌詞に出てくる言葉の感性は、研ぎ澄まされた鋭さを感じる。楽しい思い出は人の性格を丸くするとすれば、YOSHIKIの感性は芸術的で詩的な鋭さがかもす敏感な性格を想像してしまう。それは、美しいとか奇麗だとか、情景から伝わる美的な感覚に強く反応していたのではないかと、勝手な想像をしてしまうからである。もし伝記に、『僕は幼い頃、お母さんによく夕日を見に海岸へ連れて行ってもらった』とあったら、あの情景かと私は少し想像できる。穏やかな館山鏡ヶ浦湾、夕日の沈む西に向かって、一点から空は夕闇を増して行き、打ち寄せる波は穏やかに夕日の反射と戯れ、遠く海上の扉ような島影の中にまさに紅に輝く太陽がしまわれようとしている情景。彼の視線は、太陽ともまだ知らない赤く輝く物体の中に、無謀にも入って行ったのではないかと想像する。平面的な絵画の情景で終ったのではなしに、赤く輝くものの中に入って、熱い・痛いという知覚触覚と一緒に美しい光景に強く反応し記憶の底に沈んでいった?。或はまた『あの向こうの、上のお顔が白く輝いてるお山が、富士山って言うお山だよ』とお母さんに教えられた情景があるとすれば、遠くたなびく海霞の上に、突き上げられて輝く銀白の鋭利な物体を好奇の目で見続けたのではないだろうか。輝くもの、光るもの、情景の中で目立っているもの、そんなものに彼なりの強い好奇心が注ぎ込まれた?。弓なりの白い波打ち海岸に縁取られた静かな湾の向こうに、大きな船舶の浮かび上がるような船体が通り過ぎる光景でも、『大きなお船だね』と言うお母さんの呼びかけに、船の輝く白さ、すれ違う船の隠れては現われる光景に人一倍好奇心が駆り立てられていたのではないかと想像する。家の前の、お産で退院する美しい白い衣装の動くもの、新緑に芽吹いたみずみずしい垣根、近所のお寺のお堂の瓦のうろこのなだらかな曲線の美しさ、何か美しいものへの感性が日常の中で幼心を震わせていたのではないか?。美しい物を見るときには、お母さんのふくよかな香りや姿がそこには一緒にあった?。・・・これらは私の勝手な想像ですが、ちょっとひ弱だった彼の生活や咳き込みがちな苦しい一瞬から遠ざかった何気ない散歩の風景の中に、YOSHIKIはちょっとちがう鋭い感性を持って物事を見つめていたのではないかと想像するのである。お母さんに聞かなくてはわからない幼い頃の情景、YOSHIKIは伝記にどれだけ取り上げてくれるだろうか。もし記憶を辿って遠い昔が述べられているとすれば、彼の感性がどういう風にして作り上げられたのかの私の勝手な想像を、そのとき大きく修正することになるかも知れないが、それはそれで楽しい。YOSHIKIの遠い昔の記憶、どんなものが残っているのだろうか。私が見た館山の風景、YOSHIKIの近所の情景の中にもしあれば、私のたった2回の館山訪問で見た偶然の情景とYOSHIKIの記憶に残る永遠の情景とが重なるというこの奇蹟・・・はたして奇蹟は起こるのだろうか?!。
2007・07・19 逍遥のエックス(79)
今日はYOSHIKI幼稚園のことを想像しようかと思って考え始めて、急に悩み出したのである。何かおかしいのである。何がおかしいかと言うと、『X
JAPAN
イヤーズブック』によると、YOSHIKI誕生が1965年11月20日、小学校入学が1971年4月(『同』p17、p21)。幼稚園が2年保育とすると、2年前の1969年4月の入園となる。1969年4月は、どう年数を繰ってもYOSHIKI、3歳なのである。3歳で入園???。普通4歳になってからじゃないの?。この本によるとhideは1964年12月19日生まれ、hide小学校入学が1970年4月。YOSHIKIより1歳年上なので、1年前の小学校入学で合ってる。Xの他のメンバーについても、それに合った年号が書かれている。その年号の計算で行くと、YOSHIKI中学入学が11歳(1977年)、高校入学が14歳(1980年)。どう考えても1年飛び級というのはおかしいし、館山市だけ特別な入学処置というのもおかしい。YOSHIKIやTOSHIのインタビューでは、幼稚園や小中学校の話しも出てくるが、何年生とまでは言ってるが年号まで言ってないので確かめられない。どう考えてもおかしい。・・・調べていく中で、TOSHIがインタビューに答えて『そう、あいつとは幼稚園の年少のころから、ずっと同じ』(『ロッキンf』1988年11月号p92)。“年少”という言葉は、幼稚園3年保育に使う言葉じゃないのかな と気付いて、YOSHIKI・TOSHIの幼稚園は3年保育であることがわかるもの、いろいろ考えたが思いつかないし、手元の本にもその辺は書いてない。これが解決しないと前に進めない。YOSHIKIのピアノ開始も、2年保育の幼稚園の1年目で始め出したというのが自然に思うし、2年目から始めたというのは、おかしい。それが3年保育となると前提が違ってしまうし、ここを解決しないと前に進めないなぁともそもそしているだけ。うーん困った。市立某幼稚園の課程に3年保育があるかどうかネットで調べてみると、「年少」「年長」の2学年だけ。2年保育の1年目を「年少」というのなら、TOSHIの言葉の「年少」をもって3年保育の可能性を考えたが、これもなし。あー、八方ふさがり。このミステリー、どうなってるんだ?!。YOSHIKIとhideは1歳違いだからとにかく1年違いで進行してゆく。hideの年表を調べることにした。『hide
DAYS』の年表に書いてない。hideミューで書き写した年表があったのでそれを見てみることに。あっ!『1968年4月1日 聖佳幼稚園三年保育入園3年間英語を学ぶ』『1971年3
月 〃 卒園』『1971年4月1日 横須賀市立田戸小学校入学』となってる。1977年4月中学入学1980年4月高校入学となってる。『X
JAPANイヤーズブック』では、hideは1970年4月小学校入学1976年4月中学校入学となってて、1年進級しすぎている。やっぱしイヤーズブックは、もう“イヤ”!!。1年狂っているからおかしくなったじゃないか。1年繰り下げるとしてYOSHIKIは1972年4月小学校入学、幼稚園は1970年4月入園となり、YOSHIKI、4歳の時となる。
2007・07・20 逍遥のエックス(80)
なかなか西暦でのXの年表がないので、コアラブックスの『イヤーズ』にはてこずった。そのあとひょいと見た『X-JAPAN伝説』の後ろに簡単な西暦つきの年表がのっている。「1981・4 YOSHIKI、TOSHI、名門・千葉県立某高校入学」「1984・3 YOSHIKI、TOSHI、某高校を卒業」となってるので、間違いなさそうだ。この本は信用できると思って、2枚ほどページをめくると「 終章 1984年4月21日、Xは、CBSソニーから発売したアルバム『BLUE
BLOOD』で、ついにメジャーデビューを果たした。・・」と書き出している(p288)。“?” と思ったが、すぐには思考回路直結とは行かないで、西暦の記憶で元になる年号に一旦戻って、そこからメジャーデビューは1989年と考えて行く鈍さがあって、西暦で書く時や、書かれたものにはどうも思考のクッションがあって、勘違いが生じやすいとっつきにくさあり、ここから間違いが生じることになってゆくのだろうと感じた。
西暦のことであちこち調べて行く中で某幼稚園の沿革に「昭和41年4月1日・・付属幼稚園を廃止。某市立某幼稚園となる。昭和45年8月22日新園舎竣工」とあった。同じく某小学校も「昭和45年新校舎竣工(現校舎) 某所にに移転(9月)」とあった。昭和45年4月の新年度からの開校を期して工事がなされたが、竣工が遅れて8月・9月の竣工になってものと思われる。幼稚園・小学校は広大な同一敷地に建てられているので、工事も一緒になされていたものと思われる。昭和45年はYOSHIKI・TOSHIの幼稚園入園の年。新園舎での通園を楽しみにしていたことだろう。しかし、4月の完成が間に合わなかったとなると、旧幼稚園の場所が幼稚園の入学式が行われ、通学始めとなったところとなる。では、どこに旧幼稚園があったのだろうか。また元の小学校もどこにあったのだろうかという事になる。小学校については、現在某公園になっているところ、公園に入る北門の石の門柱に「某小学校」とい文字が入っていたのを覚えている。現在の小学校の前身は、この公園の所にあったと思われ、同じく某幼稚園も小学校と併設されていたのではないかと想像する。幼稚園のもともとの出発は、「某尋常高等小学校付属幼稚園」として昭和2年6月に出発したことが記されてあり、その付属幼稚制を、上記昭和41年4月1日に廃止したという事が沿革に書いてある(某市教育委員会の『某市学校教育のあらまし』の某
幼稚園の箇所P83)。公園に小学校幼稚園がもともとあり、手狭になったので、現在の所に移転したと思われる。・・・そうするとYOSHIKIが幼少の頃、お母さんに連れられて散歩に来たのではないかという公園は、現在のような樹木が植わり、原っぱのような現状ではなく、小学校と幼稚園が当時存在していたという状況になる。散歩に連れて来て貰ったんじゃなく、お遊戯や運動会などお兄ちゃんお姉ちゃんの元気な姿を見に連れてきてもらったということになる。あくまで想像なので、実際はどうだったのかわかりませんが、いずれ行く幼稚園の光景を見に行ったことは容易に考えられる
間違えた所もたくさん有ると思いますが、最後まで読んで頂いて有難うございますm(__)m