REPORT 1
2007・04・22〜2007・05・11 逍遥のエックス@〜S papa
2007.04.22 逍遥のエックス(1)
新聞雑誌音楽誌など、マスコミに登場してくれるだけでうれしくなる。良しにつけ悪しきにつけ、記事の内容も気がかりではあるが、まずはマスコミに登場してくれる事が何か元気になる基を作ってくれる。しかし、最近はそんな渇望も次第に頻度が少なくなり、ほんと寂しい感じが物憂げな気持ちにさせる。誰かもっと記事に書いてよ と叫びたくなる。10年前の4月20日は、音楽性の違いを理由にХの解散が始った日。さらにその8年前の4月21日はХのメジャーデビューの日。その2年前の1987年2月27日にhideとYOSHIKIが喫茶店で会っている。その後hideのХへの加入が実現、新しい息吹を得た新生Хは、怒涛のエネルギーを爆発させながら、日本の音楽シーンを突っ走って行った。まだまだ果てしなく突っ走るものと思っていた矢先の97年9月22日の読売東京版一面解散広告は、あまりにも唐突過ぎて理解不能であった。ファンの動揺や戸惑いよりも、それまでの数ヶ月を苦しみ続けたХのメンバー、なかんずくリーダーYOSHIKIの心中はいかばかりかと想像を絶する。むなしい空虚な日々を解散コンサートに向かわしめることもしなければならない。『僕の人生でした』とYOSHIKIに言わしめたХがなくなって、かろうじて2000年に再結成を目標に歩み始めた矢先の5月2日、あろうことか頼りのhideが突然の他界。このときYOSHIKIは自分の運命を感じていたに違いない。小学校4年の時のあまりにも衝撃的な事件に続いて、またしても自分を打ちのめす運命の衝撃。それから10年、5月2日はもうすぐ。彼は2年に渡って、大きな津波に襲われた如く、Хをさらわれhideをさらわれてしまった。何かが逆回転しだしたかのような天地仰天。他人には推し量ることの出来ない深い闇を彼は歩いてゆくことになってしまった。2000年11月YOSHIKI
PRESENT EXTASY NIGHTが渋谷ON EASTであった。彼はピアノを弾いて、彼のレコード会社のアーティスト
shiroの伴奏を勤めた。何か闇を抜け出そうと動き出しかけたようでもあった。2002年1月27・28日Хのフィルムギグが東京フォーラムであった。28日の最終日GIGが終って、『ENDRESS
RAIN』のフィナーレが流れる中、突然ステージのカーテンが上がり、その旋律を辿るピアノのYOSHIKIが登場した。素晴らしい演出であった。エンジのブレザーを着たピアノの鍵盤を弾きながらスイングするYOSHIKIの、なみだ目で客席をちら見するいたいけな姿、やっと演奏を携え、戻って来てくれたのかとうれしくてたまらなかった。涙声を詰まらせながら『今年中には、僕もステージに戻ってきます』と宣言、そう言った自分の勇気に打ち震える心の鼓動を押され切れない様子でステージを去って行った。あくる日2回目のYOSHIKI
PRESENT EXTASY NIGHTが原宿、アストロホールであった。タンクトップの姿で、所属アーティストの演奏後登場、久し振りにステージからダイビングをした。下敷きになったファンがちょっと負傷、ステージから『ごめんね』と言った。少し元気になりつつあるように思った。その歳の12月3・4日、東京フォーラムシンフォニーコンサート。素晴らしかった。『こんな大きなホールから始められること』に感謝の意を述べた。来年からは、どんどん行ってくれるんじゃないかという予感がした。天皇ご即位10周年記念奉祝楽曲、愛知博公式イメージソング、Violet
UKの進捗など、音楽活動はどんどん拡大してゆくような勢いを感じていた。VUKの楽曲のコロンビアへの納入がなされたとか言うう噂が流れたが、実際は発売はなく、自伝の発売も今度は間違いないとの出版社の話であったがこれも立ち消え、宝塚歌劇への楽曲提供、globeのメンバー加入、など散発的な活動があると言う程度になって、大きな活動の押し寄せる気運はやや引いて行った。裸にしたい男達の第1回放送もあったが・・。最近はХの再結成が元メンバーから週刊誌に記事されたが・・。ファンは待つ。が、もっと話題がほしい。それじゃХの思いつくままの話題を自分が作ればどうかな・・なんて、思ってしまった。たくさんの本があるのはあるが、読む暇もないとほってけぼり。せっかくあるのに読まないのもどうかなと思い、そんなものを見ながら自分で自分の気持ちのいい記事を作ると言うことにした。そして待とう、待とう、いつか動いてくれるだろう。
2007.04.23 逍遥のエックス(2)
Х誕生からの普遍のメンバー、YOSHIKIとTOSHIの生まれ育った千葉県館山市、どんな町か是非一度行ってみたかった。その夢は2002年10月及び翌年10月の2回叶えられた。町の様子や彼らが育った環境などちょっと尋ねてみたかった。早春には南房総の温暖な春の訪れ、秋の台風シーズンにもなると、近づく台風の進路先になる館山から実況中継がされる。「以上、館山港からでした」と波頭逆巻く波しぶきの海岸が映し出される。その館山湾(正式には鏡ヶ浦湾)は西に向かって弧を描く地形を緩やかにしならせているが、外洋には直接面しておらず、館山から南の房総半島先端を盾に内側に入り込んだ良港になっている。砂浜のゆるやかにたわんで弧を描く海岸線の縁取りの先には穏やかな海水の平面をたたえる。その視線の先には、海を隔てた大きな陸地の塊が横たわり、濃淡をおぼろげに織り交ぜた陸地の向こうには富士山が見えるのである。館山から富士山が見えるというのは、行かなければ分からないし、館山に住んでる人には当たり前の情景として語るに落ちない。館山の雄大な景観の一つにあげられるであろうこの海岸線は、かつて海水浴場として2人が訪れたに違いない。2人の自宅からはたぶん1キロも離れておらず、春夏秋には貝拾いや散歩、海水浴など気晴らしにうってつけの場所に思える。こんな場所を自然と見ながら大きくなれば、その夢も遠大勇壮になるのではないかと情操的に思ってしまう。今、自分が立っている場所(海岸線)がステージとすれば、海水平面はアリーナ、横たわる遠景の陸地はスタンド、行き交う船舶はアリーナを往来するスタッフやお客さん。向こうの富士山はスポットライトか、いやスタンド後ろの出口のドアが開かれた輝きか。東京ドーム94年12月30日、私のたった1回の東京ドームХライブ、あの超満員の東京ドームのスチュエイションがここに重なるのである。幼い彼らが親や祖父母に連れられ散歩した雄大な海岸線を、何十年も先にはその意識のない記憶がまた別の形で歓喜のスチュエイションに変わる。それだけでも夢物語なのに、さらに奇蹟と言う出来事は彼らの運命の糸を手繰り寄せる幼稚園での出会い、そしてこの海岸線から見える向こうの濃い陸地にも及んでいったことである。対岸はhideが同時代を歩んでいた三浦半島横須賀、運命の糸はここをも手繰り寄せるのである。館山・横須賀は直線距離で35キロ、hideが眠る三浦霊園からだと25キロ、浦賀水道一帯で考えれば同地域。東京湾に入る船舶や横須賀に入る艦船は、まず館山沖を通過する。hideミュージアムから見えていた遠く大きな船舶の一面は、横須賀視線と反対の視線で館山からも同様に見えていたはずである。船舶への両側の視線で一つの船舶の実像が完全に出来上がるとすれば、hideがХに加入したことによって、Хそのものが音楽性・ビジュアル性を増し、そして何よりも爆発したと言う感じがするのは、将に辺面同士が2つの視線を合わせて実像のエネルギーを爆発させた、そんなイメージが湧きあがる。何気なしに見ていた対岸の向こうに、何を隠そう自分達の将来を決定つける白馬の騎士が潜んでいた。YOSHIKIもhideもTOSHIも自分の海が続くその先に、そんな出会いのある人が住まわっていようなどこれっぽっちも考えなかっただろう。その館山鏡ヶ浦、10月の夕日は、それはそれは神秘な紅色に輝いて沈んでゆくのである。紅色とは、何も言わずとも良い。ちょうど10月安房水産高校前から見た夕日は、左前方に沈んでゆく。「紅に染まったこの俺を・・」、YOSHIKIはこの海岸線の夕日を何度となく見たに違いない。夕日の中を彼の早期の人生を襲った出来事に憔悴した気持ち引きずって、この夕日と共に焼き尽くされてもいい気持ちになったかもしれない。紅は彼の闘志の色になって、この時胸に飛び込んできた。
2007.04.24 逍遥のエックス(3)
紅の神秘の夕日を傾けるこの地は、南房総と言うだけあって、開放的で陽光の降り注ぐ町であった。初めて訪れた2002年10月、東京から部分開通の館山道を経てR127号線を南下する。道は君津市から南は2車線対向の道路となる。小さな山あいが海岸から海へなだれ込み、そこは遂道となって昔の難所を思い起こさせるような難工事のトンネルがあった。館山への往来は決して容易ではないという山あいの要害を思うと、私の抱いた開放感は難所を経た旅人にも共通の感慨になっていたかもしれない。館山市の一つ手前、館山市と市町域を接する富浦町の大房岬(たいぶさみさき)の付け根辺りでこの国道は、旧国道を左へ伸びた太い幹へ葉脈を流し込むように左折して、館山バイパスとなるR127号(新道)に入る。この大房岬は大きな弧を描く鏡ヶ浦の北の終点になっていて、付け根の位置にはこの町の中心施設、富浦町役場やJR内房線富浦駅が小さな岬の半島を蝶番のように支えている。2キロほど行くと館山市に入るや、ここは南国というやしの木の街路樹が現われる。そして前方の視界が開けるのである。視界は、上はもちろん水平方向にも開かれ、低い山すそも左向こうに引き下がり、別世界の平坦な、大部分が空間でさえぎるもののない、まぶしく光あふれる地表の大空が開放する。砂漠へ放り出されて方向を迷うように、あまりに平坦すぎて、俺はどっちへ行ったらいいのかと迷い始めた。館山市に入った。市の中心はJR館山駅前あたり、ビルが建ち、遠目にもこれだけの平坦な地形のどこかに目印の建築群があると思ったが、それがないのである。館山から富士山が見えるという館山市民以外はあまり知らないことの案内と同じように、館山の中心が何処にあるかという当地には当たり前すぎる目印も案内してもらいたい所だが、当地初訪問者には当たり前のことも分からないと言う視点、のどかな光あふれる平坦な町並みに住む人々には思い及ばないのかもしれない(案内を見落としていたのかも知れないが)。地理的には富浦町で分離の旧国道が南下して館山市街の中心を通りすぎているはずで、その東側のバイパスを通過中となれば、見えぬ市街は右側に位置し、とりあえずバイパスを右へ入る事にしようという意識が闇夜から出て来たのである。そうこうする内、直線のバイパスがわずかに向きを左へ振る裾を、信号三叉路交差点を直進している道路が進行方向に真っ直ぐ通っている。何かの旧道、右側右折必要、とりあえず入って行くかと判断、入ってしばらく、キョロキョロ目に、歩道橋記載の文字に「北条」という文言を発見。確か北条幼稚園・北条小学校がYOSHIKI・TOSHIの卒業校であると気付き、近くにいるなと判断、休憩を兼ね、歩道橋のある交差点角の喫茶店に飛び込んだ。「モンフルニエ」と言う名前の、喫茶店併設のパン工房のお店であった。進行方向交差点向こう側の左側にあり、車も止めやすい。偶然にも入ってきた道は、主要地方道富浦館山線、通称市役所通りという道であった。そしてこの歩道橋がここにあると言う偶然もおかしな偶然であった。交差点手前右側に館山市役所があって(全然気付かなかった)、市役所南側の道がこの歩道橋の交差点になり、歩道橋をはさんで西側150mぐらいに第三中学校の正門、東側150mぐらいに北条幼稚園小学校の正門に突き当たるのである。市役所通りの道幅は広くない。歩道橋を通るより走り切って横断するほうが得という歩道橋。歩道橋の先には館山警察署。造ったって誰も自由意志では通らないだろうが、市役所裏、両側幼少中学校、その先警察署となれば、行政の必然の要請というか要望と言うか、通らないが造らざるを得ない歩道橋だったと邪推してしまうのである。その歩道橋の「北条」の文字がなければ通り過ぎたことを思えば、地域には得しない歩道橋の設置の意味が私にはあったことになる。
2007.04.25 逍遥のエックス(4)
YOSHIKIさん、北条小学校の前の歩道橋、登校の時は通られてたんですか」、そんな質問を何かの機会に向けたなら、彼はなんと答えるだろう。『先生が言うもんだから・・ね』とは言うまい。機転が早い彼の頭脳は、どういう主旨の質問?、何を聞かんとしてる?、どう答えるのが最無難差しさわりないか、等を瞬時に判断して、『なければ通らなくて良いんだけど ね』と通った通らなかったいずれの事実も言わずに、仮定の話でさっさと切り抜けるだろう。次の瞬間、質問者のことは忘れて、パン屋があったなぁ、その先の小学校の入口が突然脳裏に出現してくる。「北条」という地名に入ったとなると彼らの学区に入ったと言うこと・・・喫茶店のウエイトレスのお姉さんに「北条小学校はどの辺ですか」という質問をした。「その道、東へすぐ」という答え。真横に見ている道の先に偶然にもあると言う。大当たりの偶然!、もううれしくなって、奥のパン工房にパンを買いに行ったのを覚えてる。ゆっくり休んでゆっくり行けば良いという状態にはもう問屋が卸さない。早く行って早く見たいという心理がゆっくりの休憩などせき立て追いやってしまう。幼稚園小学校併せて8年(or9年)間のYOSHIKIとTOSHIの通った道に立った。歩道橋の交差点から正門まで約150m。両脇にはわずかの民家や館山市の施設があるだけの広々とした正門前の道となっている。1mちょっとの低いコンクリート製の門だったと記憶する。レール門扉の高さに合わせた間口の広い感じの正門で、左の方には「北条幼稚園」、右側には「北条小学校」とそれぞれの位置する側に銘をはめ込んである。正門を入ったところには丸い植え込み(or花壇)があったようだ。銘板のはめ込まれた側の奥に、左には平屋建ての幼稚園、右奥には3階(4階?)建てのコンクリート校舎が南向きに建てられている。正門からは入れないので小学校はその後姿しか見えなかったが、背の高い樹木(桜だったか)の樹間の向こうに、広々とした運動場を擁し採光をいっぱい集めるよう設計された明るい校舎のように思われた。幼稚園は低い分、樹に多く隠れていた。どんな登校・登園風景だったのだろう。幼稚園バスが市内を周回していたんだろうか。集団登校の小学校は1列縦隊で通ってきたんだろうか。たぶん歩道橋を過ぎた辺りから、列は乱れて駆け足競争みたいになっていたかも。正門ゴールまでの直線の広い道路は、ほとんど学校専属の道路になっていて車も通らない。誰かが走り出すと列は引っぱられるように乱れていった姿が思い浮かぶ。ちょっと「ゼンソク持ちで、体は決して強い方ではなかった。おそらくクラスの仲間から見れば“軟弱なヤツ”の部類」(『ХーJAPAN伝説』p27)の彼は駆け出すまでいかなかったか。この小学校のロードは、生活を一変させ、またХと言うバンドを作り出す波乱の生活を背負った道でもある。彼には明るい空よりも黒いアスファルトの表面の亀裂や突起の方が、もしや鮮明に記憶されてるかもしれない。生活を一変させた小学校生活、ある時期から明るい校舎は彼にとってはむしろ迷惑な造りに変ったかもしれない。多くの痛い視線から身を避けるには、居場所を照らし出すような明るすぎる校舎やこの地域の明るさは、ミスマッチであったか。照らし出されることを避けたはずのここでの生活が、後には照らし出されることに喜びを感じてゆく生活へと変る。痛みが禍転じて快感になる。普通が逆転してどん底、どん底が大逆転して栄光、深い悲しみをもった少年の悩み・慟哭・懊悩が、音楽を媒介に人の心を揺さぶり、共感を呼び覚まし、感動を与えてゆく姿へ変貌させてゆく。そのロードがここにある道を通じて始ってゆく。
2007.04.26 逍遥のエックス(5)
市役所通りとは、通常、道幅の広い幹線道路である。が、とてもそうは思えない住宅地の普通の道。そんな道に偶然入っているとはつゆ知らず、手前には確かに税務署の道路標識があったので、官公庁の施設があるということは市内中心へ近づきつつあると言う認識しかなかった。税務署も建物は見たような見なかったような・・。市役所はすぐ横なのに完全に見落とし、市役所とは知らなかった。すなわち、市街は普通の住宅地のような景観なのである。東京の大都会の地を這う宅地造成の嵐は、途中の国道の遂道トンネルの難所が盾の山となってせき止めら、或は昔から文化物資人の往来も難所が邪魔して関東圏からは独立性を保っているような、そんなひなびた感じがする景観なのである。「館山」とは、山が衝立のように織り成し、なかなか行けそうにない土地という意味合いが含まれてるのかもしれない。一つの土地柄を「何々館」と封じて表現した、山を建物の外壁になぞらえ、山で守られた地方文化の館、それが「館山」なのかもしれない。ただ正門前に立つと幼稚園・小学校はあか抜けしたような瀟洒(しょうしゃ)な印象をうけた。地域の景観は都会風ではないが、文化面には一脈人々の意識が活発にうごめいている、明るい自由奔放な感覚、なにか館山には別の感覚が息づいているような、ふと、そう思う建物であった。人々に息づく感覚は別として、そう、とてもロックが芽生えるような土地柄ではないのである。低層階(2階まで)の家・商店が町を造って、昔からの屋号や職人職がまだ十分機能しているような町並み。市役所通りの少し離れた西には、富浦町で分離した旧R127がJR館山駅前を通って少し南でR128号と交差、「北条」という交差点になってるが、その道は「館山銀座通り」と街灯に通り表示されていたが、「銀座」とは似つかわしい通りに見えた。ここも低層階の家とまばらな商店、ただ「北条」交差点は、旧R127・R128・R410の終点且つ始発点という交差点で、銀行商店が軒を連ねているが、低層階の建物がほとんどであるように、町並みはいたって質素。そのことはYOSHIKIも『いよいよライブ活動を始めようと思ったけど、千葉県館山市にはライブ・ハウスがなくて・・・で、1軒だけあった楽器屋に“おたまじゃくしの会”というサークル――店の人が健康的なイメージにしようということでそういう名前になった(笑)――を作ってもらって、市民センターを借りて自主コンサートをやったりした』(『ロッキンf』1988年11月号P88)というように、とてもライブハウスなど及びもつかない町並みであった。ただ最近はショッピングセンターなどが徐々にバイパスなどに進出している模様だが、YOSHIKIやTOSHIの中高時代は、地方の在り来たりの平凡な町並みと言って差し支えない。民謡や地域歌、演歌までが音楽としては日の目を見る町並みという印象、ただ校舎だけが、違った感覚で建てられている。あまりに偶然のラッキーポイントに出くわし、高揚した自分の感覚がそう感じさせたのかもしれないが、町並みから推測すればロック少年が誕生してくるような生活は、この町にはない様に思う地方町。なぜこんな所から、時代を切り開いたスターが出てきたのだろう。強引に理由をこじつける為に、学校を見て「文化面には一脈人々の意識が活発にうごめいている」と撒き餌のような食いつき点をほうり込んでみたが、この町とロッカーを結び付けるのは非常に苦しい展開しかないのである。しかし、懲りずにいえば、新しいものには何か熱狂する風土が下地にはあった。Хの当初、東京でのライブには、お客の動員数が半端じゃない、そのお客はネクタイ締めたりサラリーマンのようなお客が大勢、理由は高校の仲間が詰め掛けてくれたと言う話もあって、地元のヒーローに熱くなる地域意識のような「おらがヒーロー」を、こぞって応援する共同(仲間)意識がこの町には培われていた。
2007.04.27 逍遥のエックス(6)
歩道橋を挟んで小学校の反対側西150mぐらいの所に彼らの通った第三中学校がある。正門はその突き当りから少し南側。アルミサッシの格子を多く使ったガラス窓の多い外観。コンクリートの重圧感のない校舎は、小学校と同じく、開放感に満ちている。校庭の北側に校舎や体育館・プールなどを集め、南は広いグランドになっている。訪れた日は、校舎側の向こうの方で野球の練習がなされていた(それ以外なかったので、休みの日だったか)。周囲は金網のフェンスで囲われ、フェンスに沿って植木も植えられていたがグランドは透けてよく見える。地図を見ているとYOSHIKIは学区内に入るが、TOSHIは第二中学校の学区内ではないかと思える。TOSHIの町名内に第二中学校があるからである。原因は『中学3年のころに中学校が分裂して、ヴォーカルだったヤツと分かれちゃってね・・。』(同上『ロッキンf』No.157p92)とTOSHIが述べている事から、この頃学区の分割があって、3年は残り日数も少ないので居残ったのかと考えたが、『PSYCHEDELIC
VIOLENCE CRIME OF VISUAL SHOCK』によれば『中学3年生の時に学校が変って―それまでデカい学校だったのが統廃合って言うんですか?2つに分かれたんです』(P84)と述べているので、YOSHIKIとTOSHIは何ヶ月かを別々の中学校で過ごした事になる。中学二年の学園祭の時に「ダイナマイト」と言う5人編成のバンドを結成(YOSHIKI、同上『ロッキンf』P88)、『中学2年の終わりに予餞会で、初めてロック・バンドで演奏しましたね、体育館で』(TOSHI、同上『PVCOVS』P85)と言うことから2人のはじめてのバンド演奏は、この中学校の、野球部が練習している後ろにある体育館という事になる。しかし、3年の時は分割された別々の中学校に在籍しているので、学園祭や予餞会での演奏は行われなかった。彼らの練習は、『週一回練習するとかそんなんじゃないですよ。たまに、文化祭があるとか催し物があると言う前にちょっと練習するだけですけど』(TOSHI、同上)という頻度から言えば、中学3年時は、共通の学園祭などなく、受験前でもありバンド練習もほとんどなくなっていたかも知れない。『中学校が分裂してヴォーカルだったヤツと分かれちゃってね』(TOSHI)、『ヴォーカルが脱退してしまった。それで捜したけどなかなか見つからなかったんで、TOSHIに歌わせてみたわけ。そしたら脱退したヴォーカルよりTOSHIの方がうまくて、結局中学3年ごろからTOSHIがヴォーカルになった。バンド名も“ノイズ”に変えた』(YOSHIKI、同上)。異なる中学3年時の2人が、どう連絡しあっていたのかは不明。分裂を契機にヴォーカルとも別れたのなら、YOSHIKIとTOSHIも別々になっていた可能性もあった。『中学3年の時に僕ヴォーカルに転向するんですけど、3年生の時はステージ立ったかなぁ、あんまり覚えてないなぁ』(TOSHI『PVCOVS』p85)。代わりに捜したヴォーカルのうまいヤツがTOSHIだった幸運は、YOSHIKIには別々になりたくない引力となって意識に働いていたのではないか。TOSHIは、このままでも良くそう深く考えてない。バンドへの意識や練習もほとんどしなかった中学3年時の2人は、同じ卒業式に出ることはなかった。ちょっと寂しい卒業になった。
2007.04.28 逍遥のエックス(7)
第三中学校のグランドの道を挟んだ南側には、中央公園がある。北門から入った事から、中学校を尋ねた時に寄り道したのかもしれない。北門の大きな石造りの門柱には、北条小学校と書いてある。旧北条小学校の跡地であるらしい。第三中学の分割が彼らの中学3年(1979)時にあったように、古くその何年か前には小学校と幼稚園が校舎を合併、歩道橋の東の用地に引っ越していった。ここはその校庭跡を公園にしたものらしい。公園の植樹はまだ大きな樹木にはなっておらず、15年前後の歴史の通過があるらしい。散歩道がゆっくりカーブを切って楕円形に通っている。芝生席は、普通の雑草が生えていて、芝生を打ち負かして己の生活圏としたか。中学正門を出ての帰り道や歩道橋を渡って中学横の道を通学路としていた小学校時代は、YOSHIKIもTOSHIもこの公園内を通って通学したに違いない。公園南西に入口をもつ利用者の駐車場が公園西側にあり、図書館や菜の花ホールもあって、本の貸し出しやイベントに歩いて来た事も考えられ、自分の庭のように遊び場となっていたとも考えられる。駐車場の入口を入って北門を抜けて通学してゆく。帰りは東門を入って南門を通過してゆく。同じことを繰り返したくないYOSHIKIは、そんな変化をちょっと気分転換に利用したかもしれない。YOSHIKIにとっては、幼・小学・中学・高校は北−北東の方向に全部入る位置にあり、その扇のカナメ近くの休憩どころにこの公園は位置していて、友人との遊び話や打ち合わせには、天気の良い日など雑草をカーペットにしたかもしれない。公園を訪れた時は、そこまでは分からないので北門から菜の花ホールへ行くときに公園内を通ったが、地図を見る限り、もしかしたら小学・中学への近道は、駐車場入口から北門へ抜けるその道がYOSHIKIには最短、YOSHIKIはたぶんここを通ったはずだ。公園の南門を真っ直ぐ南下すると国道R128に交叉、ここにも歩道橋がかかっていることから、これはTOSHIの町内から通う生徒の通学路になっていたはず。TOSHIにとっては公園南門から入って東門へ抜ける道が無難な最短路。公園内の周回道の北の一部をYOSHIKIが通り、南の一部をTOSHIが通過していたと考えると、同じ公園を通過しての通学ではあるが、道が北と南で違っていた。同じロックをやりながら、何か別の道を模索していたような後の2人の軌跡は、はからずもここに暗示されてるではないかと変な妄想に走ってしまう。駐車場西にある図書館には、この公園が造られたいきさつの新聞が保管されていることだろう。さらには彼らの活躍も記事になって残っているかもしれない。次回の館山訪問には、TOSHIの参加した祭り(9/14・15の八幡の祭礼か地元で聞いた10月第三日曜日のいずれか)にこの図書館、それに横須賀の久美浜から富津・金谷へ渡るルート(フェリーで35分ぐらい)でというメニューが出来て行く。菜の花ホールに行ったのは、「館山商工会館」を聞きに行った。実はそこが商工会館かと勘違いしていた。商工会館は海岸通り(県道館山港線)をずっと北へ行った所だった。初期のХの地元ライブがそこであり、終ってみんなで海に飛び込んだというその会場を見たかっただけだが、その話はまたいつか。中央公園の隠れた一面(YOSHIKI、TOSHIの通学路になっていた?)が見えたこの話、話題に持ち出して自分でもニヤリとなった。絶対この近道を通らないはずはない。通ったはずだ。
2007.04.29 逍遥のエックス(8)
しまった!!。仁和寺参りで奥の本社にお参りせずに帰ったおろか参拝者の、さらにその上を行くではないか!!?。逍遥(5)でYOSHIKIが“市民センター”を借りて自主コンサートを開いたと言う話があった。この市民センターは、一体何処にあるのか と車を運転しながら、(今日)急に気になりだした。逍遥(7)の“菜の花ホール”のことか?。それとも他に市民センターがあるのだろうか。帰って地図で調べると、な、な、なんとありました!何処にあると思います?。唖然!。確かに北条小学校の校門手前に“館山市の施設”(逍遥(4)で記載)があるのは記憶していた(館山のことは、訪問した4〜5年前の記憶だけで書いているので、非常にあやふやだが、小学校の1mぐらいの門や中学校のアルミサッシを多用した窓など、後で貼り付けた写真を見ると合っていてちょっとうれしかったが、この施設も館山市の何らかの施設までは覚えていた・・)が、そこが、そこが、“館山市民センター”でした。大きな施設だったように記憶が残るが、行った当時は、市民センターでの自主コンサートの話は知らなかったので、幼稚園・小学校に目がくらみ、その他は見えてない状態だったが、やっぱり縁が在ったんだろう、影のようにおぼろげに残っている施設の記憶、おろか参拝者は本社を見ることもなかったが、自分には視界の中に入った訳で、記憶もある訳で、おろか参拝者よりは笑われないかな。でもそこにあったのに、中をちょっと見たかったなぁ、残念。物はついでと言うこともあり、”一軒だけあった楽器屋”とは何処なのだろうと探すことにした。地図を探しても分からなかったので、NTT番号案内に館山市の全楽器屋の名前と番号を聞くと、3軒の楽器屋があり、YAMAHA何々と松田屋楽器店と太陽商事上山サウンドステーション。この中でYOSHIKIの中3〜高1当時(1979〜1980)を考えて、“一軒の楽器店”は松田屋楽器店だろう。館山銀座通り(旧R127で現在は県道館山富浦線)JR館山駅前交差点に大きな駐車場を備えた「玩具模型の松田屋」があり、交差点をJR館山駅の方に入ると「ブックス松田屋」(同一の経営者と思う)が在ることを考えれば、旧国道に面し、駅前交差点の好立地を確保した館山での娯楽商品を幅広く商う老舗で、「玩具模型」店の中に楽器も置かれていると思う(松田屋楽器店を探したが、ちょっと見当たらないので)。さらに派生すれば、このブックス松田屋は、YOSHIKIの卒業した県立安房高校を6年先に卒業、その高校での学生生活や恋愛を書いた小説『海を感じる時』(中沢けい・著、単行本としては2005年3月5日初版第一刷発行)の中に出てくる書店「松屋ブックストアー」(実名をカモフラージュしてちょっと変えてある)だろうと見ている。著書記述では『駅舎とロータリーをはさむようにして、松屋ブックストアーがある』(『海を感じる時』P22)となっていて、こんな当時から存在し且つ著書の中にまで登場するお店なら、松田屋は楽器も扱った当時の“一軒の楽器屋”として、現在の“松田屋楽器店”に合致するはず。hideが入り浸った横須賀の「ヤジマレコード店」と同じくYOSHIKIが館山で頻繁に通ったのは、この楽器店だろう。そして、YOSHIKIが買ってもらったドラムは、この楽器店に注文したんではなかろうかと推測は伸びる。『海を感じる時』は、YOSHIKIの高校生活を想像する一助にしようと再度読んでるところだが、日経新聞の夕刊(2005年4月16日)の「名作のある風景」に載ったもので、「作品は作者18歳の時に書かれた。当時館山市にある千葉県立安房高校の3年生」と新聞記事に書いてあったので、すわっYOSHIKIorTOSHIの高校生活を垣間見れるんではと勢い買ったのである。が、奔放な性を書いてあるので、参考にすべきかどうか、どうしたものかと思案中。
2007.04.30 逍遥のエックス(9)
「名作のある風景」の記事には、中央に大きな館山湾の写真(1面上半分ほとんど)、左に作者紹介と『海を感じる時』の題名、そしてХファンが反応する“館山(千葉県)”の地名を、文学作品の当地として掲げてる。“館山”に反応して真剣に読み出すのである。写真の中央には、海へ突き出す頑丈な桟橋。桟橋の向こうには大きな帆船(日本丸のような)、離れた左には東京湾へ入港してゆく大型貨物船が小さく航行中。その向こうに陰影の濃い陸地(三浦半島)が横たわり、陸地に覆いかぶさる様に暗雲の塊がボリューム豊かにまとまり威圧する。海は黒く、桟橋を砕け走る波しぶきが波頭の白を吹き上げてる。写真の説明には「暗い海に突き出した桟橋に夕日が差す。海がうねり、波がはじける」とある。夕日は分からず暗い写真。新聞部の1年の主人公が3年の先輩を慕う気持ちが、抵抗することのない性の付き合いに発展、やがての妊娠を「自分の体の中に海を感じる」とタイトルにつながる。自堕落な娘への母子家庭母の葛藤。父親のいない主人公の無防備な感覚。あせる片親と逆回転の娘。この物語は実話を踏まえたものかどうかは定かでないが、同じ町で起きたYOSHIKIの境涯ともダブルのである。田舎町の閉鎖した社会、都会から見ればのどかで牧歌的な人情を思い浮かべるだろうが、そんな表向きの良い顔はホンの一部、人の心は容赦のない噂と視線、不幸の当事者への同情を装いながらの内心の悪意な余裕。親には、この状況から噂されるいろんな害悪を社会の経験で分かっているが、社会を知らない子には分からない。どんな噂が飛び交い、どんな視線が向けられるのかという状況が分かるだけに、親は娘の自堕落を戒め、諦め、苦悩する。母親は夫を失った悲しみと父親の威圧から解き放たれた子どもの暴走にさいなまれる。親の意向とは反対の方向に子どもは暴走しつづけて行くもの。主人公の妊娠もYOSHIKIのやがての非行も、話題の乏しい人の口角にはうってつけの材料になっただろうが、昔からよく言う、若い時には遊んでおけ(やりたいことをやっておけ)という言葉の意味が、作者やYOSHIKIにはまたあてはまる。中年になってもその苦労や苦痛が生きて、ぶれないのが良い。そう思って注意してると作者も時々作家としてマスコミに登場してるのであり、立派な作家になったし、YOSHIKIも立派なミュージシャンになった。片親になった子どもを一人前に育てようと神経をすり減らし、必死になっても止められない子の暴走に自分の人生は何だったのかと苦悶する親の時も在っただろうが、大きな弧を描いてやがてブーメランのように戻ってきた子は、一端(いっぱし)の作家やミュージシャンに変貌を遂げている。嘆き悲しんだことは、それだけ必死になって育てたと言うこと。その親の願いを自堕落非行の子はよく分かっているし、父親を亡くした無防備暴走はあっただろうが、やがて戻ってくるのである。反対に無難な生活を送れた人に危険が訪れる。痛い目に遭わなければ、危険や誘惑に流され、落ち込んでしまう。教育とは学習。自分で抵抗してみて何が起こるのか。親への反対、社会へ抵抗、自立の実行、そこでつかむ批判や困難や苦痛を体で学習してこそ、一人前になって行く。南房総、光あふれる町ではあるが、陰もあるだろう。もっともっと館山を感じる時、YOSHIKIが見えてくる。TOSHIはなぜ、迷ってしまったんだろう。
2007.05.01 逍遥のエックス(10)
5月になれば、館山から見える対岸の陸地、横須賀に気持ちがゆく。しばらく横須賀へ。横須賀は、米軍基地があるだけに外国の人が多い。東名横浜町田ICからR16に入り、横横道路(横浜横須賀道路)に入って、横須賀ICで降り、200円を払って本町中山有料道路を下ってゆくと横須賀港をかすめて、ダイエーのある本町3丁目交差点に出てくる。ダイエーの向かいは横須賀芸術劇場。次の信号本町2丁目は米軍横須賀基地の入口。そのすぐ先の小川町を平成通りに入ると猿島行きのフェリーの船着場への三叉路があって、右へカーブをとるとやし(もあったと思ったが、いつも見ていた風景なのにはっきりしない)の街路樹があって、前方左に3本の旗が風に煽られてなびいてる姿が見える。それが車でゆく場合の初見えhideミューの風景。hideミューから平成通りを来た方向に直進すると大津と言う交差点があって、そこを右に入ってゆく(R134)。夫婦橋の交差点を右折、少し行くと房総半島の館山に近い富津金谷へのフェリーの船着場がある久里浜漁港(前に久美浜と書いた。久里浜だった)。野比をすぎると三浦海岸に出て、海岸沿いを走って行くと、「三浦海岸」という交差点で半島内に入る国道と分かれて、左の海岸線を走る県道に入って5分、「三浦霊園」の大きな路上の看板が見えてくる。そこを右へ、集落の民家を抜ける右に広い野菜畑が広がり、前方に霊園の風景が見えてくる。集落から細い地道となるが、霊園の手前の「三浦霊園」の看板を右へ入って200mぐらい走ると霊園の門があり、すぐに管理事務所が右手にあり、道は直進するが事務所前を左折すると霊園の駐車場。階段を上って少し右方向の通路を入るとhideのお墓。いつもきれいな花で埋もれている。きれいな花の状態は、hideのお父さんお母さんが週2回(or1回)、スタッフの方数人と掃除に来られている。もう何回もお参りに行ったが、去年の10月21日、初めて掃除中のお父さんお母さんにお会いできた。お父さんは墓までホースを引いて、石碑を洗っておられ、手前の水桶の所では、お花の整えをお母さんがなされていた。おずおずとお墓に近づき、掃除中のお父さんに「お参りさせて頂いてもよろしいですか」と尋ねると、満面の笑みで『どうぞどうぞ』と気軽におっしゃってくれる。「しばらく待ってください」とか陰った表情をされるんではというこっちの心配は、全く杞憂に終った。「写真を撮らせていただいてもいいですか」と言うと『どうぞどうぞ』と再び愛想よくお返事を下さる。お参りを終えてお母様の所まで来るとお母様もニコニコと気軽にお話をして下さる。お父様お母様は、本当ににこやかで暖かい心の持ち主。hideは本当にいい家庭に育ったんだなぁとつくづく思った。このお父様お母様の為にも早くhideの追悼コンサートが行われるべきだと言う思いが、自然に出てきた。「千の風になって」という歌が話題になっている。「私のお墓の前で泣かないで下さい、お墓には私はいません。千の風になってあなたのそばにいる・・」という内容だったと思いますが、hideの曲で元気になった大勢の人には、お墓にhideに会いに来ると言う気持ちが素直な感情。もちろんhideの曲は、いつも鳴り響いているし、風にhideを感じ、春になったらhideを感じ、5月(天国のhide)7月(hideミュー開館記念)8月(MLJ)、12月(誕生日)とhideは1年を通じてそばにいる。
2007.05.02 逍遥のエックス(11)
hideミューのあった海岸からは、猿島の向こう対岸に小さく建築群が見える。木更津市辺りに存在するコンビナートの一部かと思っている。コンビナートの対岸を見て視線を左に向けてくると横須賀から横浜を見渡しているのであろう、小さくランドマークが見えている。コンビナートの右へ目を移してゆくと盛り上がった陸地の房総半島の山々が、だんだん高さを落として右へと連なってゆく。館山から見る三浦半島のボリュームよりもっと大きなエネルギーを持った塊が海岸線で水平に切り落とされ、黒緑の海に張り付いている。右の端の方が館山辺りだが、どの辺あたりか分からない。
そんな光景を何度となく見ることになったhideミューが出来て、それはうれしかったが、hideミューが出来ると言うこと自体、異様な事実であった。本来は延々とhideの活動が続いていることを考えれば、その光景は見る事がなかった。本当に大きな損失であった。もっともっと楽しませてくれたはずの彼の活動を打ち消す衝撃のニュースは、ゴールデンウイークの最中にもたらされた。ファンの誰もが、びっくりさせるのが好きなhideの究極のいたずらなのかと、一瞬思ったに違いない。どんな形にせよ、一人のファンに届いた第一報は、「まさか?」の疑念だったろう。ありえない話、信じられない話、そんなはずはない話。しかしテレビで報道されるニュースやワイドショーには、hideの自宅前に詰め掛けたファンの、嗚咽する姿や憔悴する姿が映し出されている。一人一人のファンが、事実の起こったことを得心しなければならなかった瞬間、いたたまれず涙がおのずとこぼれ出したに違いない。衝撃の脳震盪が次に何をしたらいいのか、もう考えることも判断することも出来ずに固まり、目の前の事が活動写真のように音もなくムラの多い早送り状態で進んで行くように見えてくる。私のようなファンでも、トーンダウンの電話の声に、その時の戸惑いを覚えてる。hideを直に何年も見続けてきた熱烈なファンには、もっと大きな打撃となって人格を打ち破る衝撃になったろう。それよりさらに大きくХのメンバーには、脳天直下電光が体を打ち破ったに違いない。『あれ以来、午前中の電話はイヤになった』とPATAが言ってるように、日常に暗黒の時間帯を作っているほど、ニュースの衝突は今も大きなクレーターを形ずくっているに違いない。YOSHIKIに至っては、2000年にХJAPANの復活を約束していた彼の衝撃のニュースは、ロスにいて、もっと深刻だったはず。すぐに行けない、ファンのこと、将来の展望の挫折など、パニック状態に陥ったはず。どうしたらいいのか、考えることも出来なかったはず。とりあえずは日本に向かうと言う行動しか、思いつかない。彼を襲った2度目の極限の悲劇。一度目は青春の反抗期のエネルギーがかろうじて彼を立ち直らせて行ったように思うが、もはや反抗期のエネルギーは湧きあがる年齢ではなく、彼を叩きのめしたニュースのショックは、本格活動を口にしながら、「本格」には至らない模糊とした状態で推移している彼の中に、まだ厳然と暗黒の影を落としている。ファンとしてはhideを忘れず、いつまでも心に宿し、Хのメンバーにはそれぞれの活動を末永く応援し、またいつかhideの追悼コンサートが実現し、ХJAPANの復活につながることを夢見ながら、石の上にも30年(3年が常識でしたが)で待つしかない。hideは見ていてくれるだろう。
2007.05.03 逍遥のエックス(12)
多くのhideファンには、ゴールデンウイークは一生の悲しい季節。地方組みには、さらにどうすることも出来ない凍りついた感覚。あれよあれよと時間がすぎ、どうしたらいいのか頭も働かない。テレビのワイドショーを、ただ噛みしめ見つめるだけ。日本中から東京築地に駆けつけたファンの方々には、自分の思いを体現してくれてるありがたい行動に敬意が湧く。ファンにとっては突然の未曾有の大きな出来事、受け止めるには、事態は大きすぎた。
ワイドショーのレポーターが現場で報道するhideのお墓の実況。三浦半島のどこかの霊園。霊園の名前は伏せたままで報道している。画面の背景には、山の頂が台形に削り取られ、頂上に樹木が残されてる2つのモヒカン山が映り、海の向こうの海岸線には大きな縦長のペンシルマンションのような建物が白く映っている。自分達も決死の覚悟(遠出が出来ない困難を抱えていた)で、その後、霊園に赴こうとなった。三浦半島には、霊園は当時2つしかなく、海がみえそうな霊園は「光明寺三浦霊園」が該当性が高いと踏んだ。しかし行った所で、墓地の場所が分からない。たぶんたくさんの石碑が整然と並んでいるその中から、どうして探し出せるのか分からない。しかし、努力をしてみて、だめなときはまた考えればいい。自分達の思いは、何かしなければ自分に納得ができないという状況、欲求不満のかたまり。泰然自若でここで座視とはとても自分に我慢がならない突き上げられての行動。事の成就は度外視して、まずは行ってみよう、目標はあってない様なもの。三浦海岸のR134まで来た。さていよいよの立地まで来たのである。その時点で、すでにモヒカン山二つのそばを通過し、三浦海岸の白い縦長のマンションは横を通過する寸前の位置にいながら、頭に記憶されている目印の存在は、ありふれた見た目の中に埋没して意識できない。“事”は、発生直下は混沌の中にいて現実(ありふれた日常)と見分けがつかない状況にいて、日が経ち時を重ねるうちに事の大きさ深さ影響が客観的に意識されてくるように、ワイドショーの明らかなヒントは、遠くの位置からは形を成してはっきり目印になったのに、海岸線や沿道風景は自然な見た目で通過して行く。hideの大きさが、失ってさらにさらに大きくなったように、その時はあまり分からないという“その時”の状況に似ている。海岸線は、左手波打ちの浜にその利用者パーキング、右手はファミレス、食堂、サーファーショップなどの海岸線の商業形態。その先でR134は「三浦海岸」と表示の三叉路交差点で、海岸線へ行く地方道と分岐して半島内に入り、上りながらの道は「引橋」で方向を半島西側に向けていく。「引橋」へ向けての国道に入ってゆく。地図を見ながらの行程(ナビは当時も今もなし)は、「引橋」で国道と別れ、直進。500mぐらい行くと左へ入る小さな地道に「三浦霊園」のたて看板があった。地形は三浦半島の山の頂上辺りを通過するように、道そばや見下ろす方向に畑があり、この地に適した出荷野菜が専門的に作られているように見える。丘陵地の頂上をくねりながら道が走って行くと視界が開けて来、遠景が見渡せ、突然ワイドショーの中に映っていた景色が展開したのである(今から考えれば、ワイドショーのテレビ局も、三浦霊園への近道を知らずに行ったという事になる。報道各局にはどの霊園に埋葬かという情報は行っていただろうが、近道までは知らされておらず、遠回りをした局もあったということだろう)。
2007.05.04 逍遥のエックス(13)
それは、感動の一瞬だった。まさか、テレビで見たと同じ風景が展開しようとはこれっぽっちも考えず、道はくねるし半信半疑の状態。それはまちがいなく「光明寺三浦霊園」のどこかに、hideのお墓があると確信した瞬間でもあった。白い縦長マンションは海岸線辺りに建っている。今、通って来た海岸線を走るR134の沿道に在るように見える。しかしそれらしき高層のマンションは見なかった。モヒカン山も一際そびえている。遠く高山の頂のように空に突き出している。方向的にはそのふもとを通過してきたらしいが、それも見なかった。海も見えている。きれいな風景であった。丘陵地の頂上部は、曲線がついた畑が連なって、海の遠景を緑の上に垣間見る。hideが、この霊園を生前に購入していたのは、どんな動機があったのかは定かではないが、もし自分の生まれた横須賀の、海に面した風景のよいところとなると条件に当てはまる。その道はすぐに霊園の上から入る道につながっていた。現在のhideのお墓に行く時に、階段を上がると水平の平坦地があって、hideのお墓の区画に入ってゆく。その平坦地へ階段を登り切った所が道で、右へ進むとその道は霊園を2車線道路の上がり勾配で、広大な霊園の中央を貫いて行く道に通じている。今は海岸線の県道から、金田バス停を右折、地道を通ってくるが、その道は霊園の下側から入ってくることになり、霊園の背骨のようにhideのお墓の位置からは見えているこの道が、霊園を一番上がりきった所で上から進入する道につながっているのである。下から見上げる霊園の風景は、広大で整然と並ぶ景観は壮大、hideには「スタンド!スタンド!」と叫ぶ東京ドームの夢を、お墓から見ているような感じもする。そして、初めて訪れた霊園の、上から見下ろす広大な霊園の谷は圧巻でもあった。また群立するお墓の中から一つを探すのは不可能でもあると悟る瞬間でもあった。とてつもないお墓の数は、はっきり「今日は、ご苦労さん、またのお越しを」と揶揄しているようであった。中央の道に添って、左右水平にお墓の通路が奥に伸びていく造りを、ゆっくり走りながら、hideの墓を探して一瞬一瞬見透かして進むしかない。どこかにあるとして、そのお墓はたくさんの花に埋もれているはずで、それが唯一のメルクマール。だんだんと道は降りて来るが、それらしきお墓は分からない。そして2車線道路が左へカーブを切り始めるその瞬間、通ってる道を直線に少し入り、各区画へ通じるわき道の手前に花に埋もれたお墓が見えたのである。直線の視線で、場所も2車線道路からすぐ入ったところかつ区画を奥に入る一番手前の位置に見えたのである。「もしかしたら」とそこは小さな三角ロータリーの一面に接していたのでユーターンですぐ近くに停車、半信半疑でお墓に近づく。まぎれもなくhideのお墓に到達したのであった(現在の位置からは、階段を上がって、右へ行くと2車線道路に出ると述べた、その出る手前。現在のお墓はそこから移動)。やっと来れたと言う満足感、5里夢中の中からやっと一点にたどり着いたという達成感、わだかまった胸のやるせなさの雲散霧消点、かと言ってお墓の前に立つのは異様な事実には違いないと言う複雑な心境。こともなくしおれる自分の感情、神妙な面持ちはやがて、無念とありえない現実の悪夢に呆然と立ち尽くすしかなかった。
2007.05.05 逍遥のエックス(14)
目の前の黒い墓石のお墓は誰のお墓?。この花に囲まれたお墓の人は誰?そこに会いに行きたいという一念で進んできた自分の行程の最終点は、在ってはならない現実の一点に向き会うことでもあり、震えるような感情が突き上げてくる。築地本願寺の階段に並べられた無数の花が、お墓の周りに飾られている幻影が見える。あの花の背景には、参列できなかった多くのファンの無念な気持ちが逆巻いている。誰の心にもhideの大きな存在が宿し、希望であり励ましであり、心の支えであり日々の糧でもあった。突然消えてしまった原動力を、何処に求めばいいの。やるせない。つらい。ここに何とか行ってみたいと言う強い思いは、裏返しの感情になって強い悲しみに変る。「あなたは私を知らないと思いますが、あなたの知らない大勢の人が、何処に行ってしまったの と探していますよ。今、何処におられるのですか。私はここに立っていますが、なぜここにいるのかよくわかりません。確かに誰かを追いかけて来たはずなんですが、誰を探しに来たのか、誰に会いに来たのか、分からなくなりました。これは誰のお墓。なぜこんな所にいるんでしょう。夢なのか現実なのか、うつつなのか幻想なのか。夢なら幻想なら、覚めれば消える。醒めればあなたはいる。これは現実なのか夢なのか。夢ならこの場面は、あなたのライブにワークする。おどけたパーフォマンスが飛び出すステージに移るはず。群立のお墓は、あなたを取り巻く聴衆に変るはず。私はあなたを遠くから見ている観客の一人になるはず。見つめている黒いお墓から、模造の覆いを破ってすぐにあなたは飛び出して来るはず。長い、もう飛び出して来るはずが、間が長い。長い。何かあったんだろうか。タイミングが合わない。夢の続きが続かない。なぜだ。墓が動かない。飛び出してくる場面の夢が続かない。パーフォーマンス、止めてはダメ。続けて、そのまま続けて。動いて。何で動かないの。もうみんな次の場面を待ってるよ。おどかす為の止まった振り?。それならいいが、でももう動かないと間がもたないよ。動かないと」。現実?これはやっぱり現実?。呆然と立ってる抜け殻。お墓に手向けた花々は色鮮やかに見えるが、これを供えた誰もが同じように彷徨ったはず。さまよいなす術もなく、花に託して君の心に届けよと無念な行為。「あなたの心に届いてほしい。私がどれだけあなたに頼っていたかを。私、初めて気付きました、あなたの存在の大きさを。大事なものは失って始めて分かる、そんなかけがえのない大事なものだった。失って始めて分かるって皮肉ですね。失う前に分かるべきなんですが、そこはミスマッチ。いたずらミスマッチ。分かる前には分からない、分かった時はあなたは居ない。みんな、そう思ったはず。夢なら醒めよ祈りたい。あなたのいる現実に戻りたい。夢は、この意思に関係なく飛んで移って場面が変る。見たくない場面も現われる。見たくない場面が夢なら、今すぐ醒めよ。それで救われる。見たくない場面が現実なら、あなたの居る夢に逃げ込むか。そう自由に出来れば、一番いいね」。徐々に引き戻られる悪夢の現実。凍りついたツンドラにやがて太陽の暖かさが差し込み、緑のコケが生え、わずかの植物が成長を遂げるが、それ以上はこの大地に変貌はない。hideを失った荒涼としたツンドラの世界、太陽は何倍も赤く燃えるしか、緑の大地は戻ってこない
2007.05.06 逍遥のエックス(15)
何回目かの以前のお墓を訪れた時であった。到着すると誰か一人で参拝する姿が在った。20代の女性の方であった。順番であり、終ればわたくし達がお参りさせていただこうと少しは離れた所で待つことにした。辺りの風景を見ながら、すぐに順番が来るだろうと体勢はお参りの準備に入っている。5分が経つ。まだ小さく動きながら、お墓の中にいる。もう終るだろうとまだ気持ちは余裕である。10分が経っても、まだ終る状態ではない。次第に彼女のお参りを見つめるようになる。一生懸命、墓石を掃除し、拭いたり、している。私達の存在には気付いていない。一心に掃除をし、何かをしている。見ていると、だんだんお墓の掃除が、お参りで中腰になる足置き場も一生懸命拭いている。何かを話しかけるように、慈しむように、丁寧に靴で上がる場所も拭いている。自分の家のお墓のように、丁寧に、掃除をされている。自分の「お参り」とは、ただお墓の前に立って、手を合わせ、黙祷して、お参りした気分になって帰ってくる。どうも彼女のお参りは、自分のお参りの感覚とは違う。話しかけ、慈しみ、守るように、あやすように・・・。よく、不幸の出たお家には、「忌」と言う字が掲げられ、穢(けが)れていると言う捉え方をする。清めるとかいって塩を撒く時もある。自分の身内が亡くなって、「穢れる」という捉え方、果たしてそうなんだろうか。親がなくなって、穢れるって、おかしな話ではないのだろうか。一番近い身内が亡くなって穢れるとは、どんな思想にはまっているのだろう。自分の大事な人がいなくなって、穢れるとはありえない話。・・・常識的な感覚で、どこかにそんな感覚を宿しながら、一歩引いて見てしまってる自分は、心の通ってないファンのように見えて来る。彼女の中にいるhideと私の中にいるhideとは、明らかに存在が違う。女性の母性本能の違いだろうか、守るようにあやすように、一人で話しかけているように見える。じっとその一挙手一頭足にひきつけられて、自分の浅い気持ちがだんだん恥じ入るような気持ちになってきた。お参りで上がる靴の場所にも、墓石と同じ丁寧な拭き掃除を終え、彼女はまた一人の世界を帰るように、黙って帰って行かれた。待たされたという感覚は、毛頭ない。手が汚れる、邪魔くさい、とつい思って、自分の家のお墓だって、簡単な掃除をして、適当に水をまいて、はい終わったという済まし方で、気持ちが入ってない。近しい身内、大事な人に気持ちを込めるとは、彼女みたいにするんではないだろうか。浅い気持ちで、彼女の拭いてくれた靴場所にすぐに上がるのは、申し訳ない気持ちになった。hideは彼女のようなファンに支えられて、これからも行き続けるだろうし、自分たちもそんな気持ちになって、hideを応援し続けなければいけないのだろうと思った。もう5年ぐらい前の話と思うが、自分には彼女の掃除の姿が未だに思い出される。帰り道、金田のバス停へ行く途中の彼女が歩いてる。民家の手前の道を歩いておられる。自分たちも横須賀方面へ行くので、同乗してゆくことになった。札幌から来られたという。生活の困難が在るとも話された。hideに札幌から会いに来る、たった一人で会いに来る、彼女の心情は自分達とはやっぱり違う。hideに対する思いが違う。そんな人にはいい人生を送ってもらいたい。
2007.05.07 逍遥のエックス(16)
『今日は、僕の葬儀があった日。ファンのみんなとお別れしてからもう9年。あの時は、メンバーや関係者、家族、そしてファンのみんなに本当に寂しい思いをさせてしまって、不本意だったよ。事故とは恐ろしいね。ちょっとした油断、気のゆるみ、魔の時間と言うの、本当に在るんだよね。今後の活動のスケジュールも詰まっていたし、みんなをもっと驚かして喜ばそうとあれこれ思案していたのに、自分でも何でこんなことになってしまったのか、不可解だよ。あの日はニッポン放送の深夜放送、3時から始って5時に番組終了。聴いてくれたみんなは、それから4時間も経たずに、僕がこんなことになろうとは、一寸先の闇って言うの、実際に起こしてしまったみたいだね。ちょっとお酒も入っていたし、日頃の疲れもあって、強度の肩コリって言うんですか、それもあって、こうしたら気持ちいいだろうなぁとふと思いついたんだ。よくムチ打ちなんかで、牽引するでしょう、病院で。忙しいから病院に行ってる時間もないし、大勢の目に付く場所はなかなか職業柄行けないし、つい素人治療って言う奴、やっちゃったんだよ。全く安全な状態だった。100パーセント、安全だったんんだよ。それが、人間の体って言うのは、不意な力には案外ともろいんだよね。何十センチの水でおぼれるって言うの、実際は信じられないだろうけど、おぼれるんだよね。それと同じで何十センチの高さの違いで、ツボにはまると運動神経などが遮断されて行くんだね。それが魔の時間ってやつで、ちょうどタイミングがそうなってしまったんだね。誰かいる時とか、もっと別の時間なら、こんなことにはならなかったんだが、ふとひとりになって、ふと体の部分に違和感が感じられて、ふと思いつくんだよね、こういうのって。そしてタオルがちょうどそこにあって、こうしたらちょっと楽になれるだろうなと思いつくんだよね。もうこれ以上は言っても仕方がないことなのでよすけれど、交通事故とか学校のクラブのケガとか、ほんの瞬間のタイミングで事故にあったり遭わなかったりの出来事になっちゃうけど、魔の時間が日常にはいつも口を開けて待ってるから気をつけるんだよ。魔のささやきはね、油断や気のゆるみ、やれやれと自分を解き放す時なんかに忍び寄るんだね。あくまで慎重に自分の意思をしっかり通して、判断するんだよ。ぼくも判断が中途半端な状態で、お酒の快い酔いと疲れのうたた寝気分で、そこへ思い付きだったんだよね。自分の意思をしっかり通しておけば、もっと慎重になっていれば、たぶん起こらなかったたぐいの事故だった。だからみんなも気をつけてね。あの日、メンバーも会場に駆けつけてくれて、僕の前で演奏してくれてうれしかったよ。寝てる場合じゃない、出てゆこうと思ったんだけど、やっぱり体が動かないんだね。悔しかったよ。それとみんなが、たくさん来てくれて、俺のライブのように集まってくれて、本当にありがとう。悲しい顔で集まってくれたこと、返す返す不本意な状態にしてしまったこと、これからもっともっと楽しい仕掛けを用意していたのに、みんなにこんな顔をさせてしまったこと、残念だった。みんなには僕がついてるから一生懸命頑張ってね。僕の夢をいくつもの願いに小分けして、一人一人の夢に重ねるからね。君の夢が成就するように応援するからね、頑張るんだよ。じゃまた、会おう、今日はこの辺で。 青空の彼方より愛を込めて』
2007.05.08 逍遥のエックス(17)
「オールナイトニッポン」の放送、聴きたかったなぁ。ニッポン放送と言う名前がライブドアの株買占めで出てきた際、hideのニッポン放送の会社かぁ、こんな所に出てきたかぁ と思ったが、どんな番組だったか、しゃべっているhideの声が聞こえてくるようだった。かつて「YOSHIKI PRESENNT
ECSTASY
NIGHT(2001年ごろ)」があって、大阪では聴けなくて、和歌山まで出張して聴きに行った事が思い出される。聞ける状態なら、なんとしても聴きに行っただろうが、聴けなかったのは人生のミスマッチだった(そもそも、X&XJAPANともほぼミスマッチ状態だった訳で・・)。
hideのニッポン放送4回分(1998.4.10〜5.1
)の収録を文字に起こした『hide
夢と自由』(1999年1月20日初版、扶桑社)がある。hideミューでかかっていたhideのラジオのディスクジョッキーはこの時の放送を流していたんだろうか。ロスの日常が語られていたこととこの放送がロスで収録されていたことなどを考えれば、そうかもしれない。4回分の放送ではあるが、4回分とも各回の最後に番組の進行表(台本)も添えられているので面白い。台本を見てから、何をしゃべったのかを見ると、案外楽しめる。自分がhideであったら、何をしゃべるのだろうか、進行表が「問題」でその問題の自分の“答え”を出して、hideの話が正解の『回答』として、hideファン度数を最高100とすれば、この採点でいくらになるのかなぁ。たぶん20〜30点、残念だがそこまで行かないかも。君は失格、もう一回hideを勉強してくるように と言われるだろうなぁ。何にも知らんもの、落ちこぼれだす。
番組冒頭は、「前あおりナレーション〜番組説明、タイトル名−hideのオールナイトニッポンR−、今日の放送内容−今日は「ヒストリー・オブ・hide」僕の今までの音楽体験のすべてを話して行きます−」となってる。「前あおりナレーション」って、聴いてる人に番組の面白さをどっと吹き込むわけでしょう?“皆さん、こんばんわ、hide
です。今日から始るhideのオールナイトニッポンR、わたくし、ラジオのディスクジョッキーははじめてでございますが、始めてなりに面白おかしく番組を盛り上げてゆきたいと思っております。深夜でも在りますので、眠気をふっ飛ばし、明け方までの一番しんどいこの時間帯を、元気よく乗り切ろうというパワーを、わたくしが引き受けさせて頂きます。どんな展開になるか、眠気まなこで聞いてちゃ、ダメですよ。しっかり起きて、目を開けて、今日はヒストリー・オブ・hideと言うお話で、わたくしの今までの音楽体験をぜーんぶ、まとめてお話ししようと思っております。もちろんアルファベット26文字最後から3つ目の文字のこともたくさん出てきます。それではhideのオールナイトニッポン、行っちゃいましょう”。hideの回答『こんばんわ、ヒデです。今夜から毎週金曜日のこの「オールナイトニッポンR」は、私ヒデが担当することになりました。よろしくお願いします。あのですね、“お前誰だ?”と思っているかと思うんですけど、去年の暮れまではですね、あの「X-JAPAN」という、怪獣のようなバンドに所属しておりましてですね、そこの上手の方でギターをずっと弾いていたんですけれども。その私がなんのゆえんか、この「オールナイトニッポンR」で何かしゃべっくらかして頂こうかと思いました。実は、私は今ですね、「X-JAPAN」を離れまして出すね、“ヒデ単体”として活動することになりましてですね、いまずっとレコーディングでロスにいるのです。それでですね、今月はずっとロスでレコーディングをしているので、ここでしか手に入らない情報や音楽もたっぷりと聞かせられたらよいかな、と思っているので期待していてください。え〜と今夜の放送は『ヒストリー・オブ・ヒデ』。私が、今までどんあ音楽を聞いて、どうように今のようなプロになったのか?ということを自己紹介も兼ねて話していきたいと思いますので、お聞き苦しい点は多々ございましょうが、2時間最後まで聞いてください。それじゃあ、まずこの曲から。私の一番新しいシングルで5月13日発売、『ピンクスパイダー』』。『X-JAPANという、怪獣のようなバンド』という言い方、いいなぁ。火を吹き、都市を壊滅して行くイメージ、転じて太古の大恐竜時代、今から考えても、あの怪獣(恐竜)の時代が、約1万年前(解散後約10年)に無くなったなんて、ジェラシックパーク、行きたいなぁ。
2007.05.09 逍遥のエックス(18)
4月10日の第一回放送「冒頭」の次は、台本は「NRN1」となっていて、これは『ピンクスパイダー』の曲がかかった次の話の時間、すなわちナレーションの略かと思われます。台本NRN1の項目は「自己紹介〜アイドル風に? *好きな食べ物、動物、 〜など笑わせながら新人のように *現在の活動のこと *最近した失敗談など、」となっている。自分がhideならどう話すか。では“最新シングル、来月13日発売の『ピンクスパイダー』でした。蝶の羽を借りて、大空を目指したが、借り物の羽がうまく動かず、落下するという、だだそんな話なんでございまして、横須賀辺りでは、まだ田舎でございまして、クモや蝶がちょっと車を走らすとその辺におられるのでございます。動物は、一般に好きでして、出身地の横須賀では子供の頃、昆虫や魚、犬猫など飼っておりましたが、飼うのは好きなんですが世話をするのが、これが大変なんですね。世話が続かなくなると大空や川に戻してあげる。誰の餌にもならず、自由に暮らせよと声をかけるんですね。犬猫は逃がすと、ご近所迷惑になるということで、これはただ飯を食む食客となって行くわけで、私も中高校と勉強を第二にしまして、親から見ればただ飯食いに見えたかと思いますが、同類相憐れむの徒食人となって同居していたわけであります。それがなんと、徒食の同居を飛び出して、羽を借りたわけでもないですが、現在はロスにいるわけで、日々レコーディングに邁進しております。スタジオに昼に入って、ずーっとぶっ通しで、深夜の2時3時まで、あれやこれやと曲作りになる訳で、毎日これを繰り返すと、まず曜日が分からなくなって来るんですね、次に今日の日付が分からなくなる。そうするととんでもない失敗が起こってくるわけですね。突然スタジオに電話がかかってくるわけです。約束の時間に待ち合わせ場所に来たが、一向にhideさんが来ないんで、電話しました とかかって来るわけです。約束は覚えてるんですが、肝心の日時が狂ってしまってるので、自分では約束のない日になってるので、仕事をしてるということですね。記憶が飛ぶのは、仕事のせいばかりじゃなく好きなお酒のせいもあるかと、思っているこの頃です。それでは次の曲・・”。hideの答え『今夜から始ったヒデの「オールナイトニッポンR」。私はいったいどんな人間なのか、みなさん、お聞きになっているドライバーのみなさんとかも、思ってらっしゃるかと思うんで、自己紹介から始めたいと思います。えっと本名、松本秀人(笑)。えーとですね、現在は30なにがし・・・。で、本業はですね、ギタリストなんですけれども、もともと所属してました「X-JAPAN」というバンドから離れましたので、歌なんぞも歌っておりましてですね、曲なんぞも作っております。で、ですね、どのような音楽趣味かといいますと、基本的に、世界でいわれているジャンルというものは別に・・・何も気にしないんです。けども、もともとはですね、やっぱり洋楽育ちといいますか、この英語圏ではない国で育った洋楽ファンですね。 もともとは「KISS」が好きであったりとかっていうところからわりとロックンロールに目覚めまして。で、そのロックの目覚めのころっていうのはですね、私、今では人前に立って踊ったり歌ったりギター弾いたり、平気でしてるんですけれども、子供時代、ロックに目覚める前後はですね−、とてもとてもお見せはできないような、いわゆる“肥満児”でして。体脂肪率何パーセントだか知りませんけども、学校とかで、「お前、太り過ぎだから走れ!」っつって、メシ食ったあと無理やり、走らせられてしまうような“肥満児”ですね。絵に書いたような肥満児でして、で、別に勉強がスゲーできたワケでもなくて、なんてことない学生時代だったような気も・・・。中学生のある日に、友達の家で「KISS」聞かせられたんですけれども、最初はその「KISS」の毒々しいメイク――「KISS」って血吐いたり、火噴いたりするバンドなんですけど――その「KISS」のルックスが、どうしても何か気味が悪くて聞けなかったんです。けども、しばらく録ってもらったカセットテープを家にほったらかしといて、“暇だから・・・”と思って、そのほったらかにしておいたテープを聞いて、「何じゃこりゃー」ということになりまして・・・。それまではオモチャですとか、何かそういう形のあるものとか、プラモデルとかにしか興味を持たなかったんですけども、初めて、その形のない“音楽”っつーものに、何かこう雷を打たれまして、「あっ!僕はロックンロールをするために生まれてきたんだー」と勘違いしてしまいまして、そこから私のロックンロール人生が始ってしまったワケなんですけど。
で、そうこうしているうちにやっぱり、そんなデブな松本もですね、いつしか「KISS」のビデオとかも見るようになり、「KISS」に心底入れ込んでって、ファンクラブにも入って。ファンクラブの申込書を書いたら、いつまでたっても会報がこないんで、毎日、郵便屋さん追っかけていたような(笑)日々が続くんですけども、それで、どんどんどんどん入れ込んでいって。「KISS」っていうのは、「ローリング・ストーンズ」や「ヤードバーズ」とか、そういうバンドから継承したグラムロックなんだということを知り、そして「Tレックス」などを知り、同時に、そのころ押し寄せてきた“パンクロック”にやっぱり雷を打たれていくのです。 それで、何だかんだいって、ビデオとかいろんなもの見ていくうちに、“自分でもギターを弾いてみたい”なんていう、無謀なことをだんだん思い始めまして。「KISS」に合わせてですね、部屋の中でラケット――その当時、私、テニス部なんぞ所属しておりまして、デブのくせに(笑)――ラケットもって、ガシャガシャ弾いてる真似をしてて、お母さんが急に入って来て恥ずかしい思いをしたことが数え切れず。そして、その、・・・そんな感じで、過ごしていたんですけれども。 で、どうしてもギターが欲しくなりまして、えー、おばあちゃんに・・・。そのころ僕、すごいおばあちゃん子だったんですけど、おばあちゃんは、何でも買ってくれたんですよ。その当時に流行ってたミクロマンとか、ミクロマンの基地とか買ってくれましたし、うちの父さんとか母さんは絶対ミクロマンの基地とか買ってくれなかったんですよね。あの超合金とか、超合金マジンガーとかも、全部おばあちゃんのところに行って買ってもらったんですけれども。そのおばあちゃんにやっぱり中学3年のときに泣きつきまして、「おばあちゃん、ギブソン・レスポール欲しいよ」といったんですよ(笑)。そしたら、おばあちゃんが――おばあちゃん当時、米軍基地の中で働いていたんですけど。働いてたっていうか、出入りができたんですけどね。おばあちゃんもともと美容師なんですけども、そのおばあちゃんが米軍基地の中で、買って来てくれたんですよね。なんとこともあろうに、中学生の私に“ギブソン・レスポール”のデラックスを!いくらかはね、ちょっとわかんないんですけど、当時の僕の感覚からしたら、何だかよくわかんないけど“カウンタック”買ったような感じですよね。んで、田舎の街だし、田舎の学校だし、田舎の子供だから、“ギブソン・レスポールが来た”ってことはすごいことで。たぶんギブソン・レスポールは僕の町には1本しかなかったと思うんですよ(照笑)。で、そんなに友達とかすごいたくさんいた中学生じゃなかったんですけども、その日からすごいですよ。もう隣町からみんな来ますもん。僕のギブソン・レスポールを見に!で、見るだけなんですけどね。だって、僕弾けないんですもん。まだ、何も弾けないのに(笑い)。弾けないんですけど・・・毎日もう、とめどもなくいろんな人がやって来たりとか、年上の高校生とかがやって来たり・・・。玄関に来て、それでそのたんびに見せて、「弾いてもいいか?」っつったら、「あー、どうぞどうぞ」っつって、「何か弾いてくれ」っていわれると、いちばん困ったんですけどね。 で、そんなこんなしてるうちにはですね、中学も卒業して。その当時はやっぱりバンドできなかったんですよね。やってる人も少なかったっていうこともありまして・・・。えーと、そんな暗い暗い中学時代でした。そんな私も、幸せにバンド活動ができるようになることを望んでました(笑)。私が今、LAでやっているバンドで「ヂルチ」っていうのがあるんですけど、それの曲を聞いて下さい。「ヂルチ」で『エレクトリック・キューカンバー』』。
自己紹介するの、自分は忘れましたね。ラジオの前でやるとなると、やっぱ上がってしまいますね。それに台本とは話は違いましたね。この方がもちろんいいんですが、好きな食べ物、動物、失敗談・・はなかった。失敗談はギブソンの、弾けないのに見せびらかしたようなあたりかな。それにしても子供に対する教育の一面、考えられますね。おばあちゃんがいてhideが存在した。けちけちしていたら大きな人間は育ちませんね。子供がびっくりするような価値あるものを、子供の欲しい時に買い与える、このタイミングですね。
2007.05.10 逍遥のエックス(19)
4月10日第1回放送の台本「NRN2」は「<少年時代の話(1)>*最初に買ったレコードは? *自分のお小遣いで?」となってる。番組は本来、入念な打ち合わせをして構成するもの という常識から遠く離れて、この「ヒデのオールナイトニッポンR」は、番組ディレクター節丸雅矛氏のよれば「ちゃんと話したのは、オールナイトニッポンR」のロスでの収録が初めてだったんです。とにかくハガキもないところから始めたので、話の内容をどうするか話し合ってるうち、『番組を通じて、誰かが押し上げなければ世に出ないような、いい音楽を広めてあげたい』というヒデさんの言葉に同感したので、そういう番組を目指してスタートしました」(あとがき)という、何も決ってない所から始ったらしい。したがって台本もあるようなないような、とにかくhideのしゃべりで番組が埋ってゆけばOKという感じ。台本=「問題」に真っ向反応する必要はなく、「NRN1」の続きで自分がhideになって話を出せば・・ “ヂルチでした。このバンドはですね、私が今後、アメリカのミュジックシーンに打って出ようかというかくし玉でして、アメリカではまだ無名のバンドです。かつてX-JAPANも世界制覇を狙ってですね、アメリカに渡った訳ですが、音楽の壁は何とか打ち破れるように思われたのですが、言葉の壁が、如何せん、大変厚うざいまして、これでなかなか壁を乗り超えるまでには行きませんでした。そこでhide流壁の克服を画策したという按配なんですね。言葉には一つの国にもいろいろな方言があろうかと思うわけです。日本で言う標準語が国の、ここではアメリカの通用語なら、テキサスなまり、西海岸なまりというのが、たぶん在ろうかと思います。要するに言葉は完璧でなくてもいい。一地方の方言で歌ったっていい、主眼は音楽の方に力点を置いていけばいい。吉幾三の方言の歌のようにアメリカ版方言の歌でいい。言葉は二の次にして、斬新な音楽、見た目のビジュアル、全体でかもし出す雰囲気で勝負しようかと思っている訳です。日本のファンが僕の音楽に大勢賛同してくれてることで、世界共通の音楽を通せば、必ずアメリカの若者達にもヨーロッパやその他世界中の若者達にも、僕の音楽が通じるんじゃないかと、無謀にも錯覚を大いにして攻め込んで行こうかと考えてる次第なんです。ヂルチはその戦力、ミクロマンなんですね。ミクロマンの基地はLAに設けまして、あらゆる国の若者の心をターゲットに、狙い撃ちしてゆこうかと思ってる訳でありまして、日本には世界ツアーの中に組み込んだ形で、海外渡りで登場しようかと。中学生のころ、始めて見たKISSの異様な音楽やコスチューム、あの気分が悪くなった部分をえぐり出して、今度は自分がさらにさらに増幅させてインパクトを与えててゆく。小遣いで買ったKISSのレコードの何弾めかのアルバムのように、KISSの印象がそんまま自分のイメージに大きく合致したように、みんなの心にhideの音楽の一歩進んだ進行形の大胆な音楽をいつか届けられるように、ここLAから出発しようかと思ってる訳で、ではここで音楽を1曲。”
hideの『回答』はどうかな。『そんな不遇な(笑)少年時代、中学時代を過ごした私なんですけども、最初にロックンロールとして出会ったのは「KISS」なんです。けども、単純に音楽として初めて買ったレコードっていうもにはですね、当時小学6年だか中学1年ぐらいのときの朝、“おはようセブンオー”という番組がありまして、ケンケンが――“見城美恵子さん”でしたっけ?――ケンケンがアフリカだとかいろんなところに行くテレビが異常に流行ってたんですよね。で、それを見てから学校に行くっていうのが通例だったんですけども、そのときのテーマソングってので「ビューティフル・サンデー」という曲がございまして。その曲・・・もう音楽が云々っていうよりも「泳げたいやきくん」ぐらい社会現象的な感じで?買いましたよね。やっぱ、それだけ売れたということもございましてですね、ホントに僕が買いたかったのは“ダニエル・ブーン”という人の「ビューティフル・サンデー」という英語のヤツだったんですけど、僕、買ったら、いきなり♪さわやかな 太陽♪って・・・。“あれ〜っ!”とかって思って、何か違うレコードになってしまったんですよ。それが、あの田中星児さんバージョンだったんだなあ・・(苦笑)。で、仕方がないから、“ダニエル・ブーン・バージョン”・・・あの、「ビューティフル・サンデー」に関してはですね、家族ぐるみで欲しがってたので、田中星児で失敗しても、ダニエル・ブーンをもう一度、親が買ってくれたという。そして何でか知らないけど、このあと“トランザム・バージョン”と、3つのバージョンがうちの実家には、今でも眠っているという(笑)。 えっと確かねぇ、アレンジはほとんどいっしょだったと思うんですけど、「トランザム」さんはやっぱりバンドだから、バンド・バージョンだったかなあ・・・。今思うと、もう1回聞いて見たいなぁと思うんですけど、で、これ聞くんですよね? このレコード、誰のバージョンがいいですかねえ(笑)。もう夜中で朝近いということで、それでは田中星児さんバージョンで、『ビューティフル・サンデー』。
で、そういう感じでギターをおばあちゃんに買ってもらって、ギブソン・レスポールを手に入れたんですけども。今でこそギターが、あーいう歪んだ豪快なワイルドな音が出るっていうのはエフェクターっていうのがあってこそなんですけども、当時はそんな知識もなくて。僕は明星の歌本でコードを覚えたんですよね。明星の歌本っていうのは、当時のヒット曲がダーッって書いてありまして、それで下にコードが、マメに全部使うコードっていうのが書いてありまして、それを見ながら、歌いながらコードを覚えていったんです。でも、なぜかそれってフォークギター仕様なので、すべて“ローコード”っていう簡単なコードで書いてあるんですよ。で、ロックロールのコードっていうのは“パワーコード”っていって、指2本か3本くらいでガーッと出すコードなんですけどね。
で、僕それわからなくて、“きっとうまい人が弾くと、「ディープ・パープル」の『スモーク・オン・ザ・ウォーター』のリフとか、あーいうすごいもの弾けるんだ”とばっかり思って必死にジャカジャカ。だからイルカとかなんかのとか、“♪時間よ止まれ〜”とか矢沢さんとかそういうのを歌って、ローコードを覚えていったんですよね。それがそれで、けっこう長く続くんですよ。んで中学時代はその“ギブソン・レスポール”を持ちながら、歌謡ヒットパレードを歌う男だったんですよね。で、そのうちに「KISS」とか、「パープル」とか「ツェッペリン」とか弾けるようになるんだと錯覚していたんですよね。コピーはそれでも、『ヤングギター』とかっていう雑誌があったんで、そういうのを見ながら(コード)押さえてはいるんですけど、歪まないんですよね。そう、エフェクター持ってないから(笑)。ペケッペケッペケッっていうんですよ。だから「スモーク・オン・ザ・ウォーター」やるときは、♪ペッペケペー、ペッペケペー♪っていってしまうんですよね(笑)。だからだから“きっとうまくなると、ああいう音になるんだ”とずーっとおもってたんですよね。
アンプは持ってたんですよ。でも、優秀なアンプみたいにガーッて歪まないんですよ。だからもうペッペケペーなんですよ。ベンチャーズみたいな音だから。ペッペケペーっていう・・・ずっとペッペケペーでやってて。ある日、夜うるさいからってヘッドホンでやってたんですよ。で、ヘッドホンをほったらかしにしといて、そしたらなんか自分の部屋からグオーッて音が聞こえんですよ。あれ?レコードかけっぱなしなのかなって戻ったら、そのヘッドホンからもれてる音が歪んでたんですよ。で、僕は、“アッ!これなんだ!”って思って。“あ、みんなこうしてるんだ!ジミー・ペイジも、リッチー・ブラックモアもエース・フレーリーもみんなこうしてるんだ!”と思って、ずーとヘッドホンで大音量・・・ていうか大音量は出ないんですけど・・・。で、それから僕はアンプを買い替えないで、ヘッドホンを5つも6つもつぶして(笑)。そう、どんどん壊れていっちゃんですよ、ヘッドホンは。そうなんですよね・・・。だから、そういう楽器友達がいないというのは、こういう悲劇を生んでいくのですね(笑)。エフェクターに気づいたのは、高校入る直前ぐらいですかね(照笑)。やっぱりそれでも、みんな楽器やってるヤツと情報交換するようになってからですよね。で、そういう不遇時代というか、そういう悲劇の中で弾きたかった曲に、あの「KISS」・・・やっぱり「KISS」が弾きたかったんですけども。「KISS」って明るめの曲がすごく有名なんですけども、次かけたい曲っていうのは、“女呼んでポン!”みたいな曲が多い「KISS」の中ではわりとダークで、“盲目の老人が15歳の少女を犯す”みたいな、けっこうその当時からしては文学的な詞だなあ、と子供心に思った曲なんです。「KISS」のセカンドから『ゴーイン・ブラインド』』
全然当たりませんね。少年時代の話ということを忘れたからかな。問題をよく読まないと的外ればっかり。KISSに薫陶を受けたhideの音楽が、明るい音楽になったのは、『KISSって明るめの曲がすごく有名なんですけども・・』という話の中に在るように感じました。明るい曲が自分も気分がよく気持ちがなごんだ経験があったからでしょうか。それにギター、知らないでうまくなると信じて、一生懸命原始的な動作を繰り返す。誰にも経験がありますね。そういう誰にでもある馬鹿みたいな話をしてくれたのは、さらに親近感が湧きますね。なんだか勇気が出ます。自分にもできるんじゃないかという勘違いを起こさせてくれますね。
2007.05.11 逍遥のエックス(20)
4月10日第一回放送「NRN3」は「<少年時代の話(2)>*音楽をやるようになったきっかけの曲は? *なぜ選んだ楽器はギターだったのか? *最初にバンドを組んだのは?」となってる。問題を与えられての一瞬のひらめき、書きながらの創作で〜“答えを出す”っていうけれど、hideの過ごした年月(としつき)を、そんなもんでは、語れない〜。森田公一・トップギャランの「青春時代」のうろ覚え一節が頭をかすめる。
では、自分の中のhideさん、どうぞ―“音楽って、どんな世代の人にも、年代に応じた形で存在しますよね。僕らだって物心ついたかつかないかの幼稚園時代から、お遊戯歌に始って、小学校の童謡や唱歌、中学校になって歌謡曲などに興味が走る訳ですよね。何か言葉の会話にはない心地よさというものがあるから、歌や音楽が存在し続けるんだろうと思うんですよね。意識はしないが、音楽って、つい口ずさむという心の共鳴ですか、そういう要求というのが誰にもあるように思うんですよね。小学生になると、テレビでみる漫画やキャラクター番組に触発されて、その主人公やヒーローにあこがれ出すと、威勢良く場面のクライマックスでは勇敢な感じの音楽が事態の好転をもたらして行く。音楽に乗って物語が解決されてゆくというストーリーに、私、hide少年も少なからず毒されて行く訳ですね。そういう音楽のなかで、一番かっこいい音楽というのが、個人の感性として出来上がってゆく。登校前によく聞いたビューティフル・サンデーもこれから学校に行くゾーというテーマソングになった訳で、自分の生活(物語)の登校の嫌悪感を取っ払う、物語解決ソングになるわけですよね。歌や音楽というのは、自分の心の問題解決の一翼をになってる。そんな所から、音楽に興味が湧きだすわけで、心地よい節やフレーズが心に住み着くと、友達に話したくなりますよね。KISSがいいと教えてくれた友達も、感動してその友人の、私hideに教えてくれたわけですよね。自分はそのときは、発展途上状態でその域には達していなかったが、あるとき暇をもてあました時、そのKISSをきいてみようかとなった時が、その域に達した時でもあって、運命の音楽的出会いとなった訳ですね。初めての衝撃は、バンドから流れる音のいくつかに惹かれるわけですが、ドラムやベースやギターやボーカルですね。で、私の場合、ギターの強烈な音が心に響いたんですかね。その時、ギターをやってみたいと思ったのは。別にベースでもドラムでもボーカルでも多少の反応は出来ていたと思うんですが、聞いた曲の伴奏がギターのフレーズが多くて、かっこいい ってなってしまったんでしょうね。そんなことからギターをやってみたいと、無意識の内にギター優位が決ってきたというわけです。で、さっきも話しましたが、ギブソン・レスポールはその機能のほとんどを発揮せずにペッペケペーだったわけですが、高校に入って、ペッペケペーの友人もいるわけですよ。まだ音楽仲間でもないんですが、つい口を付いて出るKISSとかの曲に、ペッペケペーの悲劇の中にある友人も反応するわけですよね。何かやってんの?とコンタクトが出来て、そしてギターやってる話になって、俺ギブソン・レスポール持ってやってんだーとなると、スゲエーとなって、俺の家に見に来たり、さわりに来たり、弾きに来たり、来ることが帰りの順路になってきて、じゃ何かバンドでもやろうかとなった訳ですね。バンドは高1ぐらいから意識し出して練習し出したんじゃないですかね。そんなバンド生成を後押しした曲、聞いて下さい”
hideの答えは、答えは・・どうかな?『それで、その悲劇の中学時代を卒業しまして、やっとのことですね、高校生っていうのは文化祭もあって、でかいステージで、ギターなんぞ弾いて、そういう友達と巡り合えるかなあなんて思ってたら、入った学校が“エレキギター禁止”って生徒手帳に書いてありまして。何ということだー!と。このあと見渡すあとの三年間っていうのが、僕にはもう灰色に見えてしまったんですけども。
僕は地元が横須賀なんですけども、“ドブ板ストリート”というのがございまして、そこはわりと米軍基地にほど近く、ミッドウェイとかがやって来て、異国情緒というか、「無頼漢」がそこらへん練り歩くような、ぶっそうなストリートだったんですけども。横須賀の、普通の良識ある家庭の親御さんたちとかっていうのは、「あんなところ行くんじゃない」「あんなところ行くと首を切られるぞ」とホントにいわれたんですよ、僕たちは。で、僕もやっぱり田舎の保守家庭に育った、保守的な子供だったので、昼間ぐらいしか通らないし、通ったとしても、走り抜けて行くぐらい(笑)。
中学時代に、一人友達がいまして。横山という、今でも頑張ってる「ユナイテッド」というへビィメタル・バンドがいるんですけども、その彼が、別な高校でガンガン、バンドやり始めて、すごくうらやましく思ったんですけども、その関係で、別の高校の友達を紹介してもらったんです。で、その友達っていうのが、そのいちばんヤバイなって思ってた“ドブ板ストリート”のクラブのあたりで遊んでる奴で。で、そいつとバンドやらないか?みたいな話になったんで、そいつと会うためにそこのライブハウスに行ったんですよ。そこには僕のほかにあと4人いたんですけども、ヒゲは生えてるし、髪の毛はもう肩より長いし、なんかロンドンブーツ履いてるし、ベルボトムのロンドンブーツ履いてる松田優作みたいなヤツ出てくるし、どう考えても、僕と同じ年には見えなかったんですけども。なんだかんだいって、結局そいつらとバンドやることになりまして。で、そこの“ドブ板ストリート”って言うところに“ロックシティー”という、もう今ではないライブハウスなんですけども、そのライブハウスに出入りするようになって、バンド仲間が初めて出来たんです。本格的に・・・本格的にというか、バンドの形態で始ることができたのが高校2年か、3年ぐらいですね。その会ったバンド友達っていうのは、けっこうそういう感じで、その当時から革ジャン?革ジャン、ベルボトム、ロンドンブーツ?もうロックンローラーな格好してたんですよ。うーん、僕はそんなでもなかったんですけどね。
で、まあだんだんそこに入りびたるようになっていくうちに――まだ僕太ってたんですけども――だんだんヤセていっちゃいまして。あのですね、たぶん今思うとですね・・・。たまに僕、実家に帰るんですけど、自分の実家の食卓に並ぶ食材を見て、わかりました、僕は。結局、食いすぎだって(笑)。
やっぱり、そういう夜の街に遊びに行くようになると、必然的に家でゴハン食べる回数が減っていくんですよね。で、タバコとか買いたいから、親からお金もらってもそれをそっちに回したりとか、するようになって、なんかどんどんヤセてっちゃうんですよね。それで最初のステージっていうのがあるんですけども、そのバンドでわりと派手にいこうってのがあったんで。あの、「サーベルタイガー」って言うんですけども、えー僕がつけた名前じゃないんですけども。結局、なぜか僕が曲を作ったりしたので、僕がリーダーになってしまったんです、なんだかんだいいながら・・・。
で、派手にいこうぜー!ということで、当時はですね、僕ぐらいの人たちは、パンクロックというよりは、へビィメタルなものとかアメリカン・ハードロックとかを志向していまして、あの・・“スパッツ”ですか? 今でこそロックショップとかに行くと“スパッツ”っていう細〜いピターっとしたレオタードですね、あれ売ってるんですけども、当時なくてですね、それが。あの・・“やっぱ、気合の入ったロックバンドはスパッツだろう!”ということになりまして(笑)。みんなで渋谷の「チャコット」に“レオタード”買いに行ったりとか(笑)。わりとオバハンの?あ、オバハンの洋品店にあるじゃないですか、商店街にある!あの安っちー、安売りのああいうところに行くと、意外にあったんですよ。黒の“レオタード”が。で、そこに買いに行ったんですよ。で、それぞれみんな試着してるんですよ。で、みんなそれぞれ、「あー、すげーロック〜!」とかって言ってるんですよ。で、僕、試着室入ったんだけど、まだデブの名残りがあって、太モモパンパンだったんですよね。で、ちょっと人に見せられなくて、そのまま「うーん、俺も大丈夫だって」って、それ買って帰って来たんですよ。で、最初のライブに日まで、僕はそれを部屋に飾って、それを指差して“はいてやるぞー!この・・・レオタード!”っていって、当日まで頑張ったんですよね。そこは、ちょっとの期間だけダイエットらしいことしましたけどね、うん。そんなときに、周りでそうやってロックを好きな友達とは、会えたんですけども、わりとパンクロックを聞く人が少ないのが、すごい当時は悲しかったんですけどね。
当時、わりと自分の中ではアンセムだった、あの少年時代の心を奮いたたせてくれた曲、「ザ・クラッシュ」で『セイフ・ヨーロピアン・ホーム』。』
「ドブ板ストリート」は、行く前はドブが流れ、その上に板を張った通路があって、店が両脇に連なり、臭いもきつい所かと思っていましたが、行って見るとレンガを敷き詰めたきれいな通りで、まさに「ストリート」であったのですが、逆になんで「ドブ板」なのか不明でした。昔はそんなところも有ったのかも知れません。hideがだんだん痩せてゆく、生活もおかしい、お母さんが部屋に入ると、なぜかスパッツがかけてある、タバコの臭いもする。これは非行少年の仲間に入りかけてるんじゃないかと一悶着あったんじゃないでしょうか。いずれ家庭内不和が生じないはずはなく、バンド練習も夜に及ぶと帰宅が遅くなり、「何処に毎日行ってんの」と雷が落ちたはず。hideの行った学校は、有名な進学高校で、だからエレキギター禁止が生徒手帳に書かれたあるわけで、学業中心の高校生が塾でもないのに帰宅が遅いのは、親の目から見るとおかしいとなって、なにか悪い方向に入りかけてると心配したはず。すんなりライブを迎えられたはずがないと思いますが、そんな保守家庭の顛末の話があるのだろうか。その困難をどうhideは乗り越えたのだろうか、見てみたですね。
間違えた所もたくさん有ると思いますが、最後まで読んで頂いて有難うございますm(__)m