故郷 若狭を紹介いたします 

        

 

19.風音(ふうね)  表紙へ戻る

一押しの喫茶店を紹介しましょう。 若狭では有名な、国宝三重塔がある明通寺の近くに、カフェ&ギャラリー「風音(ふうね)」があります。 昭和43年に廃校になった小学校の分校を改修して、茅ヶ崎から移り住まれたご家族が開いているのです。 オーナーのご主人は木工家具製作、奥様はトールペイントをされる芸術家でもあります。 無骨な木造校舎のごついテーブルで、タンノイのスピーカーから流れるジャズを聞きながら、くつろぐ至極のひととき。 静寂の森に囲まれ、時間の流れが穏やかな感じがします。

お奨めは、世界各地の20種類を越える自家焙煎コーヒーと特製カレー。 中でも牛タンカレーは、じっくり煮込まれていて実に美味しい。 建物も食べ物も器も、全てひと味違います。 ただの喫茶店じゃありません。 場所は、小浜市のはずれ(小浜市門前12-10-2 電話:0770-57-2962)です。

18.縄文まつり  表紙へ戻る

若狭は、縄文文化の香りを今に伝える土地柄でもあります。 三方五湖に近い鳥浜貝塚では、過去10次にわたって発掘調査が行われ、我が国最古と言われる「赤色漆塗り飾り櫛」や「丸木舟」など、実に25万点もの遺物が出土しました。 日本最初の漆塗り櫛の発見を記した調査報告書には、「取り上げた瞬間は真紅の櫛だったものが、5000年後の空気に触れたとたん、手の中でみるみる黒ずんだ赤色に変色していった。」と記述されているそうで、その場の興奮と驚きが伝わってくる感じがします。 鳥浜貝塚は低湿地遺跡と呼ばれ、海抜0〜−4mに位置しているので、古代人が湖岸から水中に捨てていた日常生活のゴミが、腐食を免れて今日まで残りました。 時代としては、約5000年〜6000年前の縄文時代前期にあたるそうです。

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このような縄文時代とも深いつながりがある三方町には、縄文博物館ドキドキ館が開館し(写真左)、秋には縄文まつり(写真中)が行われるようになりました。 右の写真はそのイベントの一つ、「丸木船競争」です。 慣れないと、なかなか思い通りには操れず、冷たい水中に投げ出される参加者も少なくありません。 地元が賑わう秋の催しです。

 

17.若狭の散歩道  表紙へ戻る

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遊歩道の紹介ではありません。 ウッキーも何回か行ったことがある、井上耕養庵という和菓子屋さんのご主人が、ちょっと素敵な冊子を出されました。 このお店では、お菓子を買うと、和紙にプリントした手作りのリーフレットを、いっしょに袋に入れてくれます。 それらのリーフレットに書いてあった、若狭にまつわるエピソードを集めて、50頁あまりの冊子に仕上げたものです。 執筆されている人の中には、ウッキーの恩師にあたる元高校の先生の名前があったり、このHPで紹介した「若狭へ上陸した象」、「お水送り」、「山川登美子」などについての逸話も収録されていたりします。 「No.1」となっているから、きっとこれからも続刊される予定なのでしょう。 ご主人の若狭への愛情が伝わってきます。 地元の大先輩 井上さん がんばれ〜。

 

16.沖の石  表紙へ戻る

我が袖は 潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし 

源頼政の娘に生まれ、二条天皇に仕えていた二条院讃岐の歌で、百人一首に選定されています。 源頼政の領地が若狭にあった関係で、現在の小浜市田烏(たがらす)にある御所平という高台で詠んだ歌だと伝えられています。

「私の袖は潮が引いても見えない海中の沖の石のように、誰も気づきませんが恋の涙にいつも濡れていて、乾く間もありません」という悲恋の歌。

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ウッキーは、湾を望む展望台から撮影しましたが、強い波が来ると頂上まで波に洗われてしまうほどの、ちっぽけな岩でした。

 

15.象つなぎ岩  表紙へ戻る

「応永15年(1408年)6月22日に、スマトラ島から将軍足利義持に献上される宝物と共に、日本へ初めて象が上陸した。」と江戸時代の群書類従という文書に記されているそうです。

1408年といってもピンとこないけれど、「とんち」で有名な一休和尚が14歳で青春を謳歌していて、足利義満が没した年です。 象だけでなく、オウムやクジャクも献上されたと記録に残っています。 その上陸の地が京の都への窓口だった若狭であることは良く知られています。 (といっても、若狭でだけかな?)  当時の若狭の人々は、象が都へ歩いて行くのを見て、さぞ驚いたことでしょう。 
さて、その時に象を繋いだと言い伝えられている岩があると聞いて、出かけてきました。 

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小浜市甲ヶ崎(こがさき)にあるこの岩は、高さが70〜80cmですが、道路補修で半分くらい埋まってしまったと言うことですから、もともと大人の背丈くらいはあったのでしょう。 傍らにお地蔵さんと鳥居があって、近所の人たちに「神が宿る」と崇められているそうです。 海辺かと思ったら、現在は岸から数百メートルくらい離れた場所にありました。 

ところで、これが、本当に象を繋いだものかどうか、真実のほどは定かでなく、当時の他の文献に記載が無かったり、「船つなぎ岩」と呼ばれていた時もあって、疑問視する意見もあるのだとか。

 

14.お水送り  表紙へ戻る

毎年3月12日、奈良東大寺の二月堂にある若狭井(わかさい)で厳かに行われる「お水取り」。 関西では、これが終わると春が来ると言われ、早春のキーデートです。 「お水取り」があるのなら、反対の「お水送り」があるのかというと、これがあるんですねえ。 しかも海のある奈良と呼ばれる若狭の小浜(おばま)に。 若狭の行事の中で一番幻想的な神事だと思う、この「お水送り」を紹介しましょう。
行事には、こんな言い伝えがあります。 
インドから来た僧、実忠(じっちゅう)は大仏開眼供養を指導するために、奈良東大寺を訪れ、その後、天平勝宝4年(752年)に二月堂を建て、修二会(しゅにえ)を催して、世の平和と五穀豊穣を祈念しようとしました。 その時、全国の神々を招いたところ、若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん)だけ遅刻して、10日あまりも修二会の開催が遅れました。 魚釣りに時を忘れて遅刻してしまったのです。 遠敷明神は深く反省して、そのお詫びに本尊に供えるお香水を若狭から送ると約束し、二月堂の下の岩をたたくと地中から白と黒の鵜がとび出て、泉が湧き出しました。 それを若狭井と名付け、その水を汲む行事を「お水取り」と呼ぶようになりました。 若狭井の水は、遠く若狭小浜の鵜の瀬(うのせ)にある水中洞穴から送られたと伝えられていて、毎年3月2日夜遠敷(おにゅう)川の淵で「お水送り」の神事を行うことになりました。

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神事の儀式は、午前中から行われていますが、一般が参観できる行事のクライマックスは、夕闇に暮れた午後6時頃から始まります。 舞台は小浜市の南部にある神宮寺と遠敷川上流の鵜の瀬という史蹟です。 神宮寺で焚かれた大護摩から火をもらって、山伏姿の行者を先頭に、3000人にものぼる松明行列が、約2Km上流の鵜の瀬へ向かいます。 この行列が幻想的で勇壮なんです。 ほら貝が吹かれ、音が山にこだまして、雰囲気が盛り上がります。 鵜の瀬へ到着し護摩が焚かれると、いよいよ送水の神事が始まります。 白装束の神宮寺住職が祝詞を読み上げ、竹筒からお香水(こうずい)を遠敷川へ注ぐのです。 この日は、狭い遠敷川沿いの道路が人で一杯になり、大型のバスが何台も並ぶ盛況になります。 若狭にとっては、春の一大イベントです。

 

13.瓜割りの滝  表紙へ戻る

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若狭のほぼ中央に位置する、上中町という人口8000人あまりの町にある水の名所です。 ここは、昭和60年3月に「瓜割の滝」の名で、環境庁の「名水百選」の一つに指定されました。 この辺りは、古くから「水の森」と呼ばれてきたそうですが、「冬は温かく湯気立ち上がり、夏は瓜が割れるほどの冷水」と言われ、それが「瓜割り」と呼ばれる所以です。 なかなか洒落た名前だと思いませんか。 平成3年には若狭瓜割名水公園として整備され、町おこしのアイテムになりました。 名前を冠した日本酒やペットボトル入りの水、お茶なども販売されています。 この滝の下流にある水くみ場では、容器をもって水を求める人が引きも切らず、時には何人も列を作って待っていることさえあります。 また、すぐ傍には、地名にもなっている天徳寺というお寺があります。


12.風車の駅  
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ちょっと変わった建物でしょう。 JR若狭本郷駅の駅舎です。 1990年に大阪で「国際花と緑の博覧会」が開催された時に、蒸気機関車「義経号」が発着する風車の駅として使われた建物です。 博覧会後、ここの駅舎として移築されました。 六角形をした高さ15メートルの塔が2つ。 ジョン・バーニンガムという、イギリス生まれの作家が書いた絵本の世界をイメージしたという、メルヘンチックな外観は地元で親しまれています。 バーニンガムは、映画「チキチキバンバン」の美術も手がけています。 この駅舎、今は観光協会も入っていて、「風車会館」と呼ばれています。

 

11.萬徳寺(まんとくじ)  表紙へ戻る

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若狭には国宝級のものを含め、たくさんの古寺や仏像があります。 しかし庭園を持っている寺院となると、かなり限られてしまいます。 その数少ないお寺の一つ、小浜市金屋にある高野山真言宗萬徳寺の庭園を訪ねてきました。 ウッキーは、もう20年くらい前のゴールデンウィークに、一度だけ訪れたことがあります。 そのときは季節柄、ツツジが咲き誇っていて、すごく華やかで印象的だったことをよく覚えています。 今は秋ですが、紅葉にはちょっと早く、中途半端な時期で残念。 庭の上段左手にある紅葉が、ほんの少し色づき始めたくらいでした。 この庭園は1677年に築造された、落ち着いた枯山水風で、国の名勝に指定されています。 庭園に向かって左側には紅葉の大木と銀杏の木があって、紅葉を迎えれば一層すばらしい眺めだろうなと思いました。 重文に指定されている阿弥陀如来座像などの貴重な文化財もあって、仏像に興味のないウッキーでも、また行ってみたいと思うような閑静で若狭らしいお寺です。

 

10.山川登美子  表紙へ戻る

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いく尋の なみはほをこす くもにゑみ 北国人と うたはれにけり」  小浜公園にある山川登美子の歌碑です。 浪漫主義文学の代名詞的存在である「明星」を舞台に、与謝野晶子と才を競い合った女流歌人が山川登美子です。 晶子が奔放華麗な歌風で、文学史にその名が麗々しく刻印されているのに比べ、登美子は北陸の女らしく、激情を奥に秘め清楚哀婉なのが特徴でした。 小浜藩主、酒井家に側用人御目付役として仕えてきた由緒ある家柄に生まれ、大阪のミッションスクール梅花女子大で学び、晶子とは歌だけでなく与謝野鉄幹をめぐって、恋のライバルでもありました。 しかし、自ら身を引き親の選んだ相手と結婚しますが、その後、結核に倒れた夫との死別を契機に『明星』に返り咲きました。 ところが、すでに登美子自身も結核に感染していて、郷里の小浜で孤独のうちに29歳の若さで他界します。 登美子を記念して、母校の梅花女子大では、登美子の入学100年目にあたる94年から、「梅花・山川登美子短歌賞」がもうけられています。

 

9.佐久間艇長  表紙へ戻る

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写真は小浜公園にある佐久間勉大尉(1879〜1910)の像です。 この人は若狭の三方町出身で、国産初の潜水艦の艇長でしたが、明治43年山口県沖で潜航訓練中に艇が浮上できなくなり、艇員13名とともに殉職しました。 

彼が指揮していたのは、全長わずか22メートルのホランド型第6号艇と呼ばれ、アメリカの艇をモデルに、日本が国内建造した最初の潜水艇です。 その頃、潜水艦の機関はガソリンエンジンだったので、シュノーケルのような通気筒を海面に出していなければなりませんでした。 これは大変な弱点で、もし、ここから海水が侵入すると艇が沈没してしまう危険性があります。 この日、演習中に何らかの拍子で海水が通気筒から浸入してしまいました。 通気筒の弁を閉めたものの浸水は完全には止まらず、メインタンクを排水しても浮上しませんでした。 さらに電気系統がショートし電線が燃え、乗組員は呼吸困難になりながらも代わる代わる手動ポンプを動かして、海水を排出しようとしましたが、二度と浮上しませんでした。 

事態を悟った佐久間大尉は、最後の任務として、沈没の経緯や原因を詳しく書き始めます。 天皇陛下の艇を沈め部下を死なせることを謝罪し、乗組員全員が最後まで職務に忠実であった事を説明し、沈没の状況を書き記したのです。 部下の家族への思いも書かれた人間愛溢れる遺書と、極限状態における責任感ある沈着な態度は、当時日本だけでなく世界中から賞賛されました。 それには背景となる出来事がありました。 これと同じような事故が他国であって、事故後、艦を引き上げてみると、乗組員全員が出口に折り重なるようにして倒れていて、艦内の混乱の様子がうかがえたそうなのです。 ところが、第6号艇の場合は、佐久間大尉の最後まで冷静沈着な処理もさることながら、乗組員全員が自分の持ち場を離れずに死んでいたのです。 艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹はガソリン機関の前に、舵手は舵席に、空気手は空気圧搾管の前に。 艇が発見されたとき、海軍の関心は乗組員の安否より、もし他国の事例の様に乗組員が混乱した痕跡があれば、帝国海軍の恥をさらすことになる、と言う心配だけだったようですが、引き上げられた艇の状況を検分した吉川中佐は、その見事な死に様に感服して、男泣きに泣き崩れたということです。 

 

8.アクアトム  表紙へ戻る

写真はお台場の名所フジテレビ? 

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いいえ、核燃料サイクル開発機構が敦賀市にオープンさせたPR館「アクアトム」の展望室です。 若狭一帯には原子力発電所や研究施設、それらに関連するPR施設が数多くあります。 ここアクアトムには親子で学んだり、ゲーム感覚で楽しめる設備がいくつも揃っていますが、特にユニークな展示の一つが、体長70cmくらいのシーラカンスの形をしたロボット魚です。 直径2mほどもある円筒形をした水槽の中を、尻尾とヒレを器用に動かしてバランスをとりながらゆったりと泳ぎます。 作り物とわかっていても、ちょっと見応えのある展示です。

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また、玄関を入ってすぐのホールには、1階から3階まで吹き抜けになっている巨大なボールタワーもあって、子供たちが楽しそうに眺めていました。

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展望室からは、市内がよく見渡せます。 左は敦賀の名所、気比(けひ)神宮、右は敦賀港です。

 

7.七年祭り  表紙へ戻る

若狭高浜にある佐伎治(さきち)神社のお祭りで、7年祭りと呼ばれますが、お祭りの年を起点に1年目とするので、実際は6年に一度巡ってきます。 だから、巳と亥の年がお祭りに当たります。 旧暦6月の卯の日から酉の日までの7日間にわたって、屋台で芝居の上演や御輿の巡幸があり、最後の日には御輿を担いで海中へ入り、祓い清めて終わります。 今年2001年はお祭りの年に当たっていて、賑やかに御神輿が練り歩きました。 でも、残念ながら、ウッキーはまだ御輿が海に入るところを見たことがありません。

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6.杉田玄白  表紙へ戻る

「解体新書」、「蘭学事始」で有名な江戸時代のオランダ医学者、杉田玄白(1733〜1817年)は若狭の小浜藩の人です。 生まれたのは江戸の小浜藩邸で、幼少時代を小浜で過ごしました。 公立小浜病院の前には写真のような像がたてられていて、医学の先駆者の業績を偲ばせています。

まるで手塚治虫の漫画みたいで、ちょっとかわいい玄白さんです。

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また、玄白のお墓は、奇遇なことにウッキーが出向していた会社がある、東京虎ノ門の栄閑院にあります。 明治41 年に再建されたものですが、今もお墓に献花する人が絶えないそうで、ウッキーが訪れた日も、やっぱりきれいなお花が供えられていました。

 

5.立木仏  表紙へ戻る

何年か前に、内戦で破壊されたアフガニスタンのバーミヤンの仏像の様に、断崖に刻んだ仏像を磨崖仏(まがいぶつ)と言います。 同じように木に仏像を刻んだものを、立木仏と呼ぶそうですが、ウッキーの自宅近くのお寺にもあります。 (実は極最近知りました)

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諦応寺というお寺の山門のそばに大きな銀杏の木があって、その側面に写真の様な十一面観音が彫刻されています。 アメリカでは、マウント・ラシュモアと言うところに建国当時の大統領の顔が彫られていたりするし、政治家には自分の銅像を望む人たちも多いようですが、生きた木をくり抜いて刻んでもらった観音様は本当に喜んでるのかなあ?

 

4.無名?の母校  表紙へ戻る

若狭出身の有名人って誰でしょうか? 古くは解体新書でおなじみの杉田玄白さんから、今では五木ひろしさんや大和田伸也、大和田漠さんの様にテレビで活躍されている方々がいます。 ユニークな個性の持ち主で、元阪神の川藤幸三さんも若狭の出身です。

つい先日、昼食に入ったお店で週刊誌を読んでいたら、川藤さんの記事が載っていて、その記事の最初の部分に目がくぎ付けになりました。 「・・・・、出身校は若狭高校という全くの無名校。」 な、な、何?。 こらこら、ウッキーの母校を無名校で片づけるなよ。 甲子園だって、花園のラグビーだって何回も出場しているし、ワールドクラスの卓球やレスリング選手だって輩出しています。 「川藤さん、こんな週刊誌 一喝してやってください。」 というわけで、面識はありませんが川藤さんはウッキーの大先輩にあたります。

 

3.塗り箸の産地 小浜  表紙へ戻る

若狭のほぼ中央に位置する小浜市は「海のある奈良」と呼ばれることがあるように、立派な庭園や塔を持つ古いお寺がたくさんあります。 

また、塗り箸の生産高が全国一で、日本各地で他の銘柄で売られている箸でも、その多くは小浜産というのが実態です。

昔は京阪神の避暑地としても栄え、夏場には人口が10倍になると言われた若狭ですが、最近は海水浴客もめっきり少なくなってしまいました。 それでも、きれいな海と素朴な人情は今でも健在です。

 

2.ツヌガアラシトって誰?  表紙へ戻る

写真帳に「ツヌガアラシト」という像の写真を貼っていますが、これは誰なのでしょうか?

日本書紀に日本海沿岸のあるところに「額に角のある人」が上陸した。 その人に名前を尋ねたところ「ツヌガアラシト」と名乗ったという記述かあります。

それにちなんで、上陸した場所を「角額 つぬが」と呼ぶようになり、それが今の敦賀という地名になったということだそうです。 古くから大陸と繋がりのあった若狭ならではの言い伝えですね。

敦賀市は若狭地方で最も大きな街で、主にロシア等との交易をする国際貿易港でもあります。 最大といっても人口は7万人弱ですから、一般的に言えば小都市なんですけどね。

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1.若狭という地名の由来は?  表紙へ戻る

これは実はいろいろな説があるらしいのですが、私が一番気に入っているのは朝鮮語からきているという説。 

若狭地方は歴史の古いところで、貝塚や古墳が各地に残っていますし、大陸との往き来ができるようになると、日本海側の窓口として京の都との橋渡しを果たしてきたところです。 1400年代のはじめに、日本に初めて象が上陸して、上洛したのも若狭経由だそうです。

ところで朝鮮語で「来て行く」という意味、つまり往来を意味する言葉を「ワッソ(本によってはワカソと書かれています)」と言うそうで、それが若狭の語源だという説があるのです。 

「ワッソ」はおみこしのかけ声「わっしょい」の語源だとも言われています。

写真は製塩所の遺跡。 鎌倉時代、若狭は一大製塩地帯で、都への塩供給地でもあったそうです。

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