ご注意。
・兵盤です。
・真嶋ですか?
・メインは盤です。







ワルキューレ・プロット







 兵悟君のせいばい。
 ファミリーパック用にとたくさん餃子の詰め込まれたパックをむんずと掴み、モスグリーンの籠の中に放り込む。何も入っていない籠の中でぼやんと跳ねて、パックの中で片側に寄った餃子に、兵悟君のせいばい、と盤はむぅと唇を引き結んだ。
 中華惣菜ばかりが並んだ棚には『17時以降に作りました』と言うシールが貼られた彩り鮮やかな惣菜がまばらに並んでいる。酢豚にするか、エビチリにするかと一瞬迷った盤だったが、やっぱりエビチリにしようと手を伸ばしかけたところで、背広姿のサラリーマンが盤の横から手をエビチリを取って行く。しかも最後のエビチリだった。そのエビチリはオイのじゃ!と殺意を込めて睨みつけても、くたびれた風情のサラリーマンはまったく気付きもせずに、ふらふらと野菜売り場の方へ歩いて行った。
 兵悟君のせいばい。
 盤は何か腹立たしく、エビチリとどちらにしようか迷っていた酢豚も取らずに惣菜売り場を離れた。
 一歩歩くごとに兵悟への苛立ちが募り、怒りのボルテージも高まって行く。擦れ違った小学校にも上がっていないような子供が盤を見てわぁわぁと泣き始めたが、盤は振り向きもしなかった。
 仕事が終わったら久しぶりに食べに行こうよ〜、といつものごとくのほほんとした顔で兵悟が誘ってきたのは、その日最後の出動がかかる少し前だった。中華なら良かよ、と盤は素っ気なく答えたが、兵悟は嬉しそうに、いいね中華、とはしゃいでいた。日常の些細なことにも単純に喜び、純粋に感動する兵悟を盤は好ましく思っていたので、何食べようかなぁ、と行き着けの中華屋のぼろぼろのメニューを思い出して指を折る兵悟をこっそりと盗み見ていた。ところが、その後にわかに基地は忙しくなった。当直だった二隊に出動がかかり、準待機だった三隊にも要請がきた。岸壁に接触したプレジャーボートに取り残された大学生三名からの救助要請だった。救助自体は無事に終わったのだが、基地に戻り後片付けをしている三隊の元に、助けたばかりの大学生がやってきたのだ。ヘリから降下した兵悟の腕をがっしと掴み、是非お礼をさせてください、と煩く囀る。救助活動に参加していたのは兵悟だけではないと言うのに、他には目もくれない熱心さだった。通常は丁重にお帰りいただくところだが、勤務が明けたばかりでもあったし、尚且つその場に残られたのでは煩くて叶わないと主張する嶋本の言葉が鶴の一声となって、真田直々に、行って来い、と命じられたのだ。
「えっと、じゃあ、そう言う事なら…」
 兵悟が困ったようにではあるが、へらりと笑みを浮かべると、待っていましたとばかりに女子学生は飛びついた。
「美味しい中華の店があるんですよ〜!」
「すっごく美味しくて、ボリュームもあるんです!」
「勿論私達が奢りますから!」
 ピーチクパーチク囀る三人に引きずられ基地からフェードアウトしようとしていた兵悟は、事務所から出る所でようやく盤との約束を思い出したらしい。
「あ、そうだ! どうせだったら盤君も一緒に…!」
 どうせだったらって何ね、と盤はこめかみを引きつらせた。
 仮にも恋人を、いや、恐らくは恋人だろう相手との約束よりも、ポッと出てきた女子学生と真田の一言を優先させた挙句、少し前まで話していた約束を綺麗さっぱり忘れ、その上、どうせだったら、とは何たる言い草か。
 立ち止まり振り返った兵悟につられた女子学生が振り返り、帰り支度を終えていた盤を見ると、ぱぁっと顔を輝かせた。
「あ、良かったらご一緒に!」
「助けに来てくれた人ですよねぇ?」
 キャアキャアと騒ぐ甲高い声が耳障りで、盤はぎらりと睨みつけた。兵悟と女子学生がびくっと肩を竦め、一瞬言葉を詰まらせる。
「ここは海上保安庁の基地ったい。騒ぐんなら他所でやらんね。あんたらの声ば煩ぉてかなわん。救助要請ば聞き逃したら責任取れっと?」
「おい、石井。お前、言い方っちゅーもんが…」
 盤の詰る口調に女子学生の一人の目に涙が浮かぶのを見て、慌てて嶋本が飛び出してくるが、真田がゆったりとそれを止めた。
「いや、石井の言う事は最もだ。申し訳ないが、速やかに退出をお願いしたい。ここは緊急要請に応じる場なので、出動要請が入った場合、あなた方は邪魔になる」
 真田の落ち着いた声音と諭すような言い方に、女子学生三人が顔を見合わせた隙に、盤は彼女らの脇をさっと抜けた。
「あ、盤君」
「お疲れ様でした!」
 兵悟が何か言おうとするのを無理に遮って基地を飛び出した。ずかずかと足音も高く基地を出て競歩のごとく勢いで歩き、駅に近付いたところで振り返ってみた。もしかしたら兵悟が追いかけてくるかもしれないと思ったからだ。だが振り返った先にいるのは、道路に投げ捨てられたコンビニの袋を突くカラスくらいだ。兵悟の欠片も見えやしない。
 ジーンズのポケットに突っ込んでいた手をぶるぶると握り締め、もう知らん、と電車に飛び乗った。兵悟君なんか中華で喉詰まらせて死ねばよか、とぶつぶつ呟きながら官舎に戻り、何か食べようと思って冷蔵庫に何もない事に苛立った。元々行く予定だった行きつけのラーメン屋に一人で食べに行こうと脱いだばかりの靴を履いたらスニーカーの紐が切れた。仕方なくあんまり気に入っていない靴に足を突っ込んで部屋を出て、ラーメン屋に行ったら臨時休業とかでドアががっちりと閉まっている。こうなったらどうあっても中華を食うてやる、とスーパーに来てみれば、エビチリを横から掻っ攫われた。
 何もかもがおもしろくない。
 何もかもが兵悟のせいだ。
 餃子だけ買って帰って、米は昨日炊いたのがそのまま残っているから、インスタントの味噌汁でも作って食べて、寝てしまおう。鍵をかけて、チェーンをかけて、兵悟がきても絶対に部屋に入れてなどやるものか。そうだ。官舎に戻ったら部屋にある兵悟の私物を全部廊下に出してしまおう。それがいい。
 そんな事を考えていたら、通路に積み上げられていたお菓子の山に籠を当てて崩してしまった。ばらばらと落ちるいくつかの菓子箱を元に積みなおしながら、これも兵悟のせいにした。兵悟があんな女の子たちと中華を食べに行ったりするから、こんな所でお菓子の山を崩して菓子箱を拾うはめになったのだ。
 兵悟君なんか、中華ば食べ過ぎて死ねば良か、と何度目になるか解らないぼやきを呟いた時、やけに明るい耳慣れた声が聞こえてきた。
「お、白菜が安うなってますよ。隊長、白菜使うてなんかしません?」
 こんなげな所まで軍曹さん…、とよろめいたところでまたさっきのお菓子の山に今度は背中が当たり、ばらばらと落ちた菓子箱をまた拾うことになってしまった。早く片付けて見つかる前に店を出なければ、と焦る盤の耳に、落ち着いた真田の声が届く。
「嶋、出先で隊長は止めないか」
「あ、そーですね。そしたら真田さんで」
 盤がいたのは野菜売り場の棚をひとつ隔てた場所だったので、野菜売り場にいる二人の会話は良く聞こえた。
「白菜使うて作る料理ってなんか思いつきません? 折角安いしなぁ。一玉買うてなんか作りたいなぁと思うんすけど」
「餃子か、ちゃんぽん」
「…なんでその二つなんですか」
「石井と神林が中華の話をしていたのを思い出したんだ」
「はぁ? 中華っすか? なんでまた。しかもちゃんぽんて中華ちゃうし」
「さぁ。食べに行くつもりだったんじゃないのか?」
「そやのに隊長…やのぅて真田さん、あんな事言わはったんですか?」
「あんな事とは?」
「だから、例の三人組ですよ…神林を中華に連れてった。食べに行ってこればええとか」
「どうせ食べに行くのなら一緒に行けばいいと思っただけだが。いけなかっただろうか」
「そら…あかんでしょ。考えてみても下さいよ。俺と隊長…やのぅて真田さんが飯食う約束してんのに、あんま親しくもない女の子がきて一緒に飯食おうて誘うんですよ? ええ気はせんでしょ」
「いや、特には。食事くらいなら」
「ほな俺だけ。俺だけその女の子と飯食いに行って、真田さん置いてけぼり」
「……それは…嫌だな」
「でしょ。餃子作るんでいっすか?」
「作れるのか?」
「まぁ大体は。白菜切って挽肉と混ぜたらええだけでしょ。にんにくと…臭み消しに生姜入れるんやったかな? オカンに聞いてみよ…」
「よろしく伝えておいてくれ」
 床に落ちた菓子箱の最後のひとつを拾い上げたままで、盤は突っ立っていた。
 棚の向こう側で、嶋本と真田はこちらにいる盤の存在など知らずに話をしている。普通の会話だ。ごく日常の、取り立てて何ということもない会話だ。だが基地で仕事中にするのではないものだ。嶋本と真田がそう言う関係であるのことは盤は知っていて、嶋本と真田は盤と兵悟がそう言う関係であることを知っている。だから二人の会話に自分達が話題として上がるのになんら不満はない。だが。
 この差はなんだろう、と盤は項垂れた。
 餃子を二人で作って食べようとしている彼らと、モスグリーンの買い物籠の中に出来合いの餃子のパックをひとつ入れ、家でこれを一人で食べる自分と、どうしてこんなに違うのだろう、と情けなくなった。
 恋人がいて、同じ職場で働いていて、家も結構近くで、それなりにうまくやっている。
 どちらも条件は一緒だ。
 なのに、現実はこんなにも違う。
「はぁ? しいたけ? しいたけなんか入れるんかいな…ほんで? ニラ? あーなんとなく解るわ。真田さん一緒やしなんとかなるやろ。え、フライパン。あかんの? ホットプレート? あー…どやろ。探してみる。あ、真田さんがオカンによろしゅうて言うてはったで。おう、言うとく。ほななー」
 嶋本が一方的にしゃべり、時折沈黙する電話特有の会話が終わると、真田が不思議そうに尋ねた。
「しいたけを入れるのか?」
「そうみたいです。真田さん、うちってホットプレートありましたっけ? フライパンで焼くよりそっちのがええ言うてたんですけど…」
「押入れの上にたこ焼き機と一緒のものが入っていたと思うが」
「そうでしたっけ? そや、ようけ作って水餃子とか作りません? 俺、あれ結構好きなんすよ」
「スープに味がついている奴がいいな」
「あ、それからうちのオカンがこないだ送ってもろた……」
 話しながら場所を移動しているようで、二人の声も段々と離れていく。
 盤は衝動的に踵を返し、惣菜売り場に戻ると、籠の中に入っていた餃子を乱暴に売り場へ戻した。たまたま側にいたおばさんが、ンマー、と言う顔をしたが知ったことではない。そのままの勢いで中華惣菜ではなく、ヒレカツ、寿司、てんぷら、サンドイッチと手当たり次第に籠にぶち込んでいく。
 中華なんか二度と食わん、と盤は泣きたくなる気持ちを憤りに擦り返る。
 何もかも、兵悟君のせいばい。
 世界中の不幸を背負ったような気持ちの盤がぶつぶつ呟きながら歩く官舎への帰り道、大量の惣菜を入れたビニール袋は前触れもなく唐突にビリッと破れ、惣菜のパックがドサッと路面に落ちた。一拍後に甘ったるい匂いが辺りに漂い、道に散らばった惣菜と、ひしゃげて外れたパックの蓋が転がっている。
 盤はもはや怒る気にもなれなかった。







ウラネタ。
・基地内では『鶴の一声』ではなく『嶋の一声』と呼ばれている。
・『嶋の一声』は真田をも動かす。
・ワーグナーの「ワルキューレの騎行」は運転中聞くと事故りやすい曲ナンバーワンに選ばれた。
・運転時には気をつけましょう。