ご注意。
・真嶋です。多分。
・『一年越しのキス』を先に読まれたほうがよろしいかと。







シマキャット




 ぼてっと頭の上に何かが落ち、覆い被さる感触に、真田は足を止めた。
 熱波の只中にいて、それだけでもうんざりとするのに、頭の上に更なる熱が加わる。そして重さもだ。
 ブニャ、と案外近くで聞こえた音に、真田はおもむろに手を伸ばし、頭の上に突然落下してきた物体をむんずと掴んだ。頭から無理矢理に引き摺り下ろそうとすると、それは、真田の額にがっちりと爪を立てる。
「……ああ。猫か」
 思わずそう日本語で呟くと、顔なじみの子供が真田を見て指をさして笑う。額にがっちりと立てられた爪は痛いが、だからと言ってこのまま猫を頭の上に乗っけたまま歩くわけにも行くまいと、やや乱暴に引き剥がした。
 掴んだところが尻尾だったようで、真田の目の前で猫がぶらんと宙吊りになる。子供が泣きそうな顔をしているので、これはいかん、と猫を持つ位置を尻尾から首根っこへと返れば、子供はホッとしたように笑みを浮かべた。
『君のか?』
 覚えたてのインドネシア語で訪ねると、子供はぶんぶんと顔を横へ振る。となるとこの猫は野良猫か。
 インドネシアの気候にはそぐわなさそうな長毛種の猫は、ひょっとしたらペルシャの血が入っているのかもしれない。茶色と灰色の斑になった薄汚い猫は、不遜な眼差しで真田を見ている。身体は小さいが肝は据わっているようで、真田に首根っこ掴まれ宙吊りになっているのに慌てず騒がず、ぶらんぶらんと両手両足ついでに尻尾までも重力に任せている。毛皮の模様なのか、それとも汚れているからなのか、眉をぎゅっと寄せ、猫の目は据わっている。
 じっと、穴が開くほどジッと真田を見る眼差しに、真田は首を傾げた。
「嶋に似ているな…」
 どこがですかっ、と目を吊り上げて怒る嶋本の姿が頭の中に浮かび、真田は聞こえているはずもない相手に言い訳をする。
「……眉の辺りが、特に」
 真田と猫との奇妙な遣り取りは周りの注目を集めていたらしい。真田がじっと猫を見て動かずにいると、同じようにじっと止まっていた町の動きが、やがてゆっくりながら動き始めた。
 ぶらんぶらんと両手両足ついでに尻尾までをだらけさせている猫は、さながら真田の部屋で寛ぐ嶋本のようだ。
 どうしたものか、と真田は思案した。
 うっかり恋人の姿を思い出してしまったせいでこの猫に情が沸いてしまったが、かと言って飼うわけにもいかない。期間付きで派遣されている身なので、期限がくればインドネシアを発つ。複雑な手続きをしなければ猫など連れて帰れない。一度飼った以上、期限がきたからと放り出して行くような無責任な真似をしたくはなかったし、この猫は嶋本とは気は合わないだろう。直感でそう思う。
 さて、と考え込む真田の前に、ぱっと子供が飛び出した。
 早口でまくしたてるのを制し、ゆっくりと話すように促すと、子供は短い単語をいくつも並べた。解読するところによると、子供の祖母が猫を好きだという。真田が日常的に利用する店の主が猫好きであるのなら言う事はない。
 なるほど、と真田は笑む。
『頼む』
 子供の手の中にぽとんと猫を落とすと、子供は嬉しそうにそれを抱いた。ぬいぐるみを抱くようにぎゅっと抱きしめられた猫は、子供の腕の中からちらりと真田を見上げた。眉間の皺がぐっと深まったようだ。
 真田は思わず、嶋、と呼んで猫の頭を撫でた。
 嶋本が知れば顔を真っ赤にして怒るに違いなかろうが、本当にそっくりだったのだ。
 子供は猫を見下ろし、そして真田を見上げると、シマ、と首を傾げた。
『シマ!』
 子供はぱっと顔を輝かせて猫を抱き上げる。
 シマ、シマ、シマ。
 何度も猫をそう呼んで、子供は身を翻した。ばあちゃんにシマを見せる、と叫ぶ子供が手を招くので、真田もその後を追った。
 どうやらあの猫の名前はシマになったらしい。
 子供の肩に担ぎ挙げられ、それでも不遜な顔で真田を見やる猫の顔に、真田は苦笑する。走る子供の肩の上でがくがくと揺さぶられつつも動じない態度と、ひたりとあわせたまま視線を逸らさない様が、荒波をボートで突き進む最中の彼を思い出させる。
 真田を急かすように、ブニャ、と鳴いた猫は、やっぱり嶋本にそっくりだった。