ご注意。
・兵盤です。
・未来話です。
・二人とも三隊所属です。
・兵悟が隊長です。
・盤が副隊長です。
・二人はプリキュアバディです。
・そがん話でも良か人はずずいとどうぞ。










Proof of Life.


 福井沿岸で海難発生、特殊救難隊に出場要請が入ったのは十七時二十一分、別案件から羽田基地へ帰還中の三隊が臨場したのは十七時五十分。その日の日没の予定時刻は十八時四十八分。救出がより容易に行えるのは日没までの五十八分だ。ただでさえ視界の悪い時化の中、日没などあってないようなものだが、雲の向こうにでも太陽があるのとないのとではまるで違う。日没のその後は視認が難しくなり救助活動はより困難を極める。
「早う基地ば戻って、あったかいもんでも飲みたかねー」
 岸壁に衝突し沈没した遊覧船に突入する前に、最終打ち合わせの際に盤はそう言ってへらりと笑った。
「日本海の海は冷たかー。兵悟君もそう思わんね?」
 寒そうにぎゅっと身を竦め、おどけた様子で言ったのは何も救助活動を甘く見ているからではない。緊張した面持ちの皆の気持ちを和らげようとしてのことだ。彼が最初に仰いだ押尾隊長がそうであったようにだ。
 沈没した遊覧船の中に船長と彼の孫とが取り残されている。時化の海にほんの少し船を浮かばせ、遠方より訪れた孫を喜ばせてやりたかったと救助を求めた無線で船長は悔いたと言う。気持ちは解る。だが、それが時として命を奪う危機にも発展する。安易な気持ちが重大な海難に結びついた事例を、兵悟は過去いくつも目にしていた。
 厳しい事案ではあったが、しくじるわけにはいかない。
 兵悟は荒れ狂う日本海の波を前に、ただただ手すりを掴んでいた。揺れる船の上でじっと身体を起こしていることも困難だ。この海の下に、盤はいる。救助者の場所を確認するために突入し、船内捜索を行っていたからだ。
 要救助者の正確な位置が解らない。船内捜索をする必要があるとの兵悟の判断に、盤はへらりと笑って手を挙げた。
「オイが行くんでよかっちゃんね?」
 どうして、と兵悟は手すりを掴む手に、握り潰すほど力を込めた。
 どうしてあの時、行け、と命じたのだろう。
 盤の技量は三隊の中でも抜きん出て高い。だが、どうして一緒に行かなかったのだろう。いいや、逆に言えば兵悟が行けば良かった。盤にやらせるのではなく、兵悟自身が行けば、あそこに、岸壁に船体を接触させ、岩だらけの海底に沈没している遊覧船に取り残されているのは兵悟だった。ここでただじっと待つよりも、そちらの方がよほどいい。
「心配せんでもすぐに要救助者ば見つけて連絡するったい」
 盤の言葉通り、船内に突入した盤はすぐに要救助者を見つけた。遊覧船のラウンジに船長と彼の孫は取り残されていた。ラウンジにも海水は入り込み、半ばまで浸水していたが、幸いなことに、船体が引っくり返ったおかげで窓が下になり、床と大きな床下収納に空気は多く残っていた。体力は消耗しているが、二人ともが無事だった。
 盤の報告に三隊の隊員二人が船内に侵入、怪我をしていた船長を先に救助した。盤は孫と共に船内に残り、船長を救助した二人が戻るのを待った。そしてその間に大波が押し寄せ、船の位置が変わった。避難路として確保していた場所が使えなくなり、盤は船長の孫と一緒に沈没した遊覧船の中に取り残された。
 今から、十分も前の話だった。
 風雨の勢いはますます酷くなり、日没は間近だ。すでに夕闇が辺りを多い、投光機がなければ遊覧船の沈んだ箇所すら定かには見えない。
 兵悟は手すりを掴み、唇を噛み締めた。
「隊長…」
 気遣う声が背中にかかったが、兵悟は振り返れなかった。
 考えろ。
 兵悟は自分に言い聞かせる。
 どうやったら二人を救出できるか、考えるんだ。
 岸壁に接触しているからクレーンで吊り上げるのは無理だ。うねりが強くボートは近付けない。泳いで行くことはできるが、突入の突破口が見つからない。いや、あるにはある。ラウンジの窓だ。遊覧船とは言え、漁船を模したものだったのが幸いし、沈没した遊覧船の窓は丸く小さなものだ。今、盤と船長の孫とはラウンジの床下収納に首を突っ込み、空気を摂取している状態だから、盤が潜り、ラウンジの窓を開けられれば、そこから出られるだろう。小学一年の子供なら、それは可能だ。
 だが、盤は?
 兵悟はぞくりと背筋を這い、みぞおちに落ちた悪寒に息を飲んだ。
 盤を、助ける術が見つからない。
『兵悟君。聞こえとう?』
 ジッと耳元で震えたイヤホンに、兵悟は慌てて首に密着させたマイクに手をやった。
「……聞こえてる。突入する方法を考えてたんだ」
『そんなもん、考えんでも解っとろーもん。早う誰か窓んとこに寄越さんね。要救助者は小さか子供ったい。あん窓ば開ければ外に出せようね』
「君も、助けるから」
 兵悟の掠れた声は骨電動マイクを通して盤にも伝わる。せめてこの雨風に邪魔され声の震えは聞こえなければいいのに、と兵悟は思った。
『オイは要救助者じゃなかよ』
 おかしそうに笑う盤に、兵悟は苛立った。
「盤君も要救助者じゃないか! そっから出られもしないくせに!」
『出られんこつ、なか』
 イヤホンから伝わる声は、あくまで穏やかだ。うねる風の音も、岩も砕こうとする荒波の音も、海底に沈んだ盤には遠いようだ。ふふ、と笑いさえ潜ませた声で盤は言った。
『オイは自力で出れようもん。兵悟君は要救助者のことば考えたら良か。早うせんと空気がのうなってきとうよ。あと十分も保たんね。それにもうすぐ日没っちゃ。日が沈んだら見えのうなるよ。そいがリミットったい』
 兵悟は投光機に照らされた海を見た。巡視船との距離を測り、ここから飛び込み泳ぎ到達する時間を目測する。
「三分で窓に行くから。ライトで合図する。そしたら、要救助者一名を外に出して。子供だとパニックになるかもしれないから、気絶させておいて」
『了解』
「田崎、俺と一緒に突入。小沢、ここで待機。要救助者の引き上げを」
「了解!」
 ちらりと振り返り命じる兵悟に、名を呼ばれた二人が準備に取りかかる。兵悟はそれらを眺め、仄かに笑んだ。安心して、と思うこの気持ちが伝わればいいと思いながら、首のマイクに手を伸ばす。
「盤君」
『何ね?』
「今から、行くからね」
 イヤホンの向こうで、少し盤が笑ったようだった。
『待っとうよ、兵悟君』
 兵悟は手すりを握り締めた。鉄製の手すりを捻り切ってしまいそうなほど力を込めた。海が、荒れ狂う波が、それを助長する沖風が、何もかもが憎い。
「隊長、準備できました!」
 苛立つ兵悟にかかる声は、信頼に満ちている。せめて今は、それに答えなければと兵悟は顔を上げた。
「小沢、後を頼んだよ」
「了解しました!」
 ボンベを背負い、田崎と進路について最終打ち合わせを行う。
 そして、飛び込む。
 身体が波に流されそうになるのを堪え、投光機が照らす沈没船へ真っ直ぐに泳いだ。転覆した船は海面へ向かって腹を見せているのが視認できた。ラウンジの窓は一度目に近付いた田崎が知っている。兵悟の前を泳ぐ田崎がいくつも並ぶ丸い窓の中ごろを指差した。窓が割れ、ガラスが綺麗に抜けている。あれなら要救助者が不要に傷付くことはないだろう。近付いた兵悟はヘッドライトを何度も点滅させ合図を送る。ほんの僅か後、要救助者を抱えた盤が姿を現した。ぐったりとした子供を抱えている。ゴーグルに隔たれた盤の目が、兵悟を見て少し和らいだ、と兵悟は思った。
 子供を窓から外へ出す。ぐったりとした子供は兵悟が言った通り、盤の手によって気絶させられている。盤から受け取った子供を、田崎に預けた。そして盤を振り返った兵悟は、思わず目を見開いた。
 丸い窓の向こうで、盤が敬礼をしていた。
 やめてよ、と兵悟は喚きたかった。殉職しに行くような様を、見せないでよ、と縋りたかった。
 だが、兵悟は敬礼を返した。
 ゴーグルの中でじわりと滲んだ涙に気付いたのかどうか。盤はふっと微笑んだようだった。そして、敬礼していたその手を、シッシッとまるで犬でも追い払うように動かす。
 田崎はすでに要救助者を抱え巡視艇を目指している。後を追わなければならない。盤を、置いて行くしかない。
 その時、ぐらりと船体が揺らいだ。ギィイイイと金属を擦り合わせる嫌な音が辺り一体に響き渡る。何の拍子にか、岩礁に引っかかっていた船が動き始めたようだ。
 ふいに西海橋のことを思い出した。あの時も遊覧船が破損し、渦に飲まれた。
 あれと同じだ。
 海岸とは言え、岩礁から落ちればそこから先に助ける術はない。いや、落ちる船が生み出す渦に巻き込まれ、兵悟や田崎すらも危なくなる。強張る兵悟の前で、ひらひらと手が揺れた。
 早う上に上がらんね。
 まるでそう言うような盤の手はすぐ目の前にあり、伸ばせば掴めそうだった。
 ギィイイイとまた、船が啼く。心なしか波の動きが変わったようにも思える。
 兵悟は延ばしかけた手を握り、背を向けた。一瞬の躊躇いの後、水を蹴った。上下左右から突き上げるような波を泳ぎ、海面へ泳ぎ上がると、投光機が照らす中、田崎が引き上げ準備作業にかかっている。ザッと近付いた兵悟が手を貸すと、田崎がちらりと視線を寄越した。
「隊長、副隊長は……」
「今は要救助者を引き上げるのが先!」
 船上へ引き上げられた子供は気絶させられていたせいでそれほど水を飲んではいないようだが、その他に怪我がないか気にかかる。巡視船の船内に運びいれ、救命救急士の資格を持つ小沢が措置に当たる。ゴボリと小さな口から吐き出された海水と、ひゅっと息を飲む音が兵悟の耳に聞こえた。大丈夫そうだ。
「後、頼むね」
 言い置いて兵悟は甲板へ取って返した。以前海は荒れ狂う様相を見せており、雲の向こうに僅かに存在を感じた太陽すらも沈み、空は暗く、寒い。風も強くなっているようで、耳を通り抜ける風音も刺々しさを増していた。
「盤君」
 この海の底に、盤がいる。
 あの閉ざされた遊覧船のラウンジで、床下収納の僅かな空気と、ボンベの空気に頼り生きている。まだ生きている。だが船は危うくなる一方だ。方法さえあれば、まだ間に合う。助けることができる。なのに、その方法が見つからない。
「クソッ…!」
 兵悟は手すりに手を叩き付けた。ガツンと凄まじい音がして鉄製の手すりがたわむ。叩き付けた手は痺れるほどに痛かった。だが、それが何だと言うのだ。この手で、惚れた人すら救えず、何がトッキューだ。
「どうしたらいいんだよ…ッ!」
 兵悟君は、あかんたれやね。
 雨に濡れた頬に触れた指先を思い出す。
 オイがどっか行ったら、どげんすんと? 兵悟君みたいなあかんたれとバディ組んでくれる物好きは、おらんよ? オイくらいなもんばい。
 出会った時には気の合わない、何を考えているのか解らない相手だと思ったのに、知り合えば知り合うほど、そして触れ合えば触れ合うほど愛おしいと思いは募った。
 兵悟君、オイが三隊の副隊長に選ばれっと? かー、面倒くさかねー。基地長はオイに兵悟君の御守ば、押し付けるつもりけんね。
 隊長に任命され、副隊長に盤を付けられた時、どれほど嬉しかったか。また、盤と共にレスキューができる。幾度の喜びを分かち合える。
 そう思ったのに。
 それがすべてここで途絶えてしまうのか。
「…盤君!」
 海に向かって吼えても、返るのは風の音と波が岩に打ち付ける音ばかりだ。
 くそ、と項垂れたその時、隊長、と呼ばれた。船内で救出した子供の対応に当たっていた小沢の声に振り返ると、小沢が手招きをしていた。
「子供が目ェ覚ましました。そんで、ちょっと…」
「何? 何かあった?」
 甲板を入れ違いに出てきた田崎に任せ、小沢と共に船内へ入ると、毛布でぐるぐる巻きにされた子供が、大きな目を瞬いていた。
「ひょーごくん?」
「……は?」
 あどけない声に呼ばれ目を丸くする兵悟に、小沢が子供の背を支えながら付け加えた。
「目ェ覚ましてからずっと、ひょーごくんは、ってそればっかなんです。隊長、知り合いですか?」
「いや、知り合いじゃない…と思う…けど……」
「ねぇ、ひょーごくんは?」
 ついさっきまで気を失っていたとは思えないほどしっかりした声で言い、子供は辺りを見渡した。きょときょとと探す目は祖父である船長を探している様子ではない。
 兵悟は子供の前に膝をついた。小学生の一年生か二年生くらいの男の子は、自分の目線に合わせて身を屈めた兵悟をきょとんとした眼差しで見つめた。
「俺の名前も兵悟なんだけど、君にもひょーごくんってお友達がいるの?」
「ひょーごくん?」
 男の子は殊更目を丸くした。兵悟が軽く頷くと、ホッとしたように息を吐く。そして毛布の中で何かもぞもぞと身を動かした。どうやらズボンのポケットを探っているらしい。あった、と呟いて、男の子は拳を突き出した。
「ひょーごくんに渡してって、言われたんだ」
 差し出されたものを反射的に受け取り、兵悟は己の手の中に転がった銀色に目を丸くした。
「……これ…」
「一緒にいたおにーちゃんがね、ひょーごくんに渡してって言ってた。なくさないように僕、ポケットに入れてたんだ」
 手の中で鈍く光を反射するものは、何の変哲もない指輪だった。銀色で、どこにでもあるようなシンプルな作りのものは、いつだったか兵悟がプレゼントしたものだ。誕生日プレゼントでもなく、何かの記念日でもなく、そもそもそんなものを兵悟が覚えているはずもなかったから、本当に何かの拍子に口のうまい星野に唆されて買い、渡したものだ。兵悟自身、その存在を忘れていた。
「なんで……」
 兵悟は指輪を右手に握り締め、呻いた。噛み締めた唇から漏れる声に、子供が怯えたように身を竦める。
「なんでこんなもの…ッ…! こんなもの寄越すくらいなら、助けてって言えばいいのにッ! 置いてくなって、側にいてって言えばいいのにッ! 盤君の馬鹿野郎…ッ!」
「はー…折角脱出したんに、酷い言い草っちゃねー…」
 ひどく穏やかで、そしてイヤホン越しではないクリアな声に、兵悟は息を飲んだ。
「おにーちゃん!」
「副隊長、ご無事で…!」
 男の子と小沢が兵悟の目の前で目を見張る。嬉しい驚きに双方とも頬が持ち上がっていて、彼らの目は兵悟の背後へと向けられていた。兵悟はその視線を追い、ぎくしゃくと振り返った。その声を、こんなにも恐ろしい思いで聞いたのは初めてだった。
「盤君……?」
 目を見開く兵悟が見たものは、甲板から船内へ入るドアの側に佇む盤の姿だった。全身はずぶ濡れで、怪我をしたのか左腕のウェットスーツが横真一文字に裂けている。それでも間違いようのない盤は、くたびれた様子で笑った。
「何ね、兵悟君、気持ち悪かー。人を化け者みたいに見んで」
「なんで? どうやって? だってあの窓小さくて盤君は出られないし、それに船が傾いで、岩礁から落ちて…ッ!」
「岩礁から落ちたら、船も岸から離れよーもん。したら、元々の避難路ば使うて外に出れば良かろ? 岸にくっついとるから、そいば使えんかったと。岸から離れたら問題なか」
 あー、と一斉に感心した声を上げる田崎と小沢を満足気に見た後、盤は呆気に取られている兵悟をふわりと笑った。
「やっぱ兵悟君はあかんたれやねー。オイがいんとどーにもならんばい。隊長がそがんことでどうするったい?」
「盤君!」
 ぶわっと途端に潤んだ眼差しで盤を見上げると、盤はぎょっとしたように身を引いた。
「な、なんね、兵悟君。そがんキラキラした目ェで見よっても、なんも……」
「盤君!」
 バッと勢いのまま飛びついた兵悟は、驚きに目を見張った盤もろとも甲板に転がった。あ、と小沢が後ろで目を丸くし、田崎がぱしっと自分の額を叩いている。また始まった、とでも言いたげな様子ではあるが、兵悟は構ってなどいられない。腕の中にある盤の温もりを確認し、それを確固たるものと認識したかった。
「無事で良かったー!」
 甲板に転がった盤の上に馬乗りになり、すりすりとすごい勢いで胸の辺りに頭を押し付ける。さすがにボンベは置いてきていた盤だったが、その他は突入時の装備のそのままだった盤は、頭からライトを取りながら苦笑した。ゴトッと重い音が鉄製のごつごつした甲板に響く。
「ええ加減離れんね、兵悟君。巡視船の人がびっくりしとうよ」
「そんなのどうだっていいよー! 盤君が無事で良かったー! って、あのね、盤君! さっきは脱出できるなんて言ってたけど、あれ、ほとんど奇跡みたいなもんだろ! 船が岩礁から落っこちなきゃ、ずっと閉じ込められっぱなしだっただろ! そしたらボンベのエアーだってなくなるし、船に残ってる空気だってなくなるんだからな! そんな賭け、勝手にしないでよ!」
「だって、あん場合は仕方なか。そうでも言わんと兵悟君、オイんことば諦めてくれんね? あがん所でうろちょろしとったら、兵悟君が渦に巻き込まれるばい」
「俺のことを今は言ってるんじゃない! 盤君のことを言ってるんだってば!」
「あーあー、そがん説教、後で基地ば戻ったらゆっくり聞いてやるけん。今は早う要救助者ば病院に搬送せんね」
「あっ、そうだった!」
 バッと顔を上げて慌しく要救助者の病院搬送の手続きを取ろうとする兵悟に、小沢はのんびりと答えた。
「もうやっときましたー」
「ついでにこの船、港に向かってもらってますから。投光機も収容しました」
 放っておけば海へ転がり落ちそうな盤のヘッドライトを拾い上げ、田崎は甲板から船内へ戻ってくる。邪魔だと言わんばかりに折り重なる兵悟と盤を跨ぎ、田崎はてきぱきと備品の片付けを始める。
「あ、忘れとった。おい、ボーズ、さっき渡した…って、どかんね、兵悟君。邪魔せんで」
「うわっ」
 乱暴に蹴り退けられて船内で転がった兵悟を小沢ですら、隊長、邪魔ですよ、と迷惑そうな顔をする。いざ出動となれば頼れる部下達であり、慕ってくれ統率の取れた文句のない隊だとは思うが、もうちょっと出動以外でも敬ってくれてもいいんじゃないだろうか、と兵悟は打ち付けた尻を撫でながら立ち上がった。
「ボーズ、さっき預けたん、返さんね」
 毛布に包まり、波が荒く揺れる船の動きに合わせて、左右へ身体を揺らしていた子供の前にしゃがみ込み、盤はさっと右手を差し出した。それをきょとんと見つめる子供が、ぱっと顔中を口にして笑う。
「僕、ちゃんと渡したよ!」
「は?」
「おにーちゃんと約束したから、ちゃんと渡したよ、ひょーごくんに!」
 毛布の中から突き出た小さな指で示された兵悟は、思わず、俺、と自分の顔を指差した。そしてハッと両手を見下ろす。確かにあの子供から、盤に託されたのだと言われ渡された指輪を握り締めていたはずなのに、いつの間にか、それは手の中からなくなっている。どこで落としたのか、いや、落としたとしてもまだ間もないはずで、兵悟はこの部屋の中から出ていない。いくら荒波で船が激しく揺れているとは言っても狭い船内のこと、すぐに見つかるはず。そう思って慌しく足元やら床の上やらをコンタクトを探すような勢いで這い蹲っていると、振り返った盤が眉を寄せた。ぎらりと眼鏡の奥で眉が釣りあがったような気がして、兵悟は慌てて笑みを貼り付ける。
「兵悟君……何、床に這いつくばっとうと?」
「だ、大丈夫だよ! すぐに見つかると思うから…! 絶対この部屋の中にあるはずで…! さっきまでちゃんと持ってたから…!」
「なして渡されたもんばそがん簡単になくすったい! しかも、そいはオイの指輪やなかとっ? 信じられんったい! 兵悟君みたいなデリカシーのなか男、オイは好かんぞ!」
「や、待って…、探す、探すから…!」
 仁王立つ盤の形相はいつぞやの軍曹もかくやだ。あわあわと、滑り止めに凹凸が施されている甲板に頬を摺り寄せる勢いで這い蹲っていると、ああ、と田崎が子供の引き上げに使ったストレッチャーから海水を丹念に拭い取っていた顔を上げた。
「指輪なら甲板で見ましたよ。副隊長がいつもしてる奴ですよね?」
「かかかかか甲板っ?」
「あー…今日は素敵な時化具合ですもんね。もう流されてるかも、波に…」
「うわぁぁああああああ!」
 小沢の不吉な言葉を途中で遮り、兵悟は慌てて甲板に飛び出した。巡視船の潜水士がボンベを抱え通りかかり、突然飛び出してきた兵悟に驚き、うおっ、と仰け反っている。それを突き飛ばしそうになりながら、兵悟が波飛沫のかかる甲板で四つんばいになり薄闇に目を凝らしている。
 それを見送った田崎が、はい、と手を差し出した。
「拾っときました、指輪」
「ん、ご苦労ばい」
 受け取った指輪を自らの手で自らの指に押し込み、盤は満足気にそれを眺める。取り立てて高いものでもなく、凝ったデザインのものでもなく、ただひたすらにシンプルな指輪だが、なぜか兵悟を彷彿とさせる。何を思ったのか贈って寄越したものだが、どうせ星野辺りが口を出したのだろうと盤は辺りをつけていた。大羽にそんな器用な真似はできず、タカミツは論外だ。だが、誰に言われたにせよ、どんな思惑が兵悟にあったにせよ、誕生日でもない日に貰ったプレゼントは思いの他嬉しかった。こうして、肌身離さず身につけている程度には。
「うん、やっぱりこればはめんと、落ち着かんね」
「ずっとしてますもんねぇ」
 小沢は暖かいレモネードを作り、子供に渡してやっている。巡視船の中にある飲み物から選んできたにしては、随分と可愛らしいものをこの巡視船は積んでいるようだった。子供ははふはふと息を吹きかけながらそれを飲んだ。さっきまで気を失っていたにしては元気だが、ともかく怪我がなく無事に救出できて何よりだった。
 盤が子供の頭にぽんと手を置きやや乱暴にぐりぐりと撫でていると、甲板から、ないよない、どこにもないよーっ、と喚く大声が聞こえてくる。盤はぶはっと吹き出すが、小沢は眉を寄せていた。
「副隊長、そろそろ止めてもらわないと…巡視船の人に俺らが笑われるんですけど…」
「盤君! 探したけど、どこにもないんだけどっ! どうしよう! 俺、愛想尽かされるっぽい? てか、もう尽かしてるッ?」
 波と雨とにずぶ濡れになって戻ってくる兵悟を、甲板で働く巡視船の乗組員がくすくす笑いながら横目で伺い通りすぎて行く。ほらもう笑われたじゃないですか、と小沢は不本意そうだが、それもまたいつもの事だと田崎は我関せず己の作業に没頭している。
 大きな目をキラキラと輝かせ、いや、今は涙に潤ませ、兵悟は特殊救難隊に着任したばかりの頃と同じ勢いと熱とで盤を見る。それを見ると盤はなんだか胸の真ん中の辺りがほっこりと暖かくなる。そう言う気持ちは兵悟と出会い初めて知ったが、悪いものではなかった。
 ほっこり暖かい気持ちを今も胸に抱きながら、盤はにっこりと微笑んだ。
「兵悟君。オイが愛想尽かすくらいで済ませよると思うたら、大間違いったい」
「え」 
「指輪の在処ば見つけるまで、オイは兵悟君と口利きとうなか。全部田崎ば通して伝えんね」
「ええええええっ? 何それ! 盤君それ一体どーゆー………ちょっと、盤君! 盤くーん! 田崎! どーゆーこと!」
「俺に聞かないで下さいよ…」
 兵悟に胸倉掴まれ、がくがくと前後に揺さぶられている田崎は心底迷惑そうな顔だ。ストレッチャーの近くでわいわいと騒いでいる兵悟は放っておいて、盤は小沢に腕の怪我の治療をしてもらう。遊覧船からの脱出に少々荒っぽい作業をしたので、ウェットスーツの腕が切れ、皮膚も裂けていた。大した怪我ではないが、破傷風が心配だ。
 消毒液と傷薬、ガーゼと包帯を取り出しながら、小沢は呆れた顔をしていた。
「いいんですか、言わなくて」
「あ? なにが?」
「指輪のことですよ…あんな意地悪しなくたって…」
「意地悪なんかしとらんよ。田崎は指輪拾ったなんて言うとらんし、オイは見つけたなんて言うとらんもん。いつ気付くかが勝負ったい。それに、兵悟君はああやってわぁわぁ騒いどる方が似合うとろうが」
 小沢はひょいと肩を竦めると、それ以上何も言わず、もくもくと盤の怪我の治療をした。怪我をした腕を差し出しながら、盤はストレッチャーの側の兵悟を見やる。性懲りもなく床に這いつくばり、甲板からこっちに転がってきたかもしれないと目を凝らしている。尻を高く上げた情けない姿に、盤は目を細める。
 常に命をやりとりするような仕事だからこそ、他愛ないやりとりが楽しくて仕方がない。また今日も無事に帰ってきたと実感する事ができる。待つ側としても、待たせる側としても帰還の実感を確かめ、ほっとするのだ。
 恐らく兵悟も同じだろうと盤は思う。
 機材の下に打ち付けてあるビスを指輪と勘違いし、どうにかそれを床から引き剥がそうとしている兵悟を眺めながら、盤はくすりと笑んだ。
 港に着いたら、指輪は見つかったと教えてやろう。
 どんな顔をするのかは容易く想像できる。
 盤は左手を見下ろした。
 一度は離れ、手元に戻った指輪がある。
 それは盤にとって、生の証だった。










ウラネタ
・田崎と小沢はオリキャラですが、高嶺さんと大口くんみたいな感じでどうぞ。
・高嶺さんと大口くんを出さなかったのは、彼らを差し置いて兵悟が隊長になるのはイカガナモノカト思ったからです。
・子供を女の子にして、名前を真珠にしようかと思った。
・実際、特殊救難隊の隊員が職務中指輪をしているとは思えない。
・これでも兵盤のつもりなんです。