ご注意。
・真嶋です。
・ご帰還です。










一年越しのキスをしよう




 官舎に戻り落ち着いた後、改めて真田を見やった嶋本は、一年ぶりに熱を感じ触れる距離にいる真田の顔を見上げ、ぽつりと呟いた。
「…焼けはりましたね」
 底を伺い知れぬ黒い目を瞬き、嶋本を見下ろしている真田が、思案するように少し首を傾げた。
「そうか?」
 そうですよ、と嶋本は少し笑った。
「髪も伸びはったし」
「そうかもしれない」
 やけに神妙に頷く真田に嶋本は危うく吹き出すところだった。真田は自分の事を、まるで他人の事のように聞いている。少し噛み合わない会話にも、ああ帰ってきはったんや、と実感することができ、嶋本は目元を緩めた。
「向こうはどうでした? 暑かったんと違いますか?」
 官舎の部屋に入って一歩目の、玄関でする話ではないと思いながら、嶋本はなぜか靴を脱ぐ気になれなかった。先に入った嶋本がそうでは、狭い三和土で真田は身動きが取れない。鍵だけは閉めた玄関のドアにもたれ、真田は一歩間を空けて立つ嶋本を見下ろしていた。
「どうだろう」
 茫洋とした答えは思っていた通りのものだ。
 嶋本がその答えに笑むと、真田は何度か瞬きを繰り返し、嶋本をじっと見つめていた。自分に注がれる真田の眼差しに、嶋本はくすぐったい気持ちになる。
 真田はたまに、こんな風に嶋本を見る。
 表情が崩れず、表に出ない人だからそう感じるのかもしれないが、真田が嶋本を見る眼差しは、一心不乱に、と言う言葉が最もしっくりくるのではないかと思う。
 顔のパーツを覚えようとしているのか、そこにある何かから何かを読み取ろうとしているのか、それとも真田なりに何か思うところがあるのか、さして奇妙な表情を浮かべているわけでもない顔を、何の感情も伺えない眼差しでまじまじと見つめるのだ。
 一度、なんですか、と尋ねたことがあった。
 なんか俺の顔についてます、と。
 真田は生真面目な顔で、見ているだけだ、と答えた。
 そう言われると、そうですか、としか切り返せない。特に理由などなかったのだと、それきり、真田にまんじりともせず見つめられようとも、何も聞かないようになった。
 嶋本の顔を見下ろす行為には、真田の、真田なりの理由があるのだろう。
一年、 異国の地に旅立って尚、真田は変わらない。
 嶋本を見下ろし、無表情で見つめる。
 だから嶋本も見上げてみた。
 真田のように無表情にとはいかず、手の届く、温度を確かめられる距離にいる真田が嬉しくて微笑んでしまうが、それでも真田を見上げ、じっと見つめてみた。
 一年前よりも色を濃くした肌に、黒い瞳と引き締まった頬。きりりとした眉から続く鼻梁に、引き結ばれた唇。伸びた前髪から覗く額に、切り傷が治ったような跡があるのに気付いた。二センチほどの他の皮膚よりも白い直線がある。
 怪我を、と嶋本が目を見開くと、真田は不思議そうに首を傾げた。
「怪我はしていないが?」
 手を伸ばして前髪を避け、左の、どちらかと言えばこめかみにほど近い場所へ指を触れさせると、真田は少しそこを見るように目を上げて、ああ、と笑った。
「猫に引っかかれたんだ」
「猫に?」
「町を歩いてたら、上から猫が落ちてきたんだ。頭にしがみつくから下ろそうとしたら引っかかれた」
「あ、ほんまや。よう見たら三本線になっとる」
 目を凝らせば、色の変わっている二センチほどの白い直線の両脇に、ほとんど肌の色と変わらないささやかな直線が、やはり二センチほど存在する。言われ、じっと見て、それでようやく解るような傷に、嶋本は少し笑った。
「上から猫が落ちてきたんですか? 町中やのに?」
「ああ。木の上で寝ていたんだろう」
 その時のことを思い出したのか、真田はほんの僅かに目を細めた。
 嶋本は頭に猫を乗せた真田を想像しようとしたが難しかった。だが、毅然とした態度で、そしてまったく何事もなかったかのように動じず、真田は猫を頭から下ろそうとしたのだろう。負けじと真田の頭に爪を立てた猫がどうなったのか尋ねると、インドネシアで真田がよく利用していた店の子供が飼っていると答えが返ってきた。そして続けざまに、真田は呟いた。
「嶋は、少し痩せたな」
「そうですか? そないに変わってへんと思いますけど…」
「嶋は痩せると目尻に皺ができるんだ、少しだけ。一年前より皺が深い」
「え、皺? 嘘や!」
 まだ若いつもりでおったのにーっ、とぱっと両目の脇に手を当てる嶋本を見て、真田はほんの少し微笑んだ。
「指の傷は治ったみたいだな」
「指の傷?」
 目尻に手を当てたままで見上げた嶋本に、ああ、と真田は手を伸ばす。嶋本の目尻を押さえる手を取り、人差し指を人差し指で撫でる。
「発つ前には、ここに擦り傷が」
 それからここにも、と親指の付け根、手首により近い場所を撫でる。
 嶋本は記憶をひっくり返してみたが、真田が日本を発つ前に手に怪我をしていたなどと言う記憶はなかった。ただ新人隊の訓練だとか、真田の送別会での給仕だとかで、手に擦り傷を負う機会は多かったように思う。
 よう見てはるんですね、と嶋本は笑った。
 真田は、ああ、と頷いた。
「見ているからな」
 なんでもないことのように呟かれた言葉が、嶋本の胸にすとんと落ちる。
 時折、一心不乱にただじっと嶋本を見つめる真田が、言葉のないその奥で何を考えているのか、解ったような気がした。
 真田の真似をして真田を見上げた嶋本が、たった二センチの怪我の跡を髪に隠れた額に見つけた。じっと見つめなければ見つけられなかっただろう傷跡に気付くきっかけは、真田の顔を見ることだった。
 痩せると目尻に皺ができる。
 人差し指と、親指の付け根の擦り傷。
 注視しなければ解らないことばかりを真田は知っている。
 嶋本を見ていたから。
「隊長…」
 嶋本は取られたままの手を、ぎゅっと握り締めた。手の中に握りこむことになってしまった真田の親指を、逃がさぬようにと力を込める。痛いと文句を言う変わりに、真田は、何だ、と首を傾げた。
「…ちょお、屈んでください」
 訝しむ様子を見せる真田に、嶋本は笑いかけた。
「キスしとうなりました」
 真田は仄かに笑う。目尻を緩ませ、唇の裾を少し持ち上げ、はにかむように笑う。
「俺もそう思っていた」
 嶋本が子供のように掴んでいた手が解かれ、指と指、一本一本を深く絡み合わせるようにして手のひらが触れ合う。身を屈めた真田に顔を寄せ、呼気が触れる。かさついた唇が触れ合ったと思ったときには、背を抱かれていた。絡み合った手は強く繋がり、背を抱く腕には力が篭る。重ね閉じた唇の中で、言葉にせず意思を伝えようとするかのように舌が惑う。
 喉が鳴る。
 深海で空気を求めるように喘ぎ、数センチとない距離に離れた唇で、隊長、と嶋本は呼んだ。
 真田の唇が濡れていて、それは特に見慣れない光景ではなかったはずなのに、陽に焼けた真田の唇が濡れているのはどこか不思議な気分になる。
 初めてキスをした時のように、心臓が転がりそうだった。
 隊長、と嶋本は呼んだ。
 嶋、と真田は囁いた。
 会いたかった、と言葉にする前に唇を重ねる。何度も、何度も、息を弾んでも尚、キスをする。指を絡ませ背を抱き合わせ、ぴたりと体温を重ね、温もりを確かめる。
 玄関で靴も脱がんと何しとんのやろ…、と嶋本が笑い声を滲ませてそう呟くと、そうだな、と真田もまた少し笑い、だが、と続ける。
「したかったんだ」
 額をすり合わせ目を閉じる真田を見上げ、嶋本は瞬きを繰り返した。何がですか、と尋ねた嶋本に、真田は目を閉じたまま答えた。
「一年越しのキスが」
 ひそりと開いた瞼から、真田の黒い眼差しが嶋本に注がれる。
 じっと見つめる眼差しに、嶋本は胸の深い場所からじわりと暖かなものが溢れ出すのを感じた。
 寂しいとか、物足りないとか、切ないとか。そう言う感情を一年の間まったく抱かなかったわけではない。だがそれにかまけている時間がなかった。する事は山のようにあり、こなしていかなければうず高く雲を抱くほどの高さになる。動いていれば、ふとした拍子に零れる感情を忘れていられたし、部屋でしんみり異国へ思いを馳せるよりも性にあっていた。
 だから、嶋本は忘れていた一年の間の寂寥を思い出し、溢れた涙が転がる前に、噛み付くようにキスをした。









ウラネタ。
・「見上げてちゅう」がお花さんのおねだりです。
・お花さんへの献上品です。
・嶋の関西弁がどちらかと言えば京都方言になってるかもしれませんがご勘弁を。