■ おかまいなく。2
 幸いなことに、向こう一週間、本業の依頼もなく、またバイトの予定も入っていなかった。というよりも、本来ならば二週間先まであったバイトが昨日クビになったのだ。突然振って沸いた二週間の特別休暇を、普段なら心の底から憎み、腹の底から鳴る空腹を訴える音に苛立っていたのだろうが、今日ばかりは違った。
 昼も過ぎていると言うのに、布団を奥の部屋へ敷き、ぱったりと倒れふしている。うんうんと唸っているのは何も風邪だからではない。生理痛だ。
 そう。いくら貧乳の山田奈緒子とて、月に一度の女の子の証、生理はくる。割と鈍感な方なので、世の女の子が悩む生理痛に頭を痛める事もなくこの年まで生きてきたわけだが、どう言うわけだか今回ばかりは相当に腹が痛んだ。
「…し、死ぬ……」
 あまりにも痛くて、ぴくりとも動けない。何はなくとも空く腹も、今日ばかりは朝から何も食べずとも唸り出さなかった。
「……このまま…死んじゃうのかな……私…」
 ぽつんと呟く山田は、ぐすんと鼻を啜った。悲しいわけではないが、何だか虚しい。独居老人のように布団の上で衰弱死など、いや、これは生理痛だからして、生理痛死とでも呼ぶのだろうか。ともかくそんな死に方はとてもじゃないが格好悪くて公言できるものではない。だからと言って、父のように事故で死ぬのもどうかと思うのだが…。どうせなら幸せにお布団の上で息を引き取りたいなぁ、と案外真っ当な事を考え、それなら生理痛死もお布団の上で死ぬんだから幸せな死に方になるのかな、と眉を寄せた。
「何をしているんだ君は」
「うわぁっ!」
 ぼそっと囁く低い声に、思わず大声を上げて山田は飛び上がった。いや、飛び上がろうとした。だがそれよりも腹が痛んで、身を二つに折る。熱湯をかけられた海老のように丸くなり、布団の上で痛みに呻く。
「……どうした。腹でも痛いのか」
 相変わらず鬱陶しい大きな身体を小さく丸め、布団の横で胡座を書いた上田が、ばりぼりと煎餅をかじりながら眼鏡を押し上げる。
「測らずも君に、いい話を持ってきたんだが…」
「恋人役はもうご免です!」
 以前上田に頼まれて引き受けた上田の恋人役を思い出し、山田は引きつる声を漏らした。あの時は酷い目にあった。上田の叔母とやらが連れてきた見合い相手は相当上田を気に入ったらしく、しつこく上田と山田の関係を根堀葉堀聞いてきた。いい加減にしてくれよ、と思いながら笑顔を振り撒いていたあの時の気苦労を思い出し、山田は更に丸くなる。
「そ、それに…今日は何を言われても、部屋から出る気にはなれません……生理痛なんですよ」
「なに? You、生理あったのか?」
「……警察呼びますよ」
「まぁ待て。確か生理痛にはこの辺を……」
 上田はそう言うと、布団の中に手を突っ込んで、山田の腰の当たりを大きな手のひらで撫で始めた。
「なっ、何するんですか! 変態! セクハラ親父! 巨根の童貞!」
「煩いッ!」
 カッと怒鳴られて、山田がぎゅっと瞼を閉じる。縮こまっている山田の腰をなで、そうそうこの辺りだ、と上田は一人で頷いている。
「生理痛にはこの辺を撫でて暖めてやるといいらしいぞ。痛みが和らぐそうだ」
「……へぇ〜そうなんですか。確かにちょっと楽に…って何で上田さんがそんなこと知ってるんですか」
「女性と付き合うためのエチケットとして、文献で読んだだけださ」
 ふん、と鼻を鳴らす上田に、うわぁ、と山田は顔を顰める。
「それって本当に変態みたいですよ」
「うるさいッ!」
 顔を紅潮させ、それでもせっせと静かに上田は山田の腰を摩る。大きく暖かい手に、山田はふわぁと大きな欠伸をした。
「なんか痛みが和らいできたら、眠くなってきました」
「ふん。眠ってもいいぞ」
「…て言うか」
 ちょっぴり自慢気に眉を上げる上田を、山田は無理に首を捩じって振り返った。ぐっと眉間に皺を寄せ、上機嫌の上田を睨み付ける。
「お前、どうやってこの部屋に入ったんだ。鍵がかかってたはずだ」
「なぁに、簡単なことだ」
 にぃと大きな目を細め、唇の端を持ち上げ他上田がいつも持ち歩いている茶色の鞄の中から赤いリボンのついた鍵を引っ張り出した。
「合鍵を作っておいたのさ」
「ああッ! いつの間に! て言うか、私に断わりもなくなんて事を!」
「心配するな。大家さんに許可は取ってある」
「そう言う問題じゃありませんよッ! ちょっ…返してくださいよ!」
「なぜだ。これはもともと俺のもので、君のものじゃない。返すと言う表現は、ちょっとおかしいだろう」
「どうでもいいんですよそんなこと! 上田さんには私の部屋の鍵なんて必要ないでしょ! いいから寄越せ!」
 ぐっと伸ばした手は空を掴んだだけだった。上田は腕のリーチの差を活かし、赤いリボンつきの鍵を、山田には届かないところへ持って行く。手を伸ばして真剣に掴みかかる山田の頭を押しやり、やれやれ、と上田は溜息を吐いた。
「元気になったと思ったらこれだ」
「大体何なんですか、その赤いリボン! 大体上田さんはいつも勝手なんですよ! 私の都合も聞かずに押しかけて、一方的に都合を押し付けて! そう言うのって嫌われるんですよ!」
「まぁ、元気がないのも困りものだがな」
 顎に手をあて、一人納得し、うんうんと頷いている上田に、振り上げた山田の手が炸裂した。頬に思い切りぶつけられた拳に、おおうッ、と叫んだ上田が昏倒する。
「出てけーッ!」
 ばったりと倒れ付した上田に怒鳴りつけるも、気絶した男は自ら歩いて外へ出て行く事はできない。しまったッ、と山田は顔を顰め、無駄にでかく邪魔な図体を見下ろした。
 ううう、と唸りながら考え、それでも、生理痛は少しマシになったし、それは上田さんのおかげだし…、と気絶している上田を部屋の隅っこに足で追いやるだけに止めてやった。
 そしてもそもそとまた布団に戻る。
 上田の手が離れたら、じくじくと痛み出した腹を抱え、山田はぎゅっと目を閉じた。