■ おかまいなく。
 いつものように何の用もなくそして何の前触れもなく池田荘の山田奈緒子の部屋に勝手に上がりこんでいた上田は、戸棚から引っ張り出した煎餅をぼりぼりと齧りながら、寝転がり、電気代の問題で滅多につけることのないだろうテレビを見ていた。
「…………」
 居酒屋のバイトを終えて返ってきた山田は、台所と居間を仕切る暖簾を掻き分けたところで、硬直していた。
「おう。おかえり」
 気付いた上田が、寝転がった姿勢のままで見上げれば、山田の眉がぴくりと動く。
「……なに、やってるんですか」
「テレビを見ている」
「そうじゃなくて」
「プロジェクトエックスだ。偉大な先人達の偉業を見るというのは、脳細胞に多大な影響と活力を与える。日々死滅している脳細胞を一気に再生させるためだ」
「なんでいるんですか!」
「なぜいちゃいけない」
「あたしの部屋ですよ!」
「ああ、そうだ。さっき大家さんがきてね」
 上田は身を起こすと、食べかけの煎餅を差し出した。
「食うか?」
「いりませんよ! てゆか、それうちにあったやつじゃないですか! 居酒屋の店長に賞味期限切れだってもらったのに!」
「なにっ? これ、賞味期限切れてるのか!」
 眼鏡の置くで大きな目を丸くして、食べかけの煎餅と煎餅の袋を見比べる上田に、だからそうじゃなくて、と山田は声を荒げた。
「……大家さんがどうかしたんですか」
 外からはジャーミー君と大家のハルさんの声が聞こえてくる。今晩のおかずは卵豆腐と麻婆豆腐らしい。どう言うとりあわせだ、と顔を顰める山田に、ああそうだ、と上田は大きく頷いた。
「きみ、先月と先々月の家賃、払ってないそうじゃないか。それに今月の分も」
「……払いますよ。明日、給料が入るんです」
「払わなくていいよ」
 賞味期限切れの煎餅を食う気にはならなかったようで、上田は食べかけの煎餅を袋の中に突っ込むと、まとめてゴミ箱に叩き付けた。
「何するんですか! 折角楽しみに残しておいたのに!」
「残しておくなよ、賞味期限切れの煎餅を!」
「いいじゃないですか、多少のことじゃおなか壊したりしませんよ!」
「……それは君が、強欲で意地汚い女だからだ。まぁいい、今日は手土産を持ってきた」
 上田はテーブルの下に置いていた箱を持ち上げた。あからさまにケーキが入っているそれに、山田の目が輝く。
「ハッピーバースデー」
「……何度も言うようですが、あたし、蟹座ですよ」
「まぁいいじゃないか。ああ、家賃は俺が払っておいた。君はこれから、家賃の心配などしなくてもいい」
 にこやかに機嫌良く告げる上田に、少々の不審を感じながらも、山田はケーキの箱に魅入っていた。それをついと差し出して、上田の目がきらりと光る。
「東京駅八重洲口すぐ側の大丸の地下にあるマキシムのケーキだ。ナポレオンだ。一本三千円もするミルフィーユだ」
「ミルフィーユ? 何語ですか?」
「フランス語だ。いいから食え。Youにはちょっとした頼みがあるんだ」
 ケーキの箱を開け、中に入っているシュガーパウダーがたっぷりかかった苺の乗ったミルフィーユに目を輝かせている山田の肩が、ぴくりと動いた。
「……なんですって?」
「いいから食え」
「その後!」
「あるんだ」
「その間!」
「Youにはちょっとした」
「その直後だ!」
 こめかみを引きつらせる山田を見て、上田が気まずそうに口篭る。
「……頼みがある」
 その瞬間、山田はケーキの箱を抱え上げて脱兎のごとくベランダの窓に張り付いた。
「帰れ! 出口はそっちだ! お前の顔なんか見たくもない!」
「まぁいいじゃないか、話くらい聞いてくれても」
「ケーキはもう返さないぞ! 唾つーけたっ! ぺぺぺぺっ!」
 本当にケーキに唾を吐きかける山田に顔を顰める上田だったが、今日だけは頼みがあると言うことで、嘘臭い笑顔を張り付かせている。
「うちの叔母がね、これが俺の母の兄の三番目の嫁の妹に当たる人なんだが、実に世話好きな人で。俺が若くして教授にはなったものの、一人身でいるのを心配してね、縁談を持ってきたんだよ。まぁ俺としても相手の顔を立てるために一度くらいは会ってもいいかと思ってるんだ。何しろ俺はずば抜けて高い知能の持ち主だ。何しろ教授だからな! 相手も気が引けてしまうだろう。俺が相手に会わずに断わってしまっては、私って馬鹿な女に見えたのね、なんて心配するかもしれないからな! だが、俺はまだ身を固めるつもりはない! 自由な時間が奪われてしまうからだ! たった一人の女性に縛られるつもりもないからな! そこでYouに頼みがある」
 片手を広げ、天を仰ぐように己の自慢話を披露していた上田が、ふと振り返ると、ベランダの近くに山田の姿がない。逃げたかっ、と慌てて振り返った上田は、卓袱台にケーキを置き、呑気にも緑茶を湯飲みに注いでいる山田の姿を見て、こっそりとホッと安堵の息を吐いた。
「それで?」
 一本三千円もするミルフィーユに気をよくしている山田に、にやりと上田は気持ちの悪い笑みを近づけた。
「Youに、俺の恋人のふりをしてほしいんだよ。そうすれば、相手の女性も、叔母も、諦めがつくと言うものだ」
「……嫌ですよ! 上田さんと付き合うなんて! そりゃ確かにあたしは美人だし? 天才マジシャンだし? あ、ちょっと胸は小さいけど………それなりに働きものだし? 上田さんが欲情するのも解りますけど、でも駄目です! あたし、上田さんは好みじゃありません!」
「こっちだって君なんか願い下げだよ」
 眼鏡をずり上げる上田に、じゃあなんでっ、と山田が唾を飛ばす。
「仕方がないだろう。他に頼めそうな人がいないんだ。まさか矢部さんに頼むわけにもいかんだろう」
「……上田さん…矢部さんの事が……?」
 いぶかしみながらも後ずさる山田に、上田は頬を引きつらせる。
「何を勘違いしているんだ、君は」
「……案外、お似合いですよ…?」
「違う! 断じて違う! ともかく! 君は大人しく俺の恋人のふりをしていればいいんだ! 明日、叔母が上京してくる! その時に会ってくれればいい!」
「あたしまだやるって言ってませんよ!」
「…半年分の家賃を大家さんに渡しておいたよ」
「ええっ? 半年分っ?」
 目を見開いて立ち上がる山田に、上田は丸眼鏡をシャツの裾でごしごしと拭いてみせる。
「そうだ。しかも先月と先々月分の家賃を払った上で、尚且つ今後半年分の家賃も払っておいたんだ。つまり八ヵ月分の家賃を払っておいてやったんだよ。それに今Youが食っているのは、三千円もするミルフィーユだ。誰もが食べたがる極上品さ」
 山田はテーブルの上に鎮座するミルフィーユを見下ろした。ごくんと喉を鳴らして口を開け、だがすぐに、だめだめ、と首を振る。食べ物につられ、家賃に釣られ、この男に大変な目に合わされたのは一度や二度ではすまない。
「だけど……」
 山田はフォークを握り締めた。
「……もう唾つけちゃったし。家賃だって払っちゃったし……あの強欲で横着な大家さんが返すとは思わないし」
「とにかく、明日の昼、迎えにくる。できるだけ小奇麗にして、それから、胸に詰め物をして、待っておくんだぞ。いいな!」
「あっ、ちょっと、上田さん!」
 さっさと立ち上がった上田は、鞄を抱えると足早に部屋を出て行った。乱暴に閉められたドアの向こうで、上田先生ェ〜、とハルの間延びした声が聞こえてくる。
 閉まったドアを、山田はしばらく困った顔で眺めていたが、ひとつ溜息を吐くと、まいっか、とテーブルに向き直った。
 半年は大手を振ってこのアパートに住んでいられるし、それに、一本三千円のミルフィーユだ。こんな機会でもないと、食べられない。ずるりと滴れた涎を拭い、山田はさくっとフォークでミルフィーユを掬い上げる。ぱくんと口の中に放り込んだ山田は、あまりのうまさに悶絶しながら残りのミルフィーユを平らげる。
 利用されて酷い目に合うと解っていながらも、うまい物を差し出されるとついつい手を出さずにはいられない山田の強欲で意地汚い性格。それをすっかり上田に利用されていると、山田はまだ気付いていなかった。