■ おやすみのキス |
かくも気高きエルフの大絶叫は、夜のしじまを裂いて響き渡った。寝汚いホビット達も飛び起きるほどのそれへ、一番に警告を発したのはつい半刻ほど前に件のエルフと不寝番を変わったばかりのガンダルフだった。 「やかましい!」 振り上げた杖が焚き火の側で座り込んでいるレゴラスの額を割るかと思ったが、さすがにそこは俊敏なエルフの王子である。ひょいと顔を傾け避け、そのせいでガンダルフが思い切り放り投げた杖は、レゴラスの後方でマントに包まり眠りを貪っていたものの、レゴラスの絶叫で飛び起きたボロミアの後頭部を強打した。 「ぬぁっ」 ガンダルフの杖の握りの部分は、ご存知のように木の根のようにいくつにも分かれている。それが後頭部に突然ぶつかってきたのだから、ボロミアの苦痛は言葉にもできないだろう。両手で頭を抱えて悶絶するボロミアの背に、心配そうなアラゴルンの手が触れていた。彼はボロミアの向こう側で眠っていたので、ガンダルフの杖の餌食にはならなくて済んだのだ。 「オークに居場所を知らしめているようなものだ!」 「ガンダルフ、あなたの声も十二分に大きい」 ボロミアの傍らに落ちていた杖を掴み、アラゴルンがそれを顰め面で放る。何なくそれを受け止めたガンダルフは、おやすまぬ、と軽く謝り、受け取った杖の先をレゴラスに向ける。 「何があった」 「これですよ、これ!」 ちょっぴり目尻に涙を浮かせたレゴラスが、両の掌に乗せた物を掲げて見せた。それは、彼が裂け谷を出た時から見につけていた弓のようだった。 ようだった、と言うのは、それが今は無残に真っ二つに割れ、ぴんと張ってあった弦はだらりとだらしなく垂れ下がっている。 「ああ…これは酷いな」 瞼をごしごしと無骨な手で擦りつつ、ギムリが呟く。でしょう、と勢い込んだレゴラスに、迷惑な顔を隠しもしないアラゴルンが問うた。 「ここに着いた時は何ともなかっただろう」 夕暮れ過ぎに襲ってきたオークの一団を、レゴラスは確かにその弓を使って倒していた。 割れた弓を受け取り、仔細に点検を始めたギムリが、これはもう使えんな、と告げる。 「真っ二つに折れてる。修復の仕様がない。それにしたって、何だってこんなになっちまったんだ! 頑丈な木を使ってたのに」 細工物には詳しいドワーフの言葉に、どれどれ、とホビット達もにじり寄ってくる。気付けば旅の仲間全員が目を覚まし、焚き火の周りに集まっていた。 一頻りの痛みが治まったボロミアも、まだ頭を押さえてはいたが、一体何だと言うんだ…、と恨みがましい声で問うた。 レゴラスは全員の視線を浴び、一瞬戸惑ったように目を丸くしたが、すぐに、いやぁ、と照れ臭そうに頬を染める。 「不寝番は暇だし、弓の手入れでもしようと思ったんですよね。そしたらボロミアの色っぽい声が聞こえて」 がしゃん、と何かが落ちる音がした。派手な音に旅の仲間達が振り返れば、アラゴルンの隣にやってきていたボロミアが倒れ、そこにあった銀食器の中に頭を突っ込んでいる。慌てて助け起こそうとするアラゴルンに、ボロミアは、もうほっといてくれ、と言わんばかりだった。 「あ、別にナニしてたとかそんなんじゃなくて、ただの寝言だと思うんだけど、本当もう色っぽくて。なのにボロミアの横にいるのはアラゴルンでしょう。なんだか腹が立っちゃって、気付いたらぼっきり折っちゃってました。まぁ万が一、アラゴルンがボロミアによからぬ事をしてたら、彼の首を圧し折ってたと思うんですけどね、あっはっは」 下らん、とガンダルフは溜息を吐き、再び身体を休めるべくもとの場所へ戻って横になった。 なぁんだ、とメリーとピピンはつまらなさそうに顔を見合わせている。サムとフロドはすでに毛布に包まって夢の世界だった。 ギムリは壊れた弓をレゴラスの足元にぽいと放り、大きな欠伸尾をし、毛布を頭から被ってしまった。すぐさま欠伸と同じくらいに大きな鼾が聞こえてくる。 「あれ? ちょっと、皆さん? どうしたんですか?」 不思議そうに辺りを見渡すレゴラスの肩を、ぽんぽんとアラゴルンの手が叩く。 「…そう言う事は、思っていても口にはしないものだ」 「何がです? ボロミアを襲いたいって思ったことですか? そんなの毎日毎日一日中思ってますよ。いちいち口にしてたら疲れちゃうじゃないですか」 「いや、だから…そうではなく」 「あ、それとも昨日の夜、こっそりボロミアにキスした事を怒ってるんですか、エステル。いやだなぁ、心が狭い男は嫌われますよ」 「そうじゃない! て言うか、お前、昨日そんな事してたのか!」 「いやだなぁ、エステルってば」 からからと笑うエルフの襟首を引っ掴み、がくがくと揺さぶっているアラゴルンに、レゴラスはにこやかに微笑んで告げた。 「寝る前におやすみのキスをするのは、僕の日課ですよ。ああっ!」 エルフには息が詰まるという事はないのだろうか。服の襟は喉仏を圧迫する勢いで締め上げられているのに、まるでけろりとしている。そればかりかまるで違う所を見て、彼は愕然と目を見開いた。 「そう言えば今日はまだおやすみのキスをしていないじゃないですか! 僕としたことが!」 「せんでいい!」 「何もあなたにしようなんて思ってませんよ」 「当たり前だ!」 「だったらいいじゃないですか、日課なんだから。さぁボロミア! 僕の熱い愛の……あれ?」 「あ?」 くるりと振り返ったレゴラスは、食器に突っ込んで倒れ付しているはずのボロミアの姿が、そこにない事にようやく気付いた。不思議そうに首を傾げ、辺りを見渡しているが、焚き火の火が届く範囲に彼の姿はない。 「…どこへ行った」 恋人の危機である。いつにも増して険しい顔をするアラゴルンに、いい加減黙ってくれんかね、と思っているのがはっきりと解る声で、ガンダルフが応えた。 「奴なら泣きながら走って行ったぞ」 「ボロミアさんかわいそう」 メリーの眠そうな声に、ピピンのこれもまた眠そうな声が被さる。 「知らない間にレゴラスさんにキスされてただなんて」 「僕なら精神病になって寝込んじゃうかも」 「追いかけるのも喧嘩するのも他所でやってくれ。儂らは眠い」 どこかへ行け、とはっきり言われてしまったのでは、そうするしかないだろう。アラゴルンは絞殺寸前まで首を締められながらも、なおもけろりとして、いやだなぁお二人ったら、とメリーとピピンに静かな殺意を送っているレゴラスから手を離した。 「探しに行く」 「じゃあ僕も」 「お前は」 立ち上がりかけたレゴラスの肩を、渾身の力で押し返し座らせ、アラゴルンはにっこりと微笑む。 「不寝番だろう。ボロミアを探すの私一人で充分だ」 「……よからぬ事はしないで下さいよ、僕のボロミアに」 「誰がお前のだ!」 それを捨て台詞に、アラゴルンは彼自身の剣と、ボロミアがうっかり忘れて行ったのであろう剣を手に、夜営の場から一人離れた。アラゴルンの気配が草を分け遠ざかって行くのを利きながら、ガンダルフはやれやれと息を吐く。無邪気なホビットはすでに就寝しているようだが、人の子の三百世帯分を生きた老人に、エルフと人間の喧喧囂囂のやり取りは聊か煩かった。 静かになるといいんだが、と思うガンダルフの気持ちとは裏腹に、その夜はずっと、レゴラスが誰に語るでもなくぶつぶつとしゃべり続けるボロミアの可愛らしい仕草百選が、彼の眠りを妨げたのだった。 |