■ 王様の午後
 昼食を採ったばかりの身体はぽかぽかと暖かく、ともすればこくりと船をこぎそうになる。天気のいい日は尚更だ。
 大きな明り取りの窓から、さんさんと太陽の光が注ぎ込む執務室で、大きな机に向かって書類と睨めっこをしているアラゴルンは、入り口に立つ兵と、部屋の隅でこまごまとした仕事をしている侍女に気付かれぬように、そっとあくびを噛み殺した。
 ちらりと窓の外へ視線を走らせれば、抜けるような青い空に、白い雲がいくつもぷかぷかと呑気に泳いでいる。風も心地よく適度に吹いているようで、庭の立ち木に茂る緑が、時折揺れていた。
 遠駆けに出かけるには最高の気候だ。
 これで執務さえなければ、冠もマントも投げ捨てて、十年ばかり前まで纏っていた野伏と同じような衣装を着て、石造りの都を飛び出してやるものを。
 なんだか少し、損をしたような気がして、アラゴルンは握り締めていたペンをインク壷へ投げ入れた。とぷんと小さな音がしたが、重厚なインク壷は羽ペンの重みを受け止めても揺らぐことはない。
 立ち上がり、ゆっくりと窓際へ近付くと、外の光が目に染みた。
 目をしょぼしょぼと瞬いていると、執務室の扉が何度かノックされた。
 振り向くと扉のすぐ側にいる兵士が伺うようにアラゴルンを見つめている。頷くと、彼はさっと大きな扉の片側だけを開けた。
「失礼、来年度の予算編成に関して、慈善事業の詳細を……なんだ、仕事をしていないのか」
 手元の紙束を見下ろしながら入ってきたボロミアが、執務机についているのではなく、窓際に突っ立っているアラゴルンの姿を認めて、眉を寄せた。
「今日中に終わらせなければならない仕事は、山のようにあるのだぞ」
「少しばかり休ませてくれ」
 思わず苦笑し、アラゴルンは軽く腕を回す。
「ずっと机に向かってばかりでは、さすがに肩も凝るよ」
「先ほど昼食を採られたばかりではないか。どうせあなたのことだ。今日のような良い天気なら、部屋に篭って仕事をするのではなく、遠駆けにでもでかけたいなどと考えておられるのだろうが、そうは行かぬぞ」
「あんたは私の心が読めるのか、ボロミア…」
 溜息を吐き、窓から離れ、机に戻ってくるアラゴルンに、ボロミアは微笑する。
「心は読めずとも、あなたの行動はたやすく予想できるのだよ、アラゴルン。さぁ遠駆けも昼寝も諦めて、さっさとこれに目を通してくれ。来年度の予算に組み込む予定になっている慈善事業の詳細だ」
「あんたに任せるよ」
 椅子に腰を下ろし、ついさっきまで片付けていた書類を脇によけ、ばさりと置かれた紙の束に、アラゴルンは眉を下げる。一気に仕事が増えてしまったような気がする。
 折角、遠駆けに良い天気だと言うのに、今日はずっとこの部屋から出してもらえないに違いない。
 勿体のないことだ。
 げんなりと顔を顰め、口を尖らせるアラゴルンの心情を察してか、ボロミアはなおも硬い口調で首を振る。
「それはなりませんぞ。明日の会議に提出する書類ですからな。あなたの目が通っていなければ話にならない」
「ではこれ以外の書類はあんたがやってくれ」
「それもならぬ」
「なぜ」
「なぜ? なぜと申されるか」
 片眉を上げ、大仰に胸を反らせたボロミアを、アラゴルンは実に迷惑そうな顔で見上げている。執務机を挟んでの、子供じみたやり取りを、扉を守る衛兵も、こまごまとした仕事を言い付かる侍女も、こっそりと笑いを噛み殺して眺めていた。
「なぜならこれはすでに私が目を通し、陛下にお目通り願っても良いと判を押した書類だからだ。あとはあなたの署名と印章を頂くだけの書類だからだよ」
「天気が良いとは思わないか、ボロミア」
 溜息を吐き、窓へ顔を向けるアラゴルンは、必死に詰まれた書類から目を背けているようでもあった。ボロミアはうっかり微笑んでしまいそうになる頬を引き締めて、腕を伸ばす。他所を向く王の耳をぐいとひっぱり、書類の束を突き付けた。
「さぁ早く目を通しなさい、アラゴルン! これが終わらなければいつまでたっても遠駆けにもいけず、昼寝もできぬのですぞ!」
「痛いよボロミア。子供ではないのだから耳をひっぱらないでくれ」
「それでは頬でもつねりましょうか。ああ、それともしっかり椅子に座って仕事ができるように括り付けて差し上げましょうか」
 腰に手を当て憤慨して見せるボロミアの言葉を聞き、アラゴルンは益々顔を顰めては額に手を当てた。
「なんだか最近、あんたの口調がどこかの性悪エルフのそれに似ている気がするのは、気のせいなのかな…」
「気のせいではありますまいよ」
 すでに決済済みの書類を近くのテーブルへ持って行き、すばやく目を走らせて記入漏れがないかを確認し、ボロミアは溜息交じりに答えた。括り付けましょうかとまで言われてしまっては、さすがのアラゴルンも素直に仕事をしなければならないだろう。インク壷に投げ入れた羽ペンを取り上げ、広げた書類に仔細に目を走らせ、他の数枚とも比較して、よしと判断をしたのなら署名をする。ようやく執務に腰を入れてくれた王の様子を横目で伺い、ボロミアはわずかに微笑んだ。
「毎日毎晩レゴラスと顔を合わせていたら、嫌でもそうなります」
 いささか疲れたようなボロミアの声を聞きとがめ、なに、とアラゴルンは弾かれたように顔を上げる。
「レゴラスと毎晩顔を合わせているだと!」
「はぁ…就寝前に挨拶をするのがエルフの慣わしだとか言って、毎晩私の部屋を訪れてこられますが」
「まさかボロミア、それを本当だと思っているんじゃないだろうね」
「………まさか」
 ボロミアは苦笑して、分厚い書物のように積みあがった書類の端を合わせると、それが不意の風で飛んでいかぬようにと重石を載せた。飾り細工のその重石は、ドワーフのギムリが拵えてくれたものだった。天気の良い日には窓を開けて仕事をするのだが、紙が風で飛んでしまってかなわないよ、とボロミアが洩らしたところ、翌日にはすでに出来上がっていたのだ。今にも獲物を得んとする鷹の彫り物で、ドワーフの細工物らしく実に見事に仕上がっている。鷹の目は赤く、紅玉を埋め込んでみたのだよとギムリは自慢げに説明してくれたものだ。その飾り重石でしっかりと紙を止め、ボロミアは振り返った。
「あの旅の間、散々昼夜を共にしていたのに、レゴラスが就寝前に挨拶をしてくちづけていたところなど見たこともない。他愛ない嘘だと、いくら私でもすぐに解る」
「くちづけだと! あの根腐れエルフめ! あんたにくちづけを迫っているのか? それも、毎日毎晩!」
「…いや、くちづけとは言ってもレゴラスが私の頬にするだけのものだから……」
 アラゴルンの思わぬ剣幕に、思わずボロミアは身体を引いてしまった。ばんっと思い切り叩かれた執務机の上で、哀れにもアラゴルンの掌の下敷きになった紙が撚れてしまっている。
 ああ、それは明日の会議で必要な書類なのだが…、とボロミアは言いかけ、だがアラゴルンの迫力に負けた。アラゴルンは身体を乗り出しながら、ボロミアをじっと睨み付けている。
「あの根性のひん曲がったエルフのことだ。くちづけを頬に送っただけで、易々とあんたの部屋を後にするとは思えない。それにあんたもあんただからな。どうせ、あの腹に一物も二物も抱え込んだエルフに、くちづけ返してやっているに違いない!」
「…どうしてそう言う事だけは敏いのだ、アラゴルン…」
「ではそうなのだな!」
 いささか辟易したように顔を歪め、ボロミアは鬱蒼と溜息を吐いた。王の執務机の上を、意味もないのに片付け始めたりなどして、早くこの話題を切り上げたいと思っているのがよくよく解る。そうはなるか、とアラゴルンは益々眉間に力を込めて、ボロミアを睨め付けた。
 根負けしたように、ボロミアは肩の力を抜く。
「頬にくちづけをするだけだ。ピピンやメリーにするのと同じではないか。それに私がこうやってここで過ごしていられるのも、レゴラスのおかげでもある。多少なりとも彼の我儘を聞き届けてやっても良いとは思うのだが…」
 指輪を葬るための旅の最中で、ピピンとメリーを守り命を落としたボロミアが、ひょっこりと王が統治するゴンドールへ戻ってきたのは数年前の事だった。エレスサール王の世継ぎエルダリオン生誕のその日で、まるで狙い済ましたかのような執政殿の帰還に都中が沸き立ったのは、アラゴルンの記憶にも新しい。ボロミアの帰還に、なぜかレゴラスが付随していたのも覚えている。ボロミアによれば、一度死した身が再び甦った時をレゴラスは察し、迎えにきてくれたのだと言う。更にはボロミア復活に、レゴラスが深く加担しているとかいないとか。いまいち詳しいことは、レゴラスが話さない上に、ボロミアもよく分かっていないようなので、アラゴルンにも伺い知れないが、とにかくそれ以降、レゴラスが以前よりも煩くボロミアに纏わりつくようになった。迷惑な話だ、とアラゴルンは眉を寄せた。
「………アラゴルン?」
 眉間に皴を寄せて黙り込んだアラゴルンに、ボロミアが恐る恐る声をかける。はっと物思いの淵から戻ったアラゴルンは、近付いたボロミアにくわっと口を開く。
「なぜレゴラスばかり庇うのだ!」
「な、なぜと申されても……」
「そんなにレゴラスが良いのか、私よりも! 私だって仕事以外ではあんたと会う時なんて滅多にないと言うのに! 先に褥を共にしたのがいつか覚えているのか、ボロミア! もう二月も前…」
「ええい、黙れアラゴルン!」
 扉を守る衛兵と、こまごまとした仕事を受け持つ侍女は、揃いも揃って、支離滅裂な話で喧々囂々の喧嘩をやらかす王と執政を、なんと仲のよろしいことだ、と微笑ましく見守っていたのだが、だんだんと話の内容が怪しくなってきた事に気付き顔を引きつらせた。
 それに気付いたのはボロミアだけで、慌ててアラゴルンの口を封じようと怒鳴りつけるが、それくらいでは勢いのついた王を止められはしなかった。
「ただでさえ、エルダリオンが生まれてからと言うもの口を開けばエルダリオンエルダリオンと……私のことなどどうでも良いのか! この上レゴラスに横取りされてなるものか! ………この、この、この、浮気者め!」
 びしりと人差し指を突きつけて怒鳴るアラゴルンに、ボロミアの堪忍袋の長い尾も、とうとうぷちりと切れたらしい。思い切り叩きつけられた執務机のテーブルの音に、扉守の衛兵と侍女とが揃って直立しているにも気付かず、口を開いた。
「何が浮気者だ! 王妃ある身でこそこそと人の寝屋に忍び込んでくる輩に、人の事はどうこう言えまい!」
「アルウェンとあんたとは別だし、私が抱かれるのはあんただけだ!」
「それを止めよと言いたいのだ、私は! 一国の王が執政に抱かれるなどと、聞こえが悪い! まだエルダリオン様が生まれる前なら遊びと一言で片付けてしまえるものを…あなたは子持ちなのですぞ! そこの所を良く肝に銘じて自重なされよ!」
「自重? 自重だと! あんたの言うように大人しく自重していたら、私があんたに相手をしてもらうのはいつになることやら! 何しろあんたには、レゴラスの他にも構わなければならない相手は山のようにいるのだからな。ん、ちょっと待て、先にそれを止めよと言ったか。つまり、そうか、なるほど…つまり、あんたは私に飽きたと言いたいのだな! 誰か憎からず思う相手でもできたと言うのか!」
「な…何を申されるか! 誰がそんな事を!」
 目を丸くして驚くボロミアの表情に、アラゴルンはむっと口を曲げた。目を眇めて、ボロミアの頭の先から爪先までをとっくりと眺めてやると、ボロミアは急にたじろいで足を踏み変えた。
「な、何をじろじろと検分しておいでだ」
 居心地悪そうに眉を寄せたボロミアに、アラゴルンはこめかみに青筋を浮かせて、なるほど…、と呟いた。
「そう言う訳か、執政殿」
「何が言いたいのだ」
「この所ずっと、私の相手をしてくれぬと思ったら、さては好い人ができたのだな。どこぞの姫君だ。いつから通っている。婚儀の段取りでも始めているのか」
「何を藪から棒にわけの分からぬ事を申されるか!」
「わけの分からぬ事などではない! いいか、私の許可なく婚儀などと許さんぞ! 絶対に! 私の認めた相手でない限り契らせてなどやるものか!」
「なんと馬鹿なことを……」
 呆れたように目を丸くして、深々と溜息を吐き、ボロミアは肩の力を落とした。昼の執務室で、何の話を怒鳴りあうようにしているのかと振り返れば、下らぬ痴話喧嘩に過ぎぬことばかりだ。
 付き合ってはおれん、と執務室を後にしようと、ボロミアは鷹の飾り重石で押さえてあった書類の束を取り上げた。そして慇懃に頭を下げる。
「陛下には昼ののどかな陽気に当てられ、いささかご乱心召されたご様子。日を改めて出直して参りますので、それまでにその書類に目を通し、ご署名とご印章を頂きたい」
「待てボロミア! 話はまだ済んではおらぬぞ!」
 慌てるアラゴルンに鋭い一瞥をくれ、ボロミアはふいと背を向けた。
「貴様の世迷い言になど最後まで付き合っておれるか」
 地を這うような低い声に、なっ、とアラゴルンが目を丸くする。滅多になく、ボロミアが心底怒っているようだと、ようやくアラゴルンも気付いたようだった。いや、ちょっと待てボロミア、と慌てて取り繕おうとするが、それよりも先にボロミアは、やはり慇懃に頭を下げて部屋を出て行こうとする。扉守の衛兵に扉の片側を開けさせ、ボロミアは足音も高く外へ出て、そこで人にぶつかりそうになって慌てて立ち止まった。
「これは王妃殿下。ご無礼を」
「あら、ボロミア様。ご機嫌麗しゅう。お仕事ですの?」
 エルダリオンを傍らに連れ、アルウェンがころりと微笑んだ。春先に似合いの萌黄色のドレスに身を包んでいる。輿入れしたばかりの頃は、白い都に気をつかってか、白い布で拵えたドレスばかりを身に着けていたのに、最近では華やかな色合いのものを選ぶことも多くなった。おそらくはボロミアの義妹エオウィンの影響だろう。今日の装いもまた麗しい見目によく似合っている、とボロミアはつい今しがたまでの尖った気持ちも忘れ、にこりと微笑んだ。
「いいえ、王妃殿下。恥知らずな我が王が済まされました書類を受け取りに参っただけです。まだ滞っているようであればお手伝いをと思っていたのですが、いや、あれに情けをかけるなど私らしくもなかった。おや、エルダリオン様、それをどうされたのですか?」
 母に手を引かれたエルダリオンが、繋いでいない方の手に薄紫の花を持っているのを見つけ、ボロミアが首を傾げて問う。誕生のその日に帰還したという白い都の執政殿が、エルダリオンはことの外お気に入りで、何かというとすぐに構ってもらおうと腕を伸ばす。
「母上と一緒に、外へ行ってきたのです。きれいなお花がたくさん咲いていたので、父上にもお見せしたくて」
「ああ、そうでしたか。それでは、王妃殿下。わたくしはこれにて失礼させていただきます。この部屋には、一秒たりともいたくありませんのでな」
「ぼ、ボロミア! 待て!」
 微笑みながらも吐き捨てるようなボロミアの口調を見れば、エルフでなくとも何があったのかは容易く分かる。アルウェンは微笑んで、軽く膝を曲げた。執務室の中でボロミアを引きとめようと必死になって大きな執務机に乗り上げる王になど、王妃も執政も目もくれない。侍女ばかりが、陛下のせっかくのお衣装にインクの染みが、と青ざめている。
「まぁ、それではボロミア様にこれから少しばかりのお時間を頂いてもよろしいかしら。陛下とお茶を頂こうかと思ったのですけれど…どうやらお忙しいご様子ですものね」
「ああ、そうなされた方がいい。お世継ぎをあんな男の側に置くなど、悪い影響がでかねませんぞ」
「厨房の隅を借りて、ケーキを焼いてみましたのよ、ボロミア様。甘いものがお好きだと伺っていますもの。召し上がって下さいますかしら」
「おお、それはありがたい。疲れているときには、甘いものはこの上のない馳走ですからな。王妃殿下のお手製とあらば、尚更です」
「まぁ嬉しいわ、ボロミア様」
 すっと差し出したボロミアの肘にアルウェンはためらうことなく白いほっそりとした手を滑り込ませた。にこりと微笑んで見上げるアルウェンに、これもまたにこりと微笑んでボロミアは頷いた。
「では参りましょうか、王妃殿下。ここに長くいると悪い男の気配に触れて王妃殿下の気も患いますぞ」
 アルウェンはエルダリオンの手を引いて、ボロミアが導くがまま部屋を出る。
 慌てたのは父上にお花を見せにきたエルダリオンではなく、執務机の上で衣装に引っかかった羽ペンを取り外そうと躍起になっていたアラゴルンだった。侍女までもが慌てて飛び出してきて、立派な王の衣装にべっとりとついたインクの染みを落とそうとハンカチを叩きつけている。質素を好む王はあまり衣装を持ちたがらないので、ひとつでも汚れが付くと後が大変なのだ。
「ぼ、ボロミア! 待て、アルウェン!」
 咄嗟に執務机から飛び降りようとしたのだが、王の衣装のインクの染みを抜き取ろうとしていた侍女の手に裾を掴まれて、アラゴルンは前に進むこともかなわず執務机の上に縫いとめられた。
「話はまだ済んではおらぬ!」
「何か聞こえましたかな、王妃殿下」
 首を傾げるボロミアに、彼と腕を組んでいたアルウェンはのほほんと首を傾げた。
「さぁ、何でございましょうね。わたくしには聞こえませんでしたわ」
「嘘を申せ、アルウェン! エルフの耳にこの大声が聞こえぬのか!」
 執務机の上に乗り上げたまま怒鳴るアラゴルンを振り返り、さぁ、とアルウェンは穏やかに微笑んだ。
「ボロミア様のお気を煩わせる方の声など、わたくしには聞こえません。さぁ、参りましょう、ボロミア様」
 アルウェンはもう一度にこりと微笑んだっきり、アラゴルンを振り返ることはなかった。さぁエルダリオン、と息子の背を軽く押し、部屋から出るように促した。アラゴルンの息子エルダリオンは、執務に勤しむ父王に花を届けにきたはずだったのだが、その父ときたら何やらまた執政殿を怒らせてしまったようだ。本気で怒った執政殿に適う者はエルダリオンの母か、もしくはかつての闇の森の王子くらいなものだろうと彼は思っていた。父王は怒った執政殿に勝てた試しがない。エルダリオンは手の中の花を見下ろした。土から離されたそれは、少しばかりくたびれているようでもある。父に渡せるのはいつになるのか分からない。父王の悲鳴もむなしく閉じられた扉の外で、エルダリオンは少し考えた後、ボロミアにそれを差し出した。
「父上はお忙しそうだから、ボロミアにあげる」
「おや、それは光栄ですな、エルダリオン様。ありがたく頂戴いたします」
 ボロミアは恭しくそれを受け取った。廊下に膝を付いて、エルダリオンと同じ目線になったボロミアが微笑むのを見て、エルダリオンも息を吐く。
「あまり父上を叱らないでね、ボロミア」
「叱っているのではありませんぞ、エルダリオン様。少々おいたの過ぎたお父君に、反省と言う言葉を教えてやっているのです。言ってみれば教育ですな」
 自分で自分の言葉に頷いたボロミアを見て、アルウェンがくすくすと転がるような笑い声を上げる。王の執務室に続く廊下は人気がなく、かと言ってまったくの無防備というわけではない。角ごとに兵士が立ち、油断なく辺りに気を配っていた。気を尖らせている彼らの頬をも笑ませるようなアルウェンの笑い声に、ボロミアは腰を上げた。差し出されたボロミアの肘に手を預け、アルウェンは歩きながら笑った理由を話した。
「わたくしの父と同じことをおっしゃるのだと思って」
「…エルロンド卿と?」
「ええ。叱るのではなく教育をしているのだと。エステルにはまったく、通じてはいないようですけれども」
「エルロンド卿も随分と頭を痛められたのでありましょうな、このわたくしと同じに!」
 エルダリオンからもらった花を見つめながら、言葉とは裏腹にボロミアの顔は優しいものだった。その横顔を見上げ、アルウェンはころころと微笑んだ。
「ボロミア様はきっと、わたくしの父と話があったでしょうにね」
「あれの愚痴ならば、いくらでも言えますぞ」
「あら、父も負けませんわよ」
 顔を見合わせ、また笑い声を上げた執政と王妃は、そのまま連れ立って王妃の庭へ足を運んだ。アルウェンのために拵えた庭と、アルウェンのためにと建てた東屋の中で過ごせるのは、彼女に認められ招かれたものだけだ。お茶の用意が整えられた東屋に落ち着き、アルウェンのお手製のケーキに舌鼓を打った。このような天気のいい日には、陛下でなくとも外へ出たくなります、とボロミアが打ち明けたところで、ようやく侍女の手から逃れてきたらしいアラゴルンが怒鳴り込むような勢いで駆け込んできた。羽織っていた上着がなく、シャツ一枚の気軽な格好だ。
「私には外へ出るなと言ったくせに、あんたは贅沢にもお茶か、ボロミア!」
 東屋に駆け込むなりテーブルを両手で叩きつけ、開口一番がこれだ。強い力に跳ねた茶器から紅茶がこぼれ、まぁ、とアルウェンが眉を潜めた。
「貴様、執務はどうした! まさか放り出してきたのではないだろうな!」
 おおよそ己の主君に向けて言うのではない言葉で憤るボロミアに、あんたが戻るまではしないと決めたんだ、とアラゴルンは逆に胸を張る始末である。ああもう、とボロミアが額に手を当てると、アルウェンが花もほころぶような笑い声を上げた。
「あまりボロミア様を煩わせないようになさいませ。あなたのわがままに付き合ってくださるのは、ボロミア様だけですのよ」
「好き好んで付き合っているわけではありませんぞ」
「何を申す。私が好きなくせに」
「何事も限度と言うものがある」
「そうです、父上。ボロミアがかわいそうです」
 エルダリオンまでにも言われてしまっては、さすがのアラゴルンも何も言えず、ぐぅと唸る。アルウェンとボロミアが向かい合って座るテーブルの傍らに立ち、アラゴルンは拳を握り締め憤っていたが、アルウェンとボロミア、そしてエルダリオンの三対の目にじっと見つめられているのに気付き、ふっと肩の力を抜いた。
「……お茶を飲んだら、続きをする」
 拗ねた子供のような口調に、ボロミアは相好を崩した。口ではなんだかんだと言いながらも一番アラゴルンに弱いのもボロミアなのだ。
「わたくしの作ったケーキも召し上がれ? ボロミア様にはおいしいと褒めていただきましたのよ。ボロミア様が淹れてくださった紅茶もとてもおいしいのですよ」
 アルウェン自ら切り分けて差し出した皿を受け取り、アラゴルンはボロミアが少しずれたベンチに腰を下ろした。胡桃を使ったアルウェンのケーキは、厨房の菓子作り専門の料理人が作るそれと遜色がない。ボロミアは勧められるがまま、ケーキのおかわりをもらい、代わりにアルウェンに紅茶を注いだ。
「裂け谷でわたくしの世話をしてくださったエルフに教えていただいたのですよ」
「裂け谷では、あまりあなたともお話できませんでしたものね」
 アルウェンはよい香りを漂わせる紅茶のカップを持ち上げて、目を細めた。
「妃殿下におかれましては、アラゴルンとばかり親しくされておいででしたからな」
 ボロミアの言葉にアルウェンはほんのりと頬を染める。
「あら、そう言う執政殿こそレゴラスとばかり仲良くされていて。みな、首をかしげておりましたのよ。どうして、ボロミア様はあのレゴラスと仲良くしていらっしゃるのかしらって」
「嫌がらせのためですよ、妃殿下」
 ボロミアはおかしそうに笑って、隣でもくもくとアルウェンのケーキを頬張るアラゴルンを見た。王と言う肩書きを外してしまえば、ケーキに夢中になっているアラゴルンの様子は、彼の息子のエルダリオンと同じほどに子供っぽい。エルダリオンも父と同じく、ボロミアの淹れた紅茶と、アルウェンの作ったケーキに夢中になっていたからだ。
「よほど王らしからぬ姿格好をしていたアラゴルンに、一矢報いてやろうとレゴラスと一計を案じましてね。彼が、わたくしとレゴラスが仲睦まじく過ごしていたのなら、きっとアラゴルンは悔しがるだろうと」
「まぁ、そういう時はわたくしも誘って下さらないと」
「次からはそう致しましょう」
 くすくすと笑いあう二人を、ケーキを食べる手を止めたアラゴルンが迷惑そうな顔をして見比べている。
「前々から思っていたんだがね」
 ふぅと大きな溜息をついたアラゴルンは隣に座るボロミアに顔を向けて尋ねた。
「いつの間にそんなに仲良くなったのだ」
「おや。これは以外なことを仰る」
 ボロミアが目を丸くすると、アルウェンもおかしそうに口元を緩めて、そうですわ、と頷いた。
「陛下の寵愛を頂くもの同士、交流を深めるのは当然じゃありませんの」
「そうですぞ。それとも、妃殿下と間男が親しく語らうのは、何か都合が悪うございますかな」
「…ま、間男って…ボロミア、あんた……」
 途端に頭痛がしたように顔を顰めるアラゴルンの頬にくっついていたケーキの欠片を、ボロミアは指の先で軽く払い、腰を上げた。
「わたくしから執政という肩書きを取り除いてしまえば、それに相違ありますまい。さ、ケーキも召し上がったようですし、さっさと執務に戻って頂きましょうか。部屋にあったあの書類以外にも、まだ陛下の決済を頂かなければならないものは、山のようにございますからな!」
「夕食もわたくしが作ろうと思っていますのよ。ボロミア様、ぜひご一緒に」
「ああ、勿論ですとも! 楽しみです」
「ですからあなた、ボロミア様をお食事に遅れさせないように、早くお仕事を終わらせてくださいね」
 にこりとアルウェンに微笑まれ、その笑みの中にある無言の圧力にアラゴルンは気付いていた。ああ、とか、うむ、とかそのどちらとも取れる言葉で唸るアラゴルンをせきたて立たせ、ボロミアはアルウェンの前に膝を着く。
「では妃殿下。しばらく陛下をお借り致しますぞ」
「ボロミア様には我が君がご迷惑をおかけいたします」
「それが執政の勤めと思えばこそ」
 アルウェンの細くひんやりとした手の甲にくちづけ、ボロミアは腰を上げた。そして急にざっくらばんとした態度で、傍らに立っていたアラゴルンの襟首を掴む。もう片方の手では、執務室から持ち出した書類の束を掴んでいた。
「さぁ行くぞ、アラゴルン。さっさと仕事を終わらせねばならぬ」
「こら、ボロミア。襟を掴むのは止せ。それに私は忘れていないからな! レゴラスと私と、一体どちらがより大事なのか、今日こそはっきり宣言してもらうぞ!」
「なんでまたここにレゴラスが出てくるんだ! いいから早く歩け!」
 およそ王らしからぬ王と、執政らしからぬ執政は、言い合い小突き合いながら、庭を抜けて石造りの回廊へと歩いていく。その奥には王の執務室があるのだが、おそらく、そこへたどり着いてもまだ下らぬ話題で噛み付くように言い合いをしているのだろう。
 アルウェンはその後姿を見送り、くすくすと微笑み、そして傍らに座るエルダリオンの髪を撫でた。
「まったく、仲のおよろしいことね」
「父上は、ボロミアといるととても嬉しそうです」
「あのお二人は、他の誰も入ることのできぬ絆で結ばれているのですよ。エルダリオン、そなたにも絆で結ばれた人と出会えるよう、わたくしは祈ります」
 母を見上げるエルダリオンは、石造りの回廊の奥へ消えていった父と執政との姿を思い出すようにそちらへ顔を向け、幼い頬をほころばせる。子供の目から見ても、父とその執政とは仲睦まじく、互いに信頼し合っているように思え、好ましく見えたのだ。いささか、父の方が執政の尻に敷かれている気もしないでもないが、そうであっても仕方がないと思えるほど、執政は父に苦労をかけられているようにも思う。何にせよ、それでも離れがたいと、忙しい執務の合間を縫って毎日のように顔を合わせるのは、互いが好きなのであろうし、そう思い合えるのが羨ましい。
 小さな顎をこくりと頷かせたエルダリオンは、母の優しい視線に見つめられながら、胡桃のケーキのお代わりを食べはじめる。カップにはボロミアが注いでいった紅茶がまだ湯気を立てて残っていた。
 塔の中からは、またいらぬちょっかいを出したか、それともいらぬ事を言ってアラゴルンが怒らせたのだろうボロミアの怒号が聞こえていた。
 傍らでケーキを食べるエルダリオンを見つめ、こっそりとアルウェンは微笑んだ。エルフの耳には、執務室のやり取りが余すことなく聞こえていたからだ。またレゴラスと私のどちらが好きなのだ、とやり始めたアラゴルンの子供っぽい嫉妬の言葉に、アルウェンは笑みを深くした。