■ 王様の朝
 それは、とても肌寒い日の朝のことでした。
 ゴンドールの執政ファラミアは、昨日の内にできなかったしておかなければならない事を、朝早く起きて片付けてしまおうと、隣で眠るエオウィン姫を起こさないように、そっと寝台を抜け出てきました。
 執務室へ向かう途中、彼は玉座の間の前を通りました。
 いつもなら、昼夜を問わず衛兵が立って、守っている場所です。
 なにしろそこは、ゴンドールに長く不在だった王様が還ってきて、そして訪れる民や遠来の客やらに接見する部屋だったからです。よからぬ事を考える人が、こっそり忍び込んだりしないように、王様が長い間留守だったときでさえ、扉を守る衛兵が立っていたくらい大事な部屋だったからです。
 ですが今日は、誰もその扉を守っていないのです。
 何かあったのだろうかと、ファラミアは心配になりました。
 中つ国に不穏の影を落としていた冥王は消え去ってしまいましたが、それでも、その影響はところどころにまだ根強く残っています。もし悪い事を考える者が、玉座の間に潜んでいて、やってきた王様に襲いかかったら大変です。
 ファラミアは執政として書類の仕事をするのも得意でしたが、ことのほか、剣を操る事も得意でした。幼い頃から兄に鍛えられてきたからです。
 腰に下げていた剣の柄にそっと手をかけ、ファラミアは玉座の間の扉に近付きました。
扉は、ほんの少し、開いていました。
 中を覗き込み、一体誰が潜んでいるのかと息を殺したファラミアは、思わず目を丸くします。
 玉座の間にいたのは、ファラミアの王様だったからです。
 彼は、いつものような格好で、玉座の間の中央に立っていました。幾段高くなった玉座を見上げていました。
 おはようございます、陛下。今日は随分とお早いですね、と、ファラミアは声をかけようとしました。
 けれど、王様はファラミアがそう声をかけるよりも前に、何だか頼りないような素振りで歩き始めました。機会を逃してしまったファラミアは、ほんの少しの扉の隙間から、王様の動きを見つめてしまいます。
 王様は、まっすぐに玉座に向かって歩いていました。
 ゆっくりと、一歩一歩、歩いて行きました。
 そしてすっと、身を屈めたのです。
 それは、幾段を上がった場所にある玉座ではなく、そのすぐ下にある執政の椅子の前でした。
 いつもファラミアが座って、段の上の王様の話を聞いたり、王様と一緒にやってきた民や遠来の客の話を聞いたりする場所でした。
 王様は、執政の椅子の前に膝をつきました。
 ファラミアからは王様の背しか見えなかったので、彼がどんな表情をしているのかは伺い知れませんでしたが、きっと、とても、すごく優しい顔をしているのだろうと思いました。
 王様の手が、執政の椅子をなでました。
「おはよう、ボロミア」
 王様の呟いた小さな声は、いつもなら聞こえないようなものでしたが、随分と朝も早く、しんと静まり返った玉座の間には大きく聞こえました。
 ファラミアは息を飲みました。
 王様が呟いた名前は、ファラミアの兄で、本当なら王様の執政になるはずだったのですが、随分と前に王様と共に歩んだ旅の中で、不幸にも亡くなってしまった人の名前だったのです。
 ファラミアは、王様がファラミアの兄を、とても大事に思っていることを知っていました。王様を昔から知っているエルフの王子が教えてくれたからです。
 ファラミアの兄は、王様を心から尊敬し、慕い、時間は短かったけれど誰よりも近く側にいたのです。
 ファラミアの兄がいたからこそ、王様はゴンドールへ還ってきたのです。
 けれどファラミアの兄はすでにおりません。
 ファラミアは、どうして王様が兄の名を呟いたのか解りませんでした。
「今日も、とてもいい天気だよ。野駆けにでかけたくなるくらいだ。でも、我慢しよう。私の執政が怒ってしまうからね。あなたも知っているだろうけれど、私の執政は怒らせると怖いんだ」
 王様が言う、私の執政とは、つまりファラミアのことです。
 ファラミアはむっつりと唇を引き結びました。こっそり黙って出かけてしまい、ファラミアを心配させたのは王様です。なのに、そんな風に言われるなんて心外でした。
「……今朝方ね、ボロミア。あなたの夢を見たのだよ……」
 小さな声は、ますます小さくなって、聞きづらくなりました。ファラミアは息を顰めて、王様がここにはいない兄へ話しかけるのを聞いていました。
「それで、レゴラスが、輪廻と言う話をしてくれたのを思い出したんだよ。人は死に、魂が滅びずにいたのなら、やがてまた新しい命となってこの世に生を受けると…。どうせ彼のことだから、誰かの受け売りなんだろうけれど……ボロミア…。それが本当なら、早くあなたに会いたい…。あなたの声を聞いて、あなたの笑顔を見たい。こんなに、寒い日はたまらなくなるんだ。あなたに会いたくて、たまらない………」
 王様は、執政の椅子にもたれかかるように、身を投げ出していました。
 少し身を起こして、椅子のひじかけにくちづけをします。
 もしファラミアの兄が生きて、執政になっていたのなら、彼が置いた手の場所に、王様はくちづけをしました。
 ファラミアは、見てはいけないものを見てしまったのだと、知りました。
 王様は泣いていたのです。
 随分前に亡くなってしまったファラミアの兄を思って、ファラミアの兄を思い出して、泣いていたのです。
 ファラミアの兄がかつてこの国で暮らしていた時に使っていた部屋は、今もそのままにしてあります。片付けてしまうには、ファラミアも辛すぎたから、鍵をかけて、ファラミアの世話をしてくれる侍女に時々掃除をさせていたのです。
 ですがそれを、王様は知りませんでした。
 尋ねられなかったので、ファラミアも教えなかったのです。
 ファラミアは時々、どうしても兄に会いたくなると、その部屋を訪れます。
 兄が触ったものを触り、兄が読んだ本を読み、彼が側にいるように感じるのです。
 ですが、王様にはそうできる場所がありませんでした。
 王様が思い浮かべたファラミアの兄の居場所は、きっとあの執政の椅子だったのです。
 あの場所に、ファラミアの兄が座したことなど、一度もないのに、王様はあれにすがって泣くのです。
 ファラミアは、ファラミアの兄が、どれだけ王様に愛されていたかを知りました。
 きっと王様は、もう何度も、一人でここを訪れていたのでしょう。
 いつもはたくさんの人がいる場所で、一人こっそりと、ファラミアの兄を思って涙を流していたのでしょう。
 ですから、そんな王様を思って、衛兵達も遠慮をしたのかもしれません。
 ファラミアは、そっと玉座の間の扉を閉めました。
 かすかにも音がしなかったので、きっと王様は気付かなかったでしょう。
 ファラミアは足早に執務室へ向かうと、本棚の奥の隠しに入っている鍵を取り出しました。
 それは、ファラミアの兄の部屋の鍵です。
 立派な細工の施されているそれを、指先でするりと撫でると、ファラミアはそっと服のポケットにしまいました。
 王様に会ったら、それをあげるつもりでした。
 ファラミアは、この城にたくさんの兄の思い出を持っていました。
 かくれんぼをした階段の下の物置や、おいかけっこをして父に怒られた長い廊下。剣の練習をした中庭や、こっそり忍び込んでつまみ食いをした厨房。
 ファラミアには兄を偲ぶ場所が、たくさんありました。
 ですが、王様にはファラミアの兄を思う場所がひとつもなかったのです。
 ですから、ファラミアは彼の王様に、ファラミアの兄に一番近い場所の鍵をあげようと思いました。
 きっと王様は、渡された鍵を見て、不思議な顔をするでしょう。
 どう言う部屋の鍵なのか教えずに連れて行って、王様を驚かせてやろうと思いました。
 そしてファラミアは、椅子に座って、昨日やりのこしたしなければならないことの続きを始めたのです。王様に、少しでも早く、兄の部屋の鍵をあげるために、ファラミアは机に向かい、たくさんの仕事をこなすのでした。