■ 夏の終わり

 風が心地良く抜ける庭の木陰に、ゴンドールの尊き人、王とその彼に仕える執政の姿があった。夕闇も近付こうかと言う頃合で、空に浮かぶ雲は薄紫か、もしくはオレンジに染め上げられ、穏やかな風に吹かれて漂っている。ややもすれば時を告げるトランペットの音が高々と鳴り響くだろうその穏やかな空の下に、くつろぐ人達を見つけ、ボロミア帰還のその日から、執政の職務について回る事を除けば、私的に一日たりとも都を離れたことのないエルフは、下生えの草を踏みしめ、彼らが寄り添っている大木の根元へと歩み寄った。
「やぁこんばんは」
 頬に笑みを浮かべて声を上げれば、ボロミアに膝を貸しているアラゴルンがふと顔を上げる。まだ赤々と燃える太陽を背にして立っているレゴラスに、眩しげに目を眇め、アラゴルンは頬を緩めた。
「レゴラスか。こんばんはの挨拶には、まだ随分早いんじゃないか?」
「そうかな?」
 首を傾げ、レゴラスは辺りを見渡した。庭と言うよりも、小さな森と言うような風情で、あまり手入れのされていない辺りの様子を見渡して首を傾げる。夕暮れにかすむようにくつろぐ二人以外の人の姿はまるで見えないが、それでも、何事かあった際にはすぐさま駆けつけられるような場所に、兵士の気配があった。レゴラスが近付いたのにも気付かず眠っている執政はどうか知らないが、アラゴルンはその気配にしっかり気付いているだろう。
「もう夏も終わりだからね。そろそろこんばんはの時間だよ」
「ああ、そうだな…。涼しい風が吹くようになった」
「こんな所で何を? ああ、お仕事か」
 レゴラスはアラゴルンの立てた右膝の上にある書類と、それの下敷きにしている分厚い本、そして傍らにおいてある筆記具を見てにこりと微笑んだ。左膝を執政に提供し、王はいつ果てるとも知れぬ職務を遂行していたようだ。
「執政殿は、どうやらお疲れのようだね。王様に膝枕とは、贅沢だね」
「こんな貧相な膝枕は、執政殿には吊り合わんだろうが、そこは執政殿に対する私の愛情で我慢してもらっている」
 寝息を立てるボロミアのすぐ側にしゃがみこみ、レゴラスは嬉しそうに目を細めている。じろじろと、まるで子供が昆虫を眺めるような目で検分するどころか、指を伸ばしてボロミアの前髪を摘んだり、頬を突いたりするレゴラスに、アラゴルンは思わず苦笑する。
「こらこら、レゴラス。彼は疲れているんだ。少し休ませてやってくれ」
「そんなに仕事が忙しかったの? この所、何もないようだったけど」
 王と執政の職務に関わりこそしないものの、一体今、ゴンドールで何がなされているのかはその類まれな耳で持って聞き及んでいるレゴラスである。急ぎの用ならば自分の耳が聞き逃すはずはないし、と不思議そうに尋ねるので、アラゴルンは膝の上に乗せていた書類の一枚を持ち上げて差し出した。
「イシリエンの大公殿が送って寄越したのだよ」
「見ても?」
 受け取りながらも一応確認したレゴラスに頷き、アラゴルンは途中だった書類の続きに目を走らせた。ボロミアの傍らに腰を下ろし、レゴラスは王その人宛に送られた書状に目を走らせ、声を上げて読んだ。
「白き都を抱きしゴンドールの王、エレスサール陛下におかれましては、健やかにお過ごしの事とまことに喜ばしくお噂を拝聴しております。此度、陛下のお忙しい時間を割いて頂き、陛下にまことの忠誠を捧げる臣下には有り余る光栄と恐縮にございます。非礼無礼は重々承知しながらも突然に書状を差し上げたのは、王おわしめし遙か古き頃、夏の終わりより秋の始まりの間に、納涼の祭り事せしものとて記し残す文献を書庫にて発見…って。なんだ、つまりはお祭りをしようってことじゃないか。ファラミアも面白い人だなぁ。それだけの事を、こんな回りくどく言うだなんて」
「わざとだ」
 アラゴルンは朗らかな声を上げて笑うレゴラスに顔も向けず、そしてまた仏頂面を隠しもしなかった。
「この前送った手紙が、相当気に入らなかったようだ。書き方がなっていないと、添削してそれと一緒に送られてきた」
「…それはまたファラミアらしいというか、何と言うか…。ボロミアはなんて?」
「確かになってないと」
「それで?」
「今朝からずっと手紙の書き方を説明されたのだ。手紙など意味が伝わればそれでいいと思うのだがな。その間にも有能な執政殿は執務をこなし、なおかつその『夏の終わりより秋の始まりの間』にあったらしい祭りのことを調べるために、書庫と執務室とを往復していたんだ」
「へぇ。言ってくれたら手伝ったのに。お祭りだなんておもしろそうだなぁ。するんだろう? わくわくしちゃうよ」
 折り目のついた書状を、丁寧にその通りに折り、レゴラスはそれをアラゴルンへ戻した。受け取りながらも、それは傍らにおいて、分厚い本を支えに書類にサインをするアラゴルンは軽く溜息を吐いた。夕闇が迫っていて、辺りは薄暗くなりつつある。いかに夜目の利くアラゴルンとて、こんな刻限まで外で仕事はしたくない。それでなくても書類の仕事は嫌いなのだ。切り上げられるものならば、さっさと切り上げたかった。羽根ペンやインク壷をしまい、書類を束にして草の上へ置いた。
「祭りをするのはいいんだが…その費用や規模で少しもめていてな。昔のしきたりを復活させるのだから、始めは内々で行って、来年から盛大に国を挙げての物にすればよいと、ボロミアは言うんだが……」
 王の膝を借りて眠るボロミアの髪を撫で、アラゴルンは眉を下げた。
「君はそうは思ってないみたいだね」
 うん、と身じろいだボロミアの姿を目に納め、微笑ましく目元を緩めているレゴラスが腕を伸ばした。もうそろそろ起こさないと、いくら夏だからって風邪を引いてしまうよ、とボロミアの身体を軽く揺り動かす。レゴラスが側にやってきた辺りで、覚醒は始めていたのだろう。二度三度、わずかに揺さぶるとボロミアは瞼を押し上げた。
「やぁ我が最愛の君。どうやら随分お疲れのようだ」
 おはよう、と口元に笑みを浮かばせてボロミアを覗き込もうとしたアラゴルンよりも先に、ずいとレゴラスが身を乗り出した。いつの間にやらしっかりとボロミアの手を握り、その指先にくちづけまでして見せる始末だ。
「ああ…レゴラスか、驚いた」
 突然のレゴラスの行為に目を白黒させていたボロミアだったが、すぐに心底の笑みを浮かべながら、レゴラスが覗き込むがまま、手を取るがまま、そしてくちづけを送るがままになっている。
「どこの炎の精霊が現れたのかと思った。夕暮れに見るあなたの髪はいつもより赤く、まるで燃え盛っているようだ」
「ああ、もちろんだよ、ボロミア! 我が最愛の君! 僕の心はいつもあなたへの尽きぬ恋の炎で燃え盛っているんだよ」
 滲むように微笑むボロミアの額に目尻に頬にくちづけをし、あわよくばこの勢いで唇にも、と思っていたレゴラスを、こらこら、とアラゴルンが押し留める。
「我が執政殿に無体を働くな、レゴラス。それに虫唾の走るようなことを言うんじゃない」
「おや、そこにおれられたか、我が王」
「誰の膝を枕に眠っていたと思っているんだ、あんたは」
 身を起こし、振り返ったボロミアの言葉に、アラゴルンは額にぱしんと手を当てて首を振って見せる。
「まったく、何がどうして私のボロミアがレゴラスに気に入られてしまったのか…」
「おや、随分な言いようじゃないか」
 レゴラスは憤慨して頬を膨らませているが、いくら年を重ねようとも若く美しいままの彼がしても、それはただ愛らしいだけで恐ろしくも何ともない。うっかりと頬を緩めるアラゴルンの胸元に指を突きつけて、レゴラスはぐっと眉間に皴を寄せている。
「君のボロミアだって? とんでもない! 彼は確かに君の執政かもしれないけれどね、アラゴルン! ボロミアは僕の永遠の想い人。僕とは永遠の約束を交わしたんだからね! そこのところをお忘れなきよう!」
「永遠の約束だと?」
 不思議に首を傾げたアラゴルンに、傍らに座り直したボロミアが、少しばかり凝った首の根を押さえるように揉みながら苦笑した。
「いやなに。あなたもご存知のように、わたくしはレゴラスや奥方様の手を借り死の淵より甦りし亡霊。人の子の姿をしてはおりますが、その命に限りはないのですよ。老いず、朽ちず、エルフの方々のように永遠と生きるのです。あなたが寿命を全うして亡くなられた後は、レゴラスと共に生きると。まぁそのように約束したわけで……何か?」
 じっと横顔を見つめるアラゴルンの視線に気付いたボロミアが、ぐっと眉を寄せてそちらを見返す。彫りの深く、印象深い眼差しに見つめられ、それに慣れているとは言ってもさすがに居心地が悪くなったのだろう。ボロミアは心持顎を引いた。
「……レゴラスと、永遠の約束を交わしたと?」
「はぁ…いかにも。しかし、あなたが寿命を全うされた後のことですぞ」
「あんたは、エルフの永遠の約束がどういうものか、分かっているのか?」
「一生を共に過ごすということではないのですか? その、友情の証のような…エルフの習慣はよくは知りませぬが……違うのですか?」
 口籠るボロミアに、アラゴルンはカッと口を開いた。
「ボロミア! この大馬鹿者め! エルフの永遠の約束は、つまり夫婦になるという約束のことだ! 永遠に添い遂げることを約束してしまったんだぞ、あんたは!」
「まさか、そんな! レゴラス! そんなことはちっとも…!」
「だって言ったら約束してくれないじゃない。そういうのはこっそり、相手が知らないうちにやってしまうのが定石ってもんだよ」
 しれっと真顔で言うレゴラスに、ボロミアとアラゴルンは揃って絶句した。ぱくぱくと口を酸素不足の金魚のように動かして目を見開く人二人に、レゴラスは首をかしげ、にっこりと笑う。
「でも、一度約束してしまったものは、仕方がないよね? ああ、今から楽しみだなぁ。アラゴルン、君が死んでしまったら僕はボロミアとずーっと一緒にいられるんだよ。ああ、楽しみだ。今すぐ君を射殺してしまいたいくらいだよ!」
「笑顔で恐ろしいことを言うな!」
「そ、そうですぞ、レゴラス! わたくしの王に何をなさるおつもりだ!」
「いやだなぁ、冗談だよ、冗談」
「あなたが言うと、どうも冗談に聞こえないのだが……」
 聊か不安げにレゴラスとアラゴルンを見比べるボロミアは、心なしか、アラゴルンをレゴラスからかばうように二人の間に身体を移動させていた。ボロミアの肩越しに見たレゴラスは、にこりと言うよりも、にんまりと言った方がいいような笑顔を浮かべている。
「当然じゃない。半ば本気なんだから」
 アラゴルンは額を押さえ、ボロミアは頭を抱え込んだ。どうしてそんな約束を安易にしてしまったんだろう、と小さな声で呟き自分を責めるボロミアに、アラゴルンは何度か肩を叩いて慰めに変えている。これは随分と長生きをしなければならなくなったようだ、とアラゴルンが苦笑交じりに呟く。
「嘘だよ」
 レゴラスは今度こそにこりと微笑んで言った。手を伸ばし、美しい形に整えられた爪が縁取る指先で、そっとアラゴルンの頬を撫でる。
「君には長生きをして、僕たちと共に過ごしてもらわないとね。僕たちの命は尽きることはないし、それに何より僕は待つことには慣れているもの。ボロミアと始終共に過ごしたいのは嘘ではないけれど、待てないこともないし、それが君とボロミアのためなら尚更だよ。それならずっと、君には長生きしてほしいよ、アラゴルン」
「…まったくです」
 頷き、微笑んだボロミアに、アラゴルンも笑みを浮かべる。そのアラゴルンの頬を撫でていたレゴラスが、ふと真顔で囁いた。
「長生きおし、エステル。人の子の命の時は短く、まるで瞬きをしている間に過ぎてしまう。君が少しでも長く僕たちと時を共にすごしてくれるためなら、いくらだって僕と永遠の約束を交わしたボロミアを許してあげる。君が息をして僕たちを見つめている間はずっと、いついかなるときでも、僕は君に彼を譲ってあげる。いとしい人を譲るのは、君だけにだよ」
 アラゴルンは滲むように微笑むと、伸ばした手でレゴラスの頬を軽く撫でた。
「では、なおのこと長生きしなくてはな」
「そうだよ、アラゴルン」
 厳かに歌うようなレゴラスの声はいつもより低く、いつも混じる陽気な色はまるでない。
「君は生きなければならない。長く、長く、できるだけ長く。残されるボロミアの悲しみを、僕の悲しみを少しでも遠くへやるために」
 はっと傍らを見るアラゴルンに、惚けるようにレゴラスを見つめていたボロミアは、ぎこちなく笑みを浮かべた。
 死なぬ身には、いずれくる悲しみを募らせるしか術がない。朽ちる命を止めることをも叶わず、ただそばで見守るしかないのだ。
「……あなたが生きている」
 ボロミアは手を伸ばし、アラゴルンの手に触れた。王たるものの指輪が輝く手を、恭しくそっと握り、けれど我慢がならないように力強く指を絡める。
「私の側で生きている。それだけで、私は永久に生き続けられるのです」
「あんたが死んだ時の私のように、私はいずれあんたを悲しませることになるんだな。申し訳ないことだ」
 自嘲気味に唇を歪めるアラゴルンに、ボロミアはしっかりと手を取ったまま微笑んだ。
「何を申されるか、アラゴルン。わたくしはあの森で、あなたが王冠を戴く姿を見られまいと諦めていたのですぞ。それがこのように戴冠され、お世継ぎも生まれ、国は平和に満ちている。民に笑みが絶えず、血生臭いことからは随分と遠ざかった。それを目の当たりにして、何を申し訳なく思われることがあるのですか。わたくしはあなたに感謝こそすれ、お恨み申し上げる気はまるでありません」
 アラゴルンはかすかに悲しみの滲む笑みを浮かべていたが、ボロミアの顔にあるのが心底からの微笑みと知ると、たまらなくなったように片手を伸ばした。ボロミアに繋がれた手をそのままに、アラゴルンは彼のいとしい人の背に腕を回す。
「どうかその日までは、私の側から離れないでくれ、ボロミア」
「御意に」
 幸福に満ちた微笑に目を閉じ、ボロミアは重なるアラゴルンの背を引き寄せた。ぎゅっと力を込めて抱きしめた後、わずかばかり身を離し、アラゴルンにくちづけを送る。額に、目尻に、頬に、そしては鼻先に。くすぐったく触れる執政の唇に、アラゴルンはくすくすと笑い声をこぼしていたが、ふとすぐ近くから立ち上る殺気に顔を強張らせた。
「ボ、ボロミア。なんだか、すごく背筋が凍るんだが…気のせいだろうね?」
 アラゴルンの髪を梳いていたボロミアは指を止め、ああ、と苦笑した。
「そのように怖い顔で睨むものではないよ、レゴラス」
「だって! ずるいんだもの。ボロミアったらアラゴルンにばかり甘いんだから。僕になんて朝晩の挨拶くらいにしかくちづけをくれないくせに、アラゴルンには大盤振る舞いじゃないか」
 その眼差しだけで射殺せそうなほど鋭くやっかみを込め、いまだボロミアにしっかりと抱かれているアラゴルンを睨め付けている。そんな彼の髪の一房を手に、ボロミアは恭しくくちづけを落とす。
「そのように頬を膨らませては、折角の美しい顔が台無しだぞ、永遠の約束を交わしたわたくしのエルフよ。しばしの間は御目溢しを」
「…わたくしのエルフ?」
 ぴくりと尖った耳の先を動かして、レゴラスが顔を輝かせた。
「今、わたくしのエルフって言ったよね、ボロミア! あなたの口からそんな風に言ってもらえるだなんて、なんだか感動だな。髪にくちづけをくれたのも嬉しいよ」
「喜んでもらえて何よりだ。さぁレゴラス。アラゴルンを睨みつけるのは止めて、知恵を貸してはくれないだろうか。ファラミアが古くに絶えた祭りを復活させてはどうかと手紙を送って寄越したのだ。どうするべきかと思ってね」
「どうせなら部屋で話さないか、お二人さん」
 ボロミアと繋いだ手をしっかり握り締めたまま、アラゴルンは敏捷に立ち上がった。つられて腰を上げるボロミアとレゴラスの方々に笑みを向ける。
「もう空に星が見え始めている。このままここにいたのでは、アルウェンに怒られてしまうのだが」
「ああ、そうだったな。夕食を共にと誘われていたのだった。レゴラスはどうする? 妃殿下もあなたなら文句なしに大歓迎だとは思うのだが」
「ボロミアが行くのならどこにだって行きますとも。ところでそのお祭りって、一体どういうことをするものなんだい? エルフの習慣にはあまりお祭りなんてないからね。今からとても楽しみにしているんだ」
 立ち上がった二人を見上げているレゴラスに、ボロミアが手を差し出した。それへ掴まり、腰を上げ、レゴラスもまたボロミアの手を離そうとはしない。いいでしょう、と含みを込めた目で笑いかけられて、ボロミアとアラゴルンは揃って苦笑した。三人はボロミアを真ん中に、揃って手を繋ぎ、当番の兵士によって掲げられたたいまつに照らされた回廊を歩む。その道行きに、過ぎる人はみな微笑ましそうに目を細め、宵の挨拶を交わしていった。
 すっかり陽が落ち、天鵞絨の夜空に星が瞬く頃、王妃主催の食事会で腹も満ちた後も、なお祭りのことに熱する三人の話を、王妃はおかしそうに笑い声を上げながら聞いていた。どうやら祭りでは舞を踊るようだ、とボロミアが文献を見ながらそう言えば、レゴラスが立ち上がり、じゃあ早速踊ってみようよ、とボロミアを誘う。文献だけを頼りに楽もない舞はどこか滑稽で、眺めていたアラゴルンもアルウェンも揃って笑い声を上げていた。レゴラスに無理矢理ひっぱり出されたボロミアも堪えきれずに噴出し、その夜は遅くまで王の部屋から笑い声が続いていた。