■ 名乗れぬ者

 数十年も昔に一時の居を置いたローハンは、その頃と果たして何も変わってはいなかった。広がる草原を見下ろす高台にそびえる黄金館には幾人もの物見の兵が立ち、時折気安くあの館に住まう王やその家族たちが顔を見せた。彼らは親しく町の者と言葉を交わしている。セオデンの息子、セオドレドは幾年も前に初陣を終え、今では一隊を率い、オーク討伐を見事になしえていた。次の時代への期待が、ローハンには確かに根付いていた。
「旅の方、いい時にきなすったね」
 ローハンの最も安い宿に馬を預け、部屋を取った。知った顔とかち会わぬための僅かな配慮だ。それでも、町の中を歩くときにはフードを目深に被ったし、なるべく暗がりを選んで歩いた。人目に付かぬように気配を殺すことには長けていたので、怪しくフードを被ったものを、誰も咎めはしなかった。
 アラゴルンは宿の主人の朗らかな声に、はて、と顔を上げる。闇の勢力に怯える暮らしは、この中つ国に住むものすべて変わらぬことと思っていたのだが、長く離れていた間に、ローハンでは事情が変わったのだろうか。
「丁度今、ゴンドールから演習に一隊がきなすってるんですよ」
「ゴンドールから」
 目を丸くするアラゴルンに、宿の主人は誇らしげに頷く。
「うちの若様がご提案なすったとか。ゴンドールにも若様と同じ年頃の執政様の御子息の…なんて言ったかね。ああ、とんと物忘れがひどくてね、お名前が出てきやしない」
「…ボロミア」
 思わず呟いたかの人の名に、主人はそうそうと嬉しげに頷いた。
「そのボロミア様が一隊率いておいでなすっているんですよ。うちの若様と演習で、もう一戦交えておいででね。いやぁ、戦上手なお方だそうで、オーク相手には負け知らずのうちの若様が、一日で撤退させられちまったとか。またすぐに準備を整えて、明日にも二度目の戦だそうですよ。草原でなさるんで、国の若い者はみんな、仕事に手がつかずに困っとります」
「セオドレド様とボロミア様の戦ならば、さぞ見物でしょう」
「次の戦は、あっしも見物に出かけようかと」
「戦見物か。セオデン王はそれをお許しになっておいでなのですか」
「うちの王様は」
 主人は宿帳に書かれたアラゴルンの偽名に目を通し、カウンターの下にある引き出しを探り、番号の刻まれた木札を引っ張り出した。麻紐で括り付けられたそれには、真鍮の鍵が揺れている。ずいとそれをアラゴルンの方へ押しやり、主人は不器用に片目を閉じた。
「うちの王様は、寛大なんですよ。若様のことになると、特に。さぁさ、旅の方、部屋の鍵ですよ。階段を上がって、ずぅっと奥、突き当たりの部屋になります」
 鍵を受け取り、カウンターを過ぎてすぐにある階段を上りかけたアラゴルンは、はたと足を止めた。古い建物だが、よく手入れが行き届いていて清潔だ。ひやりとした感触を返す手すりに手をかけたまま、声を張り上げた。
「彼らの戦を見るには、どこへ行けば」
「それなら、旅の方、うちの屋根に上ってご覧になればいい。高いところからなら、うんとよく遠くまで見通せます」
 アラゴルンは頷き、与えられた部屋へ入った。小さな部屋ではあったが、ベッドには真新しいシーツが敷かれ、クッションも柔らかく膨らまされている。ベッド脇の小さなテーブルには水差しとグラスが一対、用意されていた。窓を開ければ目の前には草原が広がっていた。
 もう陽が落ち、薄暗い草原には人の姿はない。
 背負っていた荷を床に降ろすと、アラゴルンは急く心臓を押さえるように、ぎゅっと胸の辺りを掴み寄せた。
 ひどく久しぶりに聞いた名が、胸を騒がせていた。




 外の騒がしさに目を覚ました。ふと瞼を押し開き、薄く開いた窓から朝の光が差し込んで、顔を照らしていることを知る。ぐいと身を起こし、寝乱れた髪を掻き回し、ベッドを降りた。窓を覆う雨戸を押し開いたアラゴルンは、そこに展開したふたつの数百の兵に目を丸くした。
 明日にも二度目の戦があるとは聞いていたが、よもやこれほどとは、と眠さも吹き飛んだ目を瞬いた。
 ふたつに別れた軍は、すぐにも戦を始めるという風情ではない。よく目を凝らせば、軍に挟まれた中に、数騎が向かい合っている。おそらくはセオドレドとボロミア、そして彼らの副官だろう。いくばくかの取り決めを行い、それから戦の演習が始まるのだ。
 アラゴルンは慌しく、用意されていた手水で顔を洗い、服を改めた。脱いだ寝巻きを放り出して、剣を一振り腰に下げ、部屋から飛び出した。宿の主人は、屋根に上って戦を眺めればよいと言っていたが、それでは遠くまで見通すことができない。どうせならうんと高いところで、彼の雄姿を目にしたかった。
 そう。アラゴルンは見たかったのだ。
 アラゴルンがかつて、ソロンギルと言う名でゴンドールの執政エクセリオン二世に仕え、ゴンドールを去る間際に生まれた幼子の雄姿を見たかったのだ。
 小さな手を精一杯に伸ばし、太陽のように明るい笑顔でアラゴルンを見つめた赤ん坊の、成長した姿を目にしたかったのだ。
 ゴンドールを去ってからも、気にかけ、噂を耳に入れるようにしていた。だがそれは話に過ぎず、己の両の眼で見ることは叶わなかった。こうして側に彼がいるのであれば、請われ名を与えた子の、ボロミアの姿を一目目にしたかった。
 一時居を置いたローハンのことなら、隅々まで知っていた。人目につかず、高く遠く見渡せる場所に心辺りがあったのだ。
 ローハンの人々が草原に感心を向ける中、アラゴルンはフードを目深に被り、黄金館のすぐ側に立つ兵舎の裏の階段を駆け上がった。兵舎には高い塔があり、その上からならば、黄金館から見咎められることなく、国を見下ろすことができる。兵舎にいるべき兵は、セオドレドが引き連れ演習へ出かけており、手薄だ。誰に見られることもなく、アラゴルンは塔の上へと上がることができた。
 すでに戦は始まっていた。
 横に長く展開するローハン、ゴンドールの両軍は最前線が入り乱れての戦いになっている。
 その中に一騎、ローハンの中へ深く分け入る白い騎馬があった。
 剣を掲げ、ローハンの兵を蹴散らしていく。まるでそこが、一筋の突破口であるように、ゴンドールの兵が続いた。
 ボロミアだ。
 アラゴルンは食い入るように見つめる先にある単騎に確信した。
 遠くまで見通す目にも、姿しか見えないが、あれはボロミアと言い切ることができる。アラゴルンは、知らず微笑んだ。あのようにがむしゃらに馬を進めては、すぐに取り囲まれてしまう。囲まれれば、それを打ち崩すのは難しい。先日の戦ではセオドレドを負かしたらしいが、今日は負け戦になるようだ。
 将は後ろにいて隊のすべてに目をやり、それをうまく動かしてこその将だ。先陣を切って突っ込む気心は勇ましいことこの上ないが、それでは兵を死なずとも良い兵を犠牲にするだけだ。幾度か戦を重ね、ボロミアもそれを知るだろう。
「……やはり」
 ボロミアとその後に続くゴンドールの兵に、セオドレドが率いるローハン軍がじりじりと後退を始める。そう見せかけ、左翼と右翼の軍はゆっくりとゴンドール軍を包囲するために展開していた。あのままではやがて囲まれ、投降せざるを得まい。まだまだ若い、とアラゴルンが目を細めた時だ。先頭をきって切り込んでいたボロミアの馬が、ぐるりと方向を変えた。囲まれたことに気付いたか、とアラゴルンが見守っていると、それを機に、彼の後に続いていた兵たちが両脇を囲むローハン軍に向かい始めた。まるで、鋭い剣に切られた水のように、ローハン軍はゴンドール軍によって二つに分かたれた。それへ向かうゴンドール軍も二つに分かれ戦うことになるが、ボロミアは数騎を率いて中央におり、どちらの軍にも的確な指示を出しているようだった。それだけでなく、分かれた二つの軍にはそれぞれ優秀な将がいるのだろう。ボロミアの指示を受け、それを余すことなく兵に伝え、まるで手足のように動かしていた。
 一方ローハン軍は、ゴンドールを囲うことに躍起になっていたので、突如軍の向きを変えたゴンドールに切り返すことができなかった。おそらくは、セオドレドが直接指揮をしていると思われる一方は、なんとかゴンドールの猛攻を食い止めてはいるが、もう一方の軍は留まれず、後退を続けている。じりじりと逃げるローハン軍をゴンドール軍が囲い込んだ。
 ほう、とアラゴルンは己の頬を撫でた。
「見事」
 あの調子では、セオドレドが指揮する一方の軍も、すぐに制圧されるだろう。
 誰に戦を学んだのかは知らぬが、見事な指揮官ぶりだ。
 戦はまだ続いていたが、アラゴルンは立ち上がりするりと塔を降りた。これ以上見ずとも、勝敗は明らかだった。




 知った顔に会うことを恐れ、フードを目深に被っていたアラゴルンだったが、ゴンドールから一隊が訪れているのならば、よそ者に対する警戒心も常よりは薄らいでいるだろうと、フードを下ろし、夜の町をそぞろ歩いていた。
 戦はゴンドール軍の勝利に終わった。二度続けての負け戦に、ローハンの騎士たちは益々闘志を燃やしているようで、幾日かの休息を置いて、三度目の戦をするようだ。
 だが演習から離れてしまえば、ゴンドールとローハンは友好国だ。どちらも入り乱れての酒宴となったようで、町の酒場には兵士たちが溢れ返っていた。女達も今日の勝利を得たゴンドールの男達を目当てに酒場に詰めかけている。
 アラゴルンはその中から適当に選んだ酒場の戸をくぐった。黄金館からも遠く、最前線に立つような兵士達が集まる場所だ。こんな場所なら万が一にも知り合いはいまい、と大声で騒ぐ兵士らの合間を抜け、アラゴルンは奥のテーブルにひとつの席を見つけ腰を下ろした。カウンターで掴んできたジョッキをどんと乱暴に置いたのは、少しばかり今日のボロミアの勝利に酔っていたからだろう。ジョッキから溢れた泡が、すぐ側に座っていた誰かの袖を濡らしてしまった。
「おっと、すまない。うっかりと……」
 濡れた袖の持ち主に詫びたアラゴルンは、向けた顔を強張らせた。
「いえ」
 この場にはそぐわない、穏やかな声だった。
「ボロミア…」
 思わず呟いた声は、幸いにも辺りの大声に紛れ掻き消された。
 アラゴルンとは別隣に座っていた男と親しげに言葉を交わしていたボロミアは、顔を強張らせているアラゴルンに唇の端を持ち上げるだけの笑みを浮かべて見せた。
「拭けば済むことです。気にされるな」
 無造作に伸ばされた髪を、後ろにひとつに括り、酒に酔ったのか上気した頬を晒している。戦を離れた今はその顔に鋭さはなく、二十五、六だろうか。立派に成長したボロミアの姿に、あの幼き日の愛らしさはどこにもない。しかし微笑んだ顔に、幼い頃を思い出すことは容易かった。
 穏やかな笑みを浮かべていたボロミアはふとアラゴルンの顔をまじまじと見つめ、眉を寄せる。何かを探るようにじっとアラゴルンの目を見つめていたが、やがてふっと手を伸ばした。
「………どこかで…」
 伸ばされた手が、頬に触れそうになる。頬に指の温かさが伝わる前に、アラゴルンはすっと身を引いた。
「お許しを」
 床に膝をつき、頭を垂れると、そうされることに慣れているはずのボロミアが、なにを、と焦った。
「何をなさいます」
 腕を掴み、立たせようとするボロミアに、尚もアラゴルンは言い募る。
「お許しを。ボロミア様とは知らず、御無礼を…」
 こんな場所で出会うはずではなかった。
 アラゴルンは汚れた床を睨みつけながら、唇を噛んだ。
 確かに彼を、成長したボロミアを目にし、記憶に留めておきたいとは思っていたが、こんなにも間近で出会うはずではなかった。ただ遠目にでも眺められたらと思っていただけだったのだ。兵舎の塔の上から眺めたように、戦の中で立派に指揮を執り、ゴンドールを勝利へ導く姿を見るだけで良かったのだ。
 あの見事な勝利を招いたボロミアの勇将ぶりに、少々気を高ぶらせすぎていた。もっと冷静であったのなら、こんな場末の酒場の喧騒に紛れていたとしても、ボロミアに気付かぬはずはなかった。
 愚かな、と己を叱咤するアラゴルンの肩に、そっとボロミアの手が触れた。
「旅の方とお見受けしましたが」
「いかにも」
 アラゴルンは服越しにじんわりと伝わるボロミアの掌の熱に、目を伏せた。
「不調法な旅人と、どうぞお許し下さい」
「どちらからおいでになったのですか。どうぞ、顔を上げ、椅子に座ってください。そしてできれば、私に旅の話を聞かせて頂きたいのですが…」
 ボロミアの言葉に訝しみ、そっと顔を上げると、酒場の薄汚れた椅子に座っていたボロミアが、にこりと微笑んだ。
「私は一人で旅と言うものをしたことがないのです。あなたは、どなたかとご一緒に?」
「仲間と道を共にする事もありますが、今は一人で、気の赴くままにローハンへやって参りました」
「ゴンドールへ来られたことは?」
 まっすぐにアラゴルンを見つめるボロミアの眼差しに、アラゴルンは息をする事も忘れていた。唇が干上がったように動かず、答えのないことにボロミアが首を傾げている。アラゴルンはぎこちなく、微笑んだ。
「…遠い昔に、一度…。エクセリオンの白い塔を、間近で拝見しました」
「遠い昔に?」
「あなたが、お生まれになった頃に」
 ボロミアは途端にぱっと顔を輝かせた。
「では、では、ソロンギル殿をご存知ですか! 祖父に仕え、あまたの武勲を挙げられた我が国の英雄です!」
 さぁ座って下さい、とボロミアは強引にアラゴルンを隣に椅子に座らせた。そこでようやくアラゴルンは気付いたのだが、どうやら周りの兵士たちは二人の成り行きを見守っていたようで、いつの間にやらしんと酒場は静まり返っていた。ボロミアの興奮しきった声に、彼の逆隣に座っていた兵士が、笑い声を上げる。それを機に、また元の酒盛りがそれぞれ再開されたようで、どっと喧騒が沸き起こる。
「ボロミア様は、ソロンギル様のこととなると目の色を変えられる」
 ボロミアは照れくさそうに、彼の言葉に頭を掻いた。アラゴルンが驚いているのに気付くと、益々照れくさそうに頬を緩める。
「いや、驚かせてしまって申し訳ありません。幼い頃、ソロンギル殿にあやして頂いたことがあるのです。私がまだ二歳か三歳の頃ですが、おぼろげながらいくつかの出来事を覚えています。私のボロミアと言う名も、かの人につけて頂いたのです。ソロンギル殿のことは軍記などで読み知っておりますが、実際にはどんな方だったのか、是非とも知りたいと思っているのです」
 思わず、アラゴルンは微笑んだ。
「…どんなことを、覚えていらっしゃるのです」
「え?」
「あなた様の名付け親との出来事を、おぼろげながらいくつか覚えていらっしゃると」
 私は余すことなく覚えている、とアラゴルンは目を細めた。
 この隣に座るボロミアの中に、いったいいくつの出来事が残っているのだろうかと、アラゴルンはふと知りたくなったのだった。
 持ってきてはいたものの、一口も飲んでいなかったビールに口をつけ、アラゴルンは耳を傾ける。ボロミアも同じように喉を潤した後で、そうですね、と微笑んだ。
「庭であやしてもらいました。不思議な言葉の子守唄も歌って頂きました。ああ、それから、物語も読んで頂いた覚えがあります。炎の化け物を退治するエルフの英雄の話でした。いくつも物語を読んで頂いたのですが、覚えているのはエルフの英雄の話だけで……そうそう、抱いて頂いたこともあるのです。肩にも乗せて頂きました。馬にも、一緒に」
 傍らで話されるボロミアの言葉に、アラゴルンは目を伏せる。
 確かにそれは、アラゴルンがソロンギルとして過ごし、ボロミアの側に仕えた時間の中のいくばくかの事にしか過ぎなかったが、ボロミアが覚えていたという事が喜ばしく、また誇らしくもあった。
 あの時間穏やかで愛しいと感じていたのは自分だけではなく、幼いボロミアとて同じだったのだと知ることができたからだ。
 くすくすと微笑むアラゴルンを、ボロミアは注意深く見つめていたが、アラゴルンは不覚にも気付かなかった。探るような眼差しでアラゴルンの顔を見つめていたボロミアが、また話し出す。
「噴水の側で遊んだこともあるのです。ソロンギル殿と一緒に淵に座っていたと思うのですが、私がうっかり噴水の中に落ちてしまって、盛大に泣いてソロンギル殿を困らせていたと、乳母から後で聞かされました。私にはどうも、落ちた記憶はないのですが……あなたは、覚えておいでですか」
 思い出を語るには不釣合いな、厳しい顔でボロミアは尋ねた。
 それに気付かず、アラゴルンは微笑んで二度頷く。
「そう……いくらあやしても泣き止んで下さらず、本当に肝を冷やしました。その後もあなたはしばらく噴水を怖がって近付かず……」
「やはり!」
 ぱっとボロミアが立ち上がり、力強くアラゴルンの肩を掴んだ。アラゴルンは一瞬何があったのかと目を丸くしたが、すぐに己の失言に気付き青ざめる。
 ボロミアは己が噴水に落ちたことを、アラゴルンに覚えているかと尋ねた。ソロンギルとの思い出のはずのそれを、アラゴルンに問うたボロミアは、アラゴルンがソロンギルであると勘繰ったのだろう。
 それに乗せられ、吐露してしまった。
 うっかりと、愚かにも。
「やはり、あなたが…!」
 アラゴルンは咄嗟に、肩を掴むボロミアの腕を跳ねのけた。払った腕がテーブルの上に置いてあったジョッキに辺り、残っているビールごとテーブルの上から転がり落ちる。派手な音を立ててビールが床に飛び散った。ボロミアがそれに気をとられている隙に、アラゴルンは身を翻した。
「ソロンギル殿!」
 ボロミアの叫んだ名と、少しの間に起きたその騒動に気付き、酒場の中に屯っていた兵士がざわめき始める。ソロンギルの名は、ゴンドールだけでなくローハンの中でもあまりにも知られすぎている。あの英雄がこの場にいるのかと蜂の巣をつついたような騒ぎになった場から、アラゴルンは掻き分けるようにして抜け出した。
「待たれよ!」
 ボロミアの声が背にかかるが、アラゴルンはもはや構ってなどいられなかった。
 知られてしまった。
 知らせてしまった。
 身を明かすつもりなどなかったのに、あの幼い子供だったボロミアの計略に乗せられてしまった。
 背を嫌な汗が伝い、心臓が早鐘のように鳴り響いていた。
 どうにかこうにか酔った兵士たちの間を抜け、酒場の外へ転がるように飛び出した。宵闇も深くなり、通りには酔った者ばかりがいる。ふらふらと、あちらへこちらへとおぼつかない足取りで歩む者や、道端に転がり鼾をかいている者もいた。みながみな、ローハンとゴンドールの未来を担う、セオドレドとボロミアの戦に興奮し、酒とはまた別に酔っているのだ。
 アラゴルンは人もまばらなその闇の中に身を紛れさせようとした。路地に入り、息を潜めていれば、例えボロミアが追ってきたとしても、気付かれぬと考えたのだ。
 だが、アラゴルンがマントのフードを被り、そうするよりも先に、酒場を飛び出したボロミアが、ぐっとアラゴルンの肘を掴んだ。
「お待ち下さい、ソロンギル殿!」
 乱れた息は、ボロミアがどんなにか必死でアラゴルンの後を追ってきたかを言葉ではなく伝えていた。肘を掴む手は強く、決してアラゴルンを逃がしてはなるかと強張っている。
「お許しを、ボロミア様…。わたくしはただの旅の者、ソロンギルなどと言う大層な名を持つ者ではありません」
 ボロミアの腕を払おうと、アラゴルンは必死で身を捩るが、ボロミアの手はびくともしない。腕を掴むボロミアの手を見下ろし、アラゴルンはそこで初めて、ボロミアがあの幼い赤ん坊ではなく、二十歳もとう過ぎた立派な大人の男なのだと知った。手は大きく、背もアラゴルンとそう変わらない。立派な体躯をし、今日も見事に軍を率いていた。あれを見てもまだ、アラゴルンの中で、ボロミアは小さな子供に過ぎなかったと言うのに、ただ腕をつかまれたそのことで、彼が成長したのだとまざまざと思い知らされた。
 少しのその隙をつき、ボロミアはアラゴルンのマントを勢い良く跳ね除けた。
「やはり!」
 アラゴルンの顔を明かりへと向け、ボロミアは声を上げる。
「私は、あなたの顔を幾度も拝見している。祖父に頂いた姿絵の中に、あなたの顔があった! 幼い頃の記憶に、あなたの顔がある! それでもまだあなたはソロンギル殿ではないと仰るのか!」
 近くに寄ったボロミアは、眉を寄せ、必死に言い募った。
「私の名はボロミア! ソロンギル殿につけて頂いた名です。父でもなく、母でもなく、祖父でもなく、ソロンギル殿につけて頂いた名なのです!」
 アラゴルンは間近にあるボロミアの、必死に言い募る表情に、抗っていた身体の力を抜いた。
「……お許しを…。私は名乗ることができません…」
 項垂れ、苦しくそう告げると、ボロミアは、なぜです、と悲壮な声を上げた。
「ただソロンギル殿であると、認めてくださればよいではないですか。それとも、私があまりにも不甲斐ないので、がっかりしておいでなのですか。あなたに名を頂いた私が、あまりにも愚かなので呆れておいでなのですか」
「それは違います」
 アラゴルンがゆっくりと腕を動かすと、そこを掴んでいたボロミアの手は力をなくし、だらりと垂れ下がった。俯いていた顔を上げ、近くにあるボロミアの呆然とした顔を見つめ、アラゴルンは微笑んで見せた。
 できる限りの優しさで、微笑んで見せた。
「今日の戦を拝見しました。見事に数多の兵を操り、ゴンドールを勝利へ導かれていた。立派な将におなりだ」
「戦記に残るソロンギル殿の戦を真似たのです。多くの敵に囲まれたとき、それを分断して勝利したと書かれていたので……他にも多く文献を読みました。ソロンギル殿のような将になりたいと。教えていただきたいことがたくさんあるのです! 優秀な将になるにはどうしたら良いのか。どうすれば兵だけでなく民を導けるのか…。私はソロンギル殿のようになりたいのです」
 思わず、アラゴルンはボロミアの頬を撫でていた。
「……あなたは、あなたであるといい、ボロミア」
 強くあろうとする姿が微笑ましく、ソロンギルに追いつこうとする姿がいじらしかった。
 額を覆う金色の髪を指先でよけ、そっとくちづける。
 幼い頃の彼にしたように、そっと。
「多くの幸が、あなたにあるように……。私は遠くより、あなたの姿を見守っております」
「側にいては下さらないのですか。共にゴンドールへ帰りましょう、ソロンギル殿! 共に闇と闘ってください。ファラミアも、弟も喜びます! 父も、父もきっと!」
「…なりません、ボロミア様。どうか、私と会ったことを口外なさらぬよう…」
 ボロミアの頬を撫で、アラゴルンは身を引いた。彼の頬に触れた己の手を、マントの中にしまいこみ、ぎゅっと拳に握り締める。
 そして、暗がりの中で、目を見開いているボロミアに微笑みかけた。
「生まれたばかりのあなたを抱かせていただいたことが、どの勲章よりも誇らしかった……」
「ソロンギル殿…」
「……名乗れぬ私を、お許し下さい…」
 腰を屈め、遠い昔にゴンドールの執政の前でしたように、アラゴルンは臣下の礼を取った。
 ボロミアが手を伸ばそうとするよりも前に、身を翻し、今度こそ闇の中へと姿を紛れ込ませる。フードを被り、辻裏に入ってしまえば、アラゴルンの姿を見分けられるものはいなかった。気配を殺し、野に溶け込むのが野伏の術だ。
「ソロンギル殿!」
 アラゴルンは宿へと急いだ。
「ソロンギル殿」
 この身を隠してくれる場所へと、急いだ。
「ソロンギル殿…」
 宵闇に沈む街の中は、尚も酒を楽しむ声に溢れていた。ボロミアの張り上げた声で呼ばわる彼の英雄の名は、その喧騒にかき消され、やがて消えなくなってしまった。
 辻をいくつも曲がったので、もうボロミアには追いつけまい。
 急がせていた足を緩め、アラゴルンは振り返った。そこには宵闇に満ちた路地があるだけで、誰の姿もない。そのことに安堵しながらも、同時に虚ろでもあった。暖かく胸に満ちた何かが、すぅっと消えてしまうような気持ちだった。
 ボロミアの頬に触れた手を握り締め、口元に寄せる。
 ひとしずく、頬を滑った涙は喜びであったのか、悲しみであったのか、後悔であったのか、アラゴルンにはもはや判別できなかった。
 アラゴルンは、ただ、ボロミアを思った。
 ボロミアを思っていた。



はりけんきんぐのまるも様から素晴らしき授かりものを頂きました