■ 長椅子の上で

 執務室の窓際に寄せて置いてある長椅子の上で、ごろりと横になったアラゴルンの頭は、同じ長椅子に座るボロミアの膝の上にあった。書類仕事に嫌気が差し、隙あらば逃げ出そうとするゴンドールの王を、膝枕を餌に繋ぎとめているのだ。やれやれ、とボロミアは苦笑を馳せる。執政の仕事も楽ではない、と以前ファラミアに零したのを思い出し、苦笑だった笑みを、微笑に変えた。
 隙あらば逃げようと考えておられるのだが、膝枕をしてやると言えば呆気ないほど言うことを聞いて下さる。やれやれ、執政の仕事も楽ではないな。
 あの時のファラミアの顔と言ったら、まるで気に入りの玩具を取り上げられた子供のような顔だった。憮然とした面持ちで、ぷいと他所を向き、それは執政の仕事ではありません、と答えた。ファラミアのことだ。アラゴルンがボロミアの膝を枕にしているのが気に食わないのだろう。
 思い出し、くすくすと笑い声を零すボロミアに、目を通してサインをしなければならない書類を腹の上に乗せていたアラゴルンが、首だけを動かした。
「何を一人で楽しそうにしているんだね、執政殿」
「おや、気に障りましたかな」
 笑い顔を元には戻さずアラゴルンを見下ろせば、アラゴルンは彼自身も楽しそうに微笑み、いや、と顔を書類へ戻す。
「一人で楽しそうにしている理由が是非とも知りたくてね。私のことを考えて、笑っていてくれるのなら、嬉しいのだが」
 窓縁に置いてあるペンを、インク壷の中から取り上げ、器用にも腹の上に置いた書類にサインをする。アラゴルンは手を伸ばし、それを近くに寄せていた小さな卓に置いた。うまく乗っていなかったのか、書類は円卓からはらりと落ちる。
「落ちたぞ、アラゴルン」
「……構わんだろう」
「ローハンへ届ける書類だぞ、万が一があってはならん」
 厳しい顔をするボロミアに、やれやれ、とアラゴルンは溜息を吐く。腹の上の書類を押さえ身を起こし、床に落ちた書類を広い、円卓に乗せ、またボロミアの膝を枕にした。
「ファラミアが子供の頃のことを、少々思い出しましてな。懐かしく思っていたのですよ」
「なんだ、大公殿か」
「なんだとはなんだ。私の弟だぞ」
「あんたの弟だろうがね、ボロミア。私はファラミアは気に食わんよ。何かと言うとあんたを横から掻っ攫っていくじゃないか。いい年をして、兄離れもできていないのか」
 ぷぅと、あんた一体いくつなんだ、と言いたくなるほど大人気なく、アラゴルンは頬を膨らませている。それを見下ろし、やれやれ、とボロミアは気付かれぬように溜息をついた。
 ゴンドールの王は嫉妬深い。
 それが万事であるのなら、それが王の性格なのですよ、などと言い訳もできたのだろうが、ボロミアに関わる事のみに嫉妬深くなるので、どうにも言い訳ができない。寛大な王妃は、まぁエステルらしいこと、などと大らかに笑っているのだが、一体自分の夫が男相手に現を抜かしているのをどう思っているのやら。恥ずかしいやら後ろめたいやら後ろ暗いやらで、ボロミアは王妃に向ける顔がない。
「父上とファラミアの不仲のことは、あなたもよくご存知だろう。あれは父上に叱られると、よく私のところへ来て泣いたものだ。母上と幼い頃に死別しているから、頼れる家族は私だけだったからな。その度に、膝枕をして寝かしつけてやったものだ。私が兵として戦に出る頃には、もう忙しくてそうしてやれる時間はなかったが……いやはや、相手を弟から王に変え、膝枕をして差し上げる事になろうとは、夢にも思っていなかった」
「嫌なら別にいい」
 生真面目な顔で、殊更気にも留めていませんと言うような声を装って呟いたアラゴルンを見下ろして、ボロミアは微笑する。気のない素振りで返事をしながらも、不貞腐れているのがよく分かる。大方、ファラミア相手にしてやったことを、どうして私相手だと嫌がるのだ、などと思っているのだろう。
 可愛らしい人だ、とボロミアは微笑み、手を伸ばし、アラゴルンの髪をさらりと撫でた。
「どうして嫌などと言えましょう」
「……それは私が、王だからか」
 髪を撫でる手の感触に甘んじながらも、アラゴルンは固い声を崩さなかった。ボロミアは、いえ、と首を振ってから身を折った。
 アラゴルンの額を隠す髪を避け、秀でた額にくちづけを落とす。
 目を丸くしたアラゴルンに微笑みかけ、ボロミアは囁いた。
「それはあなたが、私の愛するアラゴルンであるからです」
 じっと間近で見詰め合っていたが、やがてアラゴルンはふっと目元を緩める。強張っていた表情を解き、とろけそうなほど幸福そうに微笑み、書類を押さえていた手を伸ばした。ボロミアの髪をぎゅっと掴み、それをぐいと引き寄せる。痛いぞ、と言葉だけで抗いながらも笑っているボロミアの唇に、ちゅっと音を立ててくちづけた。
「もっと言ってくれ、ボロミア。私は、嫉妬深いんだ」
「あなたが嫉妬深いことは、よく存じている」
「だったら尚更、言ってくれ、ボロミア。私の猜疑心を満足させるまで」
「御意に」
 ゆっくりと、今度はボロミアからくちづけた。
 唇の先でついばむようにくちづけ、舌先を伸ばし軽く触れ合わせる。それから深く、むさぼった。
 アラゴルンの腹の上に乗っていた書類は、体勢がわずかに変わったせいでばさばさと音を立てて床に落ちたが、ボロミアは叱ったりはしなかった。自らも、愛しい人にくちづけることで精一杯だったからだ。
 ドアを軽くノックし、執務中の王と執政にわずかばかりの休息をとお茶を持ってきたアルウェンは、陽だまりにある長椅子での彼らのくちづけに、目を細め微笑み、開けたばかりのドアをそっと閉めた。用意しなくとも、彼らは彼らの息抜きの方法を見つけていたというわけだ。
 仲良しでうらやましいこと、とアルウェンは微笑んだまま、執務室を後にする。
 残されたのは執務を置き、憩う王と執政の姿だった。