■ 指輪物語 ■

 敵を殺すことに躊躇いは、と尋ねると、いや、と簡潔に答えられた。そればかりか、不思議そうに目を丸くして、首を傾げてすらいる。黒くうねる髪がそよぐ風に揺れるのを眺め、ボロミアはふいと目を逸らした。
 そうか、と呟き、少しばかり離れた場所でサムが今日の夕飯を拵えているのを眺める。水を沸かした鍋に、採ってきたばかりの兎の肉を入れ、乾燥香草を入れ、味を調える。それとは別の鍋に沸かした湯で茶を入れ、待ちきれないホビットたちに振舞っている。フライパンでは先日野生のものが群生しているのを見つけ、採っておいたきのこが香ばしい匂いをあげている。
「あんたは?」
 しばらく黙ってパイプをふかしていたアラゴルンが、ぼんやりとサムのする仕事を眺めているボロミアに問うた。
「…なにがだ」
「敵を殺すことに躊躇いを感じるのか」
「ああ」
 今更その話か、とでも言うように、ボロミアは目を瞬いた。
 膝に肘を預けていた体制を、ぐいと身を起こし変える。
「いや、まったく」
 首裏に手をやり、ボロミアは濡れた髪を指先ですいて答える。先ほど交代で水浴びをした。泉が沸いて出ている場所があったので、三組に分かれて身体を清めることにした。身を浸せるほど大きなものではなかったが、それでもさっぱりとした心地にはなる。
「ただ、後悔することはある」
「後悔?」
「これでよかったのかと」
 ピピンがフライパンの中からきのこを掠め取ろうとして、サムにしこたま怒られている。他所を向いているその間に、メリーはひときわ大きなきのこを盗みとった。サムは気付かず、ピピンへの説教を終えてフライパンを見、大騒ぎをしていた。
「生きるためには仕方がない。国を侵すものには当然の措置だ。だが、ただ、それでいいのかと思うこともある。冥王さえいなければ、所詮は烏合の衆だ、どうにでもなる。無駄な殺生ではないのかと」
「それは、甘い考えだ、ボロミア」
「解っているんだがな、どうにもそう言う気質のようだ」
 国の民、一人一人の痛み、悲しみ、疲弊を我が事のように感じる男だ。国を守る側の、それもいずれ頂点に立つべき男であるにしては、聊か優しすぎるようにアラゴルンは思う。
「弟にも良く言われる」
「ファラミアか」
「歩兵一人一人の傷にまで気を回す必要はないのだと。だが、国のために国の民が傷付く。私にはそれがどうにもたまらない」
 アラゴルンはふと煙交じりの息を吐くと、微笑み、傍らに座るボロミアが見つめるサムの仕事へ目をやった。
 人数分の皿の上に、きのこのソテーとソーセージが並んでいく。メリーはつまみ食いをしたので、その分はなしだ。それについてたらたらと文句を並べるメリーに、とうとうガンダルフが腰を上げた。偉大なる魔法使いに意見されれば、さしものホビットも少々ではあるが大人しくなったようだった。
「あなたもだ」
 穏やかな光景に目を細めるアラゴルンに、ボロミアがつと零す。
 顔を向けると、氷に閉じ込められた緑葉のような色をした瞳が、まっすぐにアラゴルンを見据えていた。その奥に、他意はない。
「あなたにも、ゴンドールのために傷付いてほしくはない」
 瞬間、目を見張ったアラゴルンだったが、何かを言おうと、いや、何かを問おうと唇を開きかけたその時に、食事ができた事を告げるサムの大声が呼ばわったので、機会を逃してしまった。息を吸い込み、開いた唇を確かにボロミアは見ていただろうに、取り立てて続きを求める素振りでもなく、離れた場所にいるサムに聞こえている事を示し片手を振る。
「行こう。サムのシチューは、熱いうちが一番うまい」
 冷めたってうまいが、とボロミアは体躯には聊か不釣合いなほど俊敏に身を起こし、歩き出した。落ち葉を踏む音が、かさかさと聞こえてくる。
 大きな背中を見送るアラゴルンの耳には、大好きなボロミアさんに纏わりついて楽しい食事を取ろうとするホビットたちの声が聞こえてくる。
 人の上に立つには優しすぎる男の言葉を唇の中で呟き、アラゴルンは微笑んだ。
 長い旅になるであろう彼らの行程からすれば、たった数分の些細な出来事ではあったが、アラゴルンはそれを永く忘れることはないだろうと思い、促されるまま腰を上げた。
 振り返り、遅れやってくるアラゴルンを待つボロミアの瞳の色と共に、永く忘れることはないだろうと繰り返し思った。
 何気にラブラブなんじゃあなかろうか、とか、モリアに入る前で、しかものんびり火を焚いたりしているので、かなり裂け谷に近いところなんじゃないだろうか、とか、それならこの二人がこんなにくつろいで話しているはずがないんじゃなかろうか、とか、色々考えたのですが、このままで。裂け谷で親交を深められたなかった二が、紆余曲折あって仲良くなるのは雪山遭難(ちょっと違う)の前辺りだといいな。そしたら雪山指輪落としちゃったよ事件がかなり彩り鮮やかになるので(笑)。ついでに言うと始終旅に出ている彼らにとって、日常こそが『おでかけ』そのものと言うことで(苦しいな)。