■ 休息の日
 かの美しき奥方が住まう森の外れに、打ち捨てられた小さな小屋があった。随分と昔に使われなくなったようで、屋根には苔が生え、中は埃やら割れた木戸から入った土やら木の葉やらにまみれ、元の床が見えないほどだ。床を破って芽を出した木すらもある。小屋の高さの半ばまでの若木は、屋根に遮られ薄暗い小屋の中で育ったせいで、外のそれと比べ色が薄く儚げだ。とてもエルフが作ったのだとは思えないほど無骨で簡素なその小屋を見つけたのはアラゴルンだった。森の中心から離れれば、それだけオークと遭遇する可能性が高くなり、危険だと再三言われたのにも関わらず、ひとところにじっとできない性分で、彼は滞在中、軽装でふらふらと出歩いていた。時にはその日の内に帰らぬ事もあるほどだ。耳も目も良いエルフがいるのだから、よっぽどの事がない限り危険はないと解っていても、やはりいずれはあの白き都へ還り、王座について頂きたいと思っているボロミアである。心配でならない。ある時ついに痺れを切らし、今までどこへ行っておられたのですか、と語気強く問えば、丁度いい、とアラゴルンは無邪気な笑みを浮かべ、僅かに首を傾げて見せた。
「明日はあんたも一緒にくるといい」
「明日? 明日もあなたは出歩かれるおつもりか! 毎日毎日、ふらふらふらふらとほっつき歩いて! どれだけ我々が心配しているか解っておいでか!」
 唾も飛ばさんばかりの勢いで怒鳴られ、アラゴルンは顔を顰めた。迷惑そうに顎を引き、近付くボロミアから一歩足を引いて遠ざかろうとする。だがそれをボロミアは許さなかった。腕をぐいと掴み、アラゴルンの汚れきった身体を頭から爪先までとっくりと眺め検分する。
「まさか怪我などなさっては…」
「していない! 私は子供ではない!」
 二人のやり取りを、僅かに離れた大木の根元に座り輪を囲んでいる仲間達がおかしそうに眺めている。
「子供と同じようなものではないですか! あなたは無事だとレゴラスが教えてくれなければ、今頃あなたを探しに森の中を歩き回っているところだ!」
「ああ、すまん、謝る、悪かった。だから離してくれないかボロミア。あんたの力は強いから、痛いんだが」
 掴まれた腕を、掴まれていない方の手で指差して見せれば、ボロミアは弾かれたように手を離す。熱い火箸を触れたかのようなその素早さに、アラゴルンは仄かに笑みを浮かべた。
「す、すまぬ、つい……。大丈夫だろうか」
「さぁどうだろう。随分と痛んだから筋を違えているかもしれないな。いや、骨にひびでも入っているかもしれん」
「まさか! そんな!」
 青ざめるボロミアが可笑しく、アラゴルンはなおも意地悪な事を言おうとしたのだが、それよりも早く割って入ったエルフの姿に出鼻を挫かれた。
「エステル、いい加減になさい」
 ボロミアをその痩身に庇うかのように片手を差し伸べるレゴラスに、アラゴルンははしたなくも舌打ちをする。楽しんでいたのに、と言外に告げるその様子に、レゴラスが眉を顰めた。
「ボロミアがどれだけ心配してたか、あなたには解らないようだね。それなのにからかって遊ぶだなんて! いくらボロミアが単純で信じやすくておっちょこちょいで間抜でどうしようもなく力だけはある馬鹿だからって、あんまりでしょう!」
「あんまりなのはあなたの方だが、レゴラス」
 眉間に皺を寄せるボロミアの弱りきった声に、アラゴルンは堪えきれずに噴出した。げらげらと一頻り、それこそ高貴な者がすべきではないような大口を開けて笑っている。レゴラスとボロミアが顔を見合わせているのを知ると、途端に口を閉じて生真面目な顔を装ったが、目から滲み出ている涙と、笑いを堪えきれず震える唇は隠しようもなかった。
「す、すまん」
 神妙な顔を取り繕うアラゴルンに、眉間の皺を解いたボロミアが大きな溜息を吐いて見せた。
「それで。今までどこで何をなさっておられたのだ。仔細を話して頂かねば、安心できません」
「いい所を見つけたんだよ、ボロミア」
 アラゴルンは嬉しそうに笑みを浮かべる。うきうきと、秘密の隠れ家を見つけた子供のようなその表情に、ボロミアも思わずつられ微笑を浮かべる。レゴラスはそれを目撃し、ボロミアに同情を禁じ得なかった、と言うよりも、あまりにもボロミアがアラゴルンアラゴルンと煩いのでいい加減辟易していたはずなのに、ふっと肩の力を抜いてしまう。
「いい所…ですか」
「朝にここを出れば昼に着く場所なんだがね、近くには泉があって陽も良く入る。ここから遠い場所だから、人の気配もないし、昼寝にはいい場所だよ」
「……まさか、その昼寝にはいい場所に行くのに、毎日毎日…?」
「あ、いや。そこを見つけたのは今日だ。ここは随分久しく訪れていなかったから、何か変わった所でもないかと思って探索していたんだ。それで見つけたと言うわけだよ。明日、一緒に行こう、ボロミア。きっとあんたは気にいるはずだよ。打ち捨てられた小屋もあった」
「小屋…。ああ、あそこかな? うんと昔に、世捨て人が住まっていたと聞いた事があるよ。森の外側だろう?」
 ボロミアを背に庇ったまま、レゴラスがそう言えば、アラゴルンは満足気に頷いた。
「そうだ」
「でもあそこは危ないよ。オークが出る。あまりボロミアを連れて行って欲しくはないね。君なら多少危険な目にあっても大丈夫だろうけど…」
「そんなに心配されるほど、頼りないのだろうか」
 心もとなく己の胸の辺りに手を当てているボロミアを振り返り、レゴラスは思い入れたっぷりに首を振った。
「何を言うんだ、ボロミア! あなたが頼りないだなんて、どこの薄汚いなんて言葉では足りないくらい汚れきった野伏が言ったんだい! あなた以上に頼れる人間を僕は知らないよ?」
 薄汚いなんて言葉では足りないくらい汚れきった野伏とは、私の事だろうか、とアラゴルンは己の身体を見下ろした。緑濃のコートは泥やらオークの血やらに汚れ、拭っても拭い切れず、それらがすっかり染み込んでいる。この森には長逗留するのだと解っていたから、今までに比べれば頻繁に風呂に入るようにもしている。綺麗なものが好きなエルフに、アラゴルン自体は歓迎されても、その有様が歓迎されないからだ。大体三日前に風呂に入ったばかりだ、と憤然としているアラゴルンを他所に、レゴラスは悲壮に暮れた眼差しでボロミアの頬を撫でた。
「僕があなたを連れて行ってほしくない理由はね、ボロミア。あなたが危険に晒されるかと思うと、いてもたってもいられないからだよ。この胸が張り裂けそうだよ、ボロミア。どこかの腐り始めたようなコートを着ている野伏に、万が一襲われたらと思うと! 百万本の矢を射かけても気がすまないよ」
「あ、あの、レゴラス…心配していただけるのは、大変有難いのだが……。そ、その腐り始めた野伏は、いずれ私の王にと思っている方なので…できれば、もう少し…ほんの少し、信用していただけると嬉しいのだが……」
 頬に触れるレゴラスの指先の動きに、目を白黒させ、ボロミアは後ずさった。その台詞を聞いたアラゴルンは、私の王と言うのはいい響きだ、と思う反面、腐り始めているのはコートであって私ではない、と憤っている。レゴラスと言えば、それはもう、このエルフの本性を知らぬ女性が見たら頬を染め一目で恋に落ちてしまうのではないかと思うほど、うっとりとした表情で、ボロミアを見つめている。
「優しいんだね、ボロミア。ああ、あなたのそんな所がいとおしい」
「はっ?」
「今すぐ奥方や、裂け谷にいらっしゃるエルロンド卿に紹介し直したいくらいだよ。このボロミアは僕の永遠の想い人だと」
「…はい? レゴラス? 大丈夫か?」
 思わずぺたりとレゴラスの額に手を当ててしまうボロミアだったが、当てられた本人はのほほんと頬を染めて、世迷言を呟いている。
「ああ、あなたに心配されるなんて嬉しいな。このところのあなたときたら、夜が明けても昼が過ぎてもアラゴルンアラゴルンと、馬鹿のひとつ覚えみたいにそればかりだったから」
「昨夜は随分冷えたから、風邪でも召されたか?」
「エルフが風邪などひくまいよ、ボロミア。第一、こいつが引くくらいの悪質な風邪なら、あんたはすでに儚くなっているはずだ」
 至極真面目に応えるアラゴルンに、それもそうかとボロミアは頷く。エルフが人間よりもよっぽど頑丈なのは、このロスロリアンへ至る道中で、ボロミア自身が嫌と言うほど良く解っている。あのいと険しき雪山でも、見ている方が寒くなるような軽装で凍える事も知らず、埋もれることなく雪上を歩き、けろりとしている。がちがちと歯の根も合わず震える唇をもてあましていたボロミアに、暖めて上げましょうかと雪を頭に積もらせたまま微笑んでいたくらいだ。
 そんな男がボロミアも引かぬ風邪にかかるはずもない。
 にこにこと笑っているレゴラスから手を引き、ボロミアは聊か拗ねた面持ちで側に寄ってきたアラゴルンに顔を向けた。
「それで、明日もまた、あなたは出かけると仰るのか」
「ああ。見つけた場所を、あんたにも教えたくてね」
「ふむ……」
 ボロミアはしばし考え込むように、顎に手を当てた。無精髭を綺麗な指先で撫でている。可愛いなぁ、と少しばかり頭の螺子の緩んだエルフが呟いていたが、無論、人間二人は聞こえなかったふりをした。
「朝出れば、昼に着くと仰ったか」
「ああ。夜までに帰ってこようと思ったら、着いてすぐに発たなければならない。幸い、小屋で雨露は凌げるから、あんたさえ良かったら、一泊くらいしてもと思っているんだが」
 唇を一文字に引き結び、考え込んでいたボロミアはふいににっこりと微笑んだ。
「それならエルフの方々に頼んで、弁当を作ってもらうのは如何だろう。今までもご馳走になっているが、エルフの方々が作られる食事はうまい。特にあのトマトで煮込んだ芋の入ったパイ。あれがあるのなら、私も一緒に参りましょう」
「解った。早速、手配しよう。楽しみだな、明日が」
「ああ、そうだな。久しぶりに二人きりになれるのだ。ゆっくりしよう」
 穏やかに微笑むボロミアに、アラゴルンは嬉しそうにこくりと頷いた。うねる黒髪が頬に落ちかかるのを指先ですくって耳にかけてやり、ボロミアは目を細める。アラゴルンの汚れた手も伸び、ボロミアの髪を撫でた。引かれあうように自然と顔を寄せる二人に、あの、と低く地を這うような声が水を差す。
「僕を忘れてないかい、お二人さん」
 声だけではなく身体さえも二人の間に割って入り、こめかみに青筋を浮かせているレゴラスがにこやかに微笑んでみせる。それだけでは飽き足らず、苛立ち紛れに彼はアラゴルンの顔を掌で押しやった。エルフの怪力には叶わず、アラゴルンは二三歩足を引く。
「余計な邪魔を」
 舌打ちをするアラゴルンに、大体、とレゴラスが指を突きつける。
「どうして僕は誘わないのさ! ボロミアも!」
「あ、すまない。思い当たらなかった。彼と二人きりになれるのかと思うと、嬉しくて」
「……容赦ないあなたも好きだよ、ボロミア」
 レゴラスが溜息を吐いて首を振る。
「あなたのために明日は身を引くけれど、帰ってきたらちゃんと僕の相手もしてよ。一緒に温泉に行くって約束、忘れてないだろうね」
「ああ、忘れるものか」
 微笑むボロミアに、ならいいんだけど、とちゃっかり彼の肩に首を回していたレゴラスも微笑んだ。
「折角の休息だもの。身体の疲れをとらないとね」
「おい、ちょっと待て。温泉と言うのは何だ。私は聞いていないぞ」
 慌てて口を挟むアラゴルンにボロミアの肩にいまだ手をまわしたままのレゴラスはしれっとした顔で応えた。
「あれ、言ってませんでした?」
「聞いてない」
「ああ、そうそう。どうせあなたは風呂など入らないだろうと思って、誘わなかったんですよ。まぁ、気が向いたらどうぞ」
「行くに決まってるだろう! ボロミアを貴様に任せておけるか! 危険極まりない!」
「何言ってるんです、エステル。僕が愛しいボロミアを少しの危険に晒すわけもないでしょう」
「お前そのものが危険なんだ!」
「やだなぁ、エステルったら」
 あははは、とレゴラスは朗らかに笑うが、それがどうも胡散臭い。ぎりぎりと睨み付けるアラゴルンに、困ったようにボロミアは言い争う二人を見比べている。
「いい加減に離れろ、レゴラス!」
 こめかみを引きつらせて怒鳴ったアラゴルンの大声に、レゴラスとボロミアはおろか、僅かに離れた場所で、相変わらずだなぁ、などと和やかに目を細めて眺めていた仲間達の顔をも顰めさせた。怯えて肝を竦めた鳥達が、そこかしこの木の枝から羽根を慌しくはためかせて飛び去って行く。あーあ、とレゴラスが肩を竦める。
「鳥が怯えちゃったじゃない」
「誰のせいだ!」
「アラゴルン、いい加減に気を鎮めて…。レゴラスも余計な事ばかり仰らず」
 取り成すボロミアの声も聞こえない様子で、レゴラスとアラゴルンは喧喧囂囂と言い合っている。最初の内はおろおろと慌てていたボロミアも、最後には匙を投げてしまった。勝手にされるが良い、と言い捨て、傍観していた仲間の元に去ってしまった。ボロミアの気を損ねたのではないかと色を亡くした二人は、一瞬黙って顔を見合わせたものの、すぐにまた、あなたのせいだ、いいや貴様のせいだ、いやあなたが悪い、とやり合い始める。付き合っておられん、と溜息を吐くボロミアに、苦笑するサムが熱い茶を渡してくれた。
 ボロミアの両脇を固めるメリーとピピンが顔を見合わせて、それならさ、とボロミアを見上げて不思議そうに問うた。
「レゴラスさんに言ってあげればいいのに」
「そうだよ。ボロミアさんは馳夫さんの恋人なんでしょう? レゴラスさんにちゃんと言ってあげれば、あんなにしつこくないと思うんですけど」
「そうではないよ、メリー、ピピン」
 ボロミアはおかしそうに目を細めて笑う。慌てたのは問い質したメリーとピピンだ。てっきりアラゴルンとボロミアは恋人同士だと信じ切っていたので、ボロミアの口からそれを否定する言葉が出てきたのに驚いたのだ。それを知ってか、ボロミアがカップを持たぬ手で二人を止める。
「無論、私はアラゴルンを好いているよ。けれど、レゴラスも好いている。大事な友人としてね。友人に好かれて、嬉しくはあっても、困る事などないよ」
「……ううーん…そうなのかなぁ…?」
「でも、それじゃあ、レゴラスさんにはまったく希望がないってことだよねぇ」
 残酷な事を言う、と大木に持たれ聞くとはなしに耳を傾けていたギムリは思ったが、ボロミアは穏やかに微笑んだまま二人を見比べた。
「エルフは不死の生き物。気長に待って下さると信じているさ」
「……待っていられるほど、レゴラスさん、悠長じゃないと思うけど」
「辛抱溜まらず襲われちゃうかもよ、ボロミアさん」
「あっはっは! このようなむさくるしい男を襲おうなどと、いくらレゴラスでも思うまいよ」
「……解ってないなぁ、ボロミアさんは」
 笑い声を上げるボロミアの隣で、ピピンが溜息を吐いて緩く首を振る。今まさに取っ組み合いの喧嘩をやらかそうとしていたアラゴルンとレゴラスも、ボロミアの笑い声に手を止め振り返っている。一人の人間と一人のエルフの視線を背に感じつつ、メリーがぱっと立ち上がった。
「そう言う時は、僕たちがボロミアさんを守って上げますよ!」
「レゴラスさんの魔の手から!」
 ピピンも立ち上がって紅茶のカップを高々と掲げている。おいおい、とボロミアは苦笑して二人の肩を交互に叩いた。
「そう力むな」
「いや、是非とも頼もう」
 ぬっとボロミアの後ろから顔を出したのはアラゴルンだった。取っ組み合いになるやと思われた二人の喧嘩は、メリーとピピンの思わぬ言葉によって宙に散ったようだった。ボロミアの肩に顎を乗せたアラゴルンが、顰めつらしくメリーとピピンに目をやる。
「精々レゴラスに張り付いて、邪魔をしていてくれ。あいつがいたんでは落ち着いてボロミアを口説く事もできん」
「解りました、馳夫さん!」
 がしっと二人は手に手をとって、ホビットに可能な限りの厳しい顔で力瘤を作って見せる。
「お二人の愛のために、僕達、頑張りますとも!」
「ええ、お二人の愛のために!」
「レゴラスさん、覚悟!」
「覚悟〜!」
 ボロミアに張り付いているアラゴルンを、いいなぁ、と眺めていたレゴラスに、手を繋いだままメリーとピピンは突っ込んで行った。うわぁああ、とときの声を上げ、ぎょっと目を丸くするレゴラスに飛びついた。さすがのエルフも予期せぬ出来事に柔らかな土の上にホビットもろとも転がってしまう。それでも二人のホビットが投げ出されないようにと、彼らの背中に手を添えてやったのはさすがだ。レゴラスの腹の上で、メリーとピピンがわぁわぁと叫びながら、飛び跳ねたりくすぐったりしている。たまらずレゴラスが笑い声を上げると、それっとばかりにアラゴルンもすっ飛んで行った。レゴラスの金の美しい髪をぐしゃぐしゃにかき回し、そこらに落ちていた枯れ葉をホビット達をも巻き込んで振りかける。
 大騒ぎの彼らを、ボロミアとギムリは呆れ眺め、物見高いエルフ達は近くの大木の横に伸びた枝に腰かけ微笑ましく見守っていた。
 歓声が平素は静かな森に響く。
 かの美しき奥方の住まう森の中心で憩う彼らの休息は、概ねこのようにして過ぎて行った。