■ 可愛い人
 最後に飛び出してきたホビット三人のおかげで、秘密だったはずなのに秘密にはならなかった会議を終え、ボロミアはエルロンド卿から与えられていた客室へ戻っていた。複雑に入り組んだ裂け谷の、エルロンド卿の館のすぐ近くに遠来からの客をもてなすための迎賓館がある。ボロミアの部屋はそこにあった。ホビットや、ドワーフも迎賓館で寝泊りをしているようだが、同じ建物とは言っても、さすがにこうも広くては誰の部屋がどこなのか解らない。
 まぁ、知ったとしても、訪れることはないだろうけれど。
 ボロミアは薄く自嘲の笑みを浮かべながら、祖国にある自室よりもよっぽど豪奢な内装に目を走らせた。地上の美しいものをすべて集めたような部屋の中で、自分だけが異質だ。慰みに祖国から携えてきていた胸元のネックレスに触れる。ちゃりと鎖のすれる音が、静かな室内に響き渡った。
 思わず吐いた溜息をかき消すように、コンコンと部屋のドアがノックされる。
 ボロミアは、顔をあげ、眉を顰めた。
 彼を訪ねてくる人など誰も思い当たらず、かと言って、皆無と言えるほどではなかったからだ。ボロミアの世話をエルロンド卿から言い付かっているエルフが、何かの用事を伝えにきたのかもしれない。
「鍵は開いている。どうぞ、お入りください」
 僅かに声を張り上げ、丁寧な口調で促せば、立派な装飾の施された両開きのドアの片方が内側に引かれ、開いた隙間から金色の髪がひょこりと覗いた。
「あなたは」
 目を丸くして立ち上がったボロミアの姿を認めると、身軽に入ってきたレゴラスがにっこりと笑みを浮かべる。会議の場での厳めしいそれではなく、柔らかく緩んだ目元が優しく見えた。
「ああ、そちらにいらっしゃったのか。お邪魔しますよ、ボロミア。ボロミアと、呼び捨てにしてしまっても? あなたはゴンドールの執政のご子息でいらっしゃるから、ボロミア殿か…ボロミア様の方がいいかな?」
「何を仰る」
 にこやかに首を傾げるレゴラスに、焦ったのはボロミアの方だ。あの会議の場では、怒りや焦りや長く待ち侘びていた王その人を目の前にした高揚やらで頭に血が上り、わけが解らなくなっていたのだが、後からレゴラスが闇の森のエルフの王子だと聞かされ、血の気を引かせていたのだ。
 慌てて戸口に佇んでいるレゴラスの元へ行くと、床に膝を付き頭を垂れる。
「先ほどは知らぬ事とは言え、王子殿下にご無礼を。どうか、お許しを」
「ああ、止してよ、ボロミア。王子殿下だなんて」
 臣下の礼を取るボロミアの前にすっと膝を折り、まるで子供のようにレゴラスは首を傾げて見せた。おそるおそる顔を上げるボロミアは、同じ高さにあるレゴラスの眼に困惑したように眉を寄せる。
「僕はできそこないの王子だからね、そんなに畏まられると逆に困るんだ。それよりガンダルフからあなたと、あなたの国の話を聞いたよ。それで、謝りにきたんだ」
「謝りに?」
 申し訳なさそうに眉を下げているレゴラスに、ボロミアは目を丸くする。
「何を誤ると言うのですか。あなたは何も」
「アラゴルンのことだよ」
 お茶でもどうですか、と誘うような気軽さで、レゴラスは彼の名を告げた。無意識のうちに身体が強張っているのを、ボロミアはレゴラスの手が肩に触れる事でようやく気付く。
「そう畏まらないでよ、ボロミア。何も彼にあなたが言った事をとやかく言いにきたわけじゃないんだ。その…僕の失言と言うか…なんて言うんだろう……もう少し、時期を見て言えば良かったかなと反省して」
 座ろうよ、とレゴラスはボロミアの二の腕を掴んで立ち上がらせた。涼しい顔で、ひょいと立ち上がるついでのようにボロミアを立たせるが、その腕には思いの外力が篭っている。思わず顔を顰めるボロミアに、ああ、ごめんなさい、とレゴラスはまた恐縮したように眉を下げる。
「力加減がまだ掴めていなくて……」
「いえ、わたくしは軍人ゆえ痛みには慣れております。お気を病まれますな」
 ボロミアが微笑を浮かべて、レゴラスにつかまれたせいで痛みの走った二の腕を優しい手つきで撫でている彼の手を止めさせた。
「それよりも彼の事と言うのは、一体…」
 そつなくボロミアは椅子を勧めた。貴婦人でもエスコートするようにレゴラスを椅子に座らせると、ボロミアは裂け谷についた初日に、彼の世話係のエルフから教えてもらったお茶を用意し始める。ゴンドールでは味わった事のない不思議な味の紅茶だったが、飲み込んだ後に鼻腔をくすぐる花の香りが気に入っていた。エルフが教えてくれたとおりの手順で湯を注ぎ、カップに注ぐ。レゴラスの前にあるテーブルにそれをことりと置くと、どうもありがとう、とレゴラスは微笑みながら礼を言った。
「ああ、いい香りだ。あなたは紅茶を入れるのがうまいみたいだね」
「わたくしの面倒を見て下さるエルフの方が、とても丁寧に教えてくださったのですよ。国では飲んだことのない味と香りですが、すぐに気に入りました。それで、彼の事というのは……」
「そう急がないで、ボロミア。何もあんな時に、彼をアラゴルンだと教えてしまうんじゃなかったと、思ってね」
「しかし、いつかは知れる事ですぞ」
「そうじゃないよ、ボロミア。あなただって見ただろう? アラゴルンのあの顔! あの髪! 直前まで昼寝をしていたんだろうね、髪は幾日も梳いてないみたいにぼさぼさで、顔には涎の跡まであったろう。あの子は昔からなりには構わない性格だったけれど、まさかエルロンド卿の前までああだとは思わなかったんだよ。それなのに、僕ったら全然気が回らなくて、あの子をあなたが長年待っていた王だなんて言ってしまった。ガンダルフが言うんだよ。あなたはとても王に憧れていたって。それなのに、その王が、あれだなんて! 僕ならショックで寝込んでしまう。だから、本当に申し訳ない事をしたと思って…」
「………まぁ…確かに」
 必死で言い募るレゴラスの言葉に、一体何を言われるのやらと緊張して身構えていたボロミアは、一瞬呆気に取られたが、すぐに沸いてきた愉快な気持ちに唇を震わせた。笑い出しそうになる口元を隠すために、整えた髭を撫で付ければ、僅かに俯いたレゴラスが、上目遣いでボロミアを見上げる。
「やっぱり、失望しただろうね…アラゴルンに」
「…ええ……まぁ…ああですからな…」
 眠そうな顔をしていた男を思い出して、ボロミアは眉を寄せた。
「でも悪い子じゃないんだよ」
 レゴラスが必死に言い訳をする。両手を広げて、金色の髪が縁取る頬のあたりにまで上げる。
「あんなぼさぼさの髪も、ちゃんと湯浴みをして梳いてあげれば、もっとまともになるんだよ。姿格好には無頓着だけれど、他の事に気を配る目は持っているし……優しいんだよ。それから、ええと…そう! 色々と本を読んでいるから物知りでもあるし、ガンダルフほどではないにしろ、ゴンドールの役にも多少は立てるかと……ボロミア?」
 言い募るレゴラスは、訝しげに眉を寄せた。最初の方こそ顰め面で頷いていたボロミアだったが、段々と話が進むに連れて、俯き口元を掌で覆ってしまったのだ。項垂れたような肩は震えているし、ひょっとしてショックのあまり泣き出してしまったのかも、とボロミアの数倍を生きているエルフは顔色を変えた。
 ところがだ。
 聞こえてきたのは嗚咽ではなく、引きつるような笑い声だった。
「ボロミア!」
 思わずレゴラスが怒鳴ると、もう我慢ができないとばかりに、ボロミアは大きな声を上げて笑い出す。
「何を笑ってるんだい」
 少しばかり憤慨したように頬を膨らませるレゴラスを見て、ああすまない、とボロミアが片手を上げて見せる。だが顔は笑ったそれから戻らず、噎せる始末だ。ごほごほと咳いたボロミアは、目尻に浮かんだ涙をぐいと指先で拭って、ああ…、と溜息のような声を漏らした。
「あなたがあまりにも必死に彼を庇うものだから」
「あれを庇ってるんじゃなくて、あなたを慰めようとしてるのに。あんなのが自分の王だって解って、ショックを受けてると思ったから!」
「ああ…まぁ、多少…ショックでしたが…」
「多少?」
 下から睨み上げるレゴラスに、う、とボロミアは口篭った。
「……いや、かなり…」
「でしょう? だから、謝りにきたのに」
 謝りにきたと言う割には、随分と胸を張っているが、ボロミアはとにかくレゴラスの詫びを受け入れなければと頭を働かせた。闇の森の王子は、自分の事をできそこないとは評しているものの、できそこないにしろ何にしろ、彼は王子であって、ボロミアが跪かなければならない相手だった。
 座っていた椅子から立ち上がると、再びゆっくりと、彼の前に膝をつく。
「この身にあまるほどのお気遣いを、感謝いたします、王子殿下」
 テーブルの上に置かれていたレゴラスの手を掴み、そっと手の甲にくちづけると、レゴラスは驚いたように目を丸くする。
「そんなことをするものじゃないよ、ボロミア!」
「なぜです」
「だって僕らはもう旅の仲間だもの。王子だとかの身分はひとまず脇に置いて、仲良くしないと」
 ね、と首を傾げるレゴラスに促され、ボロミアは立ち上がる。まだ何となく納得できないような気持ちを抱えているのを知ってか、レゴラスは飲みかけだった紅茶を全部飲み干してしまうと、そのカップをボロミアに見せる。
「もう一杯もらえるかな。あなたの紅茶はとても美味しいから」
「勿論ですとも、王子殿下」
「ああ、それだよ、それ。それがいけない。僕のことは、レゴラスと。言ったでしょう、旅の仲間だって」
「…まぁ、それはそうですが……しかし、幼い頃から礼儀作法を叩き込まれてきましたので…どうもこう…落ち着かないと言うか…」
 胃のあたりをさすって見せたボロミアに、レゴラスは今度こそ声を上げて笑い出した。
「あなたってばなんて可愛い人なんだろう。それならこう考えてよ、ボロミア! あなたを失望させたアラゴルンより、僕と仲良くなるって。そしたらきっと、あの子、悔しがると思うんだよね。何しろあなたは彼と同じ種族でしょ。会議では僕達、いがみ合っていたし。それなのに明日、僕達が一緒に朝食の席に仲睦まじく出席したら、どんな顔するかな。絶対に、本気で、地団駄踏むくらいには、悔しがると思うよ」
「…地団駄……ですか」
 あまりにも想像しにくい様とたとえだったが、彼が悔しがるのならそれもまいいかと言う気分になっていた。
 ふぅむ、と顎に手を当て考えるボロミアに、ねっ、とレゴラスが微笑みかける。
「決まりだよ、ボロミア! 僕の事はレゴラスと」
「…解りました、レゴラス。では、そのように」
「それから、その敬語も止めてよね。言ったでしょ、僕はできそこないの王子で、それに旅の仲間で、ついでにアラゴルンに仕返しをするあなたの共犯者だ」
「共犯者…ですか」
「そう、共犯者。だから敬語はなし」
「解りました…いや、解った、レゴラス」
 思いの他、共犯者と言う言葉はボロミアに楽しいと言う気持ちを与えた。それは、少なくとも、知り合いなど一人もいない裂け谷の与えられた客室で、鬱々と過ごすよりはよっぽど愉快だ。
 頷いたボロミアは、レゴラスが差し出していたカップに紅茶のおかわりを注いで、引いた椅子に腰を下ろす。
「では、レゴラス。明日、彼を悔しがらせるためにも、我々は今日のうちにお互いをより深く知っておかないと」
「ああ、それはそうだね」
「どうだろう。互いの事を話しがてら、裂け谷を案内してもらえないだろうか。ここにきてから知り合いもいなくて、実は暇を持て余していたんだ。もし、迷惑でなかったら、だが」
「迷惑なんてとんでもない! じゃあ、これを飲んだら早速案内するよ! ああもう、彼の悔しがる顔を想像したら、今から楽しくって仕方ないよ」
「まったくだ」
 おかしそうに笑うボロミアは、自分のカップに注いであったものの、話し込んでいたせいで幾分冷えた紅茶をうまそうに飲み干した。
 それから取り留めない話をしながら紅茶を飲んだ二人は、連れ立って裂け谷を散策した。その間中ずっと、互いの幼い頃の事や、成人してからのちょっとした失敗などを話していたので、二人の間に笑いが耐える事はなかった。
 裂け谷の奥にある小さな庭の東屋に腰をおろし、ボロミアが首から下げていたネックレスを外して見せた。ゴンドールに残るボロミアの家族の話をしている時だった。
「私の母上だ」
 ネックレスの凝った飾りを少しずらせば、ぱかりと蓋が開くようになっている。中を覗き込んだレゴラスが、うわぁ、と目を丸くした。
「とても綺麗な方だね。あなたに良く似ている。優しそうだね」
「優しい方だった。私が幼い頃に亡くなってしまったんだが…優しいと言う記憶しかないよ」
「そう言えばボロミア。あなた、子供はいないのかい? 人間なら、もう一人や二人いたって可笑しくない年でしょう?」
「ああ…」
 首を傾げるレゴラスに曖昧に微笑み、ボロミアはネックレスの姿絵を見下ろした。
「国の事ばかり考えていたら、いつの間にかそう言う時期を逃してしまったんだよ。それにこの旅に出てきてしまったし……もし妻を迎えるとしたら、まだ随分と先になりそうだ」
「エルフを奥さんにすればいいのに」
 ボロミアの隣に腰を下ろすレゴラスが、唇の端をにんまりと持ち上げて微笑んだ。
「そうしたら僕があなたに会いに行く口実ができるじゃない。奥方に会いにきた、とか何とか言ってさ」
「そんな口実などなくても、歓迎致しますぞ、王子殿下」
 わざと王子殿下などと言うボロミアを、肘で軽く突いて、もう、とレゴラスが頬を膨らませた。だがすぐに、ぱちんと両手を合わせて目を輝かせる。
「それか、そうだよ! 僕がボロミアの奥さんになってあげるよ!」
「は?」
 眉を寄せるボロミアの腕をぎゅっと握ったレゴラスが、ねっ、と首を傾げて見せた。
「エルフの中でも結構頑丈だと思うんだよね。自分で言うのも何だけど、腕は立つからあなたを守ってあげられるし、それに何より、エステルに免疫があるから言い負かすのは得意だよ」
「エステル…というと…」
「アラゴルンのこと。彼の幼い頃の名前がエステルと言うんだ」
「はぁ……まぁ、確かに…いや、しかしレゴラス。一応、人間の間で婚姻と言えば男と女の間でしかできないものでして、その、あなたの気持ちは嬉しいんですが…その……あなたを私の妻にすると言うのは…どうかな、少し、無理があるんじゃないかと……」
 心底弱りきった様子で、人間の婚姻について説明するボロミアを、レゴラスはじっと見つめていたが、不意に、ああもう、と呟いて頬を緩めた。
「あなたってば本当に可愛いよ、ボロミア!」
「はっ? ああ、いや…それはどうも…ありがとうございます」
「ああ、僕が女の子だったらなぁ、迷わずあなたのお嫁さんになるのに。残念残念」
 けらけらと笑うレゴラスを、最初は呆気にとられて眺めていたボロミアだったが、レゴラスがそう言う明るい性格だと言うのにようやく気付いたらしい。ほうと息を吐くと、そうですな、と愛想笑いを浮かべて頷いていた。
「もしあなたが女性だったら、それは美しい方に違いない」
「でしょう? 惜しい事をしたなぁ」
 心底悔しそうに呟くレゴラスに、ボロミアは声を上げて笑っていた。
 レゴラスもすぐに笑みを浮かべると、身を乗り出してボロミアの頬にちゅっと音を立てて口付ける。
 目を丸くするボロミアに、レゴラスはにっこりと魅力たっぷりの微笑みを向けた。
「親愛のキスだよ、ボロミア。あなたのお嫁さんになり損ねたレゴラスからのね」
 ボロミアは、何かを言おうとぱくぱくと口を動かそうとしていたが、レゴラスがにこにこと邪気のない笑みを浮かべているので、強張っていた肩の力を抜いて、つられたように笑みを浮かべていた。
 翌日の朝食の席に集まった旅の仲間達は、少しばかり遅れてやってきたレゴラスが、さも当然のようにボロミアの横に腰を下ろし、そしてまるで親しい友人のように頬にキスをするのを見て、目を丸くした。キスをされたボロミアも一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに笑みを浮かべて、おはよう、と言いながら頬にキスを返す。
 いいなぁ、とメリーとピピンが盛んに羨ましいを連呼する傍らで、アラゴルンは彼ら二人の仲睦まじい様子に頬を膨らませていた。ちくちくと朝食の間中、アラゴルンのやっかみの視線が突き刺さってくるのをレゴラスは感じていたが、素知らぬふりをして、そして殊更にボロミアに身を寄せて、他愛ない話題で笑みを浮かべあっていた。
 本当に地団駄を踏みそうなアラゴルンの表情に、レゴラスとボロミアが、こっそり顔を見合わせて笑いを噛み殺したのは、朝食が終わり、二人が連れ立って部屋を出ようとする時の事だった。少し仕返しした気分かな、とレゴラスが問うので、ボロミアは満面の笑みで、それはもう、と頷いた。そうして二人は、アラゴルンの悔しそうな顔をもっと堪能するために、その日一日中のほとんどを共に過ごしたのだった。