■ いつかの森

 ボロミアの姿がないことに気付いたのは、小さな人たちがサムの拵えたシチューを器に盛り、仲間たちに分配を始めた時だった。あれ、と小さな声を上げたのは、手にふたつの器を持ったメリーだ。どうした、とアラゴルンが問えば、持っていた器のひとつを彼に差し出しながら、メリーが辺りに顔を向けている。
「ボロミアさんはどこですか?」
「さっきまでそこに……レゴラス?」
 アラゴルンが目をやった場所には、ボロミアの盾やマント、荷物はまとめて置いてあるものの、肝心の本人がいない。その側でなにやら手の中に納まるほどに小さなものを熱心に眺めていたレゴラスに声をかければ、レゴラスは面倒臭そうに呟いた。
「川に行くって言ってましたけど」
 心なしか唇を尖らせているレゴラスに、アラゴルンがすっと眉を寄せる。
「何を拗ねているんだ、お前は」
「拗ねてなんかいませんよ」
「いつもなら喜んでボロミアにひっついて行く癖に、今回は付いていかなかったようだな。邪険にされたのか」
 にんまりと唇の端を持ち上げ、意地悪なことを言うアラゴルンの言葉に、メリーはやれやれと溜息を吐く。メリーの予想通り、空気を裂く音と共にアラゴルンがもたれている木にビシリとエルフの矢が突き刺さった。髪の毛の一本を縫い取られながらもにやにや顔を止めないアラゴルンと、敏感な動物がいたらすぐさま尻尾を丸めて逃げ出しそうなほどぴしぴしと殺気を放つレゴラスに、旅の仲間たちは誰も構ってはいなかった。メリーすらも、目の前を掠めていったレゴラスの矢に、今更騒ぎ立てようとは思わなかった。
「僕は彼の意思を尊重しているだけだよ。相手にもされていない君とは違うんだ」
「ほう。傲慢で我侭な闇のエルフが、それを言うか」
「想いも伝えられずにうだうだしている臆病者に言われたくはないね。それに闇のエルフじゃない。僕は闇の森のエルフだよ。そんなことも覚えられないなんて、まったく君ときたら」
 アラゴルンとレゴラスのボロミアを巡っての恋の鞘当は、本人がいようがいまいが関係なしに日夜続けられている。
 ボロミアのためによそった器の中のシチューを見下ろして、うーん、とメリーは眉間に皺を寄せた。
 今のところ、どうやらレゴラスの方が優勢のようだけれど、とボロミアにもらったと自慢げにペンダントを見せているレゴラスと、慌てて立ち上がってそれを必死に奪い取ろうとしているアラゴルンを見た。ぎゃあぎゃあと、あんた達一体いくつなんだ、と突っ込みたくなるエルフと人間に、メリーはまた溜息を吐く。
 ボロミアを見ていれば、どちらに軍配が上がるかなどすぐに解りそうなものなのに。
 メリーは持っていた器を傾かないように、平らな石の上に置くと、腰から外していた剣を、念のために携えた。
「僕、呼んでくるよ。折角のサムのシチューが、冷めちゃったらもったいないよ」
「それならついでに水も汲んできてもらえるかね」
 ギムリが重い腰を上げて、焚き火の側に置いてあった皮袋を振って見せた。ちゃぷちゃぷと軽い音を立てる皮袋を受け取り、了解、とメリーは頷いた。
「あっ、僕も行きます!」
 ぱっと振り返ったのはアラゴルンと取っ組み合いの喧嘩をしていたレゴラスだった。右手にはボロミアからもらったとペンダントがあり、もつれた髪に木の葉をくっつけているアラゴルンを見下ろした。突き飛ばされたか蹴り飛ばされたかをされたらしく、地面に突っ伏しているアラゴルンは、悔しそうに歯軋りをしている。
「君はここに残って、フロドたちを守るんだよ、エステル」
「それならお前がここに残ればいいだろう! 私が行く!」
「さぁ行こうか、メリー!」
 傍目にもレゴラスはうきうきとしている。今にも軽やかなステップを踏みそうな足取りで、彼は地面に突っ伏しているアラゴルンを踏みつけ、唖然とするメリーから皮袋を取り上げた。
「あっ」
「僕が持つよ。エルフは力持ちだからね!」
「ありがとう、レゴラス。じゃあ、僕たち、ちょっとボロミアさんを呼んでくるよ」
「早く戻っておいでよー。シチューが本当に冷めちゃうよ!」
「折角炙った肉も冷めちまうだ」
 ピピンとサムの声の合唱に見送られ、メリーはレゴラスを伴ってボロミアを探すために森の中へ入っていった。
 今日の野営地は、森のすぐ脇にと決められた。小さな森を抜ければ穢れていない綺麗な川があり、飲み水にも不自由しない。森の中には毒虫がいるからと、レゴラスが外に野営することを進言したのだ。ガンダルフが姿を隠すに丁度いい岩屋を見つけ、夜露もしのげるとそこに腰を落ち着けた。
 森の中に入ると、レゴラスは嬉しそうに辺りを見渡している。
「どうかしたの、レゴラス」
 緩んだ頬が、いつもよりもしまりがないのに気付き、メリーは声をかける。足元を見ていなければ、木の根や落ちた枝に足を取られそうだったので、すぐに下を向くことにはなったが、一瞬かち合ったレゴラスの目は、とても幸せそうにきらきらと輝いていた。
「いや、いい森だなぁと思ってね。僕たちエルフに、森は欠かせないものだから」
「そう言えば、木々と語らって鋭気を養うとかって…誰かに聞いたような気が…」
「そうだよ、メリー。良く知っているね。だからこう言う森に入ると、とてもじっとなんてしていられないんだ。みんなに挨拶をして回りたいくらいだよ。とてもそんな時間はないけれど」
「みんな?」
「この森の木のことさ」
 愛しそうに木の幹に手を走らせるレゴラスは、今にも鼻歌でも歌いそうだった。
 足元の枝をぴょんと飛んで避け、メリーはしばらく無言で歩いていたが、やがて意を決したように、顔を上げた。野営地から川までの道のりの、半分を越した頃だった。
「あのさ、レゴラス」
 あ、そこ危ないよ、とメリーからは見えなかった窪みをレゴラスが指摘する。レゴラスの手を借りてそれを飛び越えたメリーは、なんだい、と見下ろすレゴラスをしっかりと見上げた。立ち止まってしまったメリーに、レゴラスは不思議そうな顔をしている。
「……ボロミアさんのことだけど」
「ボロミアがどうかしたのかい?」
「…その……気付いてないの? 言いたかないけど、でも…その…ボロミアさんは……レゴラスじゃなくて、その……馳夫さんが気になってるって言うか……好きって言うか……。だから、その…」
「ああ、そのこと? うん、気付いているよ。ボロミアは、エステルがどうやら好きなようだね。それがどうかしたのかい?」
「どうかしたのかって……」
 首を傾げ、心底不思議そうにしているレゴラスに、メリーはぱくぱくと呆気に取られて口を開閉した。言いたいことはいっぱいあったはずなのに、何を言えばいいのか解らなくなってしまったのだ。
 酸素不足の魚のようなメリーを見つめ、レゴラスはくすりと微笑む。
「ああ、そうか。僕が気付いていないって思って、気を使ってくれたんだね。大丈夫だよ、メリー。ちゃんと気付いているよ。だって愛しい人のことだもの」
「だったら、どうして? それでもボロミアさんが好きなの? レゴラスを好きにはならないのに? レゴラスより、馳夫さんが好きなのに?」
「うーん…」
 尖った顎に手を宛てたレゴラスが眉間に皺を寄せている。唸る声にメリーは、一瞬とんでもないことを言ってしまったと首を竦めたが、想像していたのとはまったく違うのんびりしたレゴラスの声に、再び呆気に取られる。
「そうなんだよねぇ……ボロミアってば、なんであんな胡散臭い野伏なんかが好きなんだろうねぇ…。まぁ彼の王様だから、仕方がないかなって思うけど。あんまり趣味は良くないよねぇ」
「…そ、そうじゃなくて……」
「ああ、僕よりエステルが好きだってことかい? そんなことないんだよ、メリー。僕はある意味じゃエステルよりもボロミアに好かれているんだ。内緒だよ、エステルが嫉妬しちゃうからさ」
 唇に人差し指を当てて、ふふ、と微笑むレゴラスが、本当に幸せそうに見えて、メリーはなんだか泣きたい気持ちになってしまった。
「……気持ちが叶わないのに…?」
 レゴラスの好きなボロミアは違う人を好きで、レゴラスが抱いた恋心は決して実ることはない。もしそれが自分だったら、と思うと、それだけで悲しくなってしまう。片思いは、結果がはっきりしないうちは楽しかったりときめいたりするけれど、その先が見えてしまうと途端に悲しいものになる。
 項垂れ俯くメリーに、慌てたのはレゴラスだった。
「どうしたんだい、メリー? お腹でも痛いのかい? あ、それとも、あんまりお腹が減ったから動けなくなっちゃった? それなら戻ってサムのおいしいシチューを食べておいでよ。ボロミアなら僕がちゃんと連れて帰るから」
「そうじゃないよ……」
 ぷるぷると頭を振って、メリーは意を決して顔を上げた。
「レゴラスはどうしてそんなに、嬉しそうなの? ボロミアさんはレゴラスを見てないのに! 馳夫さんが好きなのに!」
「うーん」
 ぎゅっと小さな拳を握り締めて、必死の形相で叫ぶメリーの剣幕に、少々驚きながらも、レゴラスはまじめに答えるべく顎に手を宛てた。
「そうだなぁ…どうしてって言われても……。好きな人が幸せだったら、メリー、君だって嬉しいだろう? それと同じだよ。ボロミアはエステルが好きで、エステルだってボロミアが好きだ。まだ気持ちは通じ合っていないけれど、二人の気持ちが繋がったら、そりゃあボロミアだって嬉しいよね。きっと笑ってくれるよね。それを想像すると、とっても幸せな気分になれるんだよ。あ、エステルがもしボロミアを嫌いだったら、僕もちょっと悲しくなるけどさ」
「おかしいよ、そんなの! 好きな人には自分が一番でなくちゃ嫌だって、レゴラスは思わないの?」
「……僕はエルフだからね」
 少しだけ、ほんの少しだけ悲しそうにレゴラスが目を伏せた。メリーと目を合わせるために膝を折っていたレゴラスだったが、すっと腰を上げて、ぱたぱたと服の裾やズボンの膝の辺りについた土や木の葉を払っている。
「終わらない命を持っている。エルフ同士の恋なら、自分が一番でなくちゃ嫌だって、僕だって思って、そうなるように努力だってしただろうけれど…。相手はボロミアで人間だから。いずれ去る人を好きになってしまった。一番でなくてもいい。側にいられるだけでいいんだよ」
「どうして…?」
「君こそどうしてだい、メリー。今日はどうしてばっかりだねぇ」
 朗らかな笑い声を上げながらも、レゴラスは決してメリーへ顔を向けなかった。辺りへ気を配るふりをしながら、笑顔を不自然なほどに保ったままでいた。
「さぁ行こうか、メリー。ボロミアを早く連れて帰らなくちゃ、エステルに怒られちゃうよ」
 差し出されたレゴラスの手を、メリーはためらいながらも握り締めた。何も手を繋いでの道行きと言うわけではない。ただ、すぐ側にメリー一人では飛び越えられない大きな溝があったからだ。メリーを抱え、軽やかにそれを飛び越えたレゴラスは、すぐにメリーを地面に下ろした。待つこともなく、さくさくと落ち葉の音を足元に響かせながら歩くレゴラスに、メリーは一生懸命遅れまいとついていくだけで精一杯だった。
 メリーは、後悔していた。
 本当にずっと疑問に思っていたから、思い切って尋ねてみたのだけれど、レゴラスだって心の中じゃ、ボロミアの一番になりたいと思っているのだ。けれど、そうしようとすることの恐ろしさを感じている。
 不死のエルフは、悲しみによって儚くなる。
 ボロミアの一番になっても、別れはすぐにやってくる。どれだけレゴラスがボロミアの一番になろうとも、ボロミアは必ずレゴラスを置いて逝ってしまう。レゴラスがボロミアの一番になれば、ボロミアはそのことできっと悲しみ、自分を責め、苦しむだろう。そしてまた、レゴラスもそんなボロミアを見たいとは思っていないのだ。
 ずっと笑って、楽しそうな顔を始終装っているレゴラスの内面に、メリーは少し触れた気がしていた。
 かさかさと落ち葉の触れ合う音と、メリーが必死になってレゴラスの足に追いつこうとしている息遣いだけが聞こえる中、ホビットを少しも気遣わなかったレゴラスの足取りが、急にゆっくりになった。目を瞬きメリーが見上げると、レゴラスが優しい微笑みを浮かべて見下ろした。
「どうしてって言ったろう?」
「え?」
「ほら、さっき。僕が一番でなくてもいいって言ったとき、メリーはどうしてって尋ねただろう?」
「ああ…もういいんだ。ごめん、変なこと聞いて…」
「ボロミアの一番は僕じゃないけれど、僕の一番はボロミアだよ。それが大事なんだ。僕の心はボロミアに捧げた。きっとずっと、返してもらうことはないよ。でもそれが幸せなんだ。彼に会って、彼と親しくなって、彼を好きになった。それが大事なんだよ。僕に幸せな気持ちを与えてくれた彼を、僕は守ってあげたい。幸せにしてあげたい。彼が僕をそうしてくれたようにね。だから僕は、一番でなくていいんだよ」
 心底から幸せそうなレゴラスの微笑みに、メリーはもう何を言えばいいのか解らなかった。
 メリーにはちっともレゴラスの気持ちが解らなかったし、どれだけ説明されようとも、レゴラスの気持ちに共感もできない。
 なんと言われようとも、やっぱりメリーは好きな人には自分が一番だと思っていてほしいからだ。
「……ごめんね、レゴラス」
「謝ることなんてないよ、メリー。聞かれて困るようなことを、聞かれていないもの。さぁ川が見えてきたよ! 早く戻らないと本当にシチューが冷めてしまうよ。君やボロミアにはきっと物足りない温度になってしまっているだろうねぇ」
「レゴラス」
 川のせせらぎがメリーの耳にもはっきりと聞こえるようになった頃、メリーは先を歩くレゴラスの手を掴んで言った。
「僕もボロミアさんが好きだよ。レゴラスも同じくらいに大好きなんだ。強くて、優しくって、綺麗で、でも、馳夫さんとボロミアさんを取り合って喧嘩してる時は十歳くらいの子供みたいに見えるところなんて特に!」
 口早に言い募るメリーは、内心で、ああもう何を言ってるんだろう、と焦っていた。レゴラスを慰めたいはずだったのに、口から出てきたのは、まるで見当違いの言葉だった。
 それでもレゴラスはにこりと微笑んだ。
「僕もだよ、メリー。君が大好きさ。意地っ張りだけど人を慈しめる人で、底なし胃袋のところなんて特にね! 君が元気にご飯を食べているのを見ると、僕もなんだか元気になれるんだよ」
「おや、お邪魔でしたかな」
 がさりと大きな物音を立てて、二人が佇む場所のすぐ側の梢を揺らしながら顔を出したのは、今まさに、二人が探していたボロミアだった。手を繋ぎ、向かい合っているレゴラスとメリーに、からかうような顔をしている。金色の髪が少し濡れているので、ひょっとしたら顔を洗っていたのかもしれなかった。同じ種族であるはずなのに、汚れっぱなしのアラゴルンとは違い、ボロミアは機会さえあればこまめに身奇麗にしようと心がけている。
 メリーとレゴラスは顔を見合わせ、目を張っていたが、すぐにぷっと吹き出した。
「ああもう、ボロミア! 僕たちは今、あなたを探していたんですよ!」
 レゴラスが音楽的な笑い声を上げながらそう言えば、メリーも同じように頷いた。ボロミアは少し首を傾げ、掻き分けていた梢から手を離した。ばさりと音を立てた梢は元あった場所へ戻ろうと何度か枝をしならせる。はらはらと舞い落ちる葉を足元に募らせ、ボロミアはまたもやレゴラスとメリーを見比べた。
「私はてっきり、お二人の告白を邪魔したのかと思ったのですが」
「邪魔だなんてとんでもないよ、ボロミア」
 レゴラスは繋いでいたメリーの小さな手をするりと離すと、ボロミアの側へと駆け寄った。そしてそのままぎゅうっとボロミアの首に両腕を回し、ボロミアの背を抱きしめた。
「れ、レゴラス?」
「あなたが大好きだよ、ボロミア! 強くて逞しくて、それなのに繊細な心を持った僕の愛しい人。国と民を愛して、国に残している家族を愛していて、彼らを守るためなら身も心も投げ出してもいいと言うあなたが大好きだよ。誰かの幸せを願うくせに、自分の幸せはちっとも考えない謙虚なあなたが大好きだよ。お日様みたいに笑うところなんて特に!」
 突然抱きつかれ、その上に頬が紅潮するような告白をされたボロミアは目を白黒させていたが、レゴラスはまるで構わずぎゅうぎゅうとボロミアを抱きしめ、メリーにしたように、そしてされたような言葉を告げた。
「僕も大好きです、ボロミアさん! 僕とピピンに剣を教えてくれたり、楽しい話を聞かせてくれたり、一緒に眠ってくれることも大好きです! まるでお母さんみたいに身だしなみにあれこれ言うところなんて特に!」
 慌てるようにメリーが走り寄り、ボロミアの腰の辺りにがっしりとしがみ付いた。
 エルフとホビットにぎゅうぎゅうと力の限り抱きしめられて、最初こそ目を白黒させて驚いていたボロミアだったが、これはもしかしたら何かの遊びの延長だと思ったのかもしれなかった。くすくすと笑いながら、それぞれの種族の背に、手を添える。
「一体何事ですかな?」
「大好きごっこなんだよ、ボロミア」
 レゴラスはボロミアと同じように、くすくすと笑い声を上げながら言った。
「互いの大好きなところを言い合うんだ。ね、メリー?」
「そうなんだ! ねぇボロミアさんも言ってよ! 僕とレゴラスの大好きなところ!」
 そう急かすメリーは、少しでもレゴラスが幸せな気持ちになればいいと思っていた。ボロミアの口から告げられたボロミアが思うレゴラスの大好きなところは、きっとレゴラスを暖かな気持ちにしてくれるだろうと思ったのだ。
 ボロミアはまず、身を屈めると、メリーの目を真っ向から見つめて言った。
「あなたが大好きです、メリー。強く、誇りを持ち、いつもフロドやピピンを気遣っている。しっかりと己の足で立ち、どんな大きなものにも負けないというあなたの気持ちが、大好きです。エルロンド卿の会議に転がり込んできた向こう見ずなところなど、特に!」
 レゴラスとメリーの口調を真似たその言葉に、メリーは思わず微笑んだ。
 裂け谷での会議を思い出したからだ。こっそりと物陰から眺めていた会議の中で、ボロミアはあんなにも威上高だったのに、今では目を合わせて笑いあえている。本当は優しい人だったのだと知ったとき、メリーはとても嬉しくなった。
 それからボロミアは腰を上げ、にこにこと二人のやり取りを見下ろしていたレゴラスに向き直った。
「…あなたが大好きです、レゴラス。私には見えぬ遠くまで見通す目と、私には聞こえぬ音をも聞き逃さない耳を持ったあなたが大好きです。あなたの歌が大好きです。朗らかに笑うあなたが大好きです。何より、不甲斐ない私を愛し、見守ってくださる。その大らかさが、特に」
 メリーはこっそりと、レゴラスを見上げた。
 レゴラスは目を見開いてボロミアの顔に魅入っていたが、やがて、ふんわりと花が綻ぶように微笑んだ。
「光栄だな」
 レゴラスは両手を伸ばし、ボロミアの首に回す。先にふざけて抱きついたようにではなく、本当に愛しいものを壊さないように腕の中に閉じ込めるように、そっと慎重に抱きしめる。寄り添ったエルフの身体を、ボロミアは篭手とグローブのない手で抱きしめ返した。
「私は、あなたの気持ちをありがたく頂戴することしかできません。あなたが想ってくださるように、あなたを想うことができない…。それでも、あなたが大好きなのです、レゴラス。友として、仲間として、家族として」
「解っているよ、ボロミア。それでも僕はあなたが大好きなんだもの。あなたと同じように、友として、仲間として、家族として、そして、それ以上にね」
 レゴラスは、最後にもう一度だけぎゅっと強くボロミアの背を抱きしめると、なにやら悪戯を思いついたようにメリーを見た。エルフと人間の抜き差しならないような成り行きに、ほんの少し頬を赤くして眺めていたメリーは、レゴラスに悪戯っぽい表情でウィンクをされ、びくりと肩を竦めた。何かするつもりだ、とは解ったものの、何をするつもりなのか解らないので、とりあえずことの成り行きを見守ることしかできない。
 ボロミアの肩に両手を置いて、ぴょんと飛びのいたレゴラスは、にっこりとボロミアに微笑みかけ言った。
「それじゃあ、そろそろ戻りましょうか。水を汲んでくるように言われてるんです」
「ああ、早く戻らないと、ピピンに全部食べられてしまうな」
「隙あり!」
 川の方へ顔を向けたボロミアの頬に、爪先立ったレゴラスがちゅっと音を立ててくちづけた。
 思わずメリーは、ぎゃっ、と叫んでしまった。
 にんまりと微笑んでいるレゴラスに、ボロミアは目を丸くして、口付けられた頬をてのひらで押さえている。
「ふっふっふ。戻ったらエステルに自慢してやらなくっちゃ! ねぇ、メリー、見ただろう? 僕がボロミアにくちづけたのを! ちゃんと証人になっておくれよ。思い切り自慢して、悔しがらせてやるんだから」
 呆気に取られて目を丸くしているメリーに、レゴラスは嬉しそうにそう告げると、弾むような足取りで、少しばかり離れた場所に置きっぱなしになっていた皮袋を拾いに行った。ボロミアに抱きつくために、放り出してしまったそれを拾い上げ、ぱたぱたと土塊を払い、レゴラスはくるりと振り返る。
「僕、ひとっ走り行って水を汲んでくるよ」
「あ、レゴラス!」
 早々と川へ向かって走り出そうとしたレゴラスを、頬に手を宛てたまま固まっていたボロミアが慌てて引き止めた。ボロミアのすぐ側をすり抜けるように走りかけたレゴラスの腕を、ボロミアが咄嗟に伸ばした手で掴み止める。
 うん、と走り出した途中で足を止め、不思議そうに振り返ったレゴラスに、ボロミアは一歩、自然な仕草で近付いた。そして軽く背を伸ばし、レゴラスの額にくちづけをする。
「隙あり」
 にやりと笑うボロミアの目の前で、レゴラスは目をまん丸にして、額に触れた暖かく柔らかなぬくもり感触に驚いている。
「さっきの仕返しだ」
 ぽかんと口を開き、大きな目をさらに大きくして目の前にあるボロミアの顔を呆然と、エルフにあるまじき間抜けな顔をしたレゴラスに凝視されては、さすがのボロミアもたじろいだ。ぐっと顎を引き、心配そうにレゴラスの顔を覗きこむ。
「…レゴラス?」
「び…」
「び?」
 はっと意識を取り戻したようなレゴラスの口から飛び出した一文字に、ボロミアの服を握り締めていたメリーが訝しみ首を傾げる。てっきりメリーは、レゴラスのことだから飛び上がって喜ぶか、もしくはボロミアを押し倒す勢いで抱きつくか、果てはボロミアの顔中に仕返しのお返しだとか言って、キスの雨を降らせると思ったのだ。それなのに、レゴラスは固まってしまって動かず、少々心配になってきていた。
「びっくりした!」
 レゴラスの口から本当にぽんと飛び出した言葉に、メリーは思わずボロミアと顔を見合わせてしまった。一瞬目と目が合い、その後にすぐ二人は吹き出し、くすくすげらげらと笑ってしまった。
 それを見たレゴラスが、かっと頬を染める。
「だって本当にびっくりしたんだもの! まさかボロミアから僕にくちづけをくれるだなんて!」
「おやおや」
 ボロミアは腰に手を当てて呆れたような顔で息をついた。
「それくらいで驚いてもらえるのなら、これまでに何度も仕かけてやるんだったな。私ばかりレゴラスに驚かされていたから、悔しかったんだ」
 なぁ、とばかりにメリーを見下ろしたボロミアの、その瞳のきらきらと輝く眩しさに、メリーはにっこりと破顔した。
「でも僕こそびっくりしましたよ、ボロミアさん! それにレゴラスさんも。お二人とも、まるでうんと仲のいい家族みたいだ。ずるいなぁ」
「何がずるいのかね、メリアドク君」
 少しばかり気取ったボロミアの物言いに、メリーは腰に手を当て精一杯胸を張る。
「僕を仲間外れにしているからですよ!」
「なぁんだ、それならそうと早く言ってくれれば良かったのに!」
 ふんぞり返っているメリーを横から浚うように、レゴラスがさっと抱き上げた。うわぁ、と声を上げて目を白黒しているメリーの頬に、レゴラスがぎゅうっと唇を押し付ける。
「幸せすぎてどうにかなっちゃいそうだよ、メリー! 君に幸せのお裾分けがしてあげたいんだ」
「もうどうにかなっちゃってるみたいだよ、レゴラスさん」
 頬ずりまでされてしまったメリーは、それでもくすくすと笑いながらレゴラスの頬にキスを返す。それを見ていたボロミアが、やれやれと呆れたような、それでいて愛しくてたまらないものを見るような暖かい目を細めて言った。
「いつまでもそうしていたら、食事がなくなってしまうのではないかな、お二人さん」
「ああ、そうだった!」
 レゴラスの腕の中からぽんと飛び出したメリーの代わりに、レゴラスは皮袋を担ぎ上げる。
「ひとっ走り水を汲んでくるから、二人は先に戻っててよ」
「手伝おうか?」
 ボロミアの申し出に、レゴラスは少し考え込むように唇を噤んでいたが、すぐに金色の髪を揺らして首を横に振った。
「僕一人の方が身軽だし、素早いからね。先に戻った二人がシチューを一口食べるよりも前に戻るよ」
「それなら我々は先に行くとしよう」
「今日のシチューは本当においしそうでしたよ!」
 メリーが飛び上がりながら言うと、それは楽しみだ、とボロミアが目を細める。レゴラスは担いだ皮袋の重さなど感じていないような顔で、川の方へ走って行った。それを見届け、さ、とボロミアがメリーに手を差し伸べる。自然な仕草で出されたそれに、メリーは何のためらいもなく手を重ねた。
 足場の悪い森の中を、ボロミアの手にぶら下がったり引き上げられたりしながら、野営地へ戻る。腰を下ろし、サムが暖め直していてくれたシチューを待っている間に、皮袋を担いだレゴラスが戻ってくる。
 言った通りでしょう、と微笑むレゴラスに、ボロミアとメリーは顔を見合わせて、労いのキスをひとつずつ頬に贈る。
 くすぐったそうに首を竦めたレゴラスと、唖然と口を開いてまるでこの世の終わりを見たかのような表情をするアラゴルンとの対比がおかしくて、メリーは一人堪えられず、けらけらと笑ってしまった。メリーの笑い声は自然と伝播し、いつしか焚き火を囲む仲間達の輪にはおだやかな笑みが広がっていた。