※ご注意※

 このお話は、ある意味物凄くパラレルであり、ある意味決してあり得ないであろうお話です。
 指輪物語より数百年後のゴンドールです。
 本来であるなら、ボロミアは指輪棄却の旅の最中に亡くなると言う非業の最期ではありますが、当サイトのボロミアは、小舟にて流されるも奥方様の統治される森に辿り着き保護され、仮死状態であったため奥方様のご厚意とレゴラスの尽力により黄泉還るも、エルフの秘術を受けたがために不死の命を思いがけず得、奥方様の森にて静養を続け、サウロンが滅びた五年後にひょっこりゴンドールに帰還し、紆余曲折はあったもののファラミア公より執政職を継ぎ、エレスサールの御世の影の立役者として貢献し、エレスサールの死後、エルダリオンの戴冠式を最後に執政職をファラミアの長男に継ぎ引退、のんびりとアルウェンのお茶のお供をしつつゴンドールの繁栄に心和ませる、と言う物語が終わったにしては盛大な予定です。
 このお話はその流れを大いに汲んでおり、エレスサール没後であること、ボロミアが不死であることを念頭に置いて読んで頂けると解りやすいかと思います。
 ここまでの説明で、あ、だめだ、そういう話は無理だ、と思われた方は読まれず、そっと記憶から抹消してされた方がよろしいかと思います。
























■ 因果律

 白い石造りの都ミナス・ティリスの早朝、それもまだ夜も明けきらぬ頃合に、一人の男の姿が廟廊の中にあった。
 東の空はうっすらと白く、西の空は濃い暗闇に覆われている。白から藍へ移り行く美しい空の中に、宝石のような星が瞬いている。吹き付ける風は冷たく尖っているが、大きく胸を膨らませ吸い込めば、清々しさが身体を洗った。
 廟廊は総じて石造りであるので、底冷えがした。吐く息は白く、研ぎ澄まされた空気の中に、一歩踏み出す足の音すらも響き渡る。その中で男は、しっかりと冬装束に身を包んではいたものの、手袋もせず、マントも纏っていなかった。廟廊を守る兵に、お風邪を召されます、と遠慮がちに声をかけられたものの、良い、とそれを遮っていた。兵は、己の身を包むマントを差し出そうとしてくれていたのだった。
 そなたが風邪を引いては、誰がここを守る。
 微笑んでそう言えば、兵ははにかむように微笑んだ。寒さに鼻と頬が赤くなってはいたが、気持ちの良い笑顔だった。
 男は、ボロミアは、手袋に覆われていない素手を、石で作られた棺に触れた。
 生前の姿を象った棺には、この中に眠る人の中が掘り込まれている。その刻まれた名を、ボロミアは指先で辿った。
「……陛下」
 ひそやかに呟いた声は、冬の空気に乗り、廟廊のどこへまでも届いた。連綿と連なる棺の中でも、ボロミアが触れる棺は取り立てて新しいというものではなく、作られてから百年、二百年はとうに過ぎ経ったように見受けられた。
 その棺は、王不在であったゴンドールを守り、そして長く失われていた王その人を見出したボロミアが最初に仕えた王が眠る棺だった。
 エレスサール。
 石に刻み込まれた名と、その下に連なる彼の死の後の平安を祈る為の言葉は、今でこそボロミアも流暢に操るようになったエルフの言葉で書かれていた。
 ボロミアは、かつて彼に語りかけるとき、よくそうしたように微笑みかける。あたかも、厳しい顔をし目を閉じている石の似せ姿が、王その人であるかのように、微笑みかける。
「…陛下…。一年に数度しか顔を見せぬ不忠義者を、どうかお許しを」
「許すどころか、エレスサールは喜んでいるだろうよ」
 名を辿る指先は止まらず、何度か繰り返された。
 背中にかけられた声に、ボロミアは驚くこともなく、そして振り返ることもしない。
「……どうして、ここに」
 石棺を撫でる手を止めることはなかったが、ボロミアの頬に浮かんでいた微笑みはすうと消えた。
 ボロミアの鼓膜を打った声の主は、かすかに笑い声を滲ませた後に、靴底の音を響かせて、ボロミアのすぐ後ろに立った。
「つれない事を言う。あんたがミナス・ティリスを訪れるのは、一年の間に数えるほどしかないと言うのに」
 振り向かないボロミアの肩に、男の手が触れた。するりと、それが当然であるかのような自然さで男の手はボロミアを抱きしめた。冷たい空気に晒され、纏っていた服すらも凍えていたボロミアの身体が、温かな身体に包まれる。
 ボロミアは引き寄せられてもなお、石棺の上に乗せた指を離れさせることはなかった。
 それに気付いた男の手が片方伸び、石棺に触れるボロミアの美しい手を取った。凍ったように冷たい手指の先を、いたわりを込めてぎゅっと握り締める。
「こんなに冷たくなっている…」
「離せ」
「嫌だ、と…言ったら?」
 ボロミアの手を包み、後ろからまるで囲い込むように冷たい身体を抱きしめていた男の声は、ボロミアの頬のすぐ側で聞こえた。男の温もりに包まれていたボロミアは、間近にある息遣いに、ぬくもりに、そして何よりその声に、きつく目を閉じ、意を決したように男の手を振り払った。
「……私に、触れるな」
 振り返ったボロミアの目に映ったのは、彼が初めて王にと頂いたアラゴルンその人だった。
 背丈や身幅の体躯はおろか、不精に伸ばされたうねる黒髪、深い彫りの奥で思慮深げに瞬く薄い青みを帯びた灰色の瞳、かすかに笑いを含ませる声、愛しげにボロミアの名を呼ぶその声音と言葉の端にある僅かな癖、ボロミアに振り払われてだらりと身体の脇に下がる手指に輝くバラヒアの指輪すらも、ボロミアがあの大いなる旅の指導者と仰ぎ、王と崇め慕い、そして愛したアラゴルンとまったく同じ形をした人だった。
 ボロミアはその人の姿を認めると、眉間に深い溝を刻んだ。石の強い瞳が揺れ、近くにいる男にしか解らない程度に白目に赤みが差す。僅かに滲んだ涙をごまかすように顔を伏せ、長衣の裾を捌いた後、ゆっくりと身を屈めた。冷たく硬い石畳に膝を着き、ボロミアが王とその家族の前でのみ取る臣下の礼を取った。
「…アラゴルン三世殿下には、ご機嫌麗しゅう存じ上げます」
「やめてくれ、ボロミア。ただアラゴルンと呼んでくれと、何度も」
「呼べるわけがなかろう」
 ボロミアは石畳の上に立つ、アラゴルン三世の靴の爪先を憎々しげに睨みつけ、搾り出すような声で告げた。
「私にとってアラゴルンは、エレスサールその人以外にありえぬ。例えお前が、私のアラゴルンと同じ姿形をし、同じ声を持とうとも、私にとってのアラゴルンには成り代わらぬ」
「……やれやれ」
 ボロミアが跪く前に立っていたアラゴルン三世は、心底呆れたように溜息を混じらせた声で首を振った。カツンと硬質な音を立てて踏み出された足が、ボロミアのすぐ側を通り、彼が背を向けているエレスサールの石棺の前に立ち止まった。
「…曽祖父も幸せな方だ。亡くなった後もなお、あんたに愛されている。私があんたに愛を囁いたところで、取り合ってもらえぬと言うのに……。羨ましい限りだ」
 衣擦れの音ともに、ボロミアの頭頂部に柔らかなものが触れた。それがアラゴルン三世の唇であると、誰もいぬ方へ向かい、跪き目を閉じているボロミアには解っていた。
「…あんたを愛しているのだ、ボロミア。あんたに初めて抱き上げて頂いた赤子の頃よりずっと、心からあんたを慕っている」
 跪いたボロミアの後ろから、アラゴルン三世は覆いかぶさるようにしてくちづけていた。頭皮に直接注ぎ込まれるかのような言葉に、ボロミアの閉じた目から涙がたつたつと零れ落ちる。
 初めて抱き上げて頂いた頃より、ずっと。
 それはかつてボロミアが、アラゴルンに囁いた言葉だった。
 アラゴルン三世は、時折そんな風に、かつてボロミアが囁いた言葉、アラゴルンが捧げた愛の言葉を、彼はそうと知らぬままボロミアに告げた。
 おそらくは彼の中に宿るアラゴルン二世の記憶が、そうして昔あったやり取りの言葉を、そうと知らずに彼に言わせるのだろう。
 彼の生まれ変わりだと、アラゴルン三世にその名を与えたアルウェンは言った。厳かに、だが少しばかりの幸せをその内に秘め、生まれ落ちたばかりのアラゴルン三世を腕に抱き、愛しげに見つめながら言った。
 まるで幼い頃のエステルを見ているようです。ご覧になって、ボロミア。あの子ったら、こんな風な顔をしていたのですよ。きっと成長すれば、エステルに似た子に育つでしょう。そうだわ、アラゴルンと名付けましょう。ああ、でも…彼のように放蕩癖が付いてしまっては困るかしら。
 くすくすと、鈴を転がすような軽やかな笑い声を上げ、祝福のくちづけを名付けられたばかりのアラゴルン三世の額に贈ったアルウェンの言葉通り、いや、それ以上に、アラゴルン三世は成長するたびに、アラゴルン二世の面影を帯びていった。
 まだ歩き出した幼い頃などは、アラゴルンアラゴルンと呼び、彼を可愛がっていたボロミアだったが、成長するにつれ、あの彼と酷似するアラゴルン三世の姿を見ているのが辛くなった。ミナス・ティリスに住まっていたボロミアが、居をイシリエンのレゴラスの森に移したのもそのせいだ。同じ顔、同じ声、同じ瞳に、ボロミアと呼びかけられるのに耐えられなくなったのだ。
 折りに触れ、アラゴルン三世と顔を合わすことはあったが、わざと辛く邪険に当たった。彼が自分を嫌いさえしてくれれば、彼が生きる長い間、数えるほどにしか顔を合わせぬだろうと思ったのだ。
 ところが、何の因果だろうか。
 アラゴルン三世は自分にだけ辛く当たるボロミアに、あなたを慕っているのだと告げた。
 あなたをお慕いしている、ボロミア。私の何が、あなたに厭われているのかは解らないし、どれだけ辛く当たられようとも構わない。けれど、どうか、お忘れにならないで頂きたい。私の心は永久にあなたのものだ。
 彼が没した後、二百年以上経った今、再び聞くことになった告白に、思わず声を殺し、ただただ涙を流し泣いてしまったボロミアを、アラゴルン三世はひどく戸惑ったように、けれど一生懸命に宥めた。どうか泣かないで、ボロミア。あなたに泣かれると、どうしていいのか私には解らない。ああ、曽祖父ならば、きっと気の利いた言葉が言えただろうに。アラゴルン三世の口から零れる言葉のひとつひとつが、生前のアラゴルン二世その人の話した言葉だった。
 いくつもの思い出がボロミアの中から湧き出て留まらなかった。忘れていた小さな事柄すらも、甦り、ボロミアを苛んだ。どれだけ経とうとも、決して彼を忘れることはできないのだし、彼のいぬ寂しさに慣れることもできない。それを、アラゴルン三世の告げた言葉に思い知らされたのだった。
「……すまない、ボロミア」
 囁かれ、すぅと離れていくアラゴルン三世のぬくもりに、ハッとボロミアは振り返る。頬に流れた涙をそのままに、アラゴルン三世を見上げると、彼は困ったように首を傾げ、伸ばした手のひらでボロミアの頬を拭った。一度流れた涙は止まらず、今もその頬を濡らし続けていた。乾いた掌が、少しばかり強く、だが労わりを込めてボロミアの頬に触れる。
「……私のこの顔は、あんたに苦痛を与えるだけで、その他には役に立たないようだ」
 苦笑するアラゴルン三世が、ボロミアの額にくちづけを落とした。濡れた頬に落ち、薄く開いたボロミアの唇にも触れようとした。だが、呼気が触れ合うその距離で、ぴたりとそれは止まった。ぎこちなく微笑むと、ボロミアの涙に濡れた指先で、ボロミアの唇を辿り、くちづけをすることなく離れて行く。くちづけのかわりに、膝をついたアラゴルン三世に、ボロミアはきつく抱きしめられた。
「…私は、あんたの苦しむ顔や、泣いている顔ばかり見る……」
「見たくなければ…側に寄らねば良い…」
「……そう…そうだな…。そうに違いない…」
 アラゴルン三世はかすかに微笑むと、ボロミアの身体を抱きしめた腕の強さとは裏腹の、優しい仕草でそっと離した。そしてもう一度額にくちづけると、かすかな微笑みを頬に浮かべた。
「……折角の曽祖父とあんたとの逢瀬だ。邪魔者は退散するとしよう」
 床にへたり込んだままのボロミアを置き、アラゴルン三世は立ち上がり、足早に廟廊を後にした。カツカツとせっかちな足音を引き連れて、アラゴルン三世は長く続く回廊の角を曲がり行く。その後姿をたまらない思いで見送ったボロミアは、入れ替わりに近付いてくる一人の女性の姿に気付くと、慌てて居住まいを正した。濡れた頬を拭い、乱れた長衣の裾を整える。臣下の礼を取って出迎えたのは、ボロミアが傍らにと控えたエレスサールの妻女アルウェンだった。エルフから人になろうとも、その長命は人とは比べようもない。出会った頃と代わらぬ輝くような美しさを持つ人に、ボロミアは頭を垂れた。
「……妃殿下」
「ご機嫌よう、ボロミア。わたくしのことは、アルウェンと」
 出会った頃となんら代わらぬ姿で微笑む元はエルフの女性に、ボロミアもつられて微笑んだ。
「申し訳ありません。陛下の側にいるので、つい」
 ボロミアが石棺のある傍らを見やり言う。アルウェンもそれを見つめ、しばしの沈黙を守った後、口を開いた。
「アラゴルンが、泣きべそをかいていましたよ」
 優しく微笑んだアルウェンが、石畳の上に膝をつくのを見て、ボロミアは思わず苦笑した。畏まっていた身体を崩し、アルウェンの前で胡坐をかく。エレスサールが国を統治していたその間には、決して見られなかった光景だった。
 特に礼儀にはうるさいボロミアは、アルウェンがそうしてほしいと願ってもなお、妃殿下と彼女を敬い、彼女の前では寛ぐことなどなかった。アラゴルンの没後、寄る辺もないのですから、と悲しそうに言ったアルウェンの意向を、ボロミアはようやく聞き遂げ、彼女と親しく友人として過ごすようになったのだ。
 ボロミアの胡坐をかいた膝に触れるアルウェンのほっそりとした手は白く、柔らかい。それを、ボロミアは無骨な手でそっと握り締めた。
「……叫び出したい気分です、アルウェン」
「そう。そんな顔をしていらっしゃるわ」
「…どうして、あんなにも彼に似ているのか……。嫌いではないのですよ…。幼いアラゴルンに抱いた愛しさは、彼に抱くのとは別のものだった。我が子のように、だがそれ以上で……。けれど…アルウェン、どうしてでしょう。アラゴルンは、日増しに彼に似る。そして、彼が私にくれたのと、私が彼に捧げたのと同じ言葉を囁く……」
「……同じ魂を持つ者ですもの。でも、あなたの気持ちが解ります、ボロミア。わたくしとて、アラゴルンにエステルと呼びかけてしまいそうになる…」
「私などを、慕ってくださる」
「その言葉に、頷かれればよろしいのに。彼の気持ちは決して偽りのものではありませんよ。誠実な気持ちが、彼の中から溢れ出そうなほど。…まだ、エステルに遠慮をなさっているの?」
 ボロミアはその言葉に、傍らにある石棺を見つめた。
 目を閉じ、胸の上に剣を置き両手でそれを握り締めているかつての王の姿を、ボロミアはじっと見つめた。老いてもなお丹精な造作をしていた。身体を繋げ愛し合えなくなった後も、心は共に寄り添い、愛し合っていた。側にいると言うことが何にも変えがたく、アルウェンに時折拗ねられたほどだ。わたくしをのけ者にして、と幼い娘のように顔を背けた王の妻を、ボロミアは導き傍らに座らせたこともあった。アラゴルンと己の間の僅かな隙間にだ。アラゴルンがぎゅうとアルウェンの細い身体を挟み込むように、ボロミアの身体ごと抱きしめるのに、畏れ多いと思う気持ちもあったけれど、それを上回るほどに、間近にあった彼女の微笑んだ表情が愛らしく、胸の中に僅かに浮かんだ臣下として抱くべき当然の気持ちは払拭された。
 人の世に比べれば短くもなく、けれどもエルフの世には長くない時間を、そうやって彼らと共に過ごした。
 自分の心は、永久にこの方々の下にあるのだと思っていた。
「時折、私は誰を愛しているのだろうと思います」
 己が握り締めたアルウェンの細い手に、もう片方の手も添えて、ボロミアはうっすらと微笑んだ。
「……私の心はエレスサールと言う名を持つアラゴルンにある。けれど、彼にも惹かれている。同じであり、僅かに違う。レゴラスがよく笑います。私の姿はまるで、王になってくれぬのかと始終私に後を付回されていたアラゴルンのようだと」
「…あら、どういう意味かしら」
「嬉しいけれど、困っているのだと」
「あら、ぴったりじゃありませんか。まさにその通りだわ。レゴラスったら、うまいたとえを持ち出すこと」
「彼を……アラゴルンを……私は嫌いになれない……」
 ボロミアの目から、また涙が零れ落ちた。
 アラゴルンの眠る石棺を見つめ、その向こうで彼が微笑んでいるかのように微笑み、ボロミアは涙を流す。
「…彼が嫌いになれないのです……」
「それがさだめと言うものよ、ボロミア。人の子の魂は巡るもの。生まれ、老い、没し、そしてまた新たに生まれる。幾たびもの繰り返しの中に、わたくしたちはいるのです」
 アルウェンのたおやかな手が、穏かにボロミアの頬に触れる。木漏れ日が触れるような優しさでもって、涙に濡れる頬を拭った。
「父がよく口にしたものです。エステルは、イシルドゥアに似ていると」
「…エルロンド卿が……」
「そうして決まって言うのですよ。さだめとは、時に残酷なものだ。けれども、決してそれを悲観することはないのだと。良きように、良きようにと考えれば、すべてを受け入れることもできようと。イシルドゥアを父はよく知っておりました。彼が指輪に魅入られることを止められなかった父は、けれどエステルに対しては正しく養育できた。ゴンドールの王にとなったエステルの姿を見ることができた」
 厳かに告げたアルウェンが、そこでふと唇の端を持ち上げた。
「すべて、結果論ですわね」
 年をいくつ重ねてもアルウェンに残る娘らしさは、そんな悪戯っぽい微笑みを浮かべると、より顕著に現れる。
「でも、ですから、わたくしは思うのです、ボロミア。再び巡って現れた彼の魂が、あなたを愛するのは当然のこと。それを拒否するのは、彼の魂を傷つけることに他ならない…。ボロミア、どうか、後悔などなさらないで。そして、後ろめたくなど思われないで。エステルとてそれを望まないでしょう」
 アルウェンは、己の手を握り締めるボロミアの手に、もう片方の手を添えた。優しい、けれども強い力でぎゅっと握り締めると、ボロミアはアルウェンの白い手の甲を恭しく額づいた後、くちづけた。
「あなたはまるで、すべてを識る巫女のようだ。けれど、妃殿下、ご存知でしょう。わたくしの王は、殊の外、嫉妬深いのです」
「でしたら、わたくしの執政殿。次に会ったときに、うんととっちめておきますわ。二百年も生きたのに、子供のようなことを言ってわたくしのボロミアを困らせるんじゃありませんって」
 ボロミアはアルウェンの言葉に一瞬目を丸くしたが、すぐに顔を見合わせてくすくすと笑い声を零した。
 そしてことりと、その身をアルウェンの肩に伏せた。
「……またレゴラスに、膨れ面をさせてしまうな…」
「あら、させておけばよろしいのよ。あの我儘王子ったら、エステルに負けずとも劣らず、やりたい放題しているんですもの。少しくらい、待たせておくのも良い薬です」
「長く生きると、色々なことがあって、戸惑いますな」
「それが生きるということです、ボロミア。人の子よりも多く長い時を生きるわたくしたちは、流れに身を委ね、安らぐことを覚えなければ…。さ、お行きになって、ボロミア。彼をいつまでも、一人で悲しませないで。エステルと同じ魂を持つあの子は、間違いなくわたくしの血を継ぐ血族です。一人にするのは、正直、忍びなく思っていたところなのよ」
 髪をくすぐるアルウェンの細い指先に促されるように顔を上げ、ボロミアは何度か息を繰り返し、そうして唇を引き結んだ。
 アルウェンは不思議なきらめきを宿す黒い瞳でボロミアを見つめ、巫女のように告げた。
「……すべてはあなたの心のままに、ボロミア。あなたは望むものすべてをその手の中に抱くのです。あなたはそうあっていいほどわたくしや、わたくしの夫、わたくしに連なるすべての者に尽くしてくださった。何も後ろめたく、ためらうことなどないのです。何があろうとも、何が起きようとも、わたくしはあなたの友、あなたの家族です」
「ありがとう、アルウェン。あなたが側にいてくださって、本当に良かった…」
 アルウェンの秀でた額に唇を寄せ、ボロミアは目尻に皺を刻み微笑んだ。
 細い指が、ボロミアの頬を辿る。いとおしむように唇に触れた指先は、この廟郎の空気に晒され冷たかった。
「わたくしの大切なあなたに、星の数ほどの降るような祝福を」
 エルフ語で囁かれたその言葉に、ボロミアは目を伏せた。伏せた瞼に触れた唇は、触れたときと同じほど穏かに離れてゆく。
 さらりと聞こえた衣擦れの音に、目を開くと、アルウェンは立ち上がり、エレスサールの石棺とその隣に並ぶ石棺の間に置かれた椅子に腰を下ろしていた。籐で編まれたそれには、柔らかなクッションがいくつも詰め込まれ、いついかなるときにでも座り心地良く彼女を迎える準備を整えている。アルウェンがここで過ごすことは珍しくもなかったが、そう多いことでもない。彼女の長い人生からすれば短い間だが連れ添った夫と昔語らいをするために訪れるのだ。誰も、ボロミアすらもその時間を邪魔することはない。
 ボロミアは労わりを込めてアルウェンの額にもう一度くちづけた。
「…昼食の時間になってもお姿がなければ、探しに参ります」
 小さな顎を頷き、アルウェンは目を閉じた。
 ボロミアは彼女が見ていないと解っていながらも、軽く会釈をして身を起こす。
 そしてエレスサールの名の刻まれた石棺を愛しげにひとつ撫でると、訪れたとき同様に、コツコツと石畳に足音を響かせ、歩み去る。
 その後姿を薄く開いた目でこっそりと見つめていたアルウェンは、廟郎の角をボロミアが曲がったのを確認し、ひっそりと微笑みを浮かべる。傍らの石棺を見つめ、くすくすと笑い声を洩らした。
「意地っ張りなのは、あなたに感化されたからかしら、エステル」
 答える声はなかったが、アルウェンにはそれが聞こえたかのように頬に浮かべた微笑を深くした。
 



『因果律』とは、(1)因果関係。(2)すべての事象は原因があって生起し、先行する原因なしでは何事も生起しないという法則。(3)結果が原因より前におこることはありえないという法則。
『因果』とは、(1)原因と結果。(2)おこないの善悪により、その後の運命が決まること。前世の悪行のむくいで現世の不幸があること(仏教)。(3)ふしあわせ。
(小学館・国語辞典より)