■ 暖かく遠い日

 穏やかな陽の光がきらめく春の日の庭に、小さな子供の姿がありました。
 小麦の穂のような色をした髪はつやつやと美しく、白い頬は薔薇のように上気し、自らの傍らで絵巻本を広げる人を見上げています。大きな目はきらきらと輝いて、この世の美しいものをすべて見つめようとしているようでした。
「そーんぎゅー」
 小さな口から零れる愛らしい声に、子供の側に腰を下ろし、けれども油断なく剣を近くに置いた人はにこりと微笑みます。
「はい、なんですか、ボロミア様」
 ローハンより来たと言うその人は、ソロンギルと言う名の英雄でした。数々の武勲を立て、王不在の国ゴンドールを支える執政官エクセリオン二世の覚えもめでたい人でした。武芸ばかりではなく、書物や文献を嗜むことをも好んでし、ゴンドールの中では数少ない人しか知らぬエルフの言葉も話すのです。エクセリオン二世は、歩き始めた孫にもそのような人になってもらいたいと思い、ソロンギルを可愛らしい孫の養育係に任命したのでした。とは言えソロンギルは兵士ですので、養育係とは名ばかりで、ボロミアの命を付けねらう悪漢から小さなボロミアを守ってもらいたいと考えているようでした。
 どうにもこのところ、良くない噂が都の中で囁かれているのです。
 エクセリオン二世を恨む誰かが、ボロミアを亡き者にしようと考えていると言うのです。ボロミアの父デネソールも気を尖らせてはいますが、何しろデネソールも忙しい仕事を持つ身です。ずっとボロミアについてばかりいるわけにもいかず、エクセリオン二世と相談して、ソロンギルならばボロミアを任せておけると言うことになったのでした。
「そーんぎゅー」
 ボロミアの小さなお口には、ソロンギルと言う彼の名前は、少し難しすぎました。
 周りのみなが呼ぶように、彼を「ソロンギル」と呼びたいのに、いつもボロミアが名を呼ぶと「そーんぎゅー」となんだかあまり素敵ではない具合に崩れてしまいます。
 ボロミアはきゅっと眉を寄せました。
「なんですか、ボロミア様?」
 泣き出しそうに眉を寄せたボロミアに、ソロンギルは優しく微笑みました。
「少し陽が強くなってまいりましたね。暑くありませんか?」
 木陰にそよぐ風を楽しんでいるソロンギルには心地よい暑さでしたが、幼いボロミアにはそうではないかもしれないと、ソロンギルはそう尋ねます。ボロミアは首を傾げてソロンギルの顔を見上げていましたが、すぐにまたソロンギルの膝の上に広げられた絵巻本を小さなもみじのような手で叩きました。
「そーんぎゅー、ごほんー」
「ボロミア様は、本当におはなしがお好きですねぇ」
「すきー!」
 可愛らしい笑窪で頬をぽっこりとへこませて、ボロミアは顔中を口にして笑いました。誰と馴れ合うこともあまりなかったソロンギルですが、ボロミアのこんな顔を見せられてしまっては、心の中に暖かい気持ちがじんわりと滲み出てくるのを認めずにはいられません。
 つられて微笑み、ソロンギルはボロミアに頷いた。
「では、今度また街へ下りた時に、ボロミア様に新しい御本を探してまいりましょう」
「そーんぎゅー」
 絵巻本のページを押さえるソロンギルの手を、ボロミアの小さな手がきゅっと握り締めます。子供の小さな手は暖かいと言うよりも熱く、春先にもなお冷たいソロンギルの手を温めてくれました。
「ボロミア様はどんな御本がお好きですか? いずれお父君の跡を継いでゴンドールを盛り立てて行かれる方だ。やはり昔に活躍された軍人の方の御本などお好きでしょうね」
 小さな手が握り締めた己の手を見下ろし、ソロンギルは少しだけ哀愁をその眼差しに帯びました。
 誰もまだ知らぬことですが、ソロンギルはこの国に深く深く関わる血脈の末裔だったのです。ボロミアの父のデネソールや、その父エクセリオン二世が守る玉座に、座ることのできる血を受け継いだ人なのです。ゴンドールの人々が永く待ち続けている王その人なのです。
 けれどもまだ、ソロンギルにはそう名乗り出る勇気がありませんでした。
 今はまだ、小さなボロミア一人を守ることだけでも精一杯で、これ以上多くの人たちを、ひとつの腕に抱えてしまえるとは、ソロンギル自身、自分を信じてはいないのでした。
「まだ小さなボロミアには早うございますわ」
 そっとボロミアの小麦色をした髪を撫でるソロンギルの手が、かけられた女性の声にぱっと離れました。咄嗟に剣を掴み上げ鞘から抜き放とうとしたところで、ソロンギルはその無礼に気付きます。木陰で憩うソロンギルとボロミアに声をかけたのは、一人の侍女を連れたフィンドゥイラスでした。
 ソロンギルが剣を持つために立ち上がったせいで、ソロンギルの膝の上に身体の大半を投げ出していたボロミアは、ころりと芝生の上へ転がってしまいます。
「こ、これは御無礼をフィンドゥイラス様。ああ、ボロミア様、申し訳ない…お怪我は……」
 フィンドゥイラスに臣下としての礼を取るやら、芝生の上に転がって目をぱちくりとさせて驚いているボロミアを抱き起こすやらで、一人くるくると焦り慌てるソロンギルを、フィンドゥイラスは口元に手を当て、くすくすと笑って見つめています。
「どうぞお楽に、ソロンギル様。ボロミアもそのくらいでは、あなたをお嫌いになどなりませんわ」
「まー」
 ソロンギルに抱き起こされ、服に付いた土や葉っぱを払ってもらったボロミアは、微笑むフィンドゥイラスを見上げ、小さな指でしめしました。はい、と浮かべていた微笑みを深くしたフィンドゥイラスは、綺麗なドレスの裾が汚れるのにも構わず腰を屈め、両腕を差し出します。
「お部屋へ入りましょうか、ボロミア。もうお昼寝の時間ですよ」
 ソロンギルはボロミアのすぐ側で膝をつき、フィンドゥイラスがなすことの邪魔にならぬようにと畏まっていました。
 ボロミアの養育係をエクセリオン二世から直々に命じられたとは言っても、ソロンギルの兵士としての立場で、フィンドゥイラスの前でくつろぐことはできなかったのです。決して臣下としての礼を崩さないソロンギルと、そんな彼の気持ちを察し、あえて何も言わず彼が畏まるがままに任せているフィンドゥイラスを、ボロミアは大きな目を何度も瞬きをしながら見比べました。
 それから少し考えて、首を傾げます。
 小さな手が伸ばされたのは、すぐ側に畏まって膝をつき、頭を垂れていたソロンギルの腕でした。いついかなる時にでも、逞しくボロミアを抱き上げるソロンギルの腕を包む衣をぎゅっと掴み、ボロミアはほんのちょっぴり不安そうに眉を寄せました。
「そーんぎゅー」
「まぁ」
 フィンドゥイラスは驚いたように口元に両手を寄せます。金色の豊かな髪の中で、愛らしい大きな瞳がいつもよりも大きく丸くなっています。母親らしい優しい声で、フィンドゥイラスはボロミアをじっと見つめました。
 ボロミアは今やしっかりと両手でソロンギルの腕に掴まって立ち、唇をぎゅっと引き結んでソロンギルに身を寄せています。まるでソロンギルから離されまいと頑張っているようでした。
「ボロミアは、わたくしよりもソロンギル様がお好きなのね。どうしましょう。わたくし、悲しくて仕方がありません」
 両手で顔を覆ったフィンドゥイラスは、とても解りやすい泣き真似をしていました。ソロンギルは思わず苦笑してボロミアを見つめます。
「そーんぎゅー…」
 ボロミアは小さな両手でソロンギルの腕を掴んでいましたが、フィンドゥイラスがしくしくと泣き出してしまったのを見て、ますます困ったように眉を寄せました。それでも、ソロンギルの側からは離れずにいます。
「ボロミア様、お母君がお待ちですよ。お母君と一緒に、お部屋でお休みになってください」
 ソロンギルは思わず浮かんだ苦笑をそのままに、ボロミアにそう諭しかけました。フィンドゥイラスは顔を覆う両手の指に、ほんの少しの隙間を作って、小さなボロミアがさてどうするかと、楽しそうな顔で見つめています。フィンドゥイラスの後ろにじっと控えている侍女も、主人のささやかな悪戯と、そして幼い子供が幼い子供ながらに迷い戸惑う様を見て、心の底から微笑ましく思っていました。
「ああ、ボロミアに嫌われてしまったら、わたくし、悲しくて死んでしまうかもしれません」
 ボロミアの困りきったようすに、フィンドゥイラスがますます激しく泣き声を上げる真似をしました。フィンドゥイラスの悲しい声に、ソロンギルの服を掴むボロミアの手が、びくりと震えます。見ればボロミアの目には大きな涙の粒がひとつ浮かんでいました。
 ソロンギルはそっと身体を動かして、すっかり固まってしまっているボロミアの背をそっと押します。
「さぁボロミア様。お母君の元へ……」
「やぁあだぁあ!」
 ソロンギルがそっとボロミアの背を押した瞬間でした。
 ボロミアがソロンギルの腕にしがみついたまま、大きな声を上げて泣き出してしまったのです。
 ついさっきまでは楽しくて頬を赤くしていたボロミアが、今はその頬を涙でしとどに濡らしています。わぁわぁと身も世もないような様子で泣き出したボロミアを、彼を囲んでいた三人の大人たちは目を文字通りぱちくりとさせてしまいました。
 一体その小さな身体のどこからそんなに大きな声がと思うくらいの大音声に、城のあちこちから人が飛んできます。すわボロミア様に一大事が、と慌てた兵士は剣を抜き放っていますし、何か良くない毒虫に刺されたのかもしれない、と血相を変えた侍女たちは、手にたくさんの薬を持っています。
 たくさんの大人たちに囲まれて、ますます大きな声でボロミアは泣き続けました。
 飛ぶように駆け付けた兵士たちは、ボロミアのすぐ側にソロンギルがいるのを見ると、ボロミアに何か一大事があったわけではないようだとほっと剣をしまい、薬や包帯を抱えた両腕からぽろぽろといくつもの落し物をしながらも、まろぶように駆け付けた侍女たちは、フィンドゥイラスがボロミアのすぐ側でころころと笑っているのを見て、良くない虫に刺されたわけではないようだ、と胸を撫で下ろしました。侍女たちの中には、安堵のあまりへなへなと腰を抜かしてしまう者もいました。
 みな、未来の小さな執政を、心の底から慈しんでいたのです。
 ですが、そうなると、一体どうしてボロミアがこんなにも激しく泣きじゃくっているのかが気になりました。立ち去り難くその場に佇む兵士や侍女たちに、フィンドゥイラスの側につきしたがっていた侍女が、奥様の悪戯で、と小さな声で説明をしています。けれどその侍女の頬も、フィンドゥイラスが浮かべているのと同じ、愛らしい生き物を見るときに浮かべる微笑みに彩られていました。
 フィンドゥイラスがにこにこと微笑んでボロミアを見つめているだけで、自分からは何もしてくれないので、ソロンギルはとうとう腰を浮かしました。ボロミアが悲しく泣いているのは、ソロンギルには耐えられないことだったのです。
 失礼、とフィンドゥイラスに一言断りを入れ、ソロンギルはボロミアに手を差し出しました。途端にボロミアはそれをぎゅっと握り締めて、涙でべしょべしょに濡れた顔を押し付けます。掌に熱く濡れた頬を感じながら、ソロンギルはボロミアを抱き上げました。
「さぁボロミア様、もうお泣き止みください」
 ソロンギルの首に小さな両手を回し、ぎゅうっと力の限りしがみつくボロミアに、ソロンギルはこっそりと微笑みます。
「何がそんなに悲しいのですか。お母君も側にいらっしゃいますのに」
「そーんぎゅー、やー」
 ボロミアの背をあやすように軽く叩くと、ボロミアは小さな首を一生懸命に横に振りました。
「私が、何か……」
 ボロミアの口から出てきた自分の名に、ソロンギルが思わずフィンドゥイラスを見つめます。ボロミアに何か悪いことをしてしまったのではないかと、ソロンギルは心配したのです。ですがフィンドゥイラスは優しい顔で首を振りました。
「そうではありませんわ、ソロンギル様。ボロミアはあなたと離れるのが嫌だと泣いているのです」
「やー」
 ソロンギルの肩口に、ボロミアは濡れた顔を押し付けていました。
 決して離されまいとマントにしがみついた小さな手は、白く固く握り締められています。その身体に似合わぬ強い力でしがみつかれ、ソロンギルは実は少しばかり首が絞まって苦しかったのですが、ボロミアを引き離すのはひどく可哀想に思え、じっと我慢をして暖かな身体を抱きしめていました。
 知らず浮かべたソロンギルの微笑に、フィンドゥイラスは日陰に咲く花のように儚げで穏やかな微笑みを向けました。
「ボロミアはあなたが大好きなのです、ソロンギル様」
 長い髪を風に遊ばせ、フィンドゥイラスは泣きじゃくるボロミアの背をそっと撫でました。伸ばされた母の手に、びくりとボロミアが身体を震わせたのは、無理矢理に引き剥がされてしまうからだと勘違いしたせいでしょう。そうではないと解った後も、しゃくりあげながら、ソロンギルから決して離れようとはしませんでした。
 ソロンギルは目を伏せました。
「我が身には、過ぎるほどの光栄にございます」
「此度、ソロンギル様がボロミアの養育を担って下さって、誰よりも喜んでいるのは他ならぬボロミアのようです。どうぞ、いついかなるときも、今と同じようにボロミアを慈しんでやって下さいませ」
 フィンドゥイラスに彼女こその慈しみを込めた声にそう懇願をされ、ソロンギルは抱きしめているボロミアの肩に顔を埋めるように俯き、答えることはできませんでした。
 ソロンギルは解っていたのです。
 この石の都にそう長く、自分の身がありはしないと、知っていたのです。
 エクセリオン二世はソロンギルに全幅の信頼を寄せてくれますが、デネソールはそうでなかったからです。今回、ソロンギルにボロミアの養育係を任命したのもエクセリオン二世であって、デネソールではありませんでしたし、執政家に仇なすものがあるという、不穏な噂さえなければ、このような機会はまったくなかったはずなのです。ソロンギルは前線に立ち、ボロミアの側でこうしてのんびりと過ごすことなどなかったでしょう。
 ですから、ソロンギルは考えていました。
 エクセリオン二世亡き後、執政の座を継ぐのはデネソールです。できることなら、ボロミアが少年へ成長し、そして青年へと姿を変え、ソロンギルと同じように勇ましきゴンドールの将として戦へ出るのを見守りたいと思っていましたが、デネソールはそれを許してはくれないでしょう。そうなる前に、ソロンギルはゴンドールを去るつもりでいました。
 フィンドゥイラスの願うように、いついかなるときも、ボロミアを慈しむことは、ソロンギルにはできなかったのです。
 何も知らず幸せな笑みを浮かべるボロミアと過ごしながら、ソロンギルはすでに旅立つ覚悟を決めていたのです。できるなら、小さな子供の記憶に残りたいとは思っていましたが、それもままならないかもしれません。
 その時は、確実に近付いていたのです。
「そーんぎゅー…」
 ぺたりと、頬に暖かなぬくもりが触れました。
 ソロンギルは小さく頼りない声に、はっと顔を上げます。目の前には、涙で頬をびっしょりと濡らしながらも、気丈に泣き止んだ小さな執政の心配そうな顔がありました。
「そーんぎゅー、たいたい?」
 ボロミアの小さな手が、ソロンギルの頬をぺたぺたと探るように触っていました。しっかりと自分を抱きしめているソロンギルが、俯き黙り込んでしまったのをどこか痛むのかと心配しているのでしょう。
 優しい方だ、とソロンギルは微笑みました。
「私の身を心配してくださるのですか?」
 ボロミアの背を撫でていたフィンドゥイラスは、その手を止めず、ソロンギルに言いました。
「大好きなソロンギル様に何かあってはと、ボロミアも心配しているのです。あなたは戦に行かれる方。あなたが都を留守にしていらっしゃる間、ボロミアはいつも気が気ではないのですよ」
「そのようなご心配は無用です、ボロミア様。私はエクセリオン様に仕える一兵です。戦のうちでエクセリオン様、引いてはあなた様のお役に立ち死ねるのなら、本望と言うものです」
 それはまさに、このゴンドールの兵士達すべての思いでした。ことの成り行きを遠巻きに眺めていた兵士や侍女達は、ソロンギルの言葉に深い笑みを浮かべます。彼らはソロンギルの言葉と同じに戦に赴く者であり、そして帰ってこないかもしれない夫や弟、または息子を祈るように待つ者であったのです。ですが彼らの思いはソロンギルと同じに、王なきゴンドールを守る執政家のお役に立ったのであればと、自らの死を、そして家族の死を誇りに思っていたのです。
 ですが、まだ小さなボロミアにその言葉の意味は解りません。
 ボロミアは大好きなソロンギルが自分に向け、微笑んでくれただけで嬉しかったのです。涙で濡れている顔に、ボロミアは幸せに満ち溢れた笑みを浮かべます。
 その笑顔のために、命を投げ出すものがいることを、幼い彼はまだ理解してはいないでしょう。
 ソロンギルは濡れたボロミアの頬を拭い、彼だけに聞こえるように囁きました。
「あなたの幸せの記憶に、今のこの時が残ればと、そう思っております…」
 耳元で囁かれる小さな声に、ボロミアはくすぐったそうに首を竦めました。それから抜けるように青い空に響き渡るような笑い声を上げます。
 側で見守っていたフィンドゥイラスは、ソロンギルが何がしかの言葉をボロミアに告げたことは解りましたが、ソロンギルが正しく何を言ったのかまでは聞き取れませんでした。しかし、ボロミアがあれほど嬉しそうな様子で喜んでいるのだから、きっと良いことなのだろうと深く追求はしませんでした。
 ソロンギルはボロミアの背を今一度強く抱きしめると、腕を緩め、フィンドゥイラスに向き直ります。
「さ、ボロミア様。お母君と共にお部屋へ。私がお部屋まで御身をお守り致します」
 機嫌のよくなったボロミアを、フィンドゥイラスの腕に預けようとしたのですが、やはりボロミアはソロンギルからは離れがたいと小さな手でしがみつき、母の手に身を委ねようとはしませんでした。
 まぁ、と目を丸くするフィンドゥイラスと、身の置き所がないような申し訳ない気持ちでいっぱいになるソロンギルは、少しばかり顔を見合わせました。
 フィンドゥイラスはにこりと微笑むと、己の胸の辺りで左の手の甲を右の手で押さえるように両手を重ね、ソロンギルを見つめました。
「ではソロンギル様。ボロミアをお部屋まで連れて行ってもらえますかしら。ボロミアはあなたと離れたくない様子ですもの。ご一緒にお昼寝されてはどうかしら」
「はぁ…いや、それは…どうでしょう…。私の任務には含まれていないので、きっとエクセリオン様にお叱りを受けてしまうのでは……」
「ボロミアがそんなことさせませんわ、きっと」
 ね、とフィンドゥイラスが優しく声をかけると、ボロミアはソロンギルの首にしっかりと両手を巻きつけたまま首を傾げました。フィンドゥイラスは我が子の愛らしい様子に、ボロミアから明確な答えが返ってこなかったにも関わらず、満足そうに頷きます。そして控えていた侍女に、部屋を整えるように申し付けると、しっかりと子供を抱いたソロンギルの腕に、たおやかな手を重ねました。
「こちらへ、ソロンギル様。ボロミアをお部屋まで届けてくださいますわね?」
「そーんぎゅー」
 ボロミアの声に、ソロンギルはとうとう降参しました。
 ふぅとひとつ溜息を吐くと、顔を覗き込む大きな一対の瞳に眉を下げたまま微笑みかけました。
「承知致しました、フィンドゥイラス様。ただ、一緒に休むことはできませんので、ボロミア様のお側に控えさせて頂きたいと」
 導くように歩き出したフィンドゥイラスに続き、ソロンギルがそう控えめに告げました。ですがフィンドゥイラスはそんなソロンギルの言葉など、聞こえなかったふりをして、ボロミアに話しかけています。
「良かったわね、ボロミア。ソロンギル様があなたと一緒にお昼寝して下さるのですって」
「いえ、ですから、その…それはどうかと…」
「そーんぎゅー、ねんね?」
「そうですよ、ボロミア。ボロミアと一緒にお昼寝してくださるのよ」
「きゃー!」
 甲高い歓声を耳元で叫ばれ、ソロンギルは思わず顔を顰めました。フィンドゥイラスはそれを見て、また笑い声を上げました。
 微笑ましい彼らの様子を遠巻きに眺めていた兵士や侍女達は、彼らが場所を移し始めたのを見届け、各々の仕事へと戻ってゆきます。
 ボロミアのために整えられた部屋へ着くとすぐに、ボロミアは己の手で目をこすって欠伸を繰り返します。外に出ている間は陽の暖かさで気付かなかったものの、ボロミアの手はとても熱かったのです。子供が眠くなると手や頬が熱くなるというのを、ソロンギルはこのボロミアの側で過ごすようになって初めて知ったのでした。それまでソロンギルの側に子供はおりませんでしたし、また触れ合う機会もなかったのです。ですので、最初はそれに驚き、ボロミアが熱を出したと慌てていたのですが、今ではソロンギルもそのように騒ぎ立てたりはしません。ボロミアの金色の柔らかな髪をなで、ボロミアには大きすぎるベッドに横たえます。
「さぁボロミア様、お休み下さい」
「そーんぎゅー、ねんね!」
 眠そうな目を瞬き、ボロミアは自分の身体に毛布をかけるソロンギルの手をぎゅっと握り締めました。
 どうやら、フィンドゥイラスが言った言葉を信じてしまっているようです。
 ソロンギルは苦笑し、ボロミアの手をそっと離します。
「お許しを、ボロミア様。私はボロミア様をお守りするように、エクセリオン様から仰せつかったのです。一緒に休むわけにはいかないのです」
「そーんぎゅー」
「お許しを」
 ぽんぽんと軽く胸の辺りを叩いてやると、ボロミアは眠気に勝てなくなったように目を閉じました。けれどすぐにまた、そーんぎゅー、とソロンギルを呼びます。すぐ側に彼がいるのかどうか、確認をしているようでした。返事をしないと途端に泣き出してしまうので、結局ソロンギルは、早々に立ち去ることは叶わなくなったのです。
 フィンドゥイラスに助けを求めるように振り替えれば、彼女はソロンギルとボロミアのその微笑ましいやり取りを眺めながら、侍女と共にお茶の準備をしていました。ソロンギルに助け舟を出そうというつもりはまるでないようで、気付かないふりをしてにこにこと微笑んでいました。
 ソロンギルはボロミアの眠るベッドに腰を下ろし、重い瞼を、それでもなんとか押し上げようとしているボロミアに話しかけました。
「ボロミア様に、新しいご本を買ってまいりましょう」
「…ごほん…?」
「そうです。はるか昔、炎の化け物と戦ったエルフのお話を探してまいりましょう。勇敢で強く、誇り高いエルフの戦士の物語です。きっとボロミア様のお気に召すはずです」
「……えうふ」
「エルフです、ボロミア様」
「えるふ」
「そうです、ボロミア様。エルフの物語です」
「つおい?」
 ソロンギルは目を伏せると、ええ、と微笑ました。彼が物語と言ったエルフは、実はソロンギルとも縁深い人でしたので、ボロミアが興味を示したことが嬉しかったのです。
「とても強い方です。炎の化け物と戦い、一緒に谷に落ちて相打ちになってしまったのですが、エルフの戦士は甦り再び中つ国に戻ってきたのです。そのエルフの戦士の名は………」
 小さな声で囁くように話していると、とうとうボロミアは話の途中で寝息を立て始めました。
 ソロンギルは言葉を止め、じっとボロミアの顔を見つめていましたが、ボロミアが泣き出すことも、目を開くこともありません。毛布をかけなおし、額にくちづけをすると、ソロンギルはそっとベッドから立ち上がりました。
 ボロミアがお昼寝をしている間、いつもソロンギルは続きの間に控えていました。そことボロミアの部屋との間にある扉を開けておけば、ボロミアの眠っているベッドが良く見通せたのです。窓にも鍵がかかっていることを確かめ、ソロンギルはそちらへと向かいました。
「ボロミアは眠ったかしら」
 続きの間には、フィンドゥイラスと侍女がおり、小さな円卓を囲むように座り、お茶とお茶菓子とを楽しんでいました。フィンドゥイラスの気さくな人柄は、いつも付き従っている侍女を友と捉え、ささやかな休息を彼女に与えていたのでした。ソロンギルにも椅子に座るように勧め、フィンドゥイラスはすぐに手ずから紅茶を注いで差し出します。
「ありがとうございます」
「あの子は、本当にあなたがお気に入りのようです、ソロンギル様。御迷惑でなければいいのですけれど」
「迷惑などと」
 ソロンギルは一口含んだ紅茶を慌てて飲み下し、答えました。
「光栄に思います」
「公務であなたがいらっしゃらないと、あの子はそれはもう聞き分けのない子になってしまうのですよ。ねぇ」
 フィンドゥイラスが笑いながらそう水を向けたのは、ゆっくりとした仕草でお茶を飲んでいた侍女でした。彼女はフィンドゥイラスにこうしたささやかな茶会の共に誘われることに慣れているらしく、落ち着き払ったようすで、ええ、と頷きます。
「それはもう我侭なお子様になられますよ。ソロンギル様と一緒でしたら召し上がるお野菜も、全部吐き出してしまわれますものねぇ。お風呂にいれるのも一苦労で。ふてくされていらっしゃるから放っておいたら、ソロンギル様が差し上げたあの馬の玩具。あれをぎゅうっと抱きしめて眠っておいででしたもの」
「そうそう。あの玩具を取り上げたら、それはもう盛大に泣いてしまうのよね。塔の喇叭もかくやと言う勢いで」
「ええ、ええ。デネソール様が驚いて、飛び込んでこられたほどでしたわ」
 フィンドゥイラスと侍女が交互に話す、ソロンギルのいない間のボロミアの話に、ソロンギルはなんだか居心地が悪いような、それでいて誇らしいような気持ちになりました。
 ボロミアに好かれるのはこの上もなく嬉しいのですが、かといって、一介の兵士がそのように懐かれても良いものかと困惑していたのです。
 ソロンギルの気持ちを察したのでしょう。
 フィンドゥイラスは急にころりと話題を変えました。
「先程のあのエルフの戦士のお話、きっとボロミアは気に入ると思います」
「では、早速明日にでも本屋に探しに行くことにしましょう。私も随分昔に読んだ限りですので、どんな装丁か忘れてしまいましたが……」
「どんなお話ですの? わたくし、あまり戦ごとのお話には詳しくなくて…よければ話してくださらないかしら」
 フィンドゥイラスに強請られ、ソロンギルは微笑みました。
「喜んで」
 続きの間に、ソロンギルが静かに語るエルフの戦士の物語が広がります。勇ましくも激しい戦いの物語に、フィンドゥイラスと侍女は途中から身を乗り出すようにしてソロンギルの語る物語に聞き入っていました。
 隣の部屋ではボロミアが、まるで夢の中までもソロンギルと一緒にいるように、幸せそうな微笑みを浮かべて眠っています。
 窓から差し込む光はきらめきながらボロミアの小麦の穂のような金色の髪を照らし、閉じた目を彩る長いまつげを際立たせています。まだ陽にそう焼けていない肌は白く輝き、頬はまるで薔薇のように赤く染まっていました。小さな寝息は幸せに満ち、毛布の上にちょこりと出た小さな手は、大切な何かを握り締めているかのように、ぎゅっと拳の形になっています。幸福を取り零さないようにとしているかのようでした。
 ソロンギルは、フィンドゥイラスに聞かせる話の途中で、時折ボロミアの寝顔を見ては微笑みました。
 それは暖かな風の吹く、穏やかな春の日のことでした。