■ 新しい太陽

 エクセリオンの塔の上に立ち、ボロミアは頬をすり抜ける冷たい風に目を細めました。新しい年のまさに最初の一日目に当たる朝を、ボロミアは特別な思いで迎えていたのです。ゆっくり朝寝坊をしている気持ちにもなれず、そっと部屋を抜け出してきたのでした。ボロミアの部屋の扉を守る兵は、ボロミアが外に出ようとしているのを察し知っていたのか、軽装を見咎め、部屋の椅子にかかっていた暖かな毛皮のマントを、慌てて差し出したのでした。あの指輪棄却の旅の中でも身につけていたマントよりも、より暖かいものでした。それはボロミアがゴンドールへ戻ってきてから最初の冬に、体調を崩してしまったボロミアのために、ゴンドールの王陛下が自ら命じ仕立てさせたものでした。その時の騒動を思い出し、ボロミアは微笑んでそれを肩にかけました。
 マントの前を掻きあわせ、ボロミアは大きく胸を膨らませて息を吸い込みます。冬の冷たい空気が口を通り、肺へ巡ります。寒さよりも清々しさがその身を満たしました。
 細めた目で、ボロミアはゴンドールの国の東を見つめました。
 かつては忌々しいモルドールの国があり、禍々しい空気に満ちていた東の空は、しかし今は美しい朝焼けに染まっています。まだ西の空には夜が残っておりましたので、東の空から朝が夜を追い越してしまおうとしているようでした。丁度ボロミアの上が、朝と夜との境目のように、薄紫色に染まっていました。宝石のような星が、まだいくつもちかちかと瞬いています。
「…素晴らしい朝だ……」
 ボロミアはほうと溜息を吐きました。
「……新しい年を、昔のようにこうして迎えられて、幸せなことだ」
 誰も詳しい場所を知らぬ裂け谷を求め、ボロミアがゴンドールを旅立つよりも前、彼はずっとこうして、このエクセリオンの塔の上で新しい年の朝を向かえていたのでした。
 それは弟のファラミアも知らぬ秘密の儀式でした。
 古くはボロミアの祖父、エクセリオン二世がまだ幼いボロミアを連れ、ここへやってきてからの慣習なのでした。エクセリオン二世が逝去された後も、ボロミアは一人、毎年欠かさずに新しい年の新しい朝をここで迎えていたのでした。
 ただ、指輪の旅で一度命を落とした後、ゴンドールへ戻ってくるまでの間は国におらず、ゴンドールへ戻ってきてからの最初の冬は体調を崩し臥せっていたので、毎年の秘密の儀式をすることは叶わなかったのです。
 いうなれば今こそが、ボロミアにとって初めての、王がおられ共に迎える新しい年の新しい朝なのでした。
「ああ…間に合って良かった…」
 東の空には、新しい年の新しい朝に上る、新しい太陽が頭を少しだけ覗かせていました。すべてを照らす暖かなぬくもりは、徐々に徐々に、姿を山の向こうから姿を現します。寒いばかりだったボロミアの頬や手にも、新しい朝の新しい太陽の光は触れ、暖かさを分け与えてくれました。
「やぁ、見事な朝日だ」
 じんわりと感慨深く、新しい年の朝らしい朝の新しい太陽を見つめていたボロミアの背後から、のんびりとした声がかけられたのは、ボロミアがほうと息を吐いたまさにそのときでした。
 驚いて振り返ると、塔のてっぺんに出るための階段から、ひょっこりとゴンドールの王その人が顔を出していました。
「陛下!」
 アラゴルンがくれたマントに身を包み、屋上に腰を下ろしていたボロミアは、慌てて立ち上がり臣下の礼を取ろうとします。それをアラゴルンは片手で制しました。
「ああ、そのままで。それに、ボロミア。二人きりの時くらい、昔のようにアラゴルンと呼んではもらえないだろうか」
「それはできかねると、先にお伝えしたはずですが」
 ボロミアが悪戯っぽく笑いながらそう言うと、アラゴルンは王になっても代わらぬ素早い身のこなしで、ボロミアの隣に腰を下ろします。
「やれやれ、白の君には頑固なことだ」
「それがわたくしの取柄でございますれば、聡明な陛下にはご納得頂けるかと」
「またそんな他人行儀なことを言う。それよりも、こんな朝早くから寝室に姿が見えないので、驚いて探し回ってしまった」
「どうしてわたくしの寝室に陛下がこんな朝早くからおいで下さったのかは問わずにおくとして…」
 ボロミアが笑いながら洩らした言葉に、アラゴルンはあらぬ方向を見て、ああ美しい景色だな、と話を逸らそうとしています。噴き出してしまいたくなる気持ちをこらえながら、ボロミアはアラゴルンの肩をその大きな手で引き寄せました。
「さぁこちらへ、アラゴルン。あちこちを探し回ってくれたのなら、さぞかし冷えているだろう」
「ああ、実は少しばかり寒かったんだ」
 照れ隠しのようにそう笑ったアラゴルンは、ボロミアの手に導かれるがまま、彼の前へと場所を移動しました。後ろからしっかりと腕を回し、ボロミアはアラゴルンの身体を包み込みます。ボロミアの身体に合わせ、ゆったりと作られたマントは、アラゴルンを懐に包みこんでもなお、余裕がありました。
「暖かいな、これは」
 アラゴルンは自分の腹の前で組まれたボロミアの手の代わりに、ボロミアのマントの前をあわせながら、毛皮に頬を摺り寄せました。
「あなたがくれたものだ」
 アラゴルンの肩に顎を預けながら、ボロミアがそう言うと、アラゴルンは何度か目を瞬いて、そうだったかな、と首を傾げます。
「こんなに暖かいのなら、自分用にも作っておくのだったな」
 残念そうな口調が子供じみて聞こえ、ボロミアは思わず微笑みました。
「それでは今度は、私があなたに贈ろう。今の冬の間にはとても間に合わないが、次の冬には間に合うだろう。そうすれば、次の新しい年の新しい朝を、こうして二人で迎えられる」
「それはいいな、ボロミア。あんたのこれと、そっくり同じにしてくれ。うっかり間違えてしまうくらいに」
「留め金だけは別にしないと、ややこしくて仕方がないぞ」
「解ってないな、ボロミア。それがいいんだよ」
 くるりと首を曲げ、アラゴルンは存外近くにあったボロミアの顔に微笑みかけました。
「これはどちらのだったのかと、一緒にマントを脱ぎ、そしてまたつける度に迷えばいいのだ。こちらはあんたのだ、こちらは私のだと、押し付けあうのが楽しいんじゃないか」
「そう言うものなのか」
「そう言うものなんだよ」
「そうすると、アラゴルン」
 ボロミアはアラゴルンの頬に軽い音を立ててくちづけた後、目を細めました。
「どこか遠駆けにでもでかけないといけないな。共にマントを脱ぎ、共にまたつけることなど、このミナス・ティリスにいる間には、きっとないぞ」
「遠駆けか! なおの事いいじゃないか。こっそりお忍びに出よう、ボロミア。イシリエンの森でもいいし、オスギリアスでもいい。王と執政が一晩行方をくらませても、アルウェンがうまくとりなしてくれるさ」
「また妃殿下を宛てになさる……」
 ボロミアは心底呆れたというように溜息を吐き、アラゴルンのこめかみの辺りにぐりぐりと額を押し付けました。笑い声を上げるアラゴルンをしっかりと抱きしめて、ボロミアは眉間に皺を寄せます。
「妃殿下とて、我々の道楽に何度も付き合ってくださるほど、心の広い方ではありませんぞ」
「良く知っているじゃないか。あんたを独り占めしていると、すぐに怒られるんだ」
「妃殿下らしい」
 ボロミアの洩らす笑い声は、首を無理に曲げたアラゴルンの唇の内へと消えて行きました。冷たい空気に晒された二人の唇は冷たく、かさついたアラゴルンの唇の表皮を、ボロミアの熱い舌の先がちらりとあやすように舐めました。アラゴルンの歯列を辿ったあと、ゆっくりとそれは、アラゴルンの舌と絡み合います。
「……首が痛い」
 ふとアラゴルンは唇を離し、そう言って苦笑します。ボロミアもくすくすと声を洩らして笑い、また前を向いてしまったアラゴルンの首を、労わるように撫でました。
「すっかり陽も上ったのに、まるで宵のようなくちづけだったな」
「昨日は褥を共にできなかったからな」
 アラゴルンは己の前で合わせていたマントを止めている手を片方離し、腹の前で組まれているボロミアの手に触れさせます。長年剣を持ち、弓を引いてきたボロミアの手指は固くなり、胼胝もできています。それらを愛しげに撫でるアラゴルンは、かつてのモルドールを先に臨むペレンノールを見つめ、ひそやかな声で尋ねました。
「どうしてこんなに朝早く、こんな場所にきたんだ、ボロミア。まだ夜も明けぬのに、寝台に姿がないのを見た時には、古い物語のように掻き消えてしまったのかと、本当に肝を潰したぞ」
「それはすまない。ただ、これは私の昔からの習慣でね。去年は臥せっていたのでままならなかった」
「…習慣? こうしてエクセリオンの塔に登ることが?」
 心底解らないと言うような声を洩らすアラゴルンに、ボロミアは笑い声を洩らし、左様、と頷きました。
「私の祖父に幼い頃、ここへつれてきてもらったのだよ。新しい年の新しい朝の新しい太陽を、ここで二人して眺めたものだ。私と祖父、二人だけの秘密でね」
「エクセリオン様が」
 かつてアラゴルンが、ソロンギルと言う名で仕えていた執政の名を、彼は懐かしそうに口ずさみました。ぴたりとアラゴルンの首筋に頬を押し当て、ボロミアは目を閉じます。
「色々な話を聞いたものだよ」
 首筋に触れるボロミアの吐息に、アラゴルンはただ黙って彼の言葉を聞いていました。
「とは言っても、祖父が亡くなるまでの短い間だが…二人きりでここに上ることが、私にとって大事な…そう、秘密の儀式のようなものだったんだ。祖父が亡くなってからも、一人で訪れていた。そうだ、あなたの話も聞いたぞ、ソロンギル殿」
 おどけたような声に、アラゴルンは僅かに首を竦めました。
「恥ずべきことではないといいのだが」
「戦事のことは、自分で調べるといいと教えては下さらなかったのだ。あなたに私があやして頂いていた頃のことを、いくつも教えて下さった」
「手のかかる子だったよ、ボロミアは」
 マントの中でアラゴルンの指がボロミアの指に絡みます。
「歩き出してからは特に手のかかる子だった」
「あまり記憶にはないんだがな」
 照れくさそうに笑うボロミアに、それで、とアラゴルンは僅かに振り返り問いました。
「エクセリオン様に何を聞いたんだね。私がうっかりお前を落としてしまったことか? それとも護衛の任を受けながら、一緒に昼寝をしてしまったことかな?」
「いや、そうではなく……あなたが公務で国におられない間、そう、それこそ私は、とても手のかかる子供だったそうだ。あなたが側にいる時には聞き分けの良い子供だったそうなのだが……乳母が嘆いていたと聞かされたものだ」
「そう言えば、公務から戻る度に乳母殿から愚痴を聞かされたな。ボロミア様が言うことを聞いてくれないのだと」
「父よりもあなたに懐いていて、父が機嫌を損ねていたとも聞いた。祖父や乳母、他の者の誰に聞いても、私があなたに懐いていたとしか聞かなかった。祖父が亡くなって、初めてここで新しい年を迎えたとき、思ったものだよ。どうしてソロンギルはここにいてはくれぬのだろうとね。いればきっと、私と共に新しい太陽を見て下さったのに…と」
 耳元で囁かれるボロミアの声は、少しばかり悲しそうな色合いを含んでいました。アラゴルンは絡めていたボロミアの手指をぎゅっと握り締め、その時この場にいなかった己を悔いるように囁きました。
「…すまない」
 マントを押さえている手が離れ、マントがはらりとボロミアの腕を滑って石畳へ落ちます。途端に吹き抜ける冷たい風に身を竦めながらも、アラゴルンはそっと持ち上げたボロミアの手にくちづけました。
「幼いボロミアを、私は悲しませていたようだ」
「もう過ぎたことだ、アラゴルン。これからの新しい太陽を、共に迎えてくれればそれでいい」
 ぎゅっとアラゴルンの身体を抱きしめて、ボロミアはくすくすと笑いました。吹き付ける風は、身体を覆うマントがなくなってしまったせいで直接二人に吹き付けてしまいましたが、強く寄り添っていたせいで、ボロミアは一人でここに腰を下ろしたときほど寒いとは感じませんでした。
「ああ、勿論だとも、ボロミア。あなたの秘密を、私もこれからは共に持とう」
 アラゴルンの頬に、ボロミアは頬を寄せました。ぴたりとくっつけると、ぬくもりが分かち合い、暖かさも伝わります。そうしたままで、ボロミアはゆっくりと前後に身体を揺らしました。赤ん坊をあやすときに良くする仕草でした。
「では誓いのくちづけを、アラゴルン」
 少しばかり笑い声を滲ませたそれへ、お安い御用だ、とアラゴルンは笑い声を上げながら、ボロミアの腕の中でぐるりと身体を反転させました。その勢いのまま、アラゴルンはボロミアの肩を押し、予想もしていなかったボロミアは受身も取れずにどうとその場に転がってしまいます。その腹へ飛び乗り、アラゴルンはボロミアの額に唇を寄せました。
「あなたとの秘密を守ろう、私のボロミア」
 ゆっくりと優しいくちづけが触れた場所に、今度はこつんとアラゴルンの額が触れました。間近で見つめ、滲むようなアラゴルンの微笑み、ボロミアもつられ微笑みました。
 くすくすと洩らしたささやかな笑い声は、次第に大きくなり、すっかり上ってしまった太陽の輝く空に響き渡りました。
 それから後、新しい年の新しい朝の新しい太陽が昇るよりも前に、毎年、連れ立ってエクセリオンの塔へ上る王と執政の姿があったのでした。