■ 指輪物語 ■

 花曇の空の下で、あの旅の間に身に着けていたような動き良い装束姿で、アラゴルンが剣を構えていた。かつて折れたる剣と呼ばれ、養父の命によって鍛え直されたそれと交えるのは、同じく動きよい格好をしたボロミアだ。風に揺れる髪の合間から覗く額には、どちらもうっすらと汗が滲んでいた。
「しかしまぁ」
 甲高い音が立つのを、すぐ側の石造りの長椅子に腰を下ろし、弓の手入れをしているレゴラスが呆れたように眺めて呟いた。
「かれこれ二時間もずっとあの調子なんだけれど、よく飽きないものだね。よっぽど日頃の鬱憤が溜まっているのかな」
「久しぶりに身体を動かしたいとエステルが言ったので、ボロミア様が付き合って下さっているのよ。お忙しいでしょうに」
 ショールを膝にかけ、刺繍針を細い指で操っていたアルウェンがおっとりと言葉を返す。こちらもかれこれ二時間、レゴラスと共に、王と執政の身体慣らしを眺めている。
「道理でファラミアがいや〜な顔していたわけだ。大方、仕事を押し付けられたんだろうね」
「押し付けたわけではないぞ!」
 耳ざとく聞きつけたボロミアが、アラゴルンの鋭い突きを辛くも避け、代わりに剣を薙ぎ払いながら答えた。
「たまたま都合よくイシリエンから出てきたので、息抜きに付き合うようにと申し付けただけだ!」
「それを押し付けたと言うんだよ、ボロミア」
 弓の弦を張り直し、レゴラスがくすくすと笑いながら答える。
「息抜きに付き合えと言ったら、喜んでと答えたぞ!」
 振りかぶった剣を、たやすく受け止められて、ボロミアがむっと眉を寄せている。ボロミアは長年軍で若輩に教える立場にあったので、どうしても型通りにしっかりとはまった剣を使う。だがアラゴルンは野に流離っていた間に身につけた奔放な剣を使う上に、ボロミアの倍の年月を生きているだけあって、どうにも狡猾な小技を使う。それがいちいち気に障る、とボロミアが内心で思っているのを知ってか知らずか、アラゴルンは下からすくうようにボロミアの剣の鍔近くの剣身を引っかけた。
「きっとあんたの息抜きにつき合わせてもらえると思ったんだろうよ。二時間も執政の仕事をさせられて、今頃怒り心頭じゃないのか、あんたの弟君は」
「誰かと違って、私の弟はそれほど短気ではないので、心配ない」
 手から抜けかけた剣の柄をしっかりと握り締め、ボロミアが脇を締め、槍を繰り出すように剣を突いた。おっと、と軽い声を上げてぴょんと飛びのくアラゴルンに、ええいちょろちょろと鬱陶しいっ、とボロミアが歯軋りをした。
「あんたの方こそ短気じゃないのか、ボロミア。さっきから目がうつろだぞ。そろそろ無理のできん年じゃないのかね」
「それはあなたの方だろうアラゴルン。もうとうに百の齢を数えただろうに」
「いやなに、まだ若いつもりだ」
「私の倍を生きていてよく言う!」
「ではそろそろ先輩に勝ちを譲ってはどうだね。随分息が上がっているぞ」
「それとこれとは話が別だ!」
「……なんだか子供の喧嘩のようだね」
 手入れの終えた弓を傍らに置き、レゴラスが呆れた声を漏らす。最初のうちこそ、物見の見物があったものの、さすがに誰もが仕事に追われる身なので、すでに誰の目もない。親しいものばかりに囲まれ、いつにいなくくつろいだ様子の王と執政の姿に、アルウェンはにこりと頬を緩めた。
「わたくし達からすれば、エステルもボロミア様もまだまだ子供よ、レゴラス」
「確かにそうは違いないけれど、人の子にすればいい大人だろうに。ねぇ、ボロミア! そろそろ王様の相手なんかは止めにして、お茶にしないかい」
「私の相手なんかとはなんて言い草だ!」
 アラゴルンが憤って剣を下ろすと、挑みかかっていたボロミアが慌てて剣を引いてたたらを踏む。勢いあまってつんのめるボロミアをさっと差し伸べた手で支え、アラゴルンは長椅子に立てかけていた鞘へ剣を収める。
「だってそうじゃないか」
 レゴラスが頬を膨らませるので、エルフにしては珍しい表情ができあがった。ボロミアも剣を鞘へ収め、その顔にはくすくすと笑い声を漏らした。
「久しぶりに都へ帰ってきてみれば、私の大事なボロミアはずっと君につきっきりなんだから。遠駆けに誘ってみれば、仕事があるって断られて、私の相手もしてほしいものだね」
 レゴラスから手布を受け取り、顔を拭うボロミアの肩に、薄曇りの空からすーっと音もなく舞い降りてきた鷹が羽をたたみとまる。ギムリと諸国漫遊の旅に出ていたレゴラスが、途中立ち寄ったロスロリアンから、ミナス・ティリスのボロミアへ手紙を送るためにロスロリアンに住まっていた鷹に手紙を託したのだ。それ以来、何がどう気に入ったのか、鷹はボロミアの行く先々についてきている。野生の鷹であったのによく人に慣れ、人を傷つけたことは一度もない。
「何しろこのところ、至急に裁可の必要な案件が多くてな…。一区切りつけば遠駆けにもでかけられようが」
「それでは区切りがつけば、皆で少し遠くへ足を伸ばしましょう。良い季節にもなって参りましたし」
「妃殿下もご一緒に?」
 鷹を乗せたまま問うボロミアに、ええ、とアルウェンはそれは綺麗に微笑んでみせる。
「わたくしも、都の外、国の中の事を目にしておきたいと思っておりますもの」「ではオスギリアスになどいかがでしょう。随分復興も進みましたし、妃殿下がお越しとなれば、オスギリアスに住まうものもみな喜びます」
「それならいっそ、私の森にまで足を伸ばしてもらえないかな。二人を歓迎したい仲間が沢山いるんだよ」
「おいおい、私は留守番かね」
 アルウェンがそれとなく目配せをした侍女が、お茶の用意一式を持って現れる。外用の円卓が運びこまれ、テーブルクロスがかけられたそれに、茶器が載せられ、ちょっとつまむのに丁度良い焼き菓子が添えられる。汗をかいたボロミアとアラゴルンのために着替えが持たれ、二人は手早く上着だけを着替え、さっぱりした顔で、持ってこられた椅子に腰を下ろした。
「留守番をしていろと言っても、ついてくるのだろう」
 おかしそうに笑いながら言うボロミアに、当然だろう、とアラゴルンは胸を張る。
「何をしでかすか解らないエルフの手から、あんたを守らなくてはな」
「心配はご無用だ、アラゴルン。私には心強い味方がいるのでな」
 ボロミアが手を挙げ撫でるのは、彼の肩で澄まして羽を休ませる鷹の首だった。穏やかな仕草のボロミアの手に、甘えるように身を摺り寄せ、くるくると鳴く。
「私の身は、ソロンギルが守ってくれよう」
「…その名前、やっぱり止めにしないか。どうも居心地が悪いんだがね」
 鷹にはやはりこの名しかあるまい、と鷹がミナス・ティリスで住まうようになってから、ボロミアはかつて祖父に仕えた英雄の名をつけた。当人が目の前にいるにも関わらずだったので、おそらくは半分嫌がらせのようなものなのだろうが、それにしても賢い鷹がソロンギルは己の名だと知って以来、そう呼ぶと来るので、ボロミアも喜んですっかりそれが定着してしまった。
 いたたまれないのは、その名でかつて呼ばれたアラゴルンだ。
「それに鷹と鷲では種類が違う」
「細かい事を気にするな、アラゴルン。それにソロンギルもその名を気に入っていると、妃殿下が教えてくださったのだ。今更変えられもしまい」
「わたくしは、エステルと言う名も良いのではないかと思うのですけれど」
「それこそ勘弁してくれ、アルウェン。今もって君がそう呼ぶのすら、くすぐったいのだから」
「ならばソロンギルと言う名は鷹に差し上げなさいな。ボロミア様を守る鷹の名ですのよ。特別なものでなければ」
「そうは言うがね、アルウェン…」
「私はどっちだっていいと思うけれど。まぁ本人がソロンギルと言う名を気に入っているのだから、良しとしようよ。ああ、ボロミア、すまないけれどそっちのブラウニーをひとつもらえないかな」
「ああ、どうぞ。生クリームは?」
「頂くよ」
 レゴラスとボロミアが、すっかりお茶を楽しみ始めたのを見て、アルウェンも刺繍の途中であったそれら一式を傍らに置いた。残された格好のアラゴルンは、ひとしきりソロンギルの名が使われることに対して文句を言った後で、お茶に加わった。
 穏やかなときを過ごす高貴な方々の上を、ふぃと羽を広げた鷹が旋回し、エクセリオンの塔のてっぺんへと登ってゆく。鷹が眼下に見下ろす光景は、いつもと変わらぬ平和で静かなものだった。

 なんだろう。アルウェンとアラゴルン、そしてレゴラスは『ボロミア様を愛でる愛好会』の会員のようですな。でもってレゴラスとアルウェンは『ボロミア様をエステルの魔の手から守る友の会』の会員のようだ。ボロアラのつもりではいるんですが、どーしてもボロアラに見えない…。そして定まらないレゴラスの一人称。『僕』なのか『私』なのか未だに悩むところです。鷹は、三月のお話の鷹をそのまま引きずりました。命名ソロンギル。他に適当なものが思いつかなかったのよ…。