■ 二十五日の夜


 夜の森の中に、焚き火の爆ぜる音が響いていた。赤い炎を眺め、側に腰を下ろしていたボロミアは知れず溜息を吐く。
「眠れないのかい?」
 梢のしなる音に顔を向けると、側にあった大木の高い枝から、軽やかにレゴラスが飛び降りたところだった。
「今宵の不寝番は僕だよ。あなたはゆっくり休むべきだ」
「どうも目が冴えてしまってな」
「人間はそれじゃあ疲れは取れないでしょう」
「生憎、私は人間の中でもとりわけ頑丈にできているんだよ、レゴラス。少しばかりのことじゃへこたれたりしないさ」
「そうは言ってもね、ボロミア」
 レゴラスはさくさくと落ち葉を踏んで近付き、ボロミアが腰を下ろしている倒木に並んで座る。傷のない綺麗な手で、レゴラスはボロミアの腕に触れた。
「あなたは指輪の誘惑に疲れきっている。休めるときに、少しでも心を休めておかないと」
 ガンダルフがモリアで落ち、ロスロリアンを出てからオークの攻撃は日に日に増すばかりだ。夜が支配する時間が彼らの活動の時間であるのに、今は昼でも襲ってくる。昼はオールを漕ぎ川を下り、休むときには陸へ上がる。その間すらも、安らぐときはない。いまだ戦い慣れないホビット達を守り、その最中にも頭に響く誘惑の声に、ボロミアは疲弊していた。
 仲間達の目が、自分を警戒し、軽蔑しているようにすら見える。疲れているからだ。指輪の誘惑がそう囁きかけているからだ。ボロミアはそう思い込もうとしていた。だが、そうすることにすらも疲れている事は事実だった。
 腕に触れたレゴラスの手から、やんわりとぬくもりが伝わる。
 ボロミアが指輪の誘惑に負けようとしているときにすらも、レゴラスは以前と変わらなかった。あたかもここが裂け谷での一時かのように屈託なく微笑み、労わってくれる。
「……私の心が、もっと強ければ」
「あなたは十分強いよ、ボロミア」
「……国を…指輪に頼らずとも守れるほどの力があれば」
「ねぇボロミア」
 レゴラスは腕に触れていた手を少しばかり動かして、ボロミアの手にそっと触れた。皮手袋の填められていない手に傷はないが、剣を持つものとして当然に指先は固くなっている。それへ触れ、レゴラスは微笑んだ。
「僕と二人きりのときくらい、それを忘れてもらえないかな」
「それ…とは?」
「国とか、指輪のこととか、ついでにアラゴルンのことも忘れちゃってよ。ボロミアはボロミアで、ゴンドールの執政の息子でもなく、今は指輪を捨てる旅の間でもない。裂け谷で、出会ったばかりの頃のように、お茶をしたり、花を見に谷の外へ出たりしていた頃だと思ってよ。言ったでしょう。僕はあなたを好きなんだ。ずっと一緒にいたいくらいに、好きなんだ。それなのに、わずかばかり一緒にいる間中ずっと、指輪のことやアラゴルンの話やゴンドールの話ばかりじゃあ、ちょっとつまらないもの。あ、ゴンドールの話は楽しいから好きだよ、アラゴルンの話はともかくとして。だからね、ええと、何が言いたいのかな。話していたら解らなくなっちゃったよ」
 一方的に捲くし立てておいて、レゴラスは困惑したように眉を寄せた。首を傾げ、弱ったな、と呟いている。
 それを目の当たりにし、ボロミアは思わず微笑んだ。
「……あなたは優しい人だ」
「そうかな」
 レゴラスはまたもや首を傾げ、それから、あっ、と声を上げた。眉間にぐっと皺を寄せると、ボロミアに潜めた声で告げる。
「言っておくけれど、あなたにだけだよ、ボロミア。万遍なく優しい人だなんて思われちゃ、たまらないよ。あなたが好きだから、好きな人には優しくしたいんだからね」
「こんなどうしようもない男を好いて下さって、有難く思っている」
「どうしようもなくなんかないよ。あなたがどんなにかすばらしい人か、僕は知ってるもの。ああ、ボロミア。お願いだから、そんなに自分を卑下しないでよ。なんだか僕まで堪らなくなってしまう。そうだ、お茶でも淹れるよ。少し待って」
 触れていたボロミアの手を離し、レゴラスは焚き火に小さな鍋をかけた。サムが大事にしているものだが、不寝番の者が茶を飲むときに使えるようにと、夜には焚き火の側に常に置いてある。決して上等とは言いがたいが香りのいい茶葉を鍋の中へ入れ、くるりと匙で混ぜる。椀に掬いいれたそれを、レゴラスはボロミアに差し出した。
「すまない」
「僕も飲みたかったからね」
 ボロミアの隣に腰を下ろしたレゴラスが、にこりと微笑む。月夜の光が当たらぬ樹木の下にひっそりと咲いている花のような微笑みに、ボロミアも目を細めた。旅に出てエルフに対する見解は多少なりとも変わったが、こう言う場面場面で出会うレゴラスのエルフたる儚げな美しさに対する賛辞は変わりようもなかった。
「ねぇボロミア」
 端の少し欠けた椀で茶を飲んでいたレゴラスが、ふと静かに唇を開いた。
「いつか、僕の森に遊びにこないかい?」
「あなたの森?」
 少し薄いような気のする茶を飲んでいると、そう、とレゴラスは頷いた。
「今は闇の森なんて呼ばれているし、裂け谷やロスロリアンに比べれば危険な場所だけれど、僕が生まれ育った森なんだよ。思い出の場所なんかもいくらかあってね。あなたを案内したいな。父や友人にも紹介したいし…あなたはきっと歓迎されるよ。エルフに好まれる気質を持っているから」
「さて…私がエルフの方々に好かれる気質かどうかはともかくとして…だが、あなたの生まれ育った森なら見てみたいな。あなたのお父上やご友人も、さぞや陽気な方々なのだろうな」
「うーん…陽気と言うよりも、変わってると言うか…。きっとボロミアは驚くと思うよ。エルロンド殿やガラドリエル様、ケレボルン様のようなイメージは抱かない方がいいかな。特に僕の父は、破天荒で何をしでかすか解らない」
「ああ、それは正しくイメージ通りだ、レゴラス。きっとあなたのお父上は、あなたと同じような方だと想像しているから」
「あれ、ちょっと待ってよ、それどう言うこと?」
 むっと眉を寄せ、首を傾げたレゴラスを見て、ボロミアが声を上げて笑った。それが存外大きな声だったので、離れた場所の木の根元で横になっていたアラゴルンがちらりと顔を挙げる。元々野伏の眠りは浅い。ボロミアが気付かぬふりをしていると、アラゴルンはまた身を横たえ穏やかな呼吸で胸を上下させた。
「僕たちの森と、あなたの国とは存外近いから、いつでも会いたい時に顔を合わせられるだろうね」
「そうだな。そんな日がくることを心の糧に、我々は今進んでいるのだから」
「遠乗りに出かけようね、ボロミア。馬を並べて、綺麗な景色を見に行こう。あなたの国の隅々も見て回りたいし、ギムリの住処も見に行くって約束したんだよ。ホビット庄も見たいね。きっと美しい生活があるんだろうな」
 椀を両手で抱え、立てた膝に乗せるようにして、レゴラスはちらちらと風に揺れる炎をじっと見つめていた。暖かな光に揺れるレゴラスの目は、まるで磨き上げられた宝石のように輝いている。
 ボロミアはその美しい光景に目を細めた。
「私はもう一度、許されれば裂け谷を訪れてみたい。この世のものとは思えないほどに美しい土地だった。私が見たのは枯葉の季節だけだ。春や、夏はどのようなものなのだろう。それに、あの地は我々が出会った場所だから」
 焚き火のくゆる光を見つめていたレゴラスが、ふっと瞬きをしてボロミアを振り返った。緑葉の瞳に微笑みかけ、ボロミアは口を開く。
「あなたに出会えて良かったと心底思っている、レゴラス。不甲斐ない私を、あなたは信じて下さる。それが、どれほどの支えになっているか、私は知り得る限りの言葉を尽くしてもあなたに説明することはできない」
「やだな、ボロミア……」
 レゴラスは唇の端を少し持ち上げ、戸惑ったように微笑んだ。
「そんなの、改めて言われるようなことじゃないよ」
 不安定に揺れるレゴラスの瞳と視線が合い、ボロミアも少し微笑んだ。
「…そうだな、そうかもしれん。だが、どうしても言いたかったんだ。あなたに」
 ああもう、とレゴラスは顔をくしゃりと歪ませて泣き笑いのように微笑んだ。椀を傍らに置き、両腕を伸ばしてボロミアの首をぎゅっと抱き締める。
「あなたはどうやったら僕の気持ちを留め置いておけるかよく知っているみたいだね、ボロミア! そんな事を言われたら、僕が天にも昇りそうな気持ちになるって解ってるかい?」
「天までは無理としても、高い梢の先までならあなたは軽々と行ってしまうだろうに」
 レゴラスの腕の中に囲われ、くぐもって聞こえる声を震わせ笑うボロミアの言葉に、まったく、とレゴラスは微笑んだ。腕を放し、真正面から見据えてくるレゴラスの目にボロミアは微笑み、すべらかな頬に唇を寄せた。
「ありがとう、レゴラス。あなたがいてくれて、本当に良かった」
 親愛の情を示すくちづけに、レゴラスも微笑む。
「それを言うのなら僕の方こそだよ、ボロミア。あなたとたくさんの約束を交わすことができて幸せだ」
「遠乗りをする約束と、闇の森とギムリの住処とホビット庄と、裂け谷を訪れることだな。他に何か付け加えるところは?」
「それならもういっそ世界中を付け加えちゃうよ。そうしたら一緒にいる時間がうんと長くなるからね」
「それは反則だ」
「楽しみだね」
「ああ、とても」
 レゴラスのくちづけがボロミアの頬に与えられた。
 柔らかな唇の感触に、ボロミアが目を伏せると閉じた瞼の上にもそれが振る。
『あなたに僕の永久の心を』
 古いエルフの言葉で囁かれ、ボロミアは不思議に首を傾げた。耳聡い野伏はしっかりと両の耳で聞きつけたのだろう。心底驚いたように飛び上がって振り返る。真ん丸に見開いた目に見据えられたボロミアが、今なんと、と尋ねるとレゴラスは目を細め、なんでもないよ、と首を振る。アラゴルンはレゴラスに睨みつけられて、すごすごとまた横になり寝息を立て始めた。
「ちょっとしたおまじないさ。宵っ張りの誰かさんがよく眠れるようにね」
「…それは、もしかしなくとも私のことかな?」
「ご名答! さぁ、早く横になってよ、ボロミア! 明日も川下りだよ。今のうちに英気を養っておかないとね」
「では先に休ませてもらおう。おやすみ、レゴラス」
「おやすみなさい、ボロミア」
 腰を上げ、使った椀を明日纏めて片付けられるように他の食器の側に置き、ボロミアは己の剣以外の荷物が置いてある木の根元へと歩いて行った。剣を常に傍らから放すことのないボロミアが、倒木の側にそれを置き忘れていることにレゴラスが気付いたのは、ボロミアがすでにマントに包まり目を閉じたところで、今更声をかけ起こす気にはならなかった。
 焚き火の明かりがどうにか、風の具合で届く頃合にいるボロミアの瞼を閉じた寝顔を見つめ、レゴラスは少し微笑む。
 他愛ないことを話し、おやすみと言って眠りにつき、おはようと言って目を覚ます。
 そんな取り立てて特別でもないことが、ずっと続きますように、とレゴラスは歌うように小さく祈った。
 それは、二月二十五日のことだった。