明智小五郎の朝

 明智小五郎の朝は、愛犬コバヤシ君との静かな朝食から始まる。
「あっ、なんだこれ! ずいぶん古い骨董品みたいですねぇ」
 届けられた新聞を読み、用意された朝食に箸をつける。大学の講義のあるなしに関わらず、必ず同じ時間に起床し、同じ時間に朝食をとり、同じ時間に身支度を整える。
「これ、何なんですか、小五郎さん。すっごい埃被ってますけど」
 静けさは人にとって何にも勝る安らぎだと、常々明智は思っていた。
「小五郎さーん? 聞こえてるんでしょ、小五郎さんってばー!」
 安らぎは人にとって、特に自分のように日々神経を使う生活をしている者には必要なものだ。
「あれ、本当に聞こえてないんですか、小五郎さん。その年で難聴ってやばいッスよ」
 とてもとても、必要なものだ。
「小五郎さーんっ!」
「うるさいっ!」
 耳元で大声を出され、さしもの明智小五郎もこめかみを引きつらせ怒鳴った。
「何度も呼ばれなくとも聞こえている!」
「だったら返事して下さいよぉ」
 ぶぅと頬を膨らませてみせる不潔ななりの男は、先日とある事件に関わった折に、不幸にも知り合ってしまった金田一耕助という探偵だ。
 一応探偵などと言っているが、仕事はないに等しく、家賃滞納で下宿先を追い出され、リヤカーを引いて明智宅に転がり込んできたのだ。事件解決までの間と言う約束で住まわせてやったのだが、だらしはないは、遠慮も配慮もないはで散々だった。後味が悪いながらも事件が解決し、ようやく金田一は出て行ったのだが、大家さんには当然いい顔をされなかったようで、行くあてがないんスよ、と悪びれもしない顔を下げて帰ってきて、それからずっと居ついている。
 それ以来、明智にとっての朝は、騒がしくにぎやかで騒々しくうるさいものになった。以前の静けさが懐かしくも恋しい。
「なぜ返事をする必要があるのかね」
 眉間に皺を寄せ、こめかみを引きつらせながらそう言えば、さぞや図太い神経が体中をめぐっているのだろう男は、しれっと答えた。
「だって答えてくんなくちゃ寂しいじゃないッスか。それに、部屋の掃除しろっつったのは小五郎さんっしょ? 物置の掃除までしてるっつーのにその言い草…」
「……なんでもするから置いてくれと泣いて頼んだのは、一体どこの誰だ」
「俺」
「だったらそれらしく、謹んで自分に与えられた仕事をしたまえ」
 着物にエプロンをし、頭にほっかむりをして、箒を右手に、西洋少女を模した磁器人形を左手に、金田一は首を傾げた。
「…結構かわいい顔してますよね」
「人の話を聞いていないのか、君は」
「いや、ふと思っただけで…良く言われません?」
 金田一が磁器人形の埃をエプロンのポケットから取り出したタオルで無造作に拭ったせいで、人形に積もっていた埃があたりに舞い散った。
 食後の紅茶を飲んでいた明智と、その膝の上で金田一のせわしない動きを眺めていたコバヤシ君が顔を顰め咽る。
 これはもう答えるまで他所へ行ってはくれないのだろうと明智は観念した。
「さぁ、どうだろうな。それは母が集めていたものだ。随分放置したままになっていたから、誰も見たことはないはずだが。気になるのなら捜してみろ。他にもあるはずだ」
 この数日の共同生活と呼ぶのも腹立たしい生活で身に染みて解った事だが、金田一と言う男は限りなくマイペースで、果てしなくしつこい。自分が気になったことはとことんまで追求しなければ気がすまないし、自分の意見を曲げることも少ない。何を考えているのか解らない飄々とした顔は、不思議と、こちらの考えている事などすべて見通しているような錯覚を与える。
 ある程度放置しておいて、それでも引き下がらない場合は素直に答えた方がいいと、明智は学んでいた。
 啜った紅茶が少し渋く、これもすべてこの馬鹿男のせいだ、と明智は眉間の皺をまた深くした。
「え、何言ってんスか。違いますよ」
 意外と長い睫を瞬かせ、素っ頓狂な声を上げ、金田一が首を振る。
「俺がかわいいって言ったのは小五郎さんのことですよ」
 わずかに渋い紅茶を、それでも口元まで運んでいた明智は、金田一の言葉に手を止めた。
「……すまない、幻聴が聞こえたようだ」
「難聴の上に幻聴ッスか。大変ッスね」
「いや、そうではなく。とうとう頭がおかしくなったのか。今度、ちゃんとした医者に見てもらいたまえ」
「や、なんて言うか…」
 手にしていた磁器人形をテーブルに置いた金田一の手が、そのまま明智の顔に伸びた。ぎょっと身を引く明智の顔から、すっと眼鏡を抜き取り、金田一はまじまじと明智の顔を眺める。
「結構綺麗な顔してますよね…かわいいっつーか、綺麗っつーか……」
「な、何を馬鹿な事を。眼鏡を返せ」
「……かなり、好みかも……」
「は?」
 間抜けな声を漏らしてしまったとは言え、仕方がないだろう。
 間近に迫った金田一に、真顔でそんな事を言われれば、誰だって思考回路が停止してしまう。眼鏡を抜き取った手にそっと頬を撫でられ、ぞっと肌が粟立つ思いだ。見開いた己の目が、間近に迫った金田一の目に映っている。驚愕の表情をする明智を見つめたままで、金田一はへらっと気の抜ける笑みを浮べた。
「口付けてもいいッスよね?」
「…はぁ?」
「んじゃ、遠慮なく……」
 ぐぐっと近付く金田一の顔を、咄嗟に明智は殴り飛ばした。それなりに危険を潜り抜けてきた明智の条件反射は、こんな時でも的確に、そして無意識に身を守ろうと動いてくれた。かなりいい音が響くのと同時に、明智の右手はじんと痺れる。床にもんどりうった金田一を見下ろし、思わず明智は後ずさった。
「何を考えているんだ、君は!」
 いってー、と呻きながら頭を抑え、身を起こす金田一はしゃあしゃあと真面目な顔で答える。
「え、そんなの小五郎さんのことに決まって……」
「馬鹿か君は! 藪から棒に何を言うんだ!」
「いや、だから小五郎さんに接吻したいなぁ…と」
「接吻とか言うな、その顔で!」
「あ、じゃあキッス? ベーゼのほうがいいですか? 熱烈な奴…」
「だ、黙れ! と言うか離せ!」
 見た目によらず敏捷に立ち上がり、後ずさる明智の腕を掴んだ金田一がふと眉を寄せた。首を傾げる仕草は、何かを考えているときの金田一の仕草だった。茫洋とした顔の内で、めまぐるしく脳細胞が活動しているのだろう。
「あれ…でも、小五郎さん……」
 金田一がそういう顔をしている時は決まって係わり合いにならないほうが懸命だった。
「……黙れとかやめろとか言う割に……嫌だとは言わないんスね」
「いや、そう言っているつもりだが…伝わっていなかったのなら申し訳ない。言い直そう。離してくれたまえ、君に口付けられるなど聞いただけでも怖気が立つ。い・や・だ!」
 最後をきっぱりと、わざわざ区切って言う明智に金田一はにやりと笑みを浮べた。
「やだなぁ、小五郎さんったら、照れちゃって」
「照れてなどいない。聞いていたのか。ちゃんと言っただろう。嫌だ、と。君は日本語が通じないのかね。いい加減離さないか」
「離しませんよ。だって離したら、小五郎さん、俺を殴るじゃないですか」
「当たり前だろう。人間の言葉が通じない相手には力で持って意思を伝えるしかないだろう。君はどうやら、その人間が通じない相手に相当するようだから。おい、何をにじり寄っている」
「あー…駄目ですよ、小五郎さん。俺に嘘吐いても、すぐばれちゃいますから。解りやすいんスよねー、小五郎さんって。よく顔に出るタイプだって言われません?」
「心外だな。そんな事を言われたのは今が初めてだ。鉄壁の無表情だと学生には言われるがな」
「あーそりゃ駄目ですね、まだまだ修行が足らんですよ、その学生どもは。んじゃ、そういうわけで…」
「何がそういうわけ……ッ!」
 ぐっと腕を掴まれた明智は力強く、そして何の配慮も遠慮もなく引き寄せられて、足先に当たった椅子の足に躓いた。たたらを踏んで転がりそうになるのを引き寄せたその腕が支える。咄嗟に突っぱねた逆の手すらも掴まれて完全に動きが封じられる。そして気付かれた時には、明智の唇には生暖かい感触が触れていた。
「なっ…ン!」
 ぎょっと身を引こうとするが明智の背はがっちりと金田一に抱えこまれてそれもままならない。ろくに抵抗できないことを良い事に、金田一の唇と舌とは本人そのもののように遠慮も配慮もなく明智の唇を貪っている。
 カッと頭に血が上ったのは、何も明智に生娘のように口付けに対して恥らがあったからではない。
 両腕を押さえられ、自由になるのは足だけだ。思い切り金田一の足に右足を振り下ろし、ぎゃっ、と叫んだ金田一の身体を全身で押し返すと、相手のみぞおちに拳を叩き込んだ。狭い場所で多少無理はあったが金田一の胸の着物の合わせを逆手に掴むと、懐に飛び込んで背を向けぐっと掴んだ胸倉を引っ張り寄せた。金田一の身体は宙に浮き、立派な調度品ばかりが並んだ壁際に派手な音を立てて落ちる。そこらで食事をとっていたコバヤシ君が大慌てでソファの下に逃げ込んだ。
「貴様! 風呂に入れと言ったのに入らなかった上に、昨日の昼から歯を磨いていないだろう! にんにくの匂いがしたぞ! 貴様が昨日の昼食べたのは確か餃子だったな! デリカシーもデリケートも持ち合わせない男にくちづけられるほど私は悪趣味ではない!」
「ってー!」
 思い切り投げ飛ばされた上に、壁際のサイドボードで強かに頭を打った金田一が悲鳴とも呻き声ともつかない声を上げている。それに見向きもせずに、明智はテーブルの上の紅茶を飲み干した。
「小五郎さん、酷いッスよー! いきなり背負い投げなんて…暴力反対!」
「では貴様の行動は暴力とは呼ばないのかね。性的暴力という言葉は知っているか。今では当たり前のように存在する言葉で言えばセクシャルハラスメントだ。訴えられたくなければ今すぐ我が家から出て行きたまえ!」
「えーそんなー」
 怒髪天を突く勢いの明智とは対照的に、金田一はのんびりとした口調で呟いて、明智の握り締めた拳がわなわなと震えていることにもさして気をした様子もなく身を起こしている。打ち付けた頭と腰とを擦り、悪びれもせずに答えた。
「だってここ追い出された行く所ないし」
「野宿でもして凍死してしまえ」
「ひっどいなー、小五郎さん。心にもない事を」
 ぱたぱたとエプロンの裾をはたき、次いで着物の裾もはたいた金田一から、もうもうと埃が立っている。ソファの下に避難していたコバヤシ君がクチャンと可愛らしいくしゃみをし、明智の苛立ちは更に募った。
「もういい。言葉の通じない相手と会話をする趣味は生憎持ち合わせていないのでな。君が出て行かないのなら私が出て行くまでだ。来たまえ、コバヤシ君。そろそろ出かける時間だ」
「あ、お帰りは何時ッスか? 飯作っときますよ」
 コバヤシ君を足元に、大学へ出勤するための身支度を整える明智の背中に、のんびりと金田一が声をかけた。今の今までなされていた会話をものともしない男の言葉に、明智のこめかみには青筋が浮く。怒鳴り返してやろうかと思ったが、時計を見ればすでに家を出なければならない時間を五分も過ぎていた。
 同じ時間に起床し、同じ時間に食事を取り、同じ時間に出勤することを毎日の生活のリズムとして身体に染み付かせていると言うのに、この男がきてからそれもままならない。
「ねぇ小五郎さん、今日の夕飯、何食いたいッスか? 俺、簡単なものなら作れますよ。そりゃ小五郎さんみたいな、バシーッとしたもんは無理ッスけど、目玉焼きとか、焼き魚とか。あ、七輪あったから庭で秋刀魚でも焼きましょうか? ねぇ、小五郎さん。あれ? 小五郎さん? また難聴ッスか? おーい…」
「やかましい! 耳元で怒鳴るな! 大体、君の作った目玉焼きと言うのはあの消し炭のことを言うのかね。だとしたらやめたまえ、我々に食を与える代償に子孫繁栄を断念した鶏に失礼だ」
 コートを羽織り、マフラーを首にかけていた明智は、周りをうろちょろする金田一を一喝するも、まったく答えていない様子に内心で肩を落としていた。鍵と鞄とを掴むと、コバヤシ君は心得たように先に歩き出す。短い足がせっせと玄関に向かうのを追いかけ、そして追い越す明智の後を、金田一も追いかけた。
「ねぇ小五郎さん! 何時に帰ってくるんスか? それまでにほら、部屋とか片付けて…風呂も沸かしておきますよ!」
 綺麗さっぱり無視をして、玄関を抜け、庭の奥に作ってあるガレージへ向かう。コバヤシ君が玄関から出る前に抱え上げ、明智は大きな歩幅でガレージへ向かった。シャッターを押し上げて助手席にコバヤシ君を下ろし、車に乗り込みエンジンをかけると、慌てて金田一が窓に張り付いた。
「ねぇ、小五郎さんったら!」
「うるさい! いつもと同じだっ!」
 サイドブレーキを下ろしながら怒鳴ると、途端に金田一はにぱっと嬉しそうな笑みを浮べる。
「解りました。んじゃ、六時ッスね」
「台所には触るな。君の壊滅的な料理など想像しただけでも吐き気がする。一切食材には触れないでくれたまえ。食材が無駄になる」
「え、じゃあ今日も小五郎さんが作ってくれるんスか? うわぁ、じゃあ俺、あれが食いたいです。ほら、前に作ってくれた炒飯。なんかふわふわしたのが乗ってる奴」
「福建炒飯だと何度言ったら理解できるんだ、その脳みそは。風呂に入って歯を磨いて、その服も洗濯しておきたまえ。帰ってきても不潔ななりだと今度こそ本気で追い出すからな」
「あ、了解ッス。いってらっしゃーい」
 邪気のないながら、内心では一体何を考えているのか解らない笑顔を浮べ、ひらひらと手を振る金田一に見送られ、車を出した明智は、家の門を抜けたところで眉間にぐっと皺を寄せた。
 昨日もこの手で家を追い出す件をうやむやにされてしまった気がする。
 それに昨日に引き続き、結局家を出たのはいつもよりも十分遅れだ。しかもあの男のよからぬ行動のせいで気分は過去最悪の下を行く程度には悪い。ああ苛々する、と大通りに車を進めた明智は、ごしごしとハンドルを握らない手で唇を擦った。
 あの厄介な男の頭の中には奇妙な虫でも沸いているのだろう。そうでなければ完治しない哀れな脳の病気にかかっているに違いない。
 餃子の味の口付けなど最悪だ。
 鬼の形相でごしごしと唇を擦り続ける明智を、助手席のコバヤシ君が不思議そうな顔で見上げていた。

2005年2月放送土曜ワイド劇場『金田一VS明智』の金田一×明智でした。つまり長瀬×松岡。DVDに関して尽力して下さった方々へv その折はどうもお世話になりました。おかげでこんな話できちゃいました(笑)。
というか、話の内容自体お粗末なものだったんですけど、設定とかキャストは大いに萌えましたね。そういうわけで、あの事件が解決したあとの二人はそれからどしたのかって所を書いてみました。要するに前と大して変わらん暮らししてたらいいなってことでこんな結果になった次第です。無自覚の攻めと無自覚の受けが恋愛したらこんな感じか…一生平行線辿りそうな気もしないでもないが、酒の勢いかなんかで一発やったらあとはラブラブだと思います。でもいくらラブラブになろうとも、金田一のルーズさが許せない明智と、明智に対する遠慮も配慮も何もない金田一のままだったらいいなと思います。ところで今、送っていただいたDVD見てるんですけど、続編とかあるのかな? だったら今度はバシッと明智さんが活躍する話でお願いしたい…(笑)。