■ TROY ■

 プティアの青い空と蒼い海を眼下におさめ、そよぐ風に金色の髪を遊ばせていたアキレスは、近付く気配と足音を敏感に感じ取り、ゆっくりと振り返った。人に背後を取られることをよしとしない英雄は、傍らに常に置いてある剣を取り上げようとはしなかった。穏やかに近付いてくる足音が、そして気配が、一体誰のものなのかよく知っていたからだ。
「あんたか」
 振り返ると、黒い巻き毛をアキレスと同じように風に遊ばせ、黒曜石のような瞳を眩しげに細めたヘクトルが、奔放に育った下草を踏みしめ近付いてくる。海よりも濃い色の衣を纏い、飾りをつけた手を腰に当て、少しばかり溜息を吐いた。
「今度こそ驚かせてやれると思ったんだがな」
 残念そうな表情を見て、思わずアキレスはくつくつと笑い声を漏らした。
「気配を殺しもしないで良く言う」
「まったくお前は猫のようだな」
 ヘクトルも同じように笑い声を上げ、アキレスが傍らを示した彼の左側へ腰を下ろした。同じように海を見下ろす瞳を横からじっと見つめ、アキレスはそっと手を伸ばす。頬に触れると、激情など知らぬような瞳がひっそりと静かにアキレスを見つめた。
「猫を?」
 短くアキレスが問うと、うん、とヘクトルが首を傾げる。その拍子に、首筋に揺れていた貝殻が高い位置にある太陽の光を弾かせ、アキレスの目に眩しくきらめいた。
「猫を飼っているのか?」
 ヘクトルはおかしそうに唇を歪めた。
「神殿に迷いこんできたのを、父上がありがたがってな。いつの頃からいるのか解らない迷い猫が、宮殿に何匹もいる」
「…見たことはないな……」
 首を傾げるアキレスに、そうだろう、とヘクトルは喉の奥で笑った。
「お前がくると、みんな逃げて行くんだ。大型の眷属がきたとでも思っているのだろう」
「そうか。今度探してみよう」
 アキレスは笑っているヘクトルの頬をぺろりと舐めながら、今度とはいつだ、と内心にひやりと注す水のような疑問に眉を寄せた。
 見た目よりもずっと柔らかなヘクトルの唇に、優しいだけのくちづけを何度も送りながら、一度抱いたら際限なく溢れ出る疑問に答え兼ねていた。
 今度とは、いつだ。
 城の中を大っぴらに歩いたことなどあったか。
 そもそも、どうして、彼がここに。
 アキレスが生まれ育ったプティアの海を、彼と共に見下ろしたいと思ったことはある。草原の先にある高台は、アキレスの幼い頃のお気に入りの場所で、付き従う従者を振り切っていつでもそこへ走って行った。夕暮れになれば、母が迎えにきて、そこにある思い出は優しいものばかりだ。
 だが、ヘクトルがここを知るはずもなく、そして今は戦乱の最中だ。
 日々戦いは続き、トロイと遠く離れたプティアはいかに目を凝らそうとも見えるはずもない。
 ああ、とヘクトルの肩に額を埋め、アキレスは目を閉じた。
「…どうした、アキレス」
 くすくすと笑うヘクトルの指先が優しく金色の髪を撫でる。髪を結ったいくつもの飾り紐のうち、ひとつだけ色の違うそれに指先が触れる。
 頭の上でヘクトルの呼吸があり、押し当てた頬に鼓動が繰り返し聞こえていた。
 アキレスがもがくように伸ばした手がヘクトルの腰に触れた。ぎゅっと抱き込むと、くすぐったい、とヘクトルが笑う。
 穏やかに笑う。
 喉の奥から、こらえきれないように漏れだす笑い声が幸福に満ちている。
「これは、夢か」
 胸に奥に染み出た冷水が、どっと雨となり降り注いでいるようだった。
 ヘクトルのぬくもりはすでに遠い。
 それは誰よりもアキレスが良く解っていた。
 何しろ、彼の命を奪いヘクトルからぬくもりを消し去ったのは、他ならぬアキレスだからだ。
 灼熱の大地に伏す彼を見た。
 こんな草原ではなく、拳のような石の露出する大地だ。胸から溢れた血は飢えた大地に染み込み消え、照りつける太陽の熱とは真逆に、彼の体躯は冷える一方だった。
 気付いた途端、ヘクトルのぬくもりが消えて行った。
 驚いて顔を上げても、そこにヘクトルはおらず、ただただ抜ける風だけがある。草原は広く、どこまでも続いているように思えたが、つい今しがたまでそこにあった彼の姿は、どこまでも続くその草原の中のどこにもなかった。
 ヘクトル、と大声で名を呼んだ。
 お前の目は海の色に似ているとそう言って微笑んだ彼を探した。
 胸の中が空っぽになった喪失感に泣き出しそうになって、そこでふっと今まで感じなかった身体に重みを感じた。
 うっすらと目を開くと、薄暗い天幕の中だった。入り口を覆う布の向こうに、ちらちらと夜明けの海が見えた。
 一瞬どこにいるのか解らず、傍らにいるはずのヘクトルを探し身を起こし、そして、ああ、と思い当たった。
「……夢か…」
 起こしていた身を、ぱったりと敷物の上に倒した。目を閉じ、痛んだ胸を押さえ、少し微笑んだ。
「………いい夢だった…」
 閉じた目尻から転がり落ちそうになる涙を、ぐいと敷物に押し付けごまかした。
 もうすぐ、夜が明ける。
 それまでの間だけでも、もう一度眠れやしないだろうかとアキレスは試みた。
 覚めたばかりの眠りはすぐに訪れたが、アキレスは二度草原の夢を見ることはなかった。




 どうあっても幸せにならんのかこの二人は…。夢見がちなアキレスが、なにやら乙女系のように思えて仕方がない。というよりも、乙女系なのか。ちょっといやかも、乙女系筋肉質英雄なんて。アキレスにはさっぱり豪傑、終わっちゃったもんは仕方ねぇよガハハハみたいな人でいてほしい。そんなアキレスがヘクトルの最期に悔やんだり落ち込んだりするのが好きです。そんな私はきっと鬼畜なのでしょう。