■ 貝殻を胸に

 休戦を締結したことを祝うための、そして示すための宴がギリシャの軍陣で催され、それに招かれたヘクトルが戻ってきたのは夜半を過ぎた頃だった。常に側にと置いている腕利きの兵士を一人連れて帰ってはきたが、残りはいまだ軍陣で行われる宴に残っている。トロイから選りすぐりの美しい女を踊り子として連れて行ったので、彼女らが舞い見せる魅惑の一時と、ギリシャ側からも差し出された美酒に酔い痴れているのだろう。
 心穏やかに、次は誰が死んだのだと心配せずとも良い日々が、僅かなときとは言え訪れたことを、いかな兵士と言えども喜びたい気持ちを、ヘクトルは咎められなかった。
 今日ばかりは開け放たれている城壁を潜り、城へと馬車を向けるヘクトルを出迎えたのは、妻と子ではなく、この無益な戦の発端を作った弟王子だった。
 神殿の階段に腰を下ろし、一人つまらなさそうに杯を弄んでいたのが、ヘクトルの馬蹄を聞きつけ顔を上げた。
「兄上!」
 ヘクトルの合図を待たずとも、ヘクトルの腹心は彼の気持ちを過たず理解していた。手綱を引き、足並み揃える二頭の馬にどうどうと声をかけながら止まらせれば、パリスは足早に馬上のヘクトルの元へ駆けてきた。
「おかえりなさい、兄上」
「ああ、ただいま、パリス。一人でこんなところで酒盛りか? ヘレンはどうしたんだ」
 戦を招いた妃の名を、ヘクトルは複雑な気持ちでいつも口に乗せる。
 エーゲ海一と歌われた美姫を前にすると、罵詈雑言が口からついて出そうになる。それは己と血を分けた弟を前にしてもそうだった。
 愛しいと思う気持ちと共に、この愚か者めと罵倒し、首の血を剣の錆にしてやりたい気持ちもあった。
 ヘクトルはそれらをうまく噛み砕き、飲み込み、穏かに装った笑みを頬に浮かべて見せる。
「兄上の帰りを待っていたんだ。僕たちだけで、宴をしたいと思って。折角の休戦だもの。兄上にも安らいでほしいから」
 ヘクトルは心底嬉しいと見えるであろう笑顔に、その顔を仕立て上げた。
「それは有難いな。だが、もう今宵は十分に酒を飲んだ。これ以上飲んでは明日も覚束ない。正直、寝台に横たわりたいんだ。だから、すまないが、パリス。今日は勘弁してもらえないか。明日また、二人だけで酒を飲もう」
 愚かで可愛い弟は、ヘクトルの言葉を真に受けたようだった。
 そう…、と気落ちした様子で溜息を吐いたが、すぐに顔を上げ、にこりと微笑む。少し下がり気味の目尻に、うっすらと皺が浮くのが愛らしい。
「じゃあ、明日、必ずね」
「ああ、明日、必ず二人きりで酒を飲もう」
 ヘクトルは頷き、一人、罰当たりにも神殿の階段で酒盛りをしていた弟に手を差し伸べた。城まで乗ってゆくかと声をかけると、ううん、とパリスは首を振る。ヘクトルは無理強いをせず、腹心に視線をくべ、馬車を進ませようとした。それを、あれ、と不思議そうなパリスの声が遮る。
「…兄上、その首飾り……今まで見たことないものだね。どうしたの?」
 パリスに言われ、ヘクトルはつと胸元に手をやった。少しばかり青い衣の上を彷徨った指先が触れたのは、薄い桃色に染まった貝殻の連なる首飾りだ。形は揃っておらず、ともすれば歪で不恰好に見えるそれが指先に与える感触に、ヘクトルは目を細めた。
「先の宴で頂いてね…。つたない手で作ってくれたんだ」
「ふぅん……誰が?」
「さて…」
 パリスの探る瞳を器用に避けたヘクトルは、無理矢理に指を貝殻から離れさせると、傍らに控える腹心の兵士の脇腹を、パリスに気付かれぬように突いた。ヘクトルの気持ちを良く理解する男は、これもまたパリスに気付かれぬよう手綱を捌き、馬を嘶かせる。足踏みをさせ、ただ留まっていることに馬がじれているように見せかけた。
「すみません、ヘクトル様。おかしいな、いつもは落ち着いている馬なのに」
 男のとぼけた言葉に、ヘクトルは軽く頷いた。
「そろそろ行かねばな。本当に乗っていかないのか、パリス」
 答えをはぐらかし、ヘクトルが誘うと、パリスも首を振った。
「うん、いいよ。おやすみなさい、兄上」
「ああ、おやすみ、パリス」
 引き絞っていた手綱を緩めると、馬は低く呻くような息を洩らした。足踏みをさせるために、多少馬に無理をさせていたのだ。抗議の声を上げられるのは仕方がない。
 ヘクトルは、神殿の前に佇むパリスの姿が、十分に遠いところにある事を確認すると、すまないな、と傍らの男に詫びた。
「助かった」
「とんでもない。こいつらもうまくやってくれました」
 男がチチと舌を鳴らすと、馬が軽く首を振った。褒められていることを十分に理解し、喜んでいる。
 男がよく手入れをし、躾をしている良い馬だ。ヘクトルは心底から微笑みを浮かべた。
「褒美にたっぷり砂糖をやっておいてくれ」
 馬車は宮殿の前でヘクトルを下ろし、厩舎へと引かれて行った。男が何がしかのねぎらいの言葉をかけながら馬を操るのを見送り、ヘクトルは肩にかけていた布を取り、くるりと腕にかける。正装には不可欠なそれも、日常生活を送るには不要のものだった。
 妻と子が眠る部屋へまず顔を出し、まだ起き、子の世話をしていた妻と一言二言の言葉を交わした後に、ヘクトルは与えられた執務をこなすのに使っている部屋へ下がった。
 二間続きの部屋は、先に述べた通り、仕事をこなすのに使う執務室と、隣に休むための部屋があった。寝台とテーブル、いくばくかの飾り物が置かれた小さな部屋だが、生活するに不足はない。寝室のバルコニーに出れば、トロイの街が眼下に見下ろせた。
 身体から青い衣を剥ぎ取り、下布一枚でヘクトルは寝台に腰掛けた。
 首から外したのは、薄い桃色の貝殻が連なる首飾りだ。それを手の中に収め、ヘクトルは息を吐いた。
 この貝殻は、アキレスが波に膝まで洗われながら拾い集めた、トロイの砂浜に埋もれていた貝殻だった。ヘクトルに何がしかの贈り物をと考えたアキレスが、母テティスの手伝いを何度かしたことがあるからと、首飾りを拵えてくれた。宴の準備のいかほどかを確かめに、ヘクトル自らが昼にギリシャの軍陣を訪れたときに、共に貝を拾い、そして共に首飾りを作った。アキレスが拾った貝殻はたくさんあり、ヘクトルのものだけではなく、アキレスのものまで作れそうだったから、不器用に紐を通すアキレスの傍らで、ヘクトルは器用にも見目美しい首飾りを作り上げていったのだった。女に差し出せば喜ぶであろうそれを、ヘクトルはアキレスの首にかけてやった。
 似合わないな、と己の首にかかった飾りを引っ張り笑う男に、それを言うなら私もだ、と言ってやった。アキレスは憮然と、あんたは似合うからいいんだ、と言い、不貞腐れたように口を尖らせていた。
 バルコニーの飾り手摺に身を預け、見下ろす先にはギリシャの軍陣を照らすたいまつの炎がいくつもあった。つい先ほどまで耳にあった賑やかさが、ここにまで聞こえてきそうだった。うまい酒を飲み、ギリシャ風の料理を食べた。腹も酔いも満ちているはずなのに、どこか空虚な気持ちがある。風が吹けば、己の身のうちで、からからと空々しい音がなるのではないかと思い、手の中の首飾りを握り締める手を、唇に寄せた。あの男からの贈り物が、あの男のように愛おしい。
 報われない恋だと、自嘲する。
 そう、恋だ。
 ヘクトルは、紛れもない恋をしていた。
 それも、愚かで悲しい恋だった。
 会いたいと思う時に会えず、抱きしめたいと願う時に側にいられない。顔を合わせるのは、互いが互いの命を狙う戦場だ。
 あの弟が、愚かな弟が、そしてあの己の身分も地位も省みないギリシャ女が巻き起こしたこの戦争の代償を、ヘクトルはその身で購っているような気がしていた。
 幼い頃からずっと、国を守るために生きてきた。自分のことは二の次で、国を、父を、民を、家族を思い生きてきた。たったひとつの、恋さえも咲かせてやることもできず、おそらくは散るであろう。
 強く握り締める手の内に、ちりと痛みが走る。貝殻の鋭利な先が掌を傷つけたのだ。手を開き、些細な痛みと傷に眉を寄せる。
 その痛みはまるで、己の中に積もった国への憤りと、本当には叶わぬ恋に対する慟哭を表したようだった。
「………アキレス…」
 ひそかに舌に乗せた名に、涙が溢れそうだった。濃い蜜のように、舌に乗せた名は口に残る。強く目を閉じ、首飾りにくちづけを寄せた。
「……まるで、物語のようだな」
 からりと小さな石が転がる音ともに、漣のような笑い声を滲ませた声が、バルコニーに響いた。
 都合のいい錯覚かと驚いて目を開けば、暗がりの中に男が立っていた。
 バルコニーの一番くらい場所に、明かりに照らされないようにと身を潜めている。金色の髪をし、黒衣を身に纏っている長身の男の首には、ヘクトルが握り締めるそれと同じものがあった。
「そう思わないか、ヘクトル」
 男は目を細めた。
 つい先ほどまで、ギリシャの軍陣の中で酒を飲み、話を交わしていた。そろそろ戻ると告げたときには、もう、と首を傾げかけ、だがその言葉を呑んだ男だ。
 ヘクトルは見開いた目を瞬いた。その拍子に転がり落ちた涙が、頬を伝い、顎から滴る。それがバルコニーの石畳をぬらすよりも前に、ヘクトルは暗がりに立つ男に駆け寄った。
「…アキレス……アキレスか?」
「他に誰が、これと同じものを?」
 ヘクトルの手の中のものにそっと触れる男の無骨な指に、ああ、とヘクトルは両腕を伸ばした。同じほどの背丈なので、首をかき抱くのも容易い。力一杯抱きしめ、ヘクトルは金色の髪に顔を埋めた。
「……どうして、ここにいるんだ」
 くぐもったヘクトルの言葉を、アキレスはその背を抱きしめながら聞いていた。
「あんたを一度は見送ったが、すぐに会いたくなった。休戦が続いている間くらい、あんたの顔を見ていたい。迷惑だったか?」
「アキレス」
 少し身を離し、ヘクトルは暗がりの中にあるアキレスの顔をじっと見つめた。
 敵軍の将であるのに、容易く城壁の中へ、それもその最深部である城へ忍び込み、いくつも抜け穴を知る男は、戦のうちでは一度もそれを使わなかった。戦が始まって、もう幾年もたつのに、それを使うのはこうしてヘクトルの部屋に忍んでくるときだけだ。
「不思議だな…アキレス」
 ヘクトルは指先でアキレスの頬を辿りながら、茫洋と呟いた。
 顔を辿る指先がくすぐったいのか、アキレスは少しばかり唇を歪めていた。
「…何が…?」
 囁くような声に、ヘクトルは微笑する。
「……私が会いたいと思うと、いつも決まって、お前がやってくる」
 ヘクトルは貝殻を持つ手のままで、そっとアキレスの頬を両手で包み込んだ。青い目が眇められ、大きな猫が寛いでいるようにも見えた。
「では今も会いたいと…?」
「会いたかったさ……。あの灯の中にお前がいるのだと目を凝らしていた」
「残念だったな」
 アキレスは笑い声を、ヘクトルの唇の上で響かせた。
 目を閉じたまま、二度、触れるだけのくちづけをした。
 額をあわせたままで、ヘクトルは青い瞳を見つめた。
「…何が、残念だと?」
「あの灯の中に、俺はいず、ここにいる」
「何が…何が残念なものか。お前に会いに、私が忍んでいこうかと考えたくらいだ」
 アキレスが少し顔を動かして、軽く唇を吸い上げた。けれど舌は唇の表皮を撫でるだけで離れていく。
「あんたは浜辺へこなくていい」
 大きな手がヘクトルの頬を撫でる。小さな子供が、誰にも内緒で持っている宝物をそっと取り出し撫でるように、アキレスの手は慎重で、そして丁寧だった。
「…なぜ」
 こなくていい、と言われ、ヘクトルが訝しく眉を寄せると、アキレスはまたささやかな触れるだけのくちづけを寄越した。
「あんたが会いたいと思ったら」
 ヘクトルの頬に、アキレスの唇が触れる。つい今しがたまで、額が触れていた額にも唇のぬくもりが触れた。
「俺が忍んでくる」
「だが、それでは…」
「いいんだ」
 目元に吐息を感じ、ヘクトルは目を閉じた。零れていた涙を舐め取り、アキレスは頬に頬を押し付けた。
「俺が忍んでくるから、あんたはこなくていい」
 抱きしめ合い、紛れもないアキレスの匂いを嗅ぎ、ぬくもりを側に感じている。
 それなのに、ヘクトルは涙が溢れて仕方がなかった。
 このままずっと、側にいる事は叶わない。
 休戦も、確かな期限がくれば、また殺し合いの日々に取って変わる。宴で親しく言葉を交わし、同じものを飲み食いし、同じ美姫の舞を愛でたことなど忘れ、戦に没頭する。
 戦のうちで顔を合わせれば、この男に刃を向ける。おそらくヘクトルは、ためらわず剣を振るだろう。そしてアキレスも、またヘクトルに刃を下ろすはずだ。どちらが生き残るかは解らないが、だが、できればヘクトルは、己の手でアキレスを殺してやりたかった。後に残るのが、この男ではあまりにも哀れでならない。
 優しい男だ。
「ヘクトル……」
 決して、泣くなとは言わずに、アキレスはヘクトルの身体を抱きしめていた。涙を拭い取ることもせず、見ぬふりをしている。気付かぬふりをしている。
 気付かぬ者は多いだろうが、アキレスは優しい男だった。
 人を慈しむ優しさを持っている男を、後に残したくはなかった。一度出会った魂の片割れを、一人残してゆきたくはなかった。
 殺しあわずにはいられない宿命の中にある己の身を、恨まずにはいられなかった。
「……アキレス」
 自分の手で涙を拭い、その上でことりとアキレスの肩に頬を預けながら、ヘクトルは呟いた。眼下に広がるトロイの町並みと、その遠い向こうにある浜辺の灯、そしては延々と続く海原のうねりを見つめ、男のぬくもりに目を瞬いた。
「…このまま」
 震える唇を、ヘクトルはどうにか動かした。
「……このまま、逃げ出してしまわないか…」
「…ヘクトル?」
「パリスのように…、国を捨て、逃げないか…。東へ行けば、きっと誰も知らぬ土地がある。海を渡るのは無理でも、陸地ならばずっと伝ってゆける。私とお前なら、追っ手を交わすこともできる。何もかも捨てて、アキレス、だから…」
 募らせた唇を、アキレスはそっと掌で留めた。
 間近に瞬く青い瞳から、一筋、涙が落ちるのを、ヘクトルは見開いた目で見つめた。アキレスはヘクトルの唇を掌で押さえたまま、少し微笑む。いや、微笑もうとした。だがうまくいかず失敗し、アキレスは目を伏せる。この男には決して似つかわしくないと思っていた、儚いという言葉が似合う微笑に、ヘクトルは胸を冷たい手で鷲掴みにされたような心地になった。
「…アキレス…?」
「……あんたはきっと、後悔する」
 目を伏せたままでアキレスは囁いた。岩の間から滲み出る泉のような、静かな声だった。
「国を捨てたことを、あんたは必ず後悔する。あんたと言う将がいなければ、この国は容易くギリシャに落ちるだろう。俺がいなくても、ギリシャ軍にはオデュッセウスもいる。オデュッセウスはいなくなった俺達など探さない。その隙を突いてトロイを陥落させる。あんたの愛した街や人は皆、殺される。あんたの親や兄弟、妻や、子もだ……」
 アキレスの頬に、また一筋、涙の跡ができた。それを信じられない思いで見つめるヘクトルは、彼の口から語られる、彼らが逃げればそうなるであろう未来の話に戦慄した。ヘクトルがトロイから消えるということは、国が滅びるということだ。神託を待ち、助けぬ神に縋る王や側近達では、この国を守りきれまい。脳裏に妻が殺される姿が浮かんだ。子に降りかかる断末魔の叫び声を聞いたような気がした。
 ぶるりと震えるヘクトルを抱きしめたまま、アキレスは言った。
「あんたに、後悔してほしくない」
 開いたアキレスの青い瞳が、何度か瞬き、じっとヘクトルに向けられていた。
「俺は人を愛するやり方など知らぬ戦馬鹿だ。何をどうすれば、あんたに愛されるのかも解らない。けれど俺は、あんたに後悔などさせたくない。あんたは家族思いだから、きっと家族から離れれば後悔する。そうさせたくはない…。だが」
 アキレスはそこでひとつ区切りを付くと、大きな息を吐き出した。ヘクトルの目をひたと見据え、ぎこちなく微笑んだ。だがそれもまた、先ほどと同じように失敗し、泣いているような笑っているような奇妙な顔になる。
「あんたにそう思ってもらえたのは、とても嬉しい。共に逃げてもいいと…それくらいには好きだと、言われたみたいだった」
 ヘクトルは少し微笑み、アキレスの肩に頬を寄せた。
「……初めてだったんだ」
「何がだ」
「…初めて、我儘を言った。叶わなかったがな…」
 ぎゅうと背中を抱き寄せられ、これ以上ないと言うほどに密着し、それでもヘクトルはアキレスの背に手を回した。このぬくもりと、この時を、決して忘れないようにと抱きしめた。
「……すまない」
 ヘクトルの耳元で響くアキレスの声に、ヘクトルは目を丸くした。
「なぜ謝る、アキレス。君は少しも悪くない」
「あんたの我儘を叶えたい。口に出せないあんたが思っている我儘を、全部」
 ヘクトルは顔を伏せたまま、闇に埋もれた国を眺めた。宴の酔いが抜けぬ国は、夜が更けてもなおどこかしらに明かりがある。
「…それなら、アキレス。夜が明ける直前までここにいてくれ」
「それは、我儘でもなんでもない」
「我儘だ……」
 ヘクトルは目を閉じた。
 トロイと言う国、城壁に守られた街、ヘクトルが守る民、そこから伸びる平地と、海際に佇む神殿、ギリシャ人とトロイ人とが今だけは共に踊り歌う砂浜、そこに乱立する陣屋、そしてその後に続く大きな大きな海。
 眼下に広がるそれらすべてのものを、見ないで済むように、目をきつく閉じた。じわりと目尻から滲んだ涙は、転がり落ちる前にアキレスの黒衣に吸い取られた。
「…我儘なんだ……」
 トロイの王子であることを、夜明けまでは捨てようとヘクトルは思った。
 国を捨て、弟のように愛に生きられない己への、わずかばかりの贐だった。
 それくらいは、許されるだろう。
 それくらいは、許されていいだろう。
 抱きしめるアキレスの手が動き、ヘクトルの髪を撫でた。
 ゆっくりと、労わるように穏かに、そっと撫でた。
 暖かな手のぬくもりに、そして答えなかったアキレスに、ヘクトルはすべてを許されたような気がした。