■ 貝殻の恋

 トロイの海岸の水際を、足元を波に洗わせながら歩く一人の姿があった。手に籠を持ち、時折身をかがめては小さな貝を拾い上げていく。
 何も食べるために拾っているのではない。
 美しい貝を繋ぎ合わせ、首飾りにと思っていたのだ。
「何をしている」
 ギリシャの軍陣からはわずかに離れた場所に、一人佇む姿を不審に思われたのだろうか。イタケの知将に呼び止められたアキレスは、かがめていた身を起こし、手に取った薄い桃色の貝殻を籠に入れた。
「お前が貝拾いとはな。そんなに腹が減っているのか」
 からかう調子で問うオデュッセウスに構わず、アキレスはまた身を屈め、波に転がっていた貝を拾い上げた。
「…繋いで、首飾りにしようかと」
「お前がそんな器用な真似を?」
「人は見かけには寄らんと言うだろう」
「なんでまたそんなことを。トロイの兄王子でも贈るつもりか」
 籠の中に貝を放り込んだアキレスが、その言葉に手を止めた。
 からかうために言っておきながら、オデュッセウスは自分の言った言葉が案外的を射ていたことに驚いた。休戦期とは言え、そう気軽に会える相手ではないし、なおかつ想ってどうこうなる相手でもない。王族相手に、海辺で拾った貝を繋ぎ合わせた首飾りを贈ったところで、振り向いてもらえるとは思えなかった。
 それでもアキレスは、かの兄王子に心を奪われているようだ。
 オデュッセウスは、ふむ、とひとつ唸ると、トロイの城壁を見る。ここからだと益々見上げるような高い門に見える。あれを攻め落とそうというのだから、気の長い話だ。
「今夜、休戦の証としての宴がある。休戦の証であるから、王は参加しない。だが、王の名代でおそらくヘクトルがくるだろう」
「だから、貝を拾っている」
 オデュッセウスのからかう様子にも気を削がれた風でもなく、アキレスはまた、そぞろ歩き、水の中へ手を浸す。拾った貝を足元に寄せては返す波に洗わせ、見目が良い悪いに関わらず、籠の中へと放り込んだ。
「戦以外で会うのは、久しぶりだ。話ができるといい」
 欲のないことだ、とオデュッセウスは微笑んだ。
 アキレスがヘクトルを想う様を見ていると、幼い子供の恋愛を見ているような気になる。損も得もなく、打算も騙しあいもない。ただ純粋に、相手が幸せであればと願い、自分の想いがそうなるために必要であったらと願っている。オデュッセウスが遠くに忘れてきてしまった恋を、アキレスはまだ持っていたのだ。少しばかり、羨ましい。
 願わくばヘクトルに、彼の想いが届けば良いのだが、とオデュッセウスは考えと同じに、トロイの城壁へ顔を巡らせると、ギリシャの陣屋のほど近く、砂丘の上に幾人かのトロイ人らしき姿があった。休戦を証とする宴のための使節かと思ったが、夕暮れにはまだ程遠い。それに先駆けての使者だろうか。ヘクトルが率いるトロイ軍が、休戦が仮にとは言え決まったこの時期に、奇襲をかけるとは考えられなかったので、オデュッセウスは二手に分かれた人影をぼんやりと眺めていた。
 一人別れた人影は、こちらへ向かって砂丘を降りてくる。残りのトロイ人達は、やはり何がしかの使者らしく、ギリシャの軍陣の中へと入って行った。
 歩くたびに足の甲までも沈む砂丘を、人影は慣れた足取りでゆっくりと降りてくる。顔立ちが判別できる所まで近付くと、その一人別れてやってきた男は、オデュッセウスの顔を認め、ああ、と相好を崩した。
「あなたでしたか、オデュッセウス」
「ヘクトル」
 驚き、目を見張ったオデュッセウスの声に、手を触れ合わせるほどまでに近付いてきた彼は、乱れた青い衣の裾を直し、人懐こい微笑を頬に乗せた。
「後姿では、どなたか解りませんでした」
「どうしてこちらに? 宴の刻限までにはまだ時間がありましょうに」
 オデュッセウスが折り目正しく腰を折ると、ヘクトルは慌てたようにそれを遮った。
「父が、宴に酒が足りなければ私どもからも提供すると申しましたので、足りるかと尋ねにきたのです」
「わざわざあなたがですか、ヘクトル」
 そんなものは召使にでもやらせればいいのだ。わざわざ王子自らが足を運ぶようなことではない。国が貧弱に見られてしまうと、言外に込めた気持ちに聡く気付いたヘクトルは、照れくさそうに微笑んだ。そうすると、聞いている年よりもはるかに彼は幼く見えた。
「宴の最中には会って話すこともできないかもしれないので、これを理由に城を抜け出してきたのです」
 そう言ったヘクトルが巡らした視線の先には、ヘクトルがやってきているのにも気付かず、熱心に貝を拾っているアキレスの姿があった。オデュッセウスが立ち止まっている間に、彼は随分と遠い所まで進んでいる。満潮の時間が近付いているのか、先程まではアキレスのくるぶしを覆う程度だった波も、今は膝の下辺りまで高くなっていた。気付けば、オデュッセウスの爪先にも波しぶきがかかっている。
「アキレスですか」
 何の含みもなく、ただ純粋に口から吐いて出た言葉に、ヘクトルは少しばかりためらった後、ただこくりと頷いた。
「御存知ではないかもしれませんが、スパルタでは彼に助けられました」
「ああ、和平の宴の折でしょう。あの狒々爺があなたに猥褻な言葉を投げたとか、体躯に似合わずすばやく手を出したとか、アキレスが散々憤っていたのを覚えています」
「……狒々爺と言うのは……もしかしなくとも、メネラオス殿ですか…」
「おっと、これは失礼。ついついあなたをアキレスと同じように思ってしまった」
 おどけたオデュッセウスの様子に、ヘクトルは笑い声を上げた。
 青い空に抜ける笑い声に、美しい桜色の貝殻を拾い上げたアキレスが振り返る。そしてようやく、ヘクトルの姿に気付いたらしい。珍しくも目を丸くし、ざばざばと海を蹴り分け陸へ戻ってくる。
「ヘクトル! 驚いた、いつからそこに?」
「少し前だ。宴の中では満足に話せないかと思って、少し、抜け出してきたんだ。すぐに戻らなければならないが……何をしていたか、聞いてもいいか? 夕食の材料でも探しているのか?」
 心底嬉しそうに微笑みながら、ヘクトルはアキレスが持つ籠の中に手を伸ばす。摘み上げたそれが、中身の入っていない貝殻だと気付くと、これは外れだな、とまた笑った。
 アキレスは目を細め、はにかむように呟いた。
「首飾りを……。俺はあまり器用な質ではないが、母上の手伝いを幾度かしたことがあったので、作れるかと思ったんだ」
「綺麗な貝だな」
「気に入ったか?」
「私にか?」
 驚いたように目を見張るヘクトルに、アキレスは、ああ、と頷いた。
 ヘクトルは手にしていた貝をアキレスの籠へ戻すと、その手で波に濡れていたアキレスの頬を拭ってやった。
「ああ、とても綺麗だ」
「良かった」
 オデュッセウスは、おやおや、と微笑ましい気持ちで浮かぶ笑みを隠しきれない。アキレスがヘクトルを想う様を、打算を知らぬ子供のような恋愛だと思ったが、絡み手を知らぬところも、子供のようではないか。ヘクトルに会えた事を心の底から喜んでいるのが、手に取るように解る。
 馬に蹴られる前に、いや、獅子に噛み殺される前に退散するか。
 貝殻の入った籠を手に、それを覗き込みながら、他愛のない話に頬を緩めている二人を眺めていたオデュッセウスは、踵を返した。砂丘を登るよりも、波際を陣屋へ戻るほうが、濡れはするが疲れはしない。さくさくと、軽い足音を立てて歩き始めると、あ、とヘクトルの声がそれを留めた。
「オデュッセウス殿」
 振り返り、オデュッセウスは軽く肩を竦めて見せた。ヘクトルはなぜオデュッセウスが場を離れたのか解らないと不思議そうな顔をしている。
「長々と邪魔をしては、アキレスに恨まれます。あなたにお会いするのを、随分楽しみにしているようでしたからな」
 カッと頬を赤くしたのは、アキレスではなくヘクトルだった。いたたまれないような様子で俯く様が、可愛らしい。恥らうべきアキレスは、憮然とした面持ちで、早く消えてしまえと睨みつけてくる。オデュッセウスは、後の宴で、とヘクトルへ軽く頭を下げると、ゆっくりとまた、波打ち際を歩き始めた。
 ふいに、国に残してきている妻が気にかかった。
 息災だろうか。
 大恋愛の末に貰い受けた妻だったので、遠く長く離れているのが、寂しくもあり心許なくもあった。
 だが、とオデュッセウスはギリシャの軍陣の、ひとつめの陣屋が近付いた頃、元きた道を振り返る。すでにオデュッセウスの足跡は波に浚われ、数歩前のものを残しすべて消えている。その先に、彼らの姿があった。
 ヘクトルが、アキレスの手を引いている。
 遠目にはそれしか見えず、彼らが一体どんな表情を浮かべ、どんな言葉を交わしているのかは想像するしかない。
 彼らに比べれば、とオデュッセウスは自嘲の笑みを頬に浮かべる。
 叶わぬ恋をしている彼らに比べれば、自分の恋など易しいものだ。
 また何がしかの貝を見つけたらしい。ヘクトルが身を屈め、アキレスが持つ籠へそれを入れた。繋いだ手は離れず、時折、顔が近付く。波しぶきに消されがちになる声を聞いているのか、それとも、くちづけを交わしているのか。
 僅かな時間なりとも幸福であれ、とオデュッセウスは願う。
 願わずにはいられなかった。