■ いまひとたび
 河は、美しかった。
 青々とどこまでも冴え渡り、生きるものなどない浅い底砂利を川縁に立つ者に見せている。
 さぁ、お渡りなさい、と。
 荒れ果てた地の対岸もまた、大きな石が転がり、こちらもあちらも変わらぬのではないかと思う。ただ、その向こうにある光が、我が身を惹きつけた。
 何に汚されない白い光は、時に強く、時に優しく、この脆弱なる我が身を誘っている。
 おいでなさい、と。
 私の庇護の元においでなさい、と。
 神々が住まう御元に、我らを誘うために光は揺れる。
 この河を渡れば、大いなる安息の地へと旅立てるのだ。
 争いもなく、痛みもない。憎しみも、苦しみも、悲しみも、安らぎという言葉以外は何もない地へと旅立てるのだ。
 だが、私は留まった。
 光が誘う場所の対岸に立ち、じっと待っていた。
 死出の旅の前に、父が両眼に乗せてくれた渡し賃を手に握り締め、じっとまだこぬ男を待つ。
 幾百、幾千もの兵士達が、私の横を擦り抜けて行った。見知った顔もあれば、知らぬ顔もある。早く、遅く、彼らは進む。何の迷いもなく光が導く場所へ行くために、美しく浅い河をその足で渡るのだ。戦で傷付いた身体は癒え、彼らは剣を交える前の健やかな姿で笑みさえ浮かべ、河を渡って行く。
 だが、私の姿は彼らとは違う。
 あの男に傷付けられた足や腕は血を滴らせ、止まることはない。けれど不思議と、痛いとも苦しいとも感じないのだ。足元にいつまでも流れ続ける私の血でできた血溜まりがあった。それらは石を汚し、河に入り水を汚した。青と赤とが混じり合い、薄い勿忘草の色をして、とうとうと流れて行く。
 私は、待っていた。
 私の胸に矢尻を差し込み、剣を突き立てた男を待っていた。
 いずれ、やってくるだろう。
 あの戦いを無事に生き抜けたのならそれでいい。最後の戦死者の後を追い、渡し賃を使おうと思っていたが、もしそうでなかったのなら、待っていてやらねばと思っていた。河を渡ってしまえば、二度と会えぬかも知れぬ。二度と彼に触れられぬかも知れぬ。あの、愛嬌のある笑みを見る事も叶わなくなるかも知れぬ。
 そうなる前に、今一度、彼と見えたいと願っていた。
 もう何にも属さなくて済むこの地で、彼と今一度。
 今、一度。
 父が過ぎて行く。
 スパルタの王が行く。
 多くの兵達が、過ぎ去って行く。
 血溜まりを足元に佇む私を、ある者は訝しげに、ある者は哀れみ、ある者は見ぬふりをして、通り過ぎていった。
 だがそのいずれの中にも彼の姿はない。
 彼の姿ならば、いかな群集に紛れていようとも、一目で見分ける事ができる。
 ああ彼は、彼は死ななかったのだ、と私が安堵したその時。
 同じ岸の遠くから、悠然と歩いてくる男の姿があった。
 黒い革鎧に身を包み、死してなおその手に剣を持つ誇り高き男が、ゆっくりと歩み、そして私に気付く。鈍い金色の髪が、驚きに目を見張った拍子に僅かに揺れた。
 勿忘草よりももっと空に近い色をした瞳が見開き、私を映す。
 引き結ばれていた唇がゆるりと解け、それは紛れもない微笑みを形作った。
 男が、私の名を呼ぶのが解った。
 だが、聞こえない。
 私の耳は彼に削がれ、音をなくしていたからだ。
 走り寄る男が私を抱きしめた。
 頬を辿る無骨な指が、いとおしい。
 額に触れ、頬に触れ、鼻筋に触れ、唇に触れる、彼の唇がいとおしい。
 私の名を呼ぶ、聞こえぬ彼の声がいとおしい。
 生まれた国が同じであったならば、同じ人を王と、同じ神を主と崇める者であったなら、こんなにも、悲しく想わずには済んだのかもしれない。こんなにも狂おしく焦がれはしなかったかもしれない。
 出会う事がなかったとしても、触れ合う事もなかったとしても、愛し合わなかったとしても、殺しあわずとも、良かった。
 流れた涙を拭う男の唇が、乾いていた。
 擦り合わせた男の頬が、濡れていた。
 持ち上げた私の手から、渡し賃が転がり落ち、代わりに男の革鎧に包まれた背が触れる。
 何に縛られることのない抱擁は、悲しみに満ちていたこの身を、喜びで満たしてくれる。頬に笑みを浮かべた男の顔を間近に見、幸せが指先にまで伝う。唇が開き、私の名を呼ぶ。
 それだけが、悲しくてならない。
 彼の声が聞きたかったのに。
 少し鼻にかかったような、甘ったれた子供のような声で呼ぶ、私の名が聞きたかったのに。
 今一度、彼の声を。
 彼の声を、今一度。
 死してなお叶う願いなどないと、十分すぎるほど解っているにも関わらず、彼を胸に抱き、私は願わずにはいられない。
 今一度、と。