■ ふたたび
 母が不死の河に浸し損ねた足首に、あの男の弟が放つ弓矢が突き刺さる。
 脳天を突き抜ける痛みに叫び出したくなるのを堪えたのは、目の前に彼女がいたからだ。
 ブリセウス。
 アポロン神殿に尽くす巫女。
 トロイの王族の血を引く女。
 彼と、同じ目をした、同じ髪の色をした女。
 どうしてだろうか。
 彼女に見つめられると、彼に見つめられているような気になった。抱いている時でさえ、はっきりとした愛情をブリセウスに抱きながらも、同じほどにはっきりとした思慕をあの男に感じていた。
 スパルタの王城で催された和平を祝う宴で、あの男と初めて会った。物憂げな表情で何を案じているのかはすぐに解る。不貞の弟を思っているのだろう。露台に立ち、海を眺め、知将と恐れられていたはずなのにあまりにも簡単に、あの忌まわしいスパルタの王が寄越した混ぜ物入りの酒を飲もうとした。止め、スパルタの王などにこれをやるものかと我が物にした。
 二打目が、胸を貫いた。
 段上からそれだけで射殺せそうなほどの鋭く憎しみの篭った眼差しで、あの男の弟が弓を構えている。
 できるなら。
 そう、できるのなら。
 こんな戦争など起きず、両国で取り成された和平がずっと続いていたのならば良かった。
 そうすれば、あの男を手にかける事もなく、苦しみのうちに亡骸を父王へ還す事もせずに済んだ。
 できるのなら。
 あの和平の宴へ時を巻き戻したい。
 愚かなスパルタの王の妃の寝所へ忍び込み、逃げ出そうと画策している二人を縛り上げてでも留め置いてやるのに。
 そうすれば、戦争などおきなかった。栄誉を手に入れることはなかったかもしれないが、あれを手に入れることはできた。
 すべての発端は、あの男の弟だ。
 目の前で俺を殺そうとしている男だ。
 たかだか一人の女に溺れ、数え切れないほどの未亡人を作り、無残な亡骸を自国の地に打ち捨てた愚かな男だ。
 できるなら。
 この手で殺してやりたい。
 力一杯首を跳ねてやりたい。
 ああ、そうとも。この愚かで間抜で腰抜けな男の口車に乗って、スパルタの王城を抜け出した女もろとも地中海に葬ってやりたい。
 ぎりと引き絞る弓の弦の音が聞こえ、ひゅっと矢が空を切った。三度目はそれほど痛みを感じなかった。
 無様にも地面に崩れ落ちながら、行け、と不貞の弟を見た。
 俺に、奴は殺せない。
 あの男が、我が身よりも愛した弟を、俺は殺せない。
 殺したい。
 殺してやりたい。
 切り刻んで、魚の餌にして、海の底で己が起こした所業の重大さをとくとくと気付かせてやりたい。
 俺に、あの男を殺させた恨みを、晴らしたい。
 だが、それと同じほどに、生きてほしいと願わずにはいられない。
 あれが、望んだ事だから。
 あれが、祈った事だから。
 俺は望まれれば、奴が生き延びる事に手を貸してやっただろう。だが、それももうままならない。
 生かす事もできなければ、殺すこともできず、ただ奴がするようにさせるだけだ。
 黒い髪が目の前にあった。
 ヘクトル、と、名を呼ぼうとして、そこにいるのがアポロンの巫女だと気付いた。
 泣きたくなる。
 髪の色も目の色も肌の色も髪の匂いすらも一緒なのに、ここにいるのは彼ではない。
だが、最後に見たのがこの髪で良かった。
 最後に見たのが、この目で良かった。
 最後に嗅いだのが、あれと同じ乳香のかおりで良かった。
 そして最後に、彼と同じ血を持つ女を助けられて良かった。
 不貞の弟が放つ矢がまた一打、胸を貫いた。
 躊躇うブリセウスを連れて、不貞の弟がこの場を去っていく。振り返り振り返り、あれと同じ色の瞳が何度も俺を見つめるのに、この上もない幸福を知りながら、傾ぐまま、生え揃った芝生に倒れ込んだ。
 ヘクトル。
 トロイの王子。
 お前は、この城で、この場所で、幼い頃を過ごしたのだろうか。
 お前が愛し守った街を見下ろすこの場所で、一時なりとも立ち止まった事があっただろうか。
 そうだったらいい。
 お前が踏んだ地に身体を横たえることができて、俺は嬉しい。
 あの最後のとき、見上げたお前の目と、呼吸の音を思い出し、消え行く視界で青々とした芝生を見つめる。
 ヘクトル。
 俺を殺すのが、お前の弟で良かった。
 ヘクトル。
 お前が愛した町が、燃えている。
 お前が愛した国が、滅びて行く。
 スパルタの蛮行に殺された魂が、お前がいるであろう場所へ向かって、歩み行く。
 俺も行こう。
 再び、お前をこの腕に抱くために、俺は行く。
 できるなら、ヘクトル。
 足を止め、待ってくれていると、有難い。
 お前を傷付けた事を詫びるから、待ってくれると嬉しい。
 ヘクトル。
お前の顔を姿を再び目にしたい。
 お前の声を、再び聞きたい。
 お前の匂いを嗅ぎ、お前の身体を抱きたい。
 ヘクトル。
 待っていてくれ。
 ヘクトル。
 ヘクトル。
 すぐに行く。