■ TROY ■

 古くより信仰する神の生誕祭の前後一週間ずつ、計二週間は休戦したいとギリシャからトロイへ申し入れた。その間の戦は一切禁止、私戦も禁止、それどころか小さな喧嘩すらもギリシャは禁止しているのだと説明すると、神事を前面に押し出した休戦協定にプリアモスが首を盾以外に振るわけがなかった。勿論、そうなるようにと仕向けていたので、オデュッセウスとしては想定通り、恙無く休戦を整えられた事になる。
 やれやれ、とギリシャ軍の使節として訪れていたオデュッセウスは苦笑しながら、ヘクトルの差し出したゴブレットを受け取った。使節をもてなすためにプリアモスが設けた宴の席だった。既知の間柄と言うことで、オデュッセウスの席はヘクトルの隣に据えられていた。
「我が軍の風習を受け入れてもらって、申し訳ない、ヘクトル殿」
「いや」
 知将と名高いオデュッセウスとは、ヘクトルも度々顔を合わせている。剣を交えるのではなく、言葉を交え、友好を深めていた。戦でなければもっと深い付き合いができただろうと、いつも冗談交じりに口に上らせている。
 当たり年のワインをなみなみとゴブレットに注ぎ、ヘクトルは微笑んだ。宴の開かれているテラスの端では、楽士の音にあわせ踊るトロイの踊り子の姿があった。
「それにしても、古くから信仰している神とは? アガメムノン殿までもが戦を禁止するとは、少し驚いていたんだ」
「愛の女神だよ」
 うまそうにワインを啜った後で、オデュッセウスは宴の席の隅で、面白くなさそうな仏頂面をしているアキレスの顔を見つけた。使節の護衛と称してくっついてきていたのだが、その腹の中はヘクトル会いたさで満ちているのだと策士は知っていた。騒がしくなった宴に言葉を聞き取るのが難解になり、ヘクトルがオデュッセウスの側にことさら身を寄せたのも、アキレスには気に食わなかったらしい。下手に手を出したら食い殺しかねない表情をしている男を手招きすると、渋々のように彼は腰を上げた。
「愛を司る女神の生誕祭なんだ。愛する人に、ああ、これは家族や友人なども含まれるんだが、ささやかな贈り物をして、感謝の気持ちと愛情を示す。トロイにそう言った風習は?」
「残念ながらないな。ギリシャではそんなに大々的に行われるのか?」
「アガメムノンの奥方がこの女神の熱烈な信望者でね。逆らうと怖いので、国民総出で祭りに参加するのだよ。アガメムノンもこの期間に戦をすることができないんだ」
「何しろ逆らったら、ギリシャから奥方が槍を手に飛んでくる」
 ゴブレットを片手にやってきたアキレスが、にやりとそう笑って言う。アガメムノンは嫌いだと公言しているアキレスからしてみれば、奥方の尻に敷かれ、しかも逆らえないでいる男の悪口を言うのは楽しくて仕方がないのだろう。
 ヘクトルは笑い声交じりの声に顔をあげ、相好を崩した。
「アキレス」
 やってきた男に気付いたヘクトルの表情の変化をを余すことなく見ていたオデュッセウスは、おやおや、と内心で目を丸くしていた。
 まるで花が開くように、とは使い古された言葉だが、正しくその通りにヘクトルは微笑んだ。それはまだ冬の間の、ほんの僅かな温もりの日にうっかり間違えてしまった花が凍てつく空気に晒されながらも、ほんのりと、そしてゆっくりと蕾を開く様によく似ていた。
 軽く頭を下げる仕草を挨拶に代えたアキレスは、ヘクトルの隣に勧められ腰を下ろした。
「何の話をしていたんだ」
 遠い席にいる時からずっと気になって仕方がなかったのだろう。オデュッセウスがくすくすと笑い声を上げると、アキレスはむっと口を引き結ぶ。それに気付かずにヘクトルが、機嫌よく口を開く。
「愛の女神の生誕祭の事をオデュッセウス殿に聞いていた。ささやかな贈り物をするのだとか…そうだ、アキレス。何かほしいものはないか? 私も参加してみようかと思って」
「不貞の弟の首を締め上げさせてもらいたいと言っても無理だろうな」
 休戦協定が終わった後の宴でなんて事を、とオデュッセウスは顔色を変えたが、ヘクトルはさして気にした風でもなくからからと笑い声を上げてる。
「それはできない相談だな。あれでも私の可愛い弟なんだ。他には?」
「特には何も思いつかない」
「それは困る」
 うーん、とアキレスは考え込むように口を閉じた。眉間に皺を寄せているので、知らぬ者がみたら不機嫌極まりないのだと勘違いしてしまうだろう。ヘクトルは慣れているのか気にも留めずに、あなたは何かなにだろうか、とオデュッセウスに顔を向ける。オデュッセウスはにこりと装った微笑みを浮かべた。
「休戦そのものが私にとっての贈り物だよ」
「そう言えば、戦はあまり好まれないのだったな」
「と言うよりも、早く国へ帰って妻をこの腕に抱きたいよ。アキレスと君とを見ているとそう思う」
 ヘクトルの頬にさっと朱がさしたが、オデュッセウスは親切にも気付かぬふりをしてやった。
「そうだな。当たり年のワインがいいな」
「父上の秘蔵のものが幾樽か残っているはずだ。こっそりくすねてこよう」
 ヘクトルが声を潜めてそう言うので、オデュッセウスも同じほどに声を潜め、楽しみだ、と頷いた。顔を寄せ合っていたのが気に食わなかったのか、アキレスがぐいとヘクトルの腕を引いた。オデュッセウスも釣られ顔を上げれば、アキレスがじろりと鋭い目で睨みつけてくる。肩を竦め、ゴブレットを口に寄せた。
「あんたは何がほしい?」
 ヘクトルは間近にあるアキレスの空色の瞳を覗き込みながら、微笑した。
「私にとっても、休戦そのものが贈り物だ」
「欲のない」
「そうか? 随分と欲深いと思うが。何しろ…」
 ちらりとヘクトルが意味ありげな視線を向けるので、オデュッセウスは気付いていませんよと全身で表すために、まったく違う方向へ顔を向けてやった。だから彼には見えなかったのだが、側耳だけはたてていたので、ヘクトルの潜めた声はしっかりと聞こえた。
「おおっぴらに会いに行ける」
 誰に、とは言わなかったが、オデュッセウスにはそれが誰なのか聞かずとも解った。戦の間であれば、気軽に行き来できるような間柄ではなくなるし、それどころか戦場で剣を向け、殺しあわねばならぬ関係だ。確かに休戦はヘクトルにとって贈り物に違いなかった。
 やはり、欲のない、と返しながらも随分と弾んだアキレスの声を聞きながら、オデュッセウスは遠い祖国に置いてきた妻の顔を思い出していた。


トロイもまたバレンタインがあったのかどうか不明なので、愛の女神の生誕祭とやらで誤魔化してみました。
ところがこれを書き終わった後に、February(二月)の語源はラテン語の「清め」(februarius)で、古代ローマで2月15日に清めの儀式を行っていたことに由来すると知りまして。
古代ローマって、トロイの近所じゃん?みたいな感じで、そっちをネタにした話を書けば良かった、とすこぶる後悔した次第であります。