■ TROY ■
※根暗です。ご注意下さい。




 彼と戦場で顔を合わせる度に、遠目に彼のよく目立つ金色の髪を見る度に、宴の席で彼の話題を耳にする度に、自分たちは決して交わらない平行に並んだ線の上に立っているのだと、ヘクトルは思う。
 ヘクトルは、トロイの国を守る守護神であり、トロイの国を統べる王の子であり、トロイの国の民を導く先導者である。期待され、求められ、拠り所にされることはあれども、ヘクトルにはそれが与えられなかった。生れ落ちたその時から、ヘクトルは守護神であり、王子であり、先導者だったからだ。幼い肩に責務を負い、一日一時一分と、静かに成長するその合間ですら、ヘクトルには父の期待に答えなければならない重責が纏わり付いた。
 それらのしがらみは、ヘクトルにとって捨てきれぬもので、捨てられぬものだった。望んで負ったものではないのに、手に余るほどのそれらは両手両足を拘束し、ヘクトルをトロイの外へは出してくれない。
 アキレスは、自国プティアを守る王の子であり、ギリシャ全土の誰もが知る英雄であり、女神テティスから生まれ落ちた神の子であった。比類なき強さは畏れられ、神の子と人から崇められ、人の子と神々からは生温い目で見られた。誰もアキレスの内までを知ろうとはせず、けれどアキレス自身も戦のうちで生きる事を望んでいたので、それに不足があるわけでもなかった。自分に必要なのは名声であり、愛などではないと思っていたからだ。
 初めてアキレスが心底から望んだのは、髪の毛の一本までも、涙の一滴すらまでも、トロイと言う国にがんらじがらめにされた王子だった。
 恐れ慄くような期待を一身に負い、それでも押し潰されることなく背を伸ばし、両の足でしっかりと立つヘクトルだった。逃げもせず、隠れもせず、弱音を吐きもしない。それでも、時折彼の黒い真珠の色をした瞳は、求めるようにアキレスを見た。
 視線を交わしたのは、数えるほどしかない。
 スパルタの宴で出会い、片手で数えられるだけの日を側に過ごし、別れ、そして再びトロイの地で出会った。再会した時にはもう、二人は敵で、手を取り合うことは許されなかった。
 戦のうちに会い、戦のうちに彼の姿を見た。
 ヘクトルが、自分の側ではほんの少しの間とは言え、トロイと言う国の名を忘れることができたのだと、アキレスは知っていた。
 ヘクトルもまた、アキレスが自分の側にいる間は、人を殺し得る名声を欲してはいないことを知っていた。
 二人が二人でいるごく僅かな隙間の逢瀬には、責務や、名声、寄せられる期待や科せられる使命、ましてや、互いが互いを殺しあわなければならないと言う事柄すらも、入り込むことができなかった。
 ヘクトルは知っていた。
 ヘクトルの手に頬を撫でられるほんの一瞬の間だけ、アキレスが神の子でも永久の名声を欲する英雄でもなく、ただの人として、頬を撫でるヘクトルを愛しいと思っている事を知っていた。
 アキレスもまた、知っていた。
 アキレスに抱きしめられることで、唯一、ヘクトルは王子ではなく、ただのヘクトルとして、誰に期待されることもなく、誰を守ることもなく、ただ一人のヘクトルとして、何もかもから逃げ出せる事を知っていた。
 互いは、互いに知っていた。
 言葉にせずとも、たとえ触れ合える時間が戦の続く間のほんの一握りにしかすぎなくとも、彼が自分を思っている事を知っていた。
 それでいい、とヘクトルは思う。
 目の前でアキレスは、ヘクトルが好きだった青い蒼い、海と空が交わった碧い色の瞳を一杯に見開いて、剣の刺さったヘクトルを見つめている。
 それだけでいい、とヘクトルは思う。
 ずっと寄り添えるなどとは決して思ってはいなかった。
 穏便に戦が終わり、以前のように国交が成され、頻繁にではなくとも、度々会い、愛を囁きあえるのではないかと、そんな風に期待したことなどなかった。
 どちらかが、どちらかを殺さなければならず、アキレスは決して手を緩めないだろうと思っていた。
 そして、自分は彼を殺せないだろうとも思っていた。
 妻を向かえ、子を成し、それなのに、馬鹿らしいと彼は思うかもしれないが、ヘクトルはアキレスが好きだった。
 損得なしに、彼が好きだった。
 殺せるわけがなかった。
 彼の従兄弟を、彼と思って切り裂いた時に、頭から爪先にまでが鉛になってしまったかのように感じた。胃の腑に冷水が溜まり、溺れてしまうかと思った。息ができず、恥外聞なく、アキレスであると思った彼の従兄弟の生き絶えかけた身体に縋ってしまうかと思った。
 あんな気持ちには、二度となりたくない。
 どっと、焼けた大地に膝を付く。
 見上げれば、青い目を見開いたアキレスが、荒い息を持て余し、ヘクトルを見下ろしていた。何かを言いたげに、唇を開く。そして、閉じる。ぎこちなく微かに動く彼の首が、左右に振れた。音なき声で、アキレスはヘクトルの名を呼んだ。
 途方にくれた子供のような彼を前に、ヘクトルは少し笑う。
 身体を支える事ができず、焼けた大地に倒れ伏すヘクトルは、それでもアキレスの青い目が見たかった。ヘクトルの好きな、海と空が交わる場所の色をした目だ。ヘクトルの好きなアキレスの目だ。ヘクトルを見つめたアキレスの目だ。
 あれが涙で歪む前に、悲しむことはないと伝えたかった。
 これでいいのだと言いたかった。
 お前が好きだと、告げたかった。
 交わらず、平行に並ぶ線の上に、彼らは立っていた。
 ヘクトルはトロイのヘクトルであり、アキレスはギリシャのアキレスだった。
 ただそれだけの事が、彼らを別たせたのだ。
 けれどそれは、決して逃れられず二人を縛り付ける、茨のようなしがらみだった。


いつかは書きたいと思っていたヘクトル今際の際話。拍手で書くなと自分でも言いたいんですが、『出会いと別れ』と言うテーマにはぴったりだったので。こう言う話はたまに自虐的に書きたくなります。書いてる途中で飽きてくるのが目に見えていて、書きたくなるという自虐的。ポイントはいかに短時間で書ききるか、ですな。例の連載もまだ途中だし…。連載もまた自虐的だと思い当たった今日でありました。