■ Yesterday yes a day.

 トロイの砂浜に陣を組んでどれだけの月日が経っただろうか。
 ギリシャの軍兵も、トロイの軍兵も民も国も、すでに戦に疲れ、疲弊の色を隠しきれない。日々繰り返される戦に死と血の匂いは強まる一方だ。そしてまた弔いの火も消えることがない。
 海から吹く風に身を吹かせ、アキレスは天幕の外で剣を研いでいた。何人もの喉を切り、腕を落とし、腹を裂いた剣には血が染み込み、拭っても取れぬ脂がこびりついていた。持ち鈍りのする剣をかざしながら、戦場で早く剣を研ぎたいと思っていたのだ。こんな時に、あれとかち合ったのでは運が悪い。アガメムノンの撤兵の声も聞かず、早々に戦場を離脱したのはそれが理由だった。
 赤々と燃える焚き火の側で剣を研いでいたのは、アキレスばかりではない。エウドロスを初めとした彼の部下達も熱心に研ぎ石を使っている。
 どう言うわけか今日は、アキレスの軍に攻撃が集中していた。誰の差し金かは知らないが、余計なことをしてくれたものだ。
「今日はてこずっていたな」
 からかうような声に顔を上げれば、片手にデキャンタを持ったオデュッセウスがいた。焚き火の作る光に顔を照らされ、薄い笑みを浮かべている。油断のならない男だが、信頼の置ける男でもある。アキレスが顎をしゃくって自分の傍らを示せば、そこに座っていたパトロクロスが気を利かせて立ち上がり、何か食べるものを持ってくる、と言って宵闇に姿を消した。
「随分とお前の軍にトロイの兵が向いていたようだったが…」
「あんたも思ったか」
「おかげでこっちは楽だった」
 エウドロスが薄い笑みを浮かべていた。確かにアキレスの軍にトロイの兵が向けられたのなら、オデュッセウスはよほど楽だっただろう。いつもはアガメムノンの側にいる彼の軍に、トロイの兵は向かっていたのだから。
「…誰の差し金かは知らないが、余計なことをしてくれた。武器の手入れが面倒で仕方がない」
「そう言うな。ああ、そうだ。今日はヘクトルに会ったぞ」
 パトロクロスが、都合してきた料理と共に戻ってきた。果物の類に肉をあぶったもの、薄く伸ばして焼いたパンなど、うまそうな匂いがあたりに漂う。剣の手入れをやめ、アキレスが無言で葡萄の房を掴むと、オデュッセウスはおかしそうに目を細める。
「この間の休戦調停の際に会った限りだったからな。随分久しかった」
「……そうか」
 体躯からは想像もつかないほど小さく相槌を打ったアキレスに、唇の端を持ち上げたオデュッセウスが問う。
「聞かないのか」
「何を」
 足元に葡萄の種と皮とを吐き捨て、アキレスはまた新しい粒を口へ放り込んだ。
「…ヘクトルだ」
「何を聞けと」
「彼がどうなったかだ」
 静かに潜められたオデュッセウスの声は、すぐ近くの天幕の側での宴の大声にかき消され、エウドロスや、ましてやパトロクロスには届かなかっただろう。焚き火の側の丸太に腰を下ろしたアキレスとオデュッセウスに、彼らは少しばかりの距離を置いていた。
 誰かが歌を歌い始めた。よく聞き知ったミュケナイの歌を一節聞いたところで、ようやくアキレスは口を開く。
「………どうなった、とは。怪我でもしたのか」
 オデュッセウスは口元に手をやって、いや、と短く答える。オデュッセウスの耳にはアキレスが息を呑む、ひゅっと言う音が聞こえた。空気を切る剣の太刀音に似ていなくもない。
「死んだのか」
 顔を向けたアキレスは、ひどく子供じみた顔をしていた。戦場で血を浴び、悪鬼のように剣を振りかざす勇ましさや、女を侍らせ長々と身を横たえる獅子のような悠然した様はどこにもない。
 オデュッセウスは彼が浮かべる表情が、何かに似ているような気がして頭を巡らせ、ようよう思いついた。戦を終え国に戻る軍の凱旋を迎える、国に残された妻や子供、親などの家族の顔だ。夫は、息子は、父は無事だろうかと、長い隊列の中にその人を探そうと必死になって目を凝らしている彼ら彼女らの表情とよく似通っている。
 少し悪ふざけが過ぎたかと、オデュッセウスは微笑んだ。
「いや。少し話をした。アガメムノンと離れていたからな。そうでなければあの煩い男は、ヘクトルを殺せと喚いていただろう」
「……何を話した」
 葡萄の一粒を口に含んだきり、咀嚼すらしなかったアキレスが、ようやく思い出したように口を動かす。
「そうだな…。次の休戦の話と……お前の軍が圧されているのを見て、アキレスが珍しいと、ヘクトルは笑っていた」
「…そうか」
 葡萄の房を皿へ戻し、アキレスはまた研ぎ石を手に取った。トロイ人の血を吸った剣から、必死で血錆をこそぎ落そうとしているようだった。
「見たかった」
 シュッシュッと青銅の上を石が刷る音に紛れ、オデュッセウスは一瞬、アキレスが何を言ったのかが聞き取れなかった。何だ、と聞き返すと、アキレスは研ぎ石を持つ手を止め、爆ぜた焚き火に顔を向ける。オデュッセウスからは横顔になったアキレスが、薄く笑んでいるように見えたのは、火の加減か、それとも錯覚だったのだろうか。
「あれが笑うのを、見たかった。もう何年も、目にしていない」
「……そうか」
「健やかだったか」
 一度吐露してしまえば、もう隠すのも億劫になったのだろう。アキレスは片膝に腕を乗せ、オデュッセウスへ顔を向ける。
「ああ」
「………そうか。ならいい」
「次の戦でかち合うように計らってやろうか」
「いや、いい」
 からかう気持ちも込めて言ったオデュッセウスの提言を、アキレスは即座に断った。なぜ、とオデュッセウスが問うよりも前に、アキレスが儚くも思える微笑みを手にした剣に落としながら呟いた。
「次に戦うのは、俺があれを殺す時だと言われている。まだ、駄目だ」
「そうか」
 何をどうしたものか、一体どうして神を怒らせたのか、アキレスには不思議でならなかった。戦えと言われたから戦い、人を殺した。人間の生き血を吸うような生活をして、せめても名が残ればと思い異国までやってきた。それとは別に思いがなかったとも言い切れない。初めて彼と目を合わせた時から心を囚われた人と、本懐が遂げられたらと思ったのも事実だ。だが、それがそれほどにまで神を怒らせることだったのだろうか。彼を殺さなければならないほどに、神を怒らせたのだろうか。
「そうか……」
 アキレスは研ぎ石を砂地に落とし、わずかに石粉のついた指先で口元を撫でた。アキレスの手から研ぎ石が離れたことに気付いたエウドロスが、視線を投げかけてきてはいたが、相手にする気にもならなかった。近くの天幕の宴の音に、部下の幾人かがこちらでもと言うように拍子を合わせている。
「……あれが…俺の話を…」
 オデュッセウスは見た。
 アキレスの、彼の口元を追おう指先がかすかに震えていた。
 微笑んだアキレスの唇がわずかに戦慄いていた。
 すべてを聞いて知っていたわけではないが、アキレスがかのトロイの世継ぎに心を惹かれているのは知っていた。宴の席であったことも、側にいたのだから知っていた。メネラオスの浅ましい欲望の対象にされたヘクトルを、アキレスが横からさらうようにして奪っていった。トロイの王子は若い男がいいのだと、散々かのスパルタの王は口さがなく辺りへ吹聴していたものだ。
 そして気付いてもいた。
 アキレスが一度として、ヘクトルの名を呼んではいないことを。
 トロイへ戦にやってきて、彼と会ったのはアポロンの神殿を落とした時だけだ。そこで何があったのかは知らないが、それからずっと、彼らはあっていない。もう何年にもなる。それでもまだ、アキレスは彼を想っていた。敵陣同士に身を置きながら、それでも彼らは想い合っているのだ。
 神は時に残酷なことをなさる、とオデュッセウスは目を伏せた。
「俺の話を………」
 大きく、身体の中にある空気をすべて吐き出してしまえるほどに大きく、息をついたアキレスが、己の顔に浮かんだ彼への思慕の情を隠すように、乱暴に口元を拭った。
 そして砂に落ちた研ぎ石を拾い上げ、やけっぱちのように剣を研ぎ始める。
「明日もまた戦だ」
 自分に言い聞かせるようなアキレスの声に、そうだな、とオデュッセウスは頷いた。パトロクロスが持ってきた炙り肉は少し冷めて固くなっていたが、食べられないことはない。犬歯で裂き、奥歯で噛み締めたオデュッセウスの目に、アキレスの金色の髪が映った。
 黒い細い布をいくつか髪飾り代わりに巻きつけている。従兄弟のパトロクロスも同じようにしているのを目にしていたオデュッセウスは、アキレスのその髪飾りのひとつが緩んでいるのに気がついた。緩んでいるというよりは、中途半端なところで結ばれていると言った方が正しいだろう。他のものが毛先までをしっかり巻き取っているのに、その一本だけは半ばで止められているのだ。
「髪飾りが緩んでいるぞ、アキレス」
 鬱々とした空気を変えたかったこともあり、オデュッセウスは努めて明るくそう声をかけた。あん、と首を傾げるアキレスに、己の髪の、アキレスの緩んでいる髪飾りと同じ場所を示して見せれば、ああ、とアキレスは頬を綻ばせてそっと手を添える。
「…いいんだ」
 小さな声は、なぜか幸福に満ちているようにオデュッセウスには思えた。思わず見入っていると、気付いたアキレスが顔を上げる。薄く儚いような笑みを向けられて、オデュッセウスは心底肝を潰した。戦ばかりに明け暮れていたあのアキレスに、そんな顔ができるとは思っていなかったせいだ。
「………これは、いいんだ」
 オデュッセウスの驚いた様子に気付き、アキレスがその視線から逃げるように俯いた。髪飾りに触れていた手を下ろし、また剣を研ぐ作業に戻る。焚き火の明かりに照らされた髪飾りが、アキレスが研ぎ石を持つ手に力を込める度に揺れる。
 何をそんな髪飾りひとつごときで幸福そうな顔を、と驚愕の境地から抜け出し内心で思っていたオデュッセウスは、アキレスが少しばかりはなれた場所にあった手布を取るのに身を伸ばした拍子に、より明るい場所に曝け出された髪飾りにはっと顔を強張らせた。
 黒衣を好むアキレスは、髪飾りもすべて黒い布紐で揃えていたはずだ。黒は血に染まらないからな、と軽口を叩いていたのも覚えていた。
 けれども、その半ばに止められた布紐だけは、夜目には黒と見間違えてしまうほどの濃い群青に染め抜かれていたのだ。
 この地を統べる国の王族達が、遠い昔、宴の席で纏っていた正礼服と同じ、それはまるで、エーゲの海を写し取ったかのような深い蒼だった。