■ La Source.

 水が滴るような音に、深い眠りをさまよっていたはずの意識が覚醒した。
 まず傍らに、妻のぬくもりがあるのを確かめ、そして息子の健やかな寝息を確かめる。部屋の中に何事も異変がないのを見て取った後、ヘクトルは枕元においてある剣を手に取り、部屋を出た。
 裸足で石畳の上を歩けば、ひたひたと冷たく静かな音が響く。
 耳を澄ませ、普段ならば決して聞こえぬはずの水が滴る音の在り処を探った。
 音の方へ、音の方へと進んで行くと、中庭を抜け、やがて宮殿の奥庭へと辿り着いた。木々が生い茂り、泉が湧き出し、王族しか立ち入ることを許されていない場所だ。どんなに日照りの続く乾季だとも、決して枯れぬ泉を囲う飾り縁に、一人の男が腰を下ろしていた。何かを物憂く思うように、泉の中に手を差し伸べている。暗がりで、その男の姿がはっきりとは解らなかったヘクトルは、だが近付いていくうちに、徐々に明らかになる男の顔に、思わず顔を顰めていた。
「…何をしている」
 剣を抜き放つこともなく、ただ手に携えて側に寄ると、トロイの城壁に囲まれ、そして幾百もの兵士達が守る城の、それも王族しか立ち入ることを許されぬ奥庭の泉の側にくつろいだ風情で腰を下ろしていた男が顔を上げた。
 金色の髪に、黒い紐で幾筋か髪を編んでいる。くつろいだ顔をしてはいるが、黒い長衣の中に隠された身体は、腕に覚えのある兵士とて太刀打ちのできぬ猛者のそれだ。
「アキレス」
 ほとほと呆れたと、ヘクトルは溜息を吐いた。
 濡れた手を軽く払い、トロイを陥落させようと日夜戦いをしかけているギリシャの将、アキレスが首を傾げた。
「眠れなくてな」
「……だからと言って、なぜここにいるんだ! ここはトロイの奥庭だぞ! 一体全体どこからどうやって忍び込んだ!」
「どこからって…この裏の城壁だ。そこの木から蔓が伝っているから、上りやすい。あんたの顔を見たかったんだが、部屋に入るわけにも行かんだろう。あんたが側にいるんだと思って、ここで時を過ごしていた」
「まったくお前は、謙虚なのか大胆なのか良く解らないな」
 肩の力を抜き、剣を鞘ごとざくりと土へ刺すと、アキレスが濡れた手を丁寧に長衣で拭い、そっと差し出してきた。アキレスの大きな手に手を取られ、ヘクトルはひやりと冷えたその感触に眉をしかめた。寝苦しいというほどではないが、それでも今宵は熱夜だ。それなのにアキレスの手は、ずっと泉につけていたのだろう。寝室で聞いたあの水の滴る音は、アキレスがその手で弾いていた水の音だったのだろう。心地よいと思うことを通り越すほどに、冷えていた。
「どうせ休戦期だ。ここまで来たのなら、部屋にまでこればよかったのに。お前なら、兵士に見つからずともこられるだろう。酒くらいは御馳走してやる」
「…あんたの子や妻がいるのにか? あんたが家族の側でくつろいでいるのにか?」
 アキレスはぐいとヘクトルの腕を引き寄せると、寝起きで暖かい身体をぎゅっと抱きしめた。自然、彼の膝の上に座らされる格好になったヘクトルは、力任せに抱きしめるアキレスから一瞬逃れようともがいたが、だが所詮足掻いても無駄なのだと諦めた。女神の子の力は、ちょっとやそっとの抗いにどうこうなるほど弱くはない。だらりと身体の力を抜くと、ぱたりとアキレスの顔がヘクトルの肩にかかる。
「……あんたの安らいでいる時間の邪魔は、したくない」
「だから部屋へこないのか?」
「…子や妻を、見たくない」
「嫉妬深いな」
「………本当は、あんたを独占したい。ギリシャの軍陣に浚って帰って、俺の陣屋に閉じ込めて、誰の目にも触れさせたくない。一晩中、俺の名を呼んでいてほしい。だが、無理だ。解っている。あんたはトロイのヘクトルで、俺はプティアのアキレスだ。添えぬ」
 金色の髪を見下ろし、ヘクトルは目を細める。
 この豪胆で勇ましく、獰猛な獅子のような男は、ヘクトルの前だけでは、飼い主の前で寛ぎ服従するように、大人しく、棘がない。ヘクトルに惚れたのだと明けたその時から、彼はずっとヘクトルのためになることだけを考え、己の身を振り分けていた。ヘクトルの妻や子、父や部下などがいる前では決して己らの関係を明かさず、誰もいない頃合を見計らってそっと忍んでくる。少しでも誰かの気配があれば、折角忍んでやってきたというのに、その苦労を惜しまずにひっそりと姿を消した。
 妻や子を思うのとは別のところで、ヘクトルはこの男が好きだった。
 何度か抱かれ、もっとこの身を与えて満足させてやりたいと思うほどに、好きだった。
 手を伸ばし、金色の髪をそっと撫でると、アキレスはヘクトルの腰に巻きつける腕に力を込めた。
「添うことができずとも、私はお前が好きだよ、アキレス。お前が忍んできてくれるから、私はお前に会うことができる」
「……迷惑ではなかったか」
「うん?」
 ヘクトルの肩に頬を当てたまま、アキレスが顔を上げる。闇の中で深い藍色の瞳に見つめられ、ヘクトルは思わず頬を緩めた。
「こうして、忍び込んで……迷惑ではなかったのか」
「お前は意外と謙虚だな」
「……あんたにだけだ」
 ヘクトルは首を伸ばすと、見上げるアキレスの額にくちづけた。まるで神に祝福を頂くように、アキレスは目を伏せていたが、ヘクトルの唇のぬくもりが離れていくと、ゆっくりと目を開く。海の色をした瞳を覆う薄い瞼が動くのを見つめ、ヘクトルは愛しい気持ちで胸を浸す。その気持ちのまま、二度目のくちづけを与えた。
「迷惑なら、とうに斬り捨てている」
「いくらあんたでも、俺は負けない」
「はは、それは頼もしいな」
「本当だぞ」
 むっつりと唇を引き結ぶアキレスの髪を、ヘクトルは片手でかき混ぜた。ひどく大人びた顔をするのかと思えば、こうして子供のような顔をする。可愛らしくて仕方がない。こんな大の男に、似合わぬことを、と思いながらも、ヘクトルは髪をかき混ぜる手を止めなかった。
「……ヘクトル、髪飾りが外れる」
 ヘクトルの手を甘んじて受け入れながらも、髪を結ぶ紐が乱れてしまうのを気にしている。ヘクトルは上機嫌で、緩んだ紐を片手で解いた。
「外れたら私が結んでやるさ」
「本当か?」
 ぱっと顔を輝かせるアキレスに、ああ、とヘクトルは笑いながら頷いた。
「それくらい簡単だ。私を不器用だと思っていたな? これでも案外と手先は器用な方なんだぞ。どれ、証明してやろうか」
 ヘクトルはそう言い、アキレスの首に回し、己の身体を支えていた手で髪に触れた。思い切りかき混ぜていたので、アキレスの髪飾りはいくつも緩んで解けてる。細い黒い紐を、どうやら捻った髪に一緒に編みこんでいるようだ。なるほど、と仔細にそれを確かめていたヘクトルは、おもむろにそれをひとつ解くと、アキレスの髪を軽く梳いた。一房手に取り、外したばかりの黒い紐を編み込んでいく。
「なんだ、簡単じゃないか」
「……俺でもできるくらいだからな」
 わずかに苦笑するアキレスを側に、ヘクトルは自分が編み上げた金色の髪を手に、しげしげと眺めた。
「それにしても、黒い紐とは味気ないな。お前ならもっと凝った紐でも使えるだろうに」
 ふたつめの房を解き、黒い紐を手に、今度はその紐をまじまじと眺めているヘクトルに、アキレスは自嘲気味な笑みを浮かべる。
「どうせ戦に出れば血に染まる飾りだ。黒なら、それ以上染まりようもないだろう」
「色気のない話だな」
 ヘクトルはそう言うと、おもむろに己の夜着の胸元を結ぶ紐を抜き取った。ヘクトルの夜着は併せに開けた穴に紐を通し編み上げて行くものだった。併せを編み留めている紐は、アキレスが髪飾りとして使っている紐と同じほどの幅のものだ。長さは少しばかり足りないかもしれないが、まぁさしあたってのことなので不足はないだろう。
「ヘクトル?」
「青でも、同じだったかな、アキレス。どうせなら派手な組紐でも使うのだったかな」
 うっすらと笑ったヘクトルは、黒い紐を己の膝の上に置き、併せから抜いた青い紐で、アキレスの髪を編んでいった。
 アキレスは髪と地肌をくすぐるヘクトルの指に、呆然と、そして陶然と感じ入りながらも、ヘクトルの顔を見上げている。
 髪を編んだヘクトルは、それを結び、ふっと微笑んだ。
「やっぱり少し足りないな。途中までしか編めなかったよ」
 アキレスを促し、編んだばかりの髪に触れさせる。確かにそれは、毛先までしっかりと包んで編んでいるほかのものと比べれば、紐の長さが足りず、途中で紐が結ばれている。
「ひとつだけこれでは、不恰好だな」
「いい」
 結んだばかりの紐を外そうとするヘクトルの手に手を重ね、アキレスがそれを止めさせた。
「…折角あんたに編んでもらった髪だ。そのままで」
「だが、随分みっともないぞ」
「いいんだ。ずっとそのままにしておく」
「だが、アキレス…」
「いいんだ」
 ヘクトルの肩に顔を埋め、アキレスはぎゅっとその身体を抱きしめた。ヘクトルの夜着の胸元が併せ紐がなくなったせいではらりとはだける。それを間近に見つめ、アキレスは伸ばしかけた手をぐっとこらえ、はだけたそれをそっと合わせた。
 こんな近くで抱きしめているのに、本当にはその身体を抱くことはできない。
 ここは、トロイの城の中で、ヘクトルが愛し愛される者が多くいる。ここが王族しか近づけぬ奥庭でなければ、とっくにアキレスの侵入は露見し、囚われているか追い出されているかもしくは見せしめに殺されていただろう。
 アキレスは、ヘクトルを大事にしたい。
 生まれた地も違えば、王と仰ぐ人も違う。頂く神々も違う。
 だが、アキレスは出会ってしまったのだ。
 愛されたいと思う人に。
 心底から愛したいと思う人に。
 添うことは叶わぬ相手だが、大事にすることならできた。慈しむことならできた。今までは戦いの中で人の命を奪うことしかできなかった自分に、ヘクトルを思いやることはできるのだ。
 ならばそれをしようと、アキレスは思った。
 ヘクトルのためにならぬことはせず、ヘクトルのためになることだけをしよう。
 戦事にそれは叶わぬが、それ以外のことならば、アキレスにはできるはずだった。
「…アキレス?」
 胸元に顔を伏せながらも、乱れた服を直し、それ以上を進めない男の名を、訝し気に呼んだ。
「……あんたが好きだ、ヘクトル」
 肩口でくぐもったアキレスの声に、ヘクトルは微笑んだ。
「大好きだ」
「光栄だな」
 ヘクトルは愛しげにアキレスの髪を撫でると、つむじにくちづけた。
「私も、お前が好きだよ」
 ぎゅうとアキレスが、ヘクトルの夜着の背を、物心つくかつかないかの頃合の子供のように握り締めた。ヘクトルの内に、縋る男を愛おしいと思う気持ちがじわりと沸き起こる。今はそれに素直に従い、ヘクトルは男の頭を胸元へ抱き寄せた。
 冷えた泉水の音が、さやさやと夜に響く。
 見るもののない奥庭に、朝の光が差し込むまでの間、寄り添う彼らの姿があった。
 その後も、わずかな憩いを求め、アキレスは度々訪れた。ヘクトルが察し現われる日もあれば、気付かずただ泉水に触れ終わる日もあった。
 それはアキレスの従兄弟パトロクロスが他ならぬヘクトルに討たれ、そしてヘクトルがアキレスの手におちるその時まで続く。
 トロイの城壁の前で剣と剣とを合わせ、彼らは戦った。だがそこにあったのは憎しみだけではない。恨みだけではない。
 手を触れ合わせ、語らい、余人には知れぬふれあいが、彼らには確かにあったのだ。