■ E amore un ladroncello.
 宴はあまり好きではなかった。
 自国のそれですら好まないと言うのに、敵陣で催される宴など、どこに何が潜んでいるのか解らない。和平を成したとは言っても、やはりここは自国トロイから海を隔てた敵国である。出された美酒にも用意された美姫たちにも、心から酔う事はできなかった。
 それにパリスの事もある。
 幾日もメネラオスの妻の寝所を訪ねている。いつ、メネラオスに知られるかとヘクトルは気が気ではなかった。
 かき鳴らされる音楽やら、口々に叫ばれる歓声やらで騒々しい部屋の中から静かに抜け、ヘクトルは露台へ逃げ出していた。片手に持ったゴブレットにはなみなみと葡萄酒が注いである。どこの誰とも知らない女がしなだれかかりながら、注いで行ったものだ。香りも色もすばらしくいいが、どこか好かない。口元に寄せ、逡巡した後、結局は露台の飾り縁へそれを遠ざけた。
「賢明だな」
 低く静かに、闇に滲むような声に、ハッとヘクトルは振り返る。咄嗟に右手が腰に下げている剣の柄に伸びる。
室内から漏れる光に眇めた目が、一人の男の姿を捕らえた。
 大きな柱に身体を預け、右手にはデキャンタを左手にはヘクトルが持つのとそっくり同じゴブレットを持っている。
「あんたのワインには、余計な物が入っている」
 しっかりと筋肉のついた体躯はがっしりとしていて素晴らしく、一隊を率いる武将クラスの軍人であろうと思わせた。身体に纏っているのは鎧ではなくローブだが、腰には使い込まれた大剣が下げられている。金色の髪は室内の光を浴び、刈り入れ時の小麦の穂のようだ。薄青い瞳がおかしそうに細められ、男はゆったりと身を起こした。
「混ぜ物?」
 眉を顰め、露台の飾り縁に乗せていたゴブレットに目をやるヘクトルに、男はゆっくりと近付いてきた。歩き方もしっかりしていて、随分酒が入っている様子であるにも関わらず、隙がない。
「さっきあんたに酒を注いだ女。あいつはメネラオスの女官だ。あんたがそのワインを飲んだら、すかさずメネラオスの寝所に連れて行かれるって寸法だ」
「……まさか」
 信じられないような悪趣味な話に、ヘクトルが近付く男を鼻で笑うと、彼は軽く肩を竦め、自分のゴブレットの酒を飲み干した。
「信じられないなら、そいつを飲むといい。古くから伝わる秘薬が、あんたを気持ち良くしてくれるだろうよ」
 ヘクトルは手にとったゴブレットの中で揺れるワインを、じっと見つめていたが、やがておもむろにそれを露台の向こうへ捨てた。
「なぜか飲む気がしなかったが……おかげで助かった。しかし、なぜ?」
 教えてくれるのだ、と言外に問うヘクトルに、男は唇の端を持ち上げ、ヘクトルがもたれる飾り縁に、ヘクトルと同じように身を預けながら、室内の明かりの方へ顔を向ける。
「自分の妻が、トロイの王子に食われているのも知らず、呑気に男漁りをしている馬鹿な男を、出し抜いてやっただけだ」
 男の口から飛び出す言葉に、ヘクトルは目を見張る。
 それは、ヘクトルとパリスだけが知る秘密だ。敵国の者にその秘密が通じているなどと、あってはならないことで、それが知られた以上、その者の口を封じてしまわなければならない。たとえ、ワインに混ぜ物がしてあると教えてくれた親切な男であってもだ。
 じわりと、ヘクトルの右手が腰に下がる剣の柄に伸びる。手に馴染んだ感触を掴むや否や鞘から抜き放ち、男の首を跳ねようとしたヘクトルの手を、男の大きく肉厚な掌がぐっと押さえ込んだ。ほんの少しだけ鞘から浮いた剣の刃が、室内の明かりを反射する。カチカチと、ヘクトルの引き抜こうとする力と、押し戻そうとする男の力に、鞘と剣とが触れ合い、震える音を立てていた。
「早まるな、プリアモスの息子ヘクトル。俺はメネラオスに告げ口するつもりなど、毛頭ない」
「なぜ。貴様は彼の兵だろう」
「俺は誰の兵でもない。あいつは、嫌いでね」
 男が、唇の端に笑いを乗せたまま言う言葉に、ヘクトルは再び目を見開く。
「……貴様…一体……」
「アキレス」
 剣の柄を掴んだヘクトルの手を、男の左手は覆ったままだった。自然と近付く身体と顔に、話す言葉は囁くようだった。
「俺の名はアキレスだ、トロイの王子ヘクトル」
「アキレス? あの、アキレスか? 貴様が?」
「多分、あんたが思ってるアキレスだ」
 おかしそうに笑い声を漏らし、アキレスはするりと撫でるように柄に触れるヘクトルの手から、その手を離した。大きな手は露台の飾り縁に乗っているデキャンタを持ちあげ、ヘクトルのゴブレットにワインを注ぐ。
「俺のワインは混ぜ物なしだ」
 自らのゴブレットにもワインを注ぎ、先にそれを口に運んで見せる。ごくりと音をたててワインを嚥下して、男は薄く息を吐いた。
「今年のワインはいい。葡萄がいいからな」
「………なぜ、弟をメネラオスに密告しない。彼が嫌いなら、アガメムノンにでも」
「告げ口してほしいのか?」
「……いや、それは困る。折角成った和平だ。今更違え、無駄に血を流したくない」
「なら気にするな。俺は、酒と女があればそれでいい」
 ヘクトルは飄々と呟く男を茫洋と眺めていたが、やがて促され、ワインを口に運ぶ。さっき混ぜ物がしてあると言われたワインと同じ物のようだが、飲みたくない、とは思わない。唇をつけると、アキレスが低い声で笑うのが聞こえた。口腔に流れ込む芳しいワインの香りを飲み込むと、アキレスの唇の端が持ち上がる。
「それにも混ぜ物がしてあったら、どうする?」
「まさか」
 慌ててゴブレットを遠ざけると、アキレスはとうとう声を上げて笑い出す。
 室内の騒動にも、彼の声は届いたようで、柱の向こうからいくつかの顔がこちらへ向くのが見えた。目を白黒させているヘクトルに、アキレスは口元に手をあてて、いやすまん、と笑いを隠さずに詫びる。
「あんた、外交には向いてないな。思った事が全部顔に出る」
「…そんな事を言われたのは初めてだが」
 憮然と呟けば、アキレスの右手が伸び、ヘクトルの黒い前髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
「何をする!」
 カッとなってその手を振り払うヘクトルに、いや、とアキレスはまだ笑みを浮かべたままで僅かに首を傾げた。
「あんたがあの、ヘクトルだとはな」
「……貴様があのアキレスだとは」
 同じ言葉を返すヘクトルに、益々アキレスは嬉しそうに微笑む。
「俺はあんたが気に入ったよ、ヘクトル。和平が成ってなによりだ。トロイと戦争でも起きたなら、あんたに剣を向けなければならなかったからな。あんたは殺すには惜しい」
「何と返事をすればいいのか、返答に困るな」
 思わず浮かべた苦笑に、アキレスは軽く顎を引き、ヘクトルの首筋に顔を突っ込んだ。
「何を」
 身体を強張らせるヘクトルに、動くなよ、とアキレスが囁く。熱い吐息が首筋に触れ、くすぐったい。
「メネラオスが見ている。あの、間抜な男め……随分悔しそうな顔をしているだろう」
 心底おかしそうに笑うアキレスの声に、ヘクトルはそれとなく室内へ目を走らせる。メネラオスは宴が始まる前に腰を下ろしていた自分の椅子に、深々と腰を下ろし、不機嫌そうに唇を引き結んでいた。厳めしい顔と一瞬目があったような気がしたが、ヘクトルは気付かなかったふりをして、他所へ顔を向けていた。
「俺があんたに手を出していると、思ったようだ。ざまあ見ろ、だ」
「弟の事を、彼に黙っていてくれるのなら」
 メネラオスの愚直した顔に悪戯心を刺激され、ヘクトルも薄く笑みを浮かべた。ゴブレットを飾り縁に乗せ、空いた手でアキレスの髪に触れる。小麦の穂のような金色の髪は、思ったよりも柔らかかった。
「あんたに協力してやろう、アキレス。メネラオスを悔しがらせてやってもいい」
「どう言う意味だ?」
 いぶかしみ顔を上げるアキレスと、身体の位置を入れ替え、ヘクトルはニッと唇の端を持ち上げた。
「こう言う意味さ」
 ヘクトルは、左手でアキレスの唇を塞いだ。眉を顰めるアキレスに構わず、己の手の甲越しに、アキレスの唇にくちづけを贈る。
 室内にいるメネラオスからは、薄暗い場所で身体を寄り添えているだけでも怪しく見えるのに、その上ヘクトルから唇を寄せているように見えるだろう。
 ヘクトルの掌に、アキレスの息が触れていた。熱く湿っているが、なぜだろうか。ヘクトルはそれが不快だとは思わなかった。いけ好かないメネラオスに一泡吹かせてやれる自分の考えが、思いの外、自分の気に入ったらしい。
 たっぷりと、深いくちづけでも交わしているかのような時間、ヘクトルは己の手の甲にくちづけをしていた。頃合を見計らって身体を離せば、アキレスが片眉を上げ、自分を見つめている。
「こう言うのでは、彼は悔しがらないだろうか?」
 アキレスが何か物言いたげな表情を浮かべているので、先手を取ってそう言えば、いや、とアキレスはヘクトルの手が離れた自分の唇を、指先でなぞって笑う。
「……血管が切れそうなくらい激怒しているようだな」
 女の悲鳴と、何か物が落ちる音が聞こえた。驚いて振り返ると、露台の入口に厳めしい顔を紅潮させたメネラオスが立っていた。手には抜き身の剣があり、彼の側近達がどうしたものやらと困惑気味の表情でメネラオスの後ろにいる。
「アキレス!」
 怒号と共に向けられた切っ先に、アキレスは溜息混じりに問うた。
「何か?」
 一国の王弟に、聊か無礼を欠いた返答ではあったが、恐らく普段からアキレスはそのような口の効き方をしているのだろう。普通なら、無礼者、とでも一蹴しそうなメネラオスの側近が、黙ったままでいた。
「ようやく口説き落としたところだ。邪魔するな」
 アキレスがヘクトルの腕を引いた。事の成り行きを案じ、肝を冷やしていたヘクトルは、突然腕を引かれ、咄嗟の事に足を踏ん張る事ができなかった。そのまま、アキレスの腕の中へ転がり込んでしまう。
「あ、す、すまない」
 慌てて身をもぎ離そうとすると、そのまま、とアキレスがヘクトルの耳元に囁いた。薄い笑みを浮かべ、まるで睦言でも囁いているかのようだ。
「あんたも俺に気のある素振りをしていてくれ。話が早い」
「離れよ、アキレス! それは俺の獲物だ!」
 酒に混ぜ物をして寝所に連れ去ろうとしたくらいだ。それはもう間違いなく、ヘクトルはメネラオスにとって充分な獲物なのだろう。あの男の頭の中で、一体どのように下劣な事をされていたのか想像し、ヘクトルはぞっと顔を引きつらせていた。
「あんたの獲物」
 ヘクトルのその心境を察したわけでもないだろうに、アキレスの手がすいと伸び、ヘクトルの黒髪に触れる。愛玩動物でも撫でるように髪を撫でたあと、巻き毛の中に指が差し入れられる。直接地肌に触れるアキレスの固い指先に、ヘクトルは狼狽した。
 ふっとメネラオスを、アキレスは鼻で笑う。
「獲物は先に狩った者の勝ちだ」
 なぁ、と囁く声は、ヘクトルの唇の中に注がれた。首裏をしっかりと押さえた大きな手に身動きがとれず、ヘクトルは思わず硬直する。目を見開き、すぐ間近にあってぼやけているアキレスの顔を眺めていると、触れるだけだった唇が離れ、アキレスが目を細めて笑う。
「くちづけの時は、目を閉じるのが礼儀だ」
 いつの間にか、身体の位置を入れ替えられていた。飾り縁を背に、アキレスの右手がヘクトルの首を抑え、左手はヘクトルが逃げられぬようにと腰に回されている。思わず上げた手で殴り飛ばそうとしたが、焦って辺りを見渡した目にメネラオスの姿が入り、ぐっと握り締めた後、諦め、アキレスの肩に乗せた。目を伏せると、いい子だ、とアキレスが笑い声を滲ませ囁く。ヘクトルの唇をアキレスの舌が舐める。言いようのない感覚が、ぴりりと足元から這い登ってきた。脊髄を通り、頭の中を犯すそれの名を、ヘクトルはとうに解っていたが気付かないふりをした。
「アキレス! 貴様、ぶち殺してくれる!」
「殿下! おやめください、殿下!」
 目を閉じたヘクトルの耳に、メネラオスの激昂する声と、それを取り成す側近の声が聞こえてきた。慌てて目を開ければ、アキレスの舌が、濡れたヘクトルの上唇をぺろりと舐めて離れていく。
「大人気ないことだ」
 ヘクトルの顎を伝うどちらのものとも知れぬ唾液を、これ見よがしに伸ばした舌で舐め、アキレスが笑う。
「折角の宴に剣を出すのが無粋なら、和平を成した国の王子に一服盛るのは何と言うのだろうな」
 のんびりと、表情だけは穏やかに告げるアキレスの言葉に、ただでさえ赤かったメネラオスの顔からさっと血の気が引いた。わかりやすい男だと、ヘクトルは思う。
「まぁ幸い、大事に至る前に俺が介抱してやったから、良かったようなものの」
「……何のことだか、解らんな、アキレス。酒に酔うて戯言を申したか」
 剣を腰の鞘へ戻し、メネラオスがふんと鼻を鳴らす。暴走する主君を止めるため、彼の身体に群がっていた側近達の手を振り払う。
「ええい、離せ、この馬鹿者どもが!」
 部下に八つ当たりとは情けない男だ、とアキレスは自分よりも僅かばかり長身のヘクトルの腰を引き寄せたままで笑う。幸いな事に、メネラオスの耳には入らなかったようだ。もし彼に聞こえていたのなら、また一騒動起こりそうで、ヘクトルは思わず眉を寄せる。
「トロイの王子の好みが、そのアキレスとは思わなかった。随分、安っぽい趣味をしておいでだ」
 アキレスからヘクトルに目をやり、メネラオスは嘲笑する。悔し紛れの言葉のようだが、どうやら何か一言返さねば立ち去ってくれないらしい。ヘクトルは薄く息を吐くと、唇にうっすらと笑みを乗せた。
「若いだけが、とりえのようではございますが、わたくしにはそれが何よりです」
「ハッ、あと数年もすれば若さだけでは満足できぬと言う事が解るようになるさ」
「さすれば数年後に、殿下にお相手願いましょう」
「精々狩った獲物に逃げられんようにするんだな、アキレス」
 満足そうに頷いて、メネラオスは踵を返した。殿下、殿下、と煩い側近達を引き連れて、彼は暗い露台から部屋の中へと戻って行く。宴の最中で突然剣を抜いて立ち上がったメネラオスに驚き、楽士たちの手は止まり、せっせと酒や食べ物を運んでいた女官は硬直していたが、戻ってきたメネラオスの機嫌が思ったほど悪くはなかったので、側近の一人に合図された楽士たちが音楽を奏ではじめると、また何事もなかったかのように宴が再開した。部屋の中からちらちらと、露台に残るヘクトルとアキレスを不躾に眺める者もあったが、さすがにあの騒ぎの中では、露台の声も届かないだろう。
 すっと眇めた目で、どこぞの小姓とも知れぬ子供に酒を注がせているメネラオスを眺めていたアキレスが、おかしそうに口を開く。
「さっきあんたに外交は向かんと言ったろう」
「ん…? ああ…そう言えば」
 おもむろに言われた言葉に、ヘクトルは記憶を探って確かにそのような事を言われた記憶があると頷いた。飾り縁に乗っていたゴブレットを持ち上げると、いまだアキレスの唇の味が残る舌を寄せる。
「撤回しよう。あんたは外交向きだ」
 ワインはゴブレットの底にわずかにしか残っていなかった。アキレスが飾り縁に置いたデキャンタを勝手に取り上げ、ゴブレットに注ぐヘクトルの横顔を、アキレスが眺めていた。
「あのメネラオスの機嫌が、二言三言で直るとはな。大したもんだ」
「幼い頃から父上の仕事をこの目で見てきている。嫌でも、どう切り返せば相手が喜ぶかは解るようになるさ」
「俺は聊か、傷付いたがな」
 片眉を上げて見せたアキレスに、何に、と本当に解らずにヘクトルは首を傾げた。
「若いだけがとりえと言われてはな。明日から女が寄ってこなくなる」
「それはすまない事をした」
 アキレスの口から出た言葉に、一瞬慌てたヘクトルだったが、アキレスが笑っているのでそれが冗談だと知る。肩の力を抜いて苦笑すれば、いやいいさ、とアキレスは機嫌良く笑って言う。
「償いとして、トロイの兄王子殿下に一晩酒に付き合っていただけるのならな」
「それくらいなら、償いでなくとも付き合おう」
 獅子のような男に懐かれるのは、悪い気分ではない。ヘクトルは笑いながら了承すると、それでは、とアキレスの腕が伸びる。ぐっと聊か乱暴に腕をつかまれ、引き摺られるように室内に戻った。
「おい、アキレス!」
「俺の部屋に酒を持ってこい。食い物もだ」
 近くを通りかかった女官にアキレスが横柄に命じる。はいすぐに、と素直に返事をした女官だったが、アキレスがヘクトルの腕を掴んでいるのを見ると、すぐさま顔を赤くして俯いてしまう。さきほどの、メネラオスを交えての騒動を、どうやら垣間見ていたらしい。ああ余計な噂が立つ、と頭を抱えたくなるヘクトルを、アキレスは有無を言わさずに連れて宴の席を抜けた。
 宴が催されている広間を出ると、途端にしんとなる薄暗い廊下を引き摺られるように歩きながら、明日には一体どんな顔で人々に見られるのだろうかと頭を悩ませる。
和平より後数日は、互いの国が親睦を深めるためという名目で、盛大な宴が続けられる。どんな嫌味やらからかいの言葉を聞かされるのやら、と明日の宴が、聊か心配になるヘクトルだったが、彼を連れて迷う事なく薄暗い廊下を歩くアキレスは上機嫌に鼻歌など歌っていた。