■ E amore un ladroncello.  -5-
 扉を開けてまず目についたのは、寝台に長々と逞しい身体を横たえたアキレスの姿だった。小麦の穂の色をした髪が、大きく開かれた窓から入る風になびいている。奏でられる竪琴の音を聞きながら、木陰に安らぐ獅子の姿に、ヘクトルが思わず頬を緩め、声をかけようと口を開きハッと気付いた。
 寝台の傍らに置かれた椅子に、弟の姿があったからだ。手に竪琴を持ち、ヘクトルの知らぬ歌を爪弾いている。
 一体何がどうしてこの二人が己の部屋に相揃っているのだろうと、ヘクトルは目を丸くした。
「…何をしている、パリス。自分の部屋に戻ったんじゃなかったのか」
 思わず低くなった声に、椅子の上で竪琴を抱えていたパリスが首を傾げた。
「ここにいちゃいけなかった? こいつに竪琴を習っていたんだ」
「……竪琴を? アキレスに?」
 おおよそ結びつかない物と人の名に、ヘクトルが再び目を丸くすると、寝台に身を横たえていたアキレスが顔だけをこちらへ向ける。空と海の色をした瞳が、まっすぐに投げかけられるのに、脈拍が跳ね上がるのを感じた。
 扉をきっちりと閉め、上擦った指先で肩からマントを外す。円卓の周りにいくつか並べられているうちのひとつの椅子の背にそれをかけ、ヘクトルは寝台へ歩み寄った。
「アキレスが竪琴を嗜むとは、知らなかったな」
 パリスと向かい合う形で寝台に腰を下ろすと、寝そべっていたアキレスの腕が伸び、ヘクトルの腰を抱いた。
「随分昔に、少しな」
「見かけと違って、意外と芸事も知ってるんだよ、こいつ」
 相変わらず目上を敬わない弟の無礼を、ひとしきり諌めたのだが、あまりパリスの頭には留め置かれていないようだった。
 諦め混じりに息を吐くと、何気ない仕草で、けれども強い力で引き寄せられ、ヘクトルは身を崩すが、背後ににじり寄ったアキレスが身をぴったりと添わせてきたので、彼の身体を背もたれにすることで無様に倒れることは免れた。慌てて身を起こそうとすると、それを押さえつけるようにアキレスの腕に力が篭る。思わず振り返ると、アキレスが穏かな目をして見つめている。何か、と言うように首を傾げたアキレスが、そのままでいろと言っているようで、ヘクトルは僅かに身体の力を抜いた。
「……弟の相手をしてくれたようで、すまなかった」
「いや、何。不貞の弟君の相手をするのは、それなりに楽しかった」
「いちいち不貞のってつけるの止めろよ」
「事実だろう」
 むっと頬を膨らませるパリスに、アキレスが笑い声を上げる。言い返せないようで、悔しそうに鼻の頭に皺を寄せ、パリスはつんと顔を背けた。それへアキレスが、続きはどうした、と声を投げる。促されるようにパリスの指が、竪琴を爪弾くのを、ヘクトルはしばらく黙って聞いていた。
 アキレスに習ったというヘクトルの見知らぬ曲は、伴奏だけを繰り返して練習しているようだった。本当はあるのだろう歌は今はなく、だがどこか物悲しい様子に、こんな曲をアキレスが知っていたのかと驚きが募る。
 ちらりと目をやると、細めた目でアキレスはパリスの指先を眺めていたが、視線に気付いたように顔を上げた。ヘクトルの背と、アキレスの腹の辺りが触れ合っていて体温が伝わってくる。視線が合った瞬間に、どきりと高鳴った胸の鼓動までもがアキレスに伝わってしまったのではないかと、ヘクトルは息を飲んだ。
 空と海の色をした瞳に見つめられると、心臓が音を立てる。とてもではないが平常心などではいられなくなって、知らず頬が赤らんだ。
 落ち着かなく視線を彷徨わせるヘクトルの頬に、アキレスの手が伸びる。厚みのある大きな手には、剣を扱う者特有の胼胝があった。武骨ではあるが美しい手指が、ヘクトルの頬を辿り撫でるのに、またひとつ胸が躍った。
 頬に触れた手が、耳を掠め首筋辺りに落ちる。髪に差し込まれた指に、ヘクトルは明らかな欲情を覚えた。ぞくりと背筋を走った覚えのある感触に、そう言えばヘクトルの部屋にアキレスがいるのは、そう言うことをするためだったのだと思い出した。
「アキレス…」
「泳ぎに行かないか、ヘクトル」
 寝台に寝そべり、下から見上げてくる青い瞳に、ヘクトルは目を丸くした。
 正直、拍子抜けたと言ってもいい。
 性交を匂わせる手指の動きだったのに、彼の口から出た言葉はまったくの健全なものだ。それなりに覚悟をし、僅かばかりの期待もあったヘクトルは、目を白黒させてしまう。
「泳ぎに?」
「言ったろう。俺が幼い頃に泳いでいた海があると。馬を走らせればすぐだ」
 アキレスはそう言いながら視線を外した。傍らを見るように促す視線に、ヘクトルはようやくパリスの存在を思い出す。そう言えば、ぽろぽろと竪琴を爪弾いていた。すっかり弟の存在を忘れていたことと、そうなるほどにアキレスとの事ばかりを考えていた己に、ヘクトルが赤面していると、またアキレスの手が伸び、ヘクトルの火照った頬を宥めるように撫でた。
「どうせ貴様もついてくるんだろう、不貞の弟」
「だから不貞をつけるなってば! 当たり前だろ! お前と兄上を二人きりなんてしてやらないからな!」
「だそうだが、ヘクトル」
 肩の力を抜き、苦笑をすると、ヘクトルはアキレスの言葉に頷いた。
「迷惑だろうが、連れて行ってくれ」
「俺の従兄弟もここへきている。一緒に連れて行ってやろう。不貞の弟の話し相手になるだろう」
「不貞をつけるなってば!」
 憤慨して立ち上がるパリスの手から竪琴を取り上げ、アキレスが片手を振った。
「立ったついでだ。女官に俺の従兄弟を呼ぶように言ってくれ。あと馬の準備とな」
「自分で言えばいいじゃないか……」
 ぶつぶつとそう言いながらも、パリスは扉へと歩み寄り、廊下へ顔を突き出し辺りを見渡している。だが、都合悪く、誰も近くにいなかったのだろう。まったく、だとか呟きながら扉の向こうへと姿を消した。
「すまない、アキレス。弟が…」
「くちづけを、ヘクトル」
 弟の消えた扉を眺めていたヘクトルの腕を、武骨な手が引いた。顔を向けると、寝台から身を起こしたアキレスの顔が、思いの他、近くにあった。顎を引くヘクトルの頬に指が触れる。労わるように撫でるそれは、首筋に添えられた。
 吐息が触れ合うほど近くで、アキレスはヘクトルの瞳を覗き込んでいる。
「折角あんたを抱けると思ったのに、あいつはとことん邪魔をするらしい」
 あいつとはもしかしなくともパリスのことだろう。ヘクトルが困ったような顔をすると、かすかに笑い声を滲ませて、アキレスが目を細める。
「腹を立てたわけじゃない。そんな顔をするな」
「だが……」
「謝ってほしいわけでもない。だから、その代わりにくちづけを、ヘクトル」
 ヘクトルは僅かな逡巡の後に、そっと己から唇を重ねた。乾いた唇に、目を閉じくちづける。触れ合った箇所からじんわりとしたぬくもりが伝わる。寝台の上に投げ出したままだった手を、アキレスの手が上から掴み押さえた。その手の下でもがき、長い指にヘクトルは指を絡める。形の良いアキレスの爪が、少しヘクトルの甲をかすった。おずと開いた唇から舌を伸ばすと、陵辱するような勢いで絡め取られた。ん、と鳴った喉に、アキレスの手が触れる。
 ふと息を吐くために離れた唇と唇の間に、互いの発する熱が篭る。それが逸れ、アキレスの唇が閉じたままの瞼に押し当てられた。促されるように目を開くと、間近に青い瞳がある。空と海の色をした瞳だ。
「……あんたを抱けないのは口惜しいが」
 こつんと額を触れ合わされて、思わず微笑ましさに口元が緩む。
「あんたを俺の気に入りの海に連れて行きたかった」
「そこまで言うのなら、さぞや美しい海なのだろうな。楽しみだ」
「ああ。とても綺麗だ。夜の海は、特に」
 アキレスの手が首裏を優しく撫でる。穏かな手付きはくすぐったく、けれど心地よかった。
「…夜?」
 笑い声を洩らしながら首を傾げると、ああ、とまた唇が頬に押し当てられた。
「あんたの目の色のようで、とても綺麗だ」
「では昼の海は、お前の瞳のように青く澄んでいるのだろうな。お前の目は、いつも海の色のようだと思っていたから」
 首筋を辿っていたアキレスの手が、着込んでいた上着の襟を引く。少し開いた隙間に唇を寄せ、強く吸い上げた。
「アキレス」
 諌めるような口調は、聊か呆れた声音を含んでいる。弟に対して諭すときのそれと似ていなくもない声に、アキレスはちらりと目を上げた。
「これくらいは許せ。あんたの弟に邪魔された腹いせだ」
「怒っていないと言ったくせに…」
「剣を持って襲いかからない程度には怒っていない」
 やれやれと溜息を吐いたヘクトルは、小麦の穂の色をした髪を指先で梳き、前髪を掬い上げ現れた額に、唇を寄せた。軽い音を立てて二度くちづけを贈ると、アキレスは心地よさそうに目を閉じ、ヘクトルの肩に額を寄せた。遠慮なく体重をかけてくるので、こらえきれずに寝台に背中から倒れ込む。そこへすかさず圧し掛かったアキレスにくちづけをせがまれた。
 身体の芯から燃えるようなくちづけを交わし、乱れた息をもてあましていると、アキレスの額が胸の辺りに擦り寄る。大きな動物に懐かれているような心地で、その金色の髪を撫で、ヘクトルは天蓋を眺めながら呟いた。
「歌を……」
「…歌?」
 胸元に響くアキレスの声は、眠いところを起こされた子供のように覚束ない。
「パリスに聴かせたのだろう」
「成り行きだ」
「私も聴いてみたいな」
「……今度な」
 胸に額をこすりつけるアキレスに、なぜ、と笑いながら問うと、甘えるような仕草をする男は、恥ずかしい、と言う。
「あんたに聴かせるのは、恥ずかしい」
「何を馬鹿なことを」
「馬鹿なものか。恋歌だぞ。しかも始めは覚えていても、終わりを覚えていない歌だぞ。恥ずかしくて歌えるか、そんなもの」
「……じゃあ、全部覚えたら歌ってくれ」
 ヘクトルは噴き出しそうになるのをどうにか堪えながら、アキレスの髪を梳く。
「……いつかな」
 くぐもった声に、楽しみにしていよう、と答え、ヘクトルは目を閉じた。
 窓から入る海からの風は涼しく室内を通りぬけてゆく。雲が出てきたのだろうか。少しばかり冷たいと感じる風を遮るように、アキレスの身体が覆い被さっている。逞しく、そして暖かな身体に懐かれ、ひどく心地よかった。
 パリスはどこまで女官を探しに行ったのか、戻ってこない。
 まるで目付け役のような弟が帰ってくるまでの、ほんの僅かな憩いだ。
 首を曲げ、アキレスの額にくちづけを落とすと、お返しのようにアキレスが喉元に唇を寄せた。
 指を絡ませ、二人はほんの僅かな心地良い時に目を閉じた。