■ E amore un ladroncello.  4
 まるでここがトロイの王城のように正装し、メネラオスが招いた昼食へヘクトルがでかけて行ってから、随分と時間がたっていた。招かれたものの、体調が悪いと嘘を吐いて誘いを断わった手前、ほいほいと出歩くわけにもいかず、パリスは一人、ヘクトルに与えられた部屋の中で、楽士が置いて行った竪琴を爪弾いていた。自室に戻るのも、何だか癪だと思ったからだ。
 教えられたわけではないが、幾人もの女と関係を持つと、相手の趣味にも明るくなる。竪琴を趣味にして、夜毎会うたびに爪弾いてみせた女は商人の妻だったろうか。それとも遠方からきたと言う貴族の娘だっただろうか。睦言のように、こうすれば音が出て、綺麗に響かせるには少しばかり弾くようにして、とパリスの手をとりしなだれかかりながら、教えてくれた。
 もう、顔も思い出せないけれど、声だけは鮮明に覚えている。
 歌姫のように綺麗な声だった。
 パリスの手に酔い喘ぐ声に、酔狂だけに終わらせず、それを生業にすればいいのに、と本気で思ったが、貴族の娘が歌姫などと馬鹿らしい話だ。
 すぐにその娘とは縁遠くなってしまったが、教えられた恋歌は、折に触れ紡ぐ事がある。
 そんな事を思いながら、小脇に抱えた竪琴を、ぽろぽろと奏でていると、突然、何の誰何もなくドアが開いた。
 目を丸くして、竪琴を紡ぐ手を止めると、薄く開いたドアの間から滑るように入ってきた金髪の男も、部屋の中にいるパリスを見て、目を丸くする。だがすぐにこちらは、舌打ちとともに顔を顰めた。
「不貞の弟か」
「お前は…アキレス! 何の用だ!」
 竪琴を腰掛けていたベッドの上に置き、パリスが立ち上がる。手の届く所に剣がなく、警戒を露にしながらも目を泳がせて剣を探した。
 アキレスは戸口に立っていたが、パリスのそんな余裕のない様子がおかしかったのか、ふっと口元に微笑を浮かべると、つかつかと隙のない様子で歩き、竪琴の置いてある寝台にどっと寝そべる。
「ヘクトルに、部屋で待っていると約束してな」
「…なんだって? 兄上が? どうして…お前みたいなのと、そんな約束を?」
 寝そべり、軽く伸ばしたつま先で竪琴を引き寄せたアキレスが、それを物珍しげにしげしげと眺めながら呟く言葉に、パリスが眉を寄せた。身を守るための剣を探す事も、すっかり頭から消えてしまったようだった。
「俺みたいなものと、そんな約束を…か? 間男にそう約束して、する事と言えばひとつしかないだろう。貴様がギリシャ一の美姫とやってる事さ」
 ぴんと張った竪琴の弦を指先で弾き、アキレスは目を細めた。
「いい音だ」
「……兄上は、なぜ、お前なんかを」
 唇を噛み締めて、ぐっと拳を握りこむ。ふてぶてしくも兄の寝台に寝そべり、さっきまでパリスが弄んでいた竪琴を弄っている。あたかもこの部屋が、我が物のように振る舞うギリシャの英雄に、パリスは殴りかかりたい思いに狩られる。
 ぽろん、と物悲しい風情で弾かれた弦の音とともに、アキレスが口を開いた。
「いずれ去る男だ…」
「なんだって?」
 アキレスの威風堂々とした姿からは想像もできないほど小さな声に、パリスが眉を寄せた。思わず、そんな義理も義務もないのに聞き返してしまって、聞くんじゃなかったと後悔する。
「貴様の兄上は、いずれギリシャを去る。恐らくは二度と会えないだろう。このギリシャで、手の届くうちに、我が物にしたいと思うのは、当然だ。あれはいい男だからな」
「……兄上を、あれとか言うな」
 最後ばかりは、陰鬱な空気を混ぜっ返すように、笑い声を滲ませて言うアキレスに、パリスもむっと頬を膨らませて見せる。
「大体! 兄上がいくら気安くお前と付き合ってるからって、お前はただの兵士で、兄上は王子なんだぞ! 最低限の礼儀は尽くせ!」
「はいはい。トロイの弟王子殿下。さっきまで弾いてたんだろう。ヘクトルが戻ってくるまでの時間つぶしだ。何か歌って見せろ」
「僕は王子で楽士じゃないッ!」
「硬い事を言うな」
「硬いとかそうじゃなくて、だから、楽士じゃないって言ってるんだ! 歌うなんて無理だ!」
 放り投げられた竪琴を危なげなく受け取ったパリスが思わず叫ぶと、アキレスは一瞬目を丸くした。だがすぐに吹き出すように笑い声を上げる。
「なんだお前、つまり…下手なんだろ」
「そうじゃない! 僕が言いたいのは、歌が聞きたければ楽士に頼めってことだ! 僕よりもよっぽど上手に弾いて、歌ってくれるだろうさ!」
 竪琴を抱えたまま怒鳴るパリスに、アキレスの笑みは深くなる。自分を敵視している男の前でにしては、あまりにもくつろいだ様子に、知らずパリスの肩の力も抜ける。
「貴様は相当、あいつを慕っているらしいな」
「当たり前だ。兄上はトロイの誇りだ。嫌いになる奴なんているもんか」
「あいつは、貴様が可愛くてならないらしい。厄介ごとの種を撒き散らして歩く不貞の弟を、それでも何かと庇っては自分が矢面に立とうとする……典型的な苦労性だな。だから、俺みたいなものの牙にかかる」
「……何が言いたいんだよ。兄上が、馬鹿だと?」
 むっと唇を曲げ、眉間に皺を寄せる。子供っぽいながらも、それなりに険しい顔を装うパリスに、アキレスは寝台に寝転がったまま、いや、と微笑んだ。
「ああ言う奴は、我が事を最後に回すのさ」
「……我が事を、最後に? どう言う意味だ。お前の言う事はちっとも解らない」
「不貞だけではなく頭も悪かったか……トロイの弟王子。つまり兄上に心配をかけるなって事が言いたいだけさ。ほら、どうした、弾いて見せろ」
 片手を広げて竪琴を示すアキレスに、誰がっ、とパリスが牙を剥いた。
 本当なら部屋を飛び出してしまいたいのだが、そうしたらきっと、戻ってきたヘクトルはアキレスの手にかかってしまうだろう。ヘクトル自身が望んだことかもしれないが、パリスはそれが我慢ならなかった。
 ヘクトルはパリスの兄で、トロイの誇りだ。
 パリスだけのものではないが、誰のものでもない。
 それが突如現れた獅子のようなギリシャの英雄に簡単に掻っ攫われ、我が物と平然と言われたのでは我慢がならなかった。
 居座ってやる、とパリスは憤然と思い、抱えた竪琴ごと、どすんと乱暴に身代に腰を下ろした。
 邪魔をしていやる、と親の仇のようにアキレスを睨み付け、抱えた竪琴の弦を弾く。ぽろぽろと奏でるのは、やはりさっきまで悪戯に爪弾いていた恋歌だ。こんな男を前に弾くには憎たらしいが、それしかまともに弾けるものがないのでは仕方がない。
 それを聴き、見、アキレスが低く笑う。
「そんな顔で貴様は恋歌を弾くのか。口説く相手も逃げてしまうぞ」
「お前と違って向こうから寄ってくるから、口説く必要なんてないんだ」
「それはそれは……」
 おかしそうに目を細めるアキレスが、続けろ、と止まったパリスの手を促した。
 何を考えているのか解らない男のために、腹立たしいながらも一曲を弾き終えると、パリスはふと良い意趣返しを思いついた。爪弾いていた竪琴を、ぐいとアキレスに弾いてみせると、お前の番だ、と笑ってやる。
「僕が弾いたんだ。次はお前の番だろ」
「俺に恋歌を歌えと?」
 軽く顎を引くアキレスに、パリスはなおも笑う。
「当たり前だろ。僕だってお前に歌って見せたんだからな」
 竪琴と、黒き衣を纏った獅子の、なんと不似合いな事か。
 パリスはその光景を前に喉を鳴らして笑い、さぁ早く、とせかしてやった。聴きたいわけではない。むしろ、聴きたくない。だが、今までやり込められたこのギリシャの英雄を困らせるのは、腹の底から楽しかった。
 竪琴を手に逡巡するアキレスが、おもむろに弦に指を走らせた。ぴんと張った弦が美しい音を響かせる。抱えた竪琴を手に、薄く開いた唇からもれるのは、思いの外、伸びる声だった。
 パリスは目を見張る。
 それは聴いた事もない歌だった。恐らくは、ギリシャにしか伝わらない古い歌なのだろう。言い回しが古臭いが、歌の内容を理解することはできた。漁へ出たまま帰らない夫を思っての未亡人の悲恋歌だった。船が嵐で沈んでも、いずれあの人は帰ってくるだろうと儚い望みを抱きつつ、ずっと待つ健気な歌だ。
 それがこんな無骨な男の口から漏れるなど、おかしくて笑ってやりたいのに、パリスはそうできなかった。
 その歌が素晴らしかったせいもあるし、伏せたアキレスの顔が思いつめたように見えたせいでもあった。
 茫洋とパリスは理解した。
 パリスがギリシャ一の美姫と謳われるスパルタの王妃を想うように、アキレスも誰かを想っている。決して報われぬ想いであると知りながら、それでも諦めきれず想っている。ふざけ半分で手を出していると思ったのに、アキレスは本気で誰かを想っている。
 アキレスが想う誰かは、間違いなくパリスの兄だ。
 思わず噛み締めた唇に血の味が滲んだ。
 絶対にアキレスなどに渡してやるものか、とパリスは思った。
 意地悪でも何でもなく、渡せないとパリスは思う。
 アキレスにヘクトルを許してしまえば、恐らくヘクトルは二度とアキレスの腕から逃れる事は叶わないだろう。この男はそうするだけの力を持っているし、そうできるだけの意思を持っている。本気で想う相手が、故国に帰るのを良しとはしないはずだ。
 切ない恋歌を歌うアキレスを、ぎりと拳を握り締めたまま知らず睨みつけていたパリスの不穏な気配に気付いたのか、ぱたりとアキレスは手を止めた。
 未亡人が海に消えた夫を探し、舟を出そうとするところだった。
「…ど、どうしたんだよ」
 手を止めたまま動かないアキレスに、パリスは動揺しながら声を上げる。内で思っていた事が伝わってしまったのかと勘繰ったのだ。だがアキレスはそうではなく、ぽいと竪琴を放ると、忘れた、と呟いた。
「は?」
「この先の歌を忘れた」
「なんだって?」
「恋歌なんぞを最後に歌ったのは、もう何年も前だ。歌を忘れても仕方ないだろう」
 ふんと鼻を鳴らすアキレスは面倒くさそうにごろりと横になった。寝台が僅かに揺れ、パリスは思わず笑う。
「ギリシャの英雄は、もう耄碌したのか」
「耄碌というのは、メネラオスのような年寄りに言う言葉だ。それより、いいのか、お前。メネラオスの妻のところには行かないのか」
 部屋を出て行けと言外に告げるアキレスは、まっすぐに扉を指で示して見せる。パリスはにやりと笑うと、寝台に寝そべっているアキレスを見下ろした。
「いいんだ。今日は徹底的に、あんたの邪魔をしてやる」
「迷惑な。兄上に嫌われるぞ」
 顔を顰めたアキレスの言葉に、パリスはおかしそうに笑う。
「兄上が僕を嫌うもんか。誰よりも僕を愛しているんだ」
「……自意識過剰な弟を持つと、あれも苦労する」
 溜息混じりの声を、パリスは聞こえないふりをした。
 投げ返された竪琴を手に取り、先ほどアキレスが途中までだが弾いて見せた恋歌の出だしを、思い出しながら爪弾いてみる。すぐさま、違う、と声が飛んだ。弦がひとつずれている、と指摘する声に、むっと眉を寄せながらもパリスはまた、正しい弦を使って音を奏でる。
 いい音だ、とアキレスが呟いた。
 パリスはそれに返事をすることはなかったが、竪琴を見下ろす目はどことなく穏やかに緩んでいた。