■ E amore un ladroncello. 3 |
昼食は共に、と伝えにきたメネラオスの使いに、ヘクトルは逡巡した後に、喜んで、と答えた。本当なら自分に混ぜ物入りのワインを寄越した男と昼食など共にしたいとは思わないが、気分を損ねたい相手ではない。その第一の理由が、メネラオスの妻とパリスの火遊びだった。 なんであんな奴と昼食を一緒に取るのさ、と憤慨しているパリスに、私はお前のためにな…、と懇々と説教したい気分に狩られるが、所詮、言っても無駄だ。幼い頃からそれは身に染みて解っている。だからその代わりに、和平を成してくれた相手には礼を尽くさねば、と言葉を濁しておいた。 アキレスの黒いローブを脱ぎ、トロイから持ってきた青い上下の服に着替える。外を出歩く時なら裾の短いものを選ぶが、城内の事であるし、略式に誘われた昼食だが、正式な晩餐と同じくらいに失礼がないように気をつけなければならない。そう言うわけで、ヘクトルは正装をした。肩からマントを背中に流し、腰に剣を下げた。 進まない気を持て余しながら部屋を出ると、メネラオスの使いが待っていた。城内に不案内な異国の客人を案内するために待っていたのだろう。ヘクトルが部屋から出てくると、使いの兵士二人は揃って大仰に頭を下げた。 「案内を?」 ヘクトルが尋ねると、兵士は頷き、こちらへ、と先に立って歩き始めた。 「今日は天気が特に良いので、特別な趣向をと王様は仰っておいでです」 先を歩く兵士が振り返りもせずに言った。ヘクトルを敬っていないから振り向かないのではなく、辺りに不審な者がいないかと気を配っているから振り向かないのだ。スパルタも折角成った和平をむざむざ潰したくはないと言うわけか、とヘクトルは少しだけ安堵した。 「ほう…特別な趣向。それは楽しみだ」 「ですので、広間へは参りません。どうぞ、こちらへ」 スパルタの薄暗い廊下を進み、角を何度か曲がった。確かに、夜毎宴を繰り返していた大広間へ行く道ではなさそうだ。豪勢な花だの、女神を象った石像だのが両脇に飾られていた廊下を抜け、石だけの質素な廊下に出た。 「…これは……見事な」 ヘクトルが思わず足を止め、目を見張ったのは、片側の壁がすっぺりと切り落とされ、柱だけが残された廊下に出たからだ。進行方向に向かって左手には壁があり、相当な腕の職人に寄る壁画で彩られている。反対側の柱しかない方は、柱の間を抜け出ればすぐに断崖絶壁で、足元に白波を上げる海が広がっている。自然と遠くまで海を望める場所だった。 「こちらでございます。希に風が吹き込みますので、ご注意を…」 更にヘクトルを奥へ案内しようとした兵士二人が、柱の影から現れた人影に、ハッと身構えた。瞬時に剣を抜き放つ二人だったが、海からの逆光に照らされる金色の髪が風に靡いたのを見て、拍子抜けをしたように肩の力を抜いていた。 ヘクトルは、兵士達とは真逆だった。 ゆっくりと近付いてくる男の強い眼差しが、自分に注がれているのを感じ、四肢が強張るのを覚えた。 恐れではない。 彼を目にした時に感じた歓喜に、戸惑っているのだ。 「アキレ……」 「アキレス様」 「驚かせて下さいますな。危うく斬りかかるところでございましたぞ」 言葉だけは丁寧だが、兵士二人の顔は笑っている。どうやら旧知の仲らしい。ヘクトルが興味深く彼らのやりとりを眺めていると、アキレスは下布の裾を捌きながら近付いてきた。 「斬りかからなくて正解だったな。返り討ちにして、鮫の餌にでもしているところだ」 「これは手厳しい」 「アキレス様に手合わせ願うには、命をかけねばならぬようですな」 「そう言うな。ちゃんと加減してやる。それより……お前ら、もうここでいい」 兵士達はアキレスの言葉に顔を見合わせた。片方が代表して口を開く。 「しかしアキレス様。わたくしどもは王様に命じられましてヘクトル様を」 「庭園に案内すればいいんだろう。それくらい、俺にもできるさ」 「アキレス様が?」 「しかし……」 「いいから行け」 しっしと片手で犬でも追い払うように兵士に合図をし、アキレスは顔を顰めた。上機嫌で笑っていたのが嘘のように、少しばかりの殺気を滲ませている。逆らえば命はないぞと、軽く脅しを顰め、アキレスが顎をしゃくった。 兵士達はまたもや顔を見合わせた。頷きあうと、足を一歩引いて腰を折る。 「しからば、わたくしどもはこれで」 「…よろしゅうございますか?」 最後のはヘクトルに尋ねたようだった。顎を引き、ヘクトルが短く頷くと、それでは、と兵士二人は廊下を元きたほうへ戻っていった。 海からの陽が入る廊下に残されたのは、アキレスとヘクトルの二人だけだ。どうやら昼食が催される場所は近いらしく、音楽が聞こえてくる。だがそれよりも、海から聞こえる波と風の音の方が大きかった。 その音を消すように、アキレスが口を開く。大きくもないが、小さくもない。よく通る声がヘクトルの鼓膜を打つ。 「ご機嫌麗しゅう、王子殿下」 「……アキレス。なぜ、ここに…?」 柱にもたれるようにアキレスが立っているので、丁度アキレスは暗がりにいる事になる。顔が見えず、ヘクトルは彼に近付いていった。急ぎ足にならないように気を付けて、ゆっくりゆっくりと、走りたがる身体と心を押さえる。 「メネラオスの馬鹿が庭園で昼食だと騒いでたんでな。もしかしたらあんたも呼ばれたんじゃないかと思ってな。あんたの泊まっている部屋からは、ここを通るのが早い。見晴らしもいいし、あいつらならこの廊下を案内するだろうと思って、待っていた」 待っていた。 アキレスが薄く笑みを浮かべた唇で告げる言葉に、ヘクトルの胸が鳴った。どくどくと血液がこめかみの辺りで渦巻いている。顔が赤くなっていやしないだろうかと思った。 まるで年端も行かぬ子供のおままごとの恋心のように、心臓が高鳴っている。音があたりに聞こえそうだ、とヘクトルは慌てて口を開いていた。 「今朝は弟が、失礼な事ばかりを」 「気にしていない」 「だが、あんたを追い出すような真似を」 「気にしていないと言っただろう。別に恨み言を言うためにあんたを待っていたわけじゃないんだ」 手を伸ばせば届くところにいるアキレスが、ふいと顔を柱の外へ向けた。 「海で泳ぐと言う約束。あれはまだ有効かと……。時間を持て余していて、あんたさえ良かったら、俺が幼い頃から遊んでいる海がある。そこへ連れて行きたいと思ったんだが…王子殿下には、ご迷惑か?」 アキレスの言葉に、ヘクトルはふっと相好を崩した。 「良かった。私も海で泳ぐ約束はなくなってしまったんじゃないかと、心配していたんだ。昼食が終わったら、すぐにでも…ッ」 ヘクトルの腕を、アキレスの手が掴んでいた。海風に晒され冷えた腕に、アキレスの掌は熱かった。ハッと目を見開くと、驚くほど近くにアキレスの顔がある。引き寄せられたと思った瞬間、ヘクトルの背は冷たい石の柱に押し付けられていた。頭が石に擦れてざりっと音を立てる。 あっと思った時にはもう、唇を奪われていた。 アキレスの乾いた唇が、強張っていたヘクトルの唇を覆い、腕を押さえている手よりも数倍も熱い唇が、強張りを解すように舐める、逃げられないように柱に押さえつけられて、逃げるつもりもなかったヘクトルだったが、息苦しさに身悶えた。 唇の中を徘徊するアキレスの舌からを伝って、彼の唾液が送り込まれてくる。それをヘクトルは、甘美だと思った。 「ん……は…」 ヘクトルを押さえつけるアキレスの手の力が緩み、柱に繋ぎとめられていた腕がするりと抜けた。ずるずると柱を背に床に崩れ落ちるヘクトルが、乱れた息を繰り返していると、ふっと目の前が翳った。 ぼんやりとした目で見上げると、いやに生真面目な顔をしたアキレスが目の前に跪いている。伸ばされる手が髪を撫で、頬を撫でた。いとしいものを愛でるような目でヘクトルを見つめ、おもむろに彼は身を乗り出す。 思わずぎゅっと目を閉じたヘクトルの額に、アキレスの唇が触れた。 「……俺のものに、ならないか」 くぐもった声に薄く目を開くと、アキレスの指先が、ヘクトルの濡れている唇を辿った。 「俺のものになって、ここに残れ。トロイになど帰るな」 「……馬鹿なことを…」 ヘクトルは苦笑を浮かべ、アキレスの熱を孕んだ目を見つめた。 「…私が帰らなければ、心配する者がいる。妻もいる。子の成長も楽しみだ。それに第一、パリスが煩くて叶わない」 「………あれは…確かに、煩いな」 「だろう……だから、ここには残らない」 ぐっと、アキレスの眉間に皺が寄る。真っ直ぐに見つめてくる空と海の色をした目に怒りも含まれてはいたが、アキレスのその表情は怒りよりも痛みを堪えるような表情だった。 「王子殿下には……これは、遊びか」 「…アキレス?」 「こんな……こんなくちづけを許して、妻だ子だのと口にするなッ! 俺に惚れたんだろうっ? ならそう言って俺に縋りつけッ! トロイの王子!」 肩を掴む手に篭る力が、痛かった。 ヘクトルは自分を見下ろすアキレスの視線に晒され、またもや高鳴る胸に気付いた。喉がからからに乾上がっていて、指一本動かすのにも躊躇い、息を飲む。 そのヘクトルの顔のすぐ側に、アキレスはドンと拳を叩き付けた。 「惚れたと、俺に惚れたと言えッ! トロイの王子ッ!」 「…ヘクトルと」 掠れた小さな声に、アキレスが息を飲む。それを見上げ、ヘクトルは手を伸ばしていた。ひどく強張ったアキレスの頬を辿り、彼の髪に触れる。妻や子に対するのとは違う愛情を、この上もなく感じる。誰にも抱かなかった気持ちを、アキレスに覚えていた。 「…私のことを、王子などと呼ぶな。お前の前で私は、トロイの王子ではなく、ただのヘクトルだ」 「………ヘクトル」 「…ああ」 「ヘクトル」 「………ああ、そうだ。お前の前では、ただのヘクトルだ……ッ」 ぎゅっと逞しい腕に身体を抱きしめられた。拒むなど考えられず、ヘクトルも腕を伸ばし美しい筋肉のついた背と首とを掻き抱く。アキレスの匂いが近いと思った時には、すでにくちづけられていた。貪るような、それでいていとおしむような深く濃厚なくちづけに、ヘクトルは縋りつくようにアキレスの肩の辺りを掴んでいた。 「アキレス…」 くちづけの合間に吐いた息と一緒に、アキレスの名を呼んだ。それに呼応するように、アキレスはヘクトルの首筋に顔を埋める。宴の時、露台でメネラオスの目を欺くためにやった仕草とはまるで違い、アキレスはねっとりと舌を這わせる。歯列を辿り、溢れた唾液を啜り上げられた。 粟立つ肌に歯を立てられて、ちりっと走った痛みに声があがった。 「んぅッ……」 服の裾から忍び込んだ手が、脇腹を撫でる。アキレスの膝はヘクトルの足の間に割り込んで、正装の裾を払おうとした。結び目を解こうとする手を、ヘクトルは慌てて止めた。 「やめろ、アキレス! 駄目だ!」 「なぜだ」 「…これから、メネラオスの……昼食の席に…ッ」 「行くな」 「よせ…駄目だ!」 押し止めてもなおアキレスの手は、ヘクトルの下布の結び目を解き、邪魔なそれを取り除こうとしていた。太腿を撫でるアキレスの掌の熱さと、触れた場所から沸き起こる熱に、ヘクトルはカッと頬を赤らめた。 「こんな所で私を抱くつもりか!」 「ここじゃなければいいのか」 じっと見据えてくるアキレスに、うっとヘクトルは言葉に詰まる。大人しく抱かれてやるつもりはないが、かと言ってこの場を切り抜けるほかのうまい言葉を思いつかない。第一、早く行かなければメネラオスの機嫌を損ねてしまう。 「………まぁ…考えないことも…ない」 「解った」 戸惑い戸惑い告げるヘクトルの言葉に、アキレスはさっと身を引く。思わぬ速さに目を白黒させていると、自分の乱れた着衣を手早く整えたアキレスが、腕を伸ばし、ヘクトルの身も整えている。自分で外した腰の紐を結び、胸の上辺りまでたくし上げていた上着を下ろしている。 ヘクトルの手を掴んで無理矢理に立たせ、耳元でアキレスが囁く。 「あんたの部屋で待っている」 「……え」 「昼食が終わったら、すぐに戻って来い。ヘクトル」 「アッ…」 ピアスをつけた耳を、尖らせた舌先で辿られた。びくっと震える身体はアキレスに敏感になっていて、思わず声を漏らしてしまう。目を細めるアキレスから、慌てて身をもぎ離して、ヘクトルは彼に直された服を自分でも直した。 「この廊下をまっすぐ行けば、庭園に出る。メネラオスはそこで待っているだろう」 すっと腕を伸ばして廊下の先を指差し、アキレスが告げた。 「混ぜ物入りのワインなど飲むなよ、ヘクトル。お前を食うのは、あいつよりも俺が先だ。いいな」 喉元にくちづけを落とし、アキレスはさっさと背を背けて歩き始める。置いていかれた格好になったヘクトルは、思わず呼び止めようとしたが、今更呼び止めたところで何を言えるわけでもない。 溜息を吐いて、ヘクトルはぐっと拳を握り込んだ。 それからそそくさとまた自分の身体を見下ろして、どこもおかしなところがないかを確認する。歪んでいた首飾りを直してから、ヘクトルは歩き始めた。アキレスが示した方向へだ。 薄暗い廊下を抜けて階段を上がれば、空から燦々と降り注ぐ太陽の下で、楽士らが音楽を奏でていた。美しく咲く花や緑の若葉やらを背に、メネラオスがテーブルについている。彼の妻も同席していた。張った天幕の下から、ヘクトルに気付いたメネラオスが立ち上がり迎えにやってくる。 アキレスが吸い付いた鎖骨の辺りを指先で辿り、ヘクトルは薄い笑みを浮かべ、メネラオスの歓待を受けるのだった。 |