■ E amore un ladroncello. 2 |
和平の宴が続くスパルタの王宮の朝は遅い。 誰も彼もが酔いつぶれるまで飲むので、その片付けに女官たちは夜通し働き、宴に使った部屋が翌日の昼食に間に合うように整える。兵士達は昼夜問わず見張りにつくので、不寝番の者、昼番の者と分けられているようだが、女官はそうはいかないようだ。 どれだけ飲もうとも、ついつい国で政に関わっている身に染み付いた癖か、ヘクトルは朝日が昇ると目が覚める。 瞼に当たる海からの光に、ふっと目を開ければ、驚くほど間近に見知らぬ男の顔があった。ぎょっと目を見張ったが、よくよく見ればそれはアキレスだった。そう言えば昨夜、アキレスと宴の場からヘクトルに宛がわれた部屋へ移動し、酒を飲み、そのまま寝入ってしまったのだと思い出した。 一緒に寝よう、と言う酔っ払い男の腕を払いのけるのは困難で、そのまま二人はヘクトルの大きな寝台に縺れ込んだ。 いかにアキレスがスパルタの英雄とは言えども、彼はただの一介の兵に過ぎず、城に自室を持つなどとはありえない。二人で酒を、と誘ったアキレスは、そのまま城外の自宅へヘクトルを連れて行こうとしていたようだったが、さすがに誰にも告げず城を出るわけにもいかないだろうと、それなら私の部屋へ、とヘクトルはアキレスを招いたのだ。 アキレスは面白い男で、生真面目なところがあるかと思えば、下らない話をして笑わせてもくれる。戦で手柄を立てた話を面白可笑しく聞かせてくれたかと思えば、ヘクトルの手柄を目を輝かせて聞く。酒も肴もうまく、ついつい飲みすぎてしまった。 痛む頭を抑えながら、部屋の中を見渡せば、争いでも起きたのかと思うような乱れ方をしている。デキャンタにゴブレット、食器の類に、食べ残しの肴。脱ぎ散らかした服もある。ふと見れば、下布をつけているアキレスとは違い、ヘクトルはそれすらもどこかへいってしまって全裸だった。申し訳程度にかけ布が腰の辺りにひっかかっているのが僅かな救いだろうか。心を許すことの出来ないものの前では決して外さない短刀が、手を伸ばしても届かない場所にあるのには、さすがに酒のせいではなく頭を抱えたくなった。 せめてあれだけでも枕元に、と思い、ヘクトルは身を起こす。 「……どうした…?」 ヘクトルが身を起こした振動に目を覚ましたのか、アキレスがうつぶせたままで薄く片目を開いていた。青い瞳が眠そうに瞬き、ヘクトルを見上げる。 「いや……何でも」 「なら…まだいいじゃないか。寝よう」 「寝ようって……おい、こら、アキレス!」 ぐっと腹にアキレスの太い腕が回る。筋肉の綺麗についた上腕が動き、ヘクトルを寝台に引き倒したかと思うと、そのまま力にものを言わせて抱きこまれる。慌てて伸ばした手は油断なく掴まれ、アキレスの枕代わりにされてしまう。 「お前、まだ酔っているだろう……」 はふん、と大きな溜息を吐くアキレスの顔を眺めていると、んん、と眉間にぐっと皺を寄せたアキレスが唇の端に薄い笑みを浮かべていた。 「酒臭い」 「酒を飲んだんだ。酒臭くて何が悪い」 「言う事はまともだが、行動がまともじゃないぞ。私なんぞ抱き枕の代わりにもならんだろう」 「ご謙遜を」 寝起きとは思えないほどしっかりした声で切り返してくるものの、薄く開く瞼は、本当に光が苦手のようで、しょぼしょぼと頼りなく瞬きを繰り返している。時折覗く青い光が海のようだとヘクトルは思った。 「あんたは抱き心地がいい」 「……そう言うのは女性相手に言うんだな…」 「は……あんたのそう言う顔は好きだ」 ふっと持ち上がったアキレスの顔が抗う暇もなく近付き、ヘクトルの頬にキスをする。押し付けるだけのキスは、親愛のそれにも似ていたし、挨拶のそれのようでもあった。どう捕らえていのか困惑していると、次は額に唇が触れる。反対側の頬に触れ、その心地良さに目を閉じたヘクトルは、唇にアキレスの唇が触れても、抗おうとはしなかった。 思えばヘクトルも、昨晩は相当酔っていたから、夜が明けたとは言っても酒は抜けきっていなかったのだろう。男からのキスに甘んじるなど、普通なら拒んでいるだろうそれに、正常な反応が働いてはいなかった。 「…朝からいい気分だ」 真上から見下ろすアキレスの顔をぼんやりと見上げ、そうかな、とヘクトルは微笑む。 「酒が残って気分が悪い」 「なんだ、情けない。あれくらいで二日酔いか」 「頭が疼くようだ」 「海で一泳ぎすればすぐに引くさ」 「……付き合ってくれるのか?」 今度はしっかりと覚醒した顔で、アキレスは窓の方へ顔を向ける。カーテンを寄せなかった窓の向こうには、冷めるような青い海が朝の光を反射して煌いていた。 「あんたが望むのなら」 再びヘクトルを見下ろし、首を傾げるアキレスが、またくちづけを寄越す。 ヘクトルは、それを受け入れた。それどころか自ら手を伸ばし、彼の首を引き寄せながらそれを受け止め、ヘクトルは目を閉じる。 悪い事をしているとは思わない。アンドロマケの顔が、息子の顔が浮かばないでもないが、彼女らに対する愛情が揺らいでいるわけでもないし、アキレスにくちづけを許すのは、そう言う感情からでもなくきっと残っている酒のせいだとヘクトルは無理矢理結論付けた。そう、弟が自分に寄越す親愛のキスと同じようなものだ。ふざけて唇にくちづけを寄越すのを、甘受するのと一緒だ。彼とくちづけを交わす時だって、戯れに引き寄せてやる事もある。それと、変わらない。 その時だ。 「おはようございます、兄上! 天気もいいし、一緒に海に泳ぎに………泳ぎ……泳ぎ……に……」 バンッとノックも何もなしに開けれたドアから、パリスが清々しい顔で飛び込んできた。くるんくるんの巻き毛にはきちんと飾りがついていて、恐らくは女官にやらせたのだろうがネックレスやピアスにも歪みはない。海と同じような青い衣を身にまとって、満面の笑みを浮かべていたパリスの顔が、寝台に横たわったヘクトルに覆い被さるアキレスと、彼の首に巻きついたヘクトルの腕を見て強張った。 「パリス!」 大きな丸い目に見つめられて、ヘクトルは飛び起きてアキレスを突き飛ばす。おっ、と仰け反ったアキレスだが、さすがに鍛え方が違うようで、無様にベッドから転がり落ちると言う事はなかった。浮いた腰をヘクトルの腰に下ろし、がしがしと金色の髪を大きな手で掻きまわした。 「……ああ…不肖の弟君か。メネラオスの奥方と一緒ではなかったのか」 「夜が明ける前に部屋は出たよ。それよりお前、何してるんだ!」 むっと唇を引き結んで、眉を寄せ、精一杯怖い顔をするパリスに、軽くアキレスは肩を竦める。 「見て解らんか?」 ヘクトルにこれ見よがしに己のローブをかけてやりながら、アキレスは身を起こした。寝台に腰を下ろし、両手を広げて見せる。 「貴様が昨日、メネラオスの奥方としてたような事さ」 「僕の兄上に!」 「貴様はメネラオスの妻に手を出した」 「それとこれとは別だ! 僕の兄上だぞ!」 「だからどうした」 「だからどうしたって、言うのはそれだけか!」 本当に地団太を踏んで怒鳴るパリスを、止まった思考で茫然と眺めていたヘクトルは、ハッと我に返ると、慌てて開けっ放しのドアを閉めに飛んだ。いくら朝が遅いとは言え、すでに働いている女官もいるわけで、現に今も物珍しげに目を丸くした女官が一人通って行った。 見られては叶わない、と慌ててドアを閉めて鍵をかけ、ようやくほうっと一息を吐いたヘクトルは、部屋の惨状を見渡してまた溜息をつきたくなる。 散らかった部屋に、脱ぎ散らかした衣類、剣も遠く、情交があったと説明されたら、はいそうですか、と信じられる有様だ。自分だって昨日の事を覚えていず、アキレスにそう言う事があったのだといわれれば、きっと信じただろう。それに昨日、確かメネラオスに嫌味を言われ、切り返すつもりで、若いだけがとりえだがそれがいいとか何とか言ったような気がする。これからアキレスとどうこうなるのですよ、と言外に言ったのも同然だ。 「……最悪だ…」 真っ青な顔で、閉めたドアに持たれてずるずると床に座り込む。思わずぽつりと呟いたヘクトルの小さな声を、パリスは聞き逃さずに振り返った。 「えっ、何それ! 無理矢理なのッ? 無理矢理犯されちゃったのッ?」 「大きな声を出すな、パリス。頭に響く」 「え、何、何それ、なんで頭痛いのさ! ねぇ、兄上! ねぇったら!」 床に座り込んでいるヘクトルの側に張り付いて、腕を掴み、ぐいぐい揺さぶりながら耳元で大きな声を張り上げてくれる弟に、ヘクトルは耳を塞ぎたくなる。顰めた顔の理由も解らず、なおもぐいぐいと揺さぶるパリスを、いっそ罵倒してやろうかとヘクトルが思っていると、それが急にふっとなくなった。 「いつまでも張り付くな、俺の獲物だ」 見ればパリスの襟首を掴み、アキレスが力に物を言わせて弟を遠くへやろうとしている。両手を振り回してそれに抗うパリスの大声が、またもや耳に突き刺さった。 「はぁっ? 何それ、意味解んないんだけど!」 「獲物は狩った者の物ってことだ」 「だからその意味が解らないって言ってだよ! 大体、昨日の宴で何があったのさ! 女官たちがすっごい噂してたよ。兄上が男を部屋に連れ込んだって! いつも朝が早い兄上が、今日ばかりは遅いかもしれないって! それに、メネラオスにすごいこと言ったって聞いたけど! ちょっと、聞いてるッ?」 「立てるか?」 ぎゃんぎゃんと子犬のように喚くパリスに背を向け、アキレスが僅かに身を屈め、ヘクトルに手を差し伸べた。左手でヘクトルの左手を掴み、右手で彼の背を支え、抱き寄せるように起こす。すっぽりと腕の中に収まるヘクトルのはだけている前を隠すために、アキレスは彼のローブの前を合わせた。 「ああ、すまない…」 その大きな手がローブの前を合わせるのを見て、ヘクトルは溜息を吐く。 「売り言葉に買い言葉だよ、パリス」 裸の身に直接羽織っていたローブの前を自分の手でも掻き合わせ、それがアキレスのものだと初めて気付いた。ヘクトルは傍らに立っているアキレスが下布一枚だと気付いて申し訳なさそうな顔をしたが、アキレスは構わずにヘクトルの身体を引き寄せる。 「メネラオスの馬鹿が、俺のヘクトルに手を出そうとしたから、追い払ってやったんだ」 「誰がお前のヘクトルだ! 兄上は僕のものだ!」 「お前にはメネラオスの奥方がいるだろう。あれで我慢しておけ」 「それとこれとは別なのッ! 何言ったのさ、兄上! メネラオスに、売り言葉に買い言葉って!」 顔を真っ赤にしたり、真っ青にしたりと忙しいパリスの肩をぽんぽんと軽く叩き、ヘクトルは溜息を吐く。アキレスの腕から逃れると、寝台に腰を下ろして疼く額に手をやった。 「お前がヘレンのところへ行くから……メネラオスをそっちへやってはいけないと思って…」 「え、僕のため?」 パッと顔を輝かすパリスを、アキレスが鼻で笑う。 「不出来な弟を持つと、兄は苦労すると言ういい見本だな」 「煩い! お前黙ってろ! ねぇ、兄上、どうなの! 僕のため? 僕のために卑猥な言葉をメネラオスに言ったって本当?」 「卑猥な言葉……」 とうとう両手で頭を抱えてしまったヘクトルを、あれ、兄上、とパリスが首を傾げて不思議そうな顔をしている。 部屋の中に散らばっているゴブレットやら衣類やらアクセサリーやらを踏まないようにひょいひょいと身軽に避け、アキレスは寝台で苦悩するヘクトルの隣に腰を下ろす。 「あれはお前のためじゃない、俺のためだ」 軽く両手を広げて見せるアキレスの余裕綽々の様子に、パリスはむっと唇を曲げた。人差し指を突きつけて、馬鹿な事を言うな、と怒りを内に込めながらも、大きな声を出さないようにと我慢している声を出した。ようやく、兄が大きな声を出すと辛そうにするのだと気付いたようだ。 顔を真っ赤にして怒りの表情を浮かべている弟を見やり、ヘクトルは再び溜息を吐きたくなる。昔からヘクトルの弟はこうだった。何でもかんでも兄と同じ事をやりたがると言うのか、兄に追いつきたいと必死になっていると言うのか、そう言えばもっともっと幼い頃はどこにでもついてきて正直困った事もあった。遅くに出来た子供だったから、プリアモスはパリスを猫かわいがりしていたし、結局面倒を見るのは自分で、割に合わない苦労をしてきたような気もする。それもこれも全部弟可愛さの気持ちからだから、結局自分も父と変わらないのだろう。 額に手を当て、二日酔いの頭であれやこれやと考えていたヘクトルは、パリスが、兄上、と口を尖らせたのでようやく顔を上げた。 「パリス」 ぎゅっと眉間に皺を寄せている弟の名を呼べば、なに、兄上、とぱっと顔を輝かせる。深い溜息をもう一度吐いた後で、ヘクトルは傍らに座り、ことの成り行きを面白そうに眺めているアキレスを示して見せた。 「お前はアキレスに礼を言うべきだ」 「なぜさ! どうして僕がこんな奴に!」 「それはお前が、彼に助けられたからだ。いいか、お前が色んな女と寝るのは勝手だ。それが娼婦や未婚の女ならな。ああ、この際、商人の人妻でもいい。だが、今お前が手を出しているのは、スパルタの王の妻だ。王妃だぞ。メネラオスに露見したら、どうなると思う。折角成った和平を、みすみす潰す事になるんだぞ。昨夜、アキレスはメネラオスの注意を私達に向けてくれた。お前がいる王妃の部屋へ、メネラオスを帰さないためにだ! お前はアキレスに礼を言うべきであって、批難すべきじゃない」 ぐっと喉を鳴らすパリスは、唇を引き結んで両手を握り込んでいる。 絶対に礼なんか言うもんか、と言うのはアキレスを睨み付ける眼差しの剣呑さですぐに解った。 ヘクトルは大きな溜息を吐くと、パリス、と弟の名を呼んだ。 「いい加減に、自分の責任の重大さに気付くんだ」 「…兄上……」 俯いて床に散らばるデキャンタの辺りを眺めていたパリスが、顔を上げる。 「お前はトロイの王子だ。貴族の子供でもなければ、町の子供でもない。一国を守る使命を与えられた王子だ。頼むから、危ないことはしないでくれ」 「弟と言うよりは、手のかかる子供のようだな」 ベッドに寝転がり、枕元で中身も無事に置いてあったゴブレットを持ち上げ、温いワインを舐め、アキレスはおかしそうに呟いた。 「わざわざ兄上に諭されるような事でもないだろうに……王子と言う身分に奢ってるだけの、解らずやのお子様か?」 ふんと鼻を鳴らすアキレスに、感心にもパリスは噛み付かなかった。普段ならそれはもう物凄い勢いで言い返しているのに、ヘクトルの言葉が効いたのだろうか。少しばかり嬉しくなって、パリスを援護するため、ヘクトルは振り返る。 「アキレス。私の弟だ。あまりからかわないでやってくれ」 「あんた、スパルタの兵士だろ。本当なら兄上の部屋になんか入れなのに、偉そうな事言うな!」 ヘクトルの援護に勢い付いたパリスの言葉に、ああやっぱりパリスはパリスか、とヘクトルは溜息を吐く。 そんなヘクトルの様子を眺めていたアキレスが、おもむろに口を開く。 「あんたも、そう思ってるのか?」 「…なんだって?」 低い声に振り返ると、アキレスはとても不機嫌そうに眉を寄せていた。寝そべっているその姿は、まるで獅子のようだ。 「……いや」 下布一枚でベッドに寝そべり、ワインを舐めていたアキレスが、その言葉に一瞬口を噤んだ。何かを言おうとしたのだろうが、言う言葉を変えたように、そうか、と小さな声で呟く。 「邪魔をしたな、ヘクトル」 「アキレス?」 「いや、王子殿下、か。失礼した」 「本当だよ、さっさと出て行って、二度と顔を見せるな!」 「パリスっ!」 アキレスの機嫌を損ねて気を代えさせてしまっては、元も子もないし、メネラオスに、彼の妻とパリスの事をばらされても文句は言えない。 悪いのは、アキレスではなく、パリスだからだ。 パリスを叱り付けて、立ち上がったアキレスにメネラオスの妻と弟の事を黙ってくれるように頼もうとすると、それよりも先に、アキレスは床に散らばっていた服を取り上げた。アキレスのローブはヘクトルが身につけているので、彼が今取り上げたのは昨夜、ヘクトルが着ていた上着だった。 「心配しなくとも、メネラオスの馬鹿に告げ口なんぞはしない」 ヘクトルの先手を打つアキレスに、良かった、とヘクトルは溜息を吐いた。 「すまない、本当に…助かる」 「謝って礼を言うのは、あんたじゃないと思うんだがな」 アキレスはヘクトルのすぐ側に立ち尽くしているパリスを一瞥すると、軽く顎をしゃくった。謝ってお願いでもしてみろよとでも言うような仕草に、パリスの頬がカッと赤くなった。 「出て行けーッ! ここはお前なんかが来るところじゃないんだッ!」 アキレスはふんと鼻で笑うと、大剣を腰に差した。使い込まれたそれの柄に手をかけながら、ああ煩い、と唇を歪める。 「邪魔したな。あんたらは間抜な兄弟愛ごっこでもやっててくれ」 薄く開いたドアの向こうに、アキレスは素早い身のこなしで消えて行った。本当に獅子を思わせる動きだ。剣を腰に差したときの上腕の筋肉の動きなど、静かで隙がない仕草ながら、目を見張るように美しかった。 パタンと軽い音を立ててドアが閉められると、パリスが憤慨してドンと足を踏み鳴らす。 「なんって失礼な奴なんだ!」 「……お前も充分、失礼な奴だと思うがな」 ヘクトルは少しばかり乱れたローブの前を掻き合わせて腰の帯を結び直し、はっとローブを見下ろした。黒いローブはヘクトルがトロイから持ってきたものではなく、ギリシャ風の模様が刺繍されている。手触りや肌触りはとてもいい。アキレスのものだ。彼が全裸だったヘクトルに気を使って着せてくれたのを、そのまま返しそびれてしまったのだ。パリスに追い出されるようにアキレスが出て行ったので仕方がないと言えば、仕方がない。 次に会った時に返そうと、ヘクトルは溜息を吐いた。 それよりも、アキレスが気を悪くしていないだろうかと、そればかりが気になった。海で一緒に泳ぐ約束も、そのまま流れてしまったようだし、残念だ。 まだ和平の宴が続くので、ヘクトルはパリス共々、スパルタにしばらく滞在する事になる。 その間に、こちらから是非誘ってみよう。海で泳がないか、と。応じてくれるかどうかは解らないが、やらないよりはやった方がいい。 ヘクトルは自分の思いつきが、案外いい事に気付き唇を緩めた。 パリスは、ヘクトルの頬に浮かんだ笑みと、その理由を何となく察していたが、何も言わず、ただ部屋のドアを開けて、女官に部屋の掃除を頼む。徹底的に邪魔してやるんだから、と決意しながら、パリスは気に食わないあの黒いローブをどうやって脱がしてやろうかと画策していた。 |