趣味は悪くない


「あなたって、趣味は悪くないわね」
 いつもの冷ややかな声に、ほんの少しの親しみを滲ませた哀の視線に、新一は訝しく眉を寄せた。阿笠邸のソファの上に足を上げ、平次が手土産にと購入してきたイギリスの小説を広げていた。紙の上を踊る横文字に没頭していたと言うのに、突然かかった哀のそんな言葉に新一の集中力はあっけなく途切れてしまった。
「どういう意味だよ」
 むっと口を曲げてそう問えば、あれよ、と哀は冷ややかな眼差しでキッチンを見やった。
 阿笠邸の独特の形をしたリビングとの対面式のキッチンにはこの春めでたく大学生となった平次の姿がある。東京の大学に通うにあたり、平次は住居を東京へと移していた。新一の家から遠からず、近からず、程よく離れた場所に彼はマンションを借りていた。バイクで十分。その距離の気安さに彼は阿笠邸での夕食に度々招かれていた。相伴に預かるばかりでは悪いからと、今日は平次が腕を振るうことになったのだ。
 それならと蘭も呼ばれ、平次と二人でキッチンに立っている。笑い合う声がリビングにまで聞こえ、新一は少し気分が沈んだ。知ってか知らずか、哀はどこか晴れやかな笑みを浮かべる。
「彼、意外とキッチンが似合うのね。キッチンに立つ姿が様になる男性って、そうはいないと思うわ」
 黒いエプロンをつけ、長い髪を纏めた蘭からボウルを受け取っている。笑い合う平次もまた蘭と揃いのエプロンをつけていた。阿笠邸にあったものはその二つなのだから、調理を担当する二人が同じ物をつけるのも仕方がない事なのだが、それすらも気に食わず、平次を褒める哀の言葉と相まって新一は胸に鉛を呑んだような気分になる。
「え、嘘! そんなの入れるの?」
「え、入れへんの? うちでは入れるの当たり前やったんやけど…やっぱ関西とは味付けちゃうんやろうか」
「あ、そう、それ。前に大阪に行った時に思ったよ。関西の味付けって薄味でしょ。でもすごく美味しかったの。服部君のお母さん、お料理上手だもんね。関西の味付け、教えてもらえば良かったな」
「それやったら俺が教えたるわ。一通りのことはおかんから教えてられてるさかい、基本くらいやったらあんじょう面倒見れると思うで?」
「わぁ、嬉しい! じゃあ今度、お願いしてもいい? 関西のおうどん、すごく美味しかったから、家でも作れたらって思ってね」
「ほんなら変わりに蘭ちゃんのハンバーグ、教えてな。こないだ食わせてもろたん、ものすっごいうまかってん」
「そんなのお安い御用よ。あ、お鍋吹きそう」
 蘭が身を乗り出し、平次の腕に触れながらコンロの火を弱めた。コンロのつまみに触れるには、コンロと蘭の間に立っていた平次の向こう側に手を伸ばさなければならず、蘭が平次の腕を支えにするのは仕方がない事だ。容易くそんな理由すら解るというのに、新一は胸に飲んだ鉛の重さが増すように感じられた。
 咄嗟に顔を背ければ、じっと見ていたらしい哀と目があった。ぎくりと身体を強張らせる新一を見据える哀の底知れぬ眼差しがほんのりと笑みを馳せる。
「あなたって、割と解りやすい人だったのね」
「………んなこたない」
「と思ってるのはきっとあなただけよ。いいじゃない、別に。蘭さんが服部君とどうこうなるなんて有り得ないのだから」
「そんな心配してねぇよ」
 むっと唇を曲げる新一が止まっていた本の続きを読むために目を落とす。ページを繰る指は、それでもそわそわと本の縁をなぞっていた。
 哀はくすりと微笑み、自身も読んでいた本に目を落とす。最近学会で発表された論文が載った雑誌で、阿笠宛てに送られてきたものだ。哀も興味を引かれる内容だったので、阿笠不在のこの日に目を通し始めていた。
「あら、そう。そうよね」
 細かな横文字が綴る論文に目を走らせる哀は、素っ気なく呟いた。
「あなたが心配してるのは、蘭さんが、じゃなくて、服部君が、だものね」
 蘭が平次とどうこうなるのを心配しているのではなく、平次が蘭に心奪われてしまうのではないかと心配している。
 そう告げる哀の言葉をようやく解し、新一は本を抱えたままでぎしりと固まった。言葉が脳に到達し、哀の告げた意味を理解すると、途端に新一の顔には朱が差した。かぁあっと耳を澄ませば血の昇る落とすら聞こえるのではないかと思うほど鮮やかな色変わりに、あら、と哀は目を丸くした。落ち着き払い、年不相応な取り澄ました子供の顔がおかしそうに少し歪んだ。
「あなたって、趣味は悪くないのね」
 哀は新一の読書の手を止めた言葉をもう一度口に上らせ、後を続けた。
「だって彼、いい男だから」
「なっ…ば、バーローッ! オメ…ッ、なっ…だ、誰がっ、服部なんか…っ!」
 かつてないほどうろたえる新一が思わず立ち上がり、いつもの理路整然とした様をどこへ忘れてきたのやら、焦り混乱し、右往左往する。おかしそうに哀がそれを眺めていたが、一騒ぎに向けられた声に振り返った。
「あ? 俺がなんやて〜?」
「な、なんでもねぇよっ!」
「なぁに、新一? 顔が真っ赤よ?」
 キッチンからサラダの入ったボウルを抱えてやってくる蘭が目を丸くする。後に続くのはたっぷりのカレーが入った大きな鍋を持った平次だ。良い匂いを当たりに漂わせ、蘭は手早くテーブルを整える。平次は鍋をテーブルに置くと、ひょいと身を屈め、火照る頬を持て余す新一の額にすっと手のひらをあてた。
「あ、ほんまや。風邪でも引いたんか? ここんとこまた寒ぅなっとったしなぁ。もうすぐ入梅やっちゅーのに…。熱あるんやったらもう休んだ方がええんちゃうか? なぁ。ねーちゃん」
「ええ、そうね。熱があるのならね」
 含みを持たせた哀の言葉に、余計に頬は熱を孕む。
 新一は読みかけの本を音を立てて乱暴に閉じ、それを平次に押し付けた。
「うっせぇ! 熱なんかねーよ!」
「そやけど、工藤、お前、顔が真っ赤やで?」
 押し付けられた本を慌てて受け取り、エプロン姿の平次は首を傾げる。同じエプロン姿の蘭がその横から顔を出す。
「そうよ新一、いつだって急に熱出すんだから」
「熱なんかねーって! いいからさっさと食おうぜ。腹減った」
 揃いのエプロンが気に食わない。
 新一がむっつりと顔を顰めながら立ち上がれば、静かに成り行きを見守っていた哀が、不思議そうに顔を見合わせる二人に告げた。
「心配いらないわ。工藤君に熱はないから。ただの嫉妬みたいなものよ」
「はっ、灰原っ!」
「あらやだ」
 蘭が口元に手を当ててぱしぱしと瞬きをする。大学に入ってからほんのりと化粧をするようになったが、それは新一のためにではない。最近とみに綺麗になったと評判の幼馴染は、それでも以前と変わらぬ気のおけないにんまりとした笑みを浮かべた。
「もしかして新一、私が服部君と仲良くしてるからって、妬いたの? やっだー」
 からからと笑う明るい声に、平次の嬉しそうな声が重なる。
「そんなん心配せんでも、俺は工藤一筋やでー!」
「馬鹿言ってんな! 馬鹿!」
「あ、工藤! 関西人に馬鹿言うたらアカン言うたやろうが!」
「じゃあアホ!」
「アホもアカン!」
 ぎゃいぎゃいと他愛ない言い争いを始めた東西の名探偵を眺め、哀は広げていた論文をぱたりと閉じた。すでに冊子になっているもので、表紙は電子科学顕微鏡で写した核組織の断面図だ。知らないものが見たらただの色のついた半透明のガラスに水滴がいくらか付着しているようなものを写した写真に見えただろう。
 阿笠邸のダイニングテーブルに並べられた皿に、自信作だと言うカレーをよそう平次の横で、なおも新一はぎゃんぎゃんと吼えている。普段は冷静沈着な名探偵が、推理抜きの平次が絡むとああなるのだから面白い。
 哀は立ち上がり、読んでいた論文をテーブルへ置くと、そちらへ向かって歩き始めた。エプロンを外していた蘭が無邪気に首を傾げた。
「哀ちゃん、真剣に読んでたけど、何を読んでたの?」
 きっと返ってくる答えはどこのアイドルがどうのだとか子供らしい答えを期待していたのだろうが、哀は平然として、そして素っ気なく答えた。
「γ-グルタミルシステイン合成酵素の結晶構造:グルタチオン恒常性の鍵となる酵素の触媒機構解明 (※)
「………へ?」
「読んでいた論文のタイトルよ。知りたかったんでしょう?」
 ぽかんとした蘭の側を通り抜け、哀はダイニングテーブルの脇で、まだ何かを言い争っている新一と平次の側へ寄る。椅子を引いて腰を下ろせば、なぁっ、と平次が眉を吊り上げて哀を見た。
「どう思うッ? こいつ、俺のこと何や思とんのやッ? 仮にも恋人に向かってやなぁ、アホや馬鹿や言うなんてあんまりやと思わへんかッ?」
「あっ、テメッ、汚ねぇぞ! 灰原味方に引きいれようったってそうは行かねぇからな! 大体テメェがいつも余計なこと言うからこういうことになってんだろうが!」
「余計なことって何やの。俺は工藤が好きやら工藤好きやーって言うてるだけやん。それを余計なことて…」
「ば、バーロー! 藪から棒に何言ってやがんだ!」
 各々の皿に盛り付けられたトマトよりも、かあぁああと赤くなった新一の顔を見て、平次はにんまりと笑う。お、真っ赤、と笑いながら頬を突くものだから、新一は気恥ずかしさを誤魔化すために足やら手やらで平次を攻撃する。確かに余計なことかもね、と哀は思いながらも、折角のカレーが冷めるのはいただけないので、下らない言い争いに終止符を打つことにした。
「馬鹿言ってないで、早く食べましょう。お腹減ったわ」
「せやけどな…」
「できるなら、あまり工藤君をからかわないでほしいわね、服部君」
 哀はそう言うと、テーブルに用意されていたアイスティを口に含んだ。ちらりと見れば、ほらな、と胸を張る新一が平次の側で勝ち誇ったような笑みを浮かべている。哀はそれへにこりと微笑みかけた。
「だって工藤君ときたら、あなたと蘭さんがお揃いのエプロンをしているだけで気に食わなくて拗ねちゃうくらい、あなたに惚れているんだもの。あんまりからかうと、かわいそうじゃない」
 哀の言葉を聞いた二人の様子ときたら、それこそ対象的でおもしろかった。
 真っ青になり、真っ赤になり、言葉もなくぱくぱくとただただ口を動かすだけの新一と、最初こそぽかんとしていたものの時間がたつにつれ自分の中で哀の言葉が浸透し始めたのだろう。にんまりと頬を吊り上げこれ以上ないと言うほど嬉しそうな顔をした平次と、実に対象的で面白い。顔を見合わせて、またぞろ口喧嘩を始める二人を、哀はもう諌めなかった。隣に腰を下ろした蘭に、一緒に手を合わせて良い子の見本のようないただいますを強いられながらもそれに甘んじ、哀は平次特製のカレーを頬張る。少し辛いけれど濃くがあってまろやかで、下手なレストランで食べるよりもよほどうまい。
「あら、おいしい」
 哀が目を丸くすると、やろっ、と平次が嬉しそうな笑みを浮かべた。新一との口喧嘩は一時お預けになったらしい。スプーンで豪快にカレーとご飯とをよそい一気に口に突っ込む平次が、その合間に言った。
「隠し味があんねん。後でねーちゃんにも教えたるわ」
「なんだろ、やっぱりあの隠し味が決め手なのかなぁ。うちで作るのと大違い。今度試してみようかな」
 蘭も同じように目を丸くしながら、平次特製のうまいカレーを頬張っている。新一だけはもくもくと食べていたが、隣の平次がちらちらと何かを言って欲しそうに新一を見ているのに、哀は気付いていた。そのまま気付かないふりをしてやろうかと思ったのだが、うまいカレーの礼をしてやるべきだろうと哀は笑んだ。
「本当、あなたって趣味は悪くないのね、工藤君」
 はぁ、と首を傾げ訝しむ様子の新一と、釣られたように首を傾げている服部に哀は告げた。
「料理が上手な男性って、魅力的だもの。恋人がそうで、羨ましいわ、工藤君」
「あ、それ言えてるかもー!」
「ねーちゃんにそう言うてもらえるなんて、嬉しいわ」
「んなっ…!」
 カレーを口へ運ぶために持ち上げたスプーンから山盛りによそったカレーがぼろぼろと零れ落ちる。ああっ、と焦る新一と、何やってんねんな、と呆れ気味ながらも手際よく零れたカレーを片付け、新一の服についたカレーを被害が大きくならないように気をつけながら、意外と器用な平次の手が拭い取る。ああもう何してんのよ新一ったら…、と蘭はタオルを濡らすためにキッチンへ行ってしまった。
 テメェ、と新一は恨みがましい目で哀を睨んでいたが、服を拭くついでのように口元を平次に拭われて、ガキじゃねぇっ、と悲鳴じみた声を上げる。それを聞きながら哀は、素知らぬ顔で平次特製のうまいカレーを食べていた。

 というわけで平新です。蘭は嫌いなんですが、小説で書くのは楽。というか、気兼ねがいらない。なまじっか好きなキャラだと「こんなのさせられないー」とかあるんですけど(たまにはね。そんな素振りもなく非道な目にあわせている時もありますがそれも愛ゆえと言うことで)。今回は女性陣初登場と言うことで。哀ちゃん好きなんですよー。図書館でキスの話も、書架の向こうにいたのは実は哀だったとかゆー裏設定もあったりして。神出鬼没。冷静沈着冷酷無比(とはちょっと違うか)。クールビューティとは哀のためにある言葉のような気がしたりして。愛という漢字じゃなく、哀という漢字を選んだところも好きです(コミックス灰原哀初登場回参照)。ちなみにカレーにミルクチョコレートを入れると美味しいですよ。

(※)『Crystal structure of γ-glutamylcysteine synthetase: Insights into the mechanism of catalysis by a key enzyme for glutathione homeostasis』 Proceedings of the National Academy of Sciences 10/2004