策士は詐欺師を凌駕する


 さて、と白馬探はマイセンのカップを片手に、そしてもう片手にはソーサーを持ち考えた。目の前でヤケッパチのようにぐるぐると紅茶に突っ込んだスプーンを掻き混ぜている服部平次を、止めるべきなのか、放っておくべきなのか。今のまま放っておけば恐らく探が持つのと同じマイセンのカップには少なからず損傷が残るだろう。探にそれほど愛着はないが、これは探の身の回りの世話をしてくれている女中さん(探の頭の中では、今時女中なんて言わねーよ、と憎たらしい顔で快斗が言っていた)が特に気に入っているものだ。彼女のものと言うわけでもないのだが、探の親しい友達が来たときにだけ出すのだとこだわっているものなので、欠けると厄介だろう。確かに青色は美しく、それに対比するような白色とのコントラストも相まって、ゆったりと紅茶を楽しむ際に、口だけではなく目も楽しませてくれる重要なものだとは思っているが、果たしてそれを本当に今の場に出す必要があったのだろうか。
 探は意を決し、口を開いた。
「あの…服部君」
「なんやっ?」
 思った通り、棘だらけの声が返ってきて、探は溜息を吐いた。
「ひとまずマイセンに八つ当たりをしないで頂けますか? 大体、君、一体何をしにきたんです? 言っておきますが、僕は君の愚痴に付き合うほど暇でもないのですが…」
「……大体と言えば、お前のせいやないか」
じと目で睨む色黒の西の男に、探は、さて、と首を傾げた。
「と仰いますと……ああ、また黒羽君がご迷惑を?」
「解っとんのやったらなんとかせんかい! あいつ昨日から我がもの顔でうちのリビングに居座りよってからに…!」
 ぐるぐるぐるぐるかちゃかちゃかちゃかちゃ、と平次の手の中でマイセンのカップが掻き混ぜられる。銀色のスプーンはちゃんとした銀のもので、これもまた女中さんが(だから今時女中なんて言わねぇってのよ、と探の頭の中で快斗が嫌そーに顔を顰めた)手ずから磨いているものだ。せっせせっせと暇さえあれば磨き、光らせたそれにうっとりと見入っているのを探は知っていた。
 それでも探は、ははぁ、と納得したような声を洩らす。
「それで、工藤君が独占されている…と。こういうわけですか? それなら別に今に始まったことじゃ…」
 やれやれ、とでも溜息の吐きたい気分でそう告げた探に、平次は噛み付くように言い返した。
「それならなんぼでも対処のしようがあるわい!」
 バンッとテーブルに叩きつけられたのは手で、持っていたマイセンのティカップではない。どうやらそれをするほど我を忘れているわけでもないようだ。さすがの名探偵の助手(新一の助手って扱いは平次嫌がるからやめた方がいいよ〜、と探の脳裏で快斗がちょっぴり心配そうに言った)だけあって、マイセンがいかほどのものなのかを知っているというわけだ。
 わなわなと震える手をぎゅっと握り締め、平次は地の底から這うような声で唸った。
「あんのクソガキ、工藤の家やのうて俺のマンションに上がりこんで新婚ごっこなんぞやらかしとんのや! 何が悲しゅうてあいつの裸エプロンなんか見なあかんのやッ! 工藤のやったらともかくとして……ッ! しかも風呂に入ろう思たら背中流す言い出すし、寝よ思たらベッドん中におるし……ッ!」
 はー…、と探は感心した。
 工藤君の裸エプロンであれば見たいと思っているわけですか…、と完璧に論点のずれている探は納得し、記憶のメモ帳の服部平次の項にそれを書き加えた。服部平次、工藤新一の裸エプロンには興味あり、と。
 内心の考えなど洩らさぬように、探は素知らぬ顔で告げた。
「それはそれはご迷惑を」
「悪い思とるんやったらなんとかせんかい! 大方、くっだらん事で喧嘩でもしたんやろが。どーせ白馬が悪いに決まっとる。さっさと謝ったったらええねん」
 ぶつくさと、まるで独り言のように呟く服部の姿に、おや、と探は眉を潜めた。少し首を傾げるようにして紅茶のカップを覗く仕草に、なにやら見覚えがあったのだ。だが、今まで服部と紅茶を飲むような機会はない。カップを覗くという仕草に既視感を覚えはしないはずだ。はて、と思いを巡らせしばらくすると、するすると絡まった紐が解けるように謎が解けてゆく。
 またカップを覗きこんではせっせと砂糖を紅茶の中に投じている服部の姿に、白馬は思わず口元をカップで隠しながら笑んだ。
 そちらがそのつもりなら、こちらとて応戦の構えをとっても良いだろう。
「喧嘩…というほどのことはした覚えがありませんね。それよりも服部君、先日お話しした事ですが…」
 ちらりと意味ありげに視線を這わせると、は、と服部平次は首を傾げた。
「先日のことって…なんやの」
「やだな…もう忘れてしまったんですか? あなたって人は…」
 探は薄い笑みを浮かべ、カップをソーサーに置いた。そしてそれをテーブルへ置き、隙のない仕草で足を組む。目を白黒させている平次の前で、ゆっくりと笑み、あの事ですよ、と囁くように告げた。
「僕とのお付き合いを、考えてくれると仰ったじゃないですか」
「……あ…お、お、お付き合いィ…?」
 目を丸くする平次に、探は、はい、と笑みを深くした。
「互いの本命に隠れての逢瀬も、なかなかスリリングで楽しそうだと仰っていたのに、もう忘れてしまったんですか…? それとも、それも僕を楽しませるためのひとつの手ですか? だとすればあなたはかなりの策士だ。ああ、そうそう、服部君。くれぐれも、工藤君や黒羽君にはご内密に。僕達が浮気をしているだなんて知ったら、彼らは烈火のごとく怒るでしょうから…。彼らの前で僕らは、あくまで他人ですからね。A secret is a secret…All right?」
 しーっと唇に人差し指をあて、穏かに微笑んで見せれば、すでに平次の顔からは装った『服部平次』たる表情が消えている。現れているのは、平次の顔をしながらも快斗が持つ特徴を顕著に表した表情だ。解りやすい、と言うよりもこれくらいのフェイクに引っかかっていては怪盗としてはまだまだだろう。
 探はほんの少しのお遊びで終えるはずだったのが、どうにも面白くなってきてしまった。
「そうだ、合図でも決めておきましょうか。だって君が工藤君とのデートの時に、うっかり声をかけてもいけませんし、秘密の合図だなんて、楽しそうじゃないですか」
 呆然としている平次に、探はトドメをかけた。
「どうせです。今からベッドに行きませんか? 黒羽君は君のマンションにいるのでしょう? だとすればここにはやってこないでしょうし…工藤君も言うに及ばずでしょう。彼は僕の家にやってきたことはありませんから。どうですか? 僕の誘いに応じる気はありますか…?」
 にこりと微笑んでそう告げると、平次は色黒の肌ですらも解るほど真っ青な顔をしていた。呆然と探を見つめ、信じられないような眼差しをしている。まさか探がそんな事を言うとは思っていなかったのか、それとも探が他所に気を移すなど考えたこともなかったのか、どちらにせよ今の快斗の顔は、平次の姿であっても捨てられた子犬さながらだった。
 さすがにやりすぎたか、と探は席を立った。
 ゆったりとした動きでテーブルを迂回し、平次の姿を偽った快斗の前に膝を付く。いつもの彼にするように膝の上に置かれていた手を取ると、それだけでびくりと浅黒い手が揺れる。
「どうしました? ベッドに行くのは嫌ですか? それとも、あなたはソファの方がお好みですか? 僕はどちらでも結構ですよ。ベッドでもソファでも、あなたを愛することに変わりありませんからね。あなたが選んで下さって結構ですよ…黒羽君」
 身を乗り出し、強張った身体の耳元でそっと囁けば、大袈裟なほど平次の身体は揺れた。
「な……ッ?」
 目を見開く姿はまさに平次そのものだが、もうすでに遅い。見せてしまった動揺は撤回することは叶わないし、何より快斗は、探の口から告げられる思いも寄らぬ言葉に被った仮面を取り落としていた。取り落とした仮面を再び舞台で拾い上げるなど、無粋この上ない。
 目を見開いている、平次の姿をした快斗に、白馬はにっこりと微笑んだ。
「Let’s make a play an end……お芝居は終わりですよ、黒羽君。そろそろ君の素顔を見せて頂きたいのですが?」
 呆気に取られ、ぱくぱくと口を開けたり開いたりと、彼が嫌いな尾鰭や背鰭や鱗のついている生物のような姿を晒していた快斗だったが、探がにこにこと微笑んで見つめていると、やがて諦めたように大きな溜息を吐いた。
「いつから気付いてたんだよ…」
 溜息と一緒に吐き出された声は快斗が生来持つものだった。
 探はにこりと微笑んだ。
「最初からです…と言いたいところですが、君が紅茶を混ぜていた時の仕草に見覚えがあったもので」
「……くそー…絶対上手く行ってると思ったんだけどなぁ…。まさか見抜かれて、しかも仕返しされるなんて……」
「僕を甘く見ない事です、黒羽君。君の変装なら誰よりも多く…ああ、中森刑事、彼は別ですが…見てきたつもりです。あなたの演技を見抜けないほど、僕の探偵眼は曇っていないつもりですよ」
「ちぇー…服部サンは騙せたんだけどなぁ…」
 ぶつくさといいながら、いまだ平次の姿で首を傾げている快斗に、おやおや、と探は心底楽しく尋ねた。
「服部君を騙してきたんですか? いけない人ですね」
「ちょっと新一の真似をしたら、ころっと騙されてくれちゃってさ…。もうすっごいべたべたしてくんの。あんましかわいそうだから、さっさと逃げてきちゃった」
「あんまり服部君をからかうものじゃありませんよ。彼はああ見えて怖い人ですからね」
 探はそう言うと、寄せていた身体を離した。いつまでもくっついていたのでは快斗が変装を解けないし、そうであればずっと平次の姿のままの快斗と接することになってしまう。探としては、平次よりも快斗の顔の方が無論好みであるし、何が悲しくて正体をばらした相手と仮面をつけたまま話さなければならないのだろうか。
 探が快斗に背を向け、部屋の電話で快斗の好きなミルフィーユを持ってくるように伝えている間に、快斗は平次の姿を脱ぎ捨て、見事なまでに何時もの彼に戻っていた。
「大丈夫。新一も騙してきたから」
「工藤君もですか。君は一体何をしに行ってたんですか?」
 思わず呆れた声を洩らせば、いやだって、と快斗は悪びれもせずに笑った。
「服部サンだけ騙して新一騙さないってのは平等じゃないかなって」
 やれやれ、と呆れていると、部屋のドアがノックされ、入室の許可を求める声がかかる。探が、どうぞ、と簡単に促せば、揃いのお仕着せを身につけた女性が二人、カートレイを押してやってきた。見事なまでに銀色に磨きあげられたステンシルのそれの上には、白い大きな皿があり、更にその上にはミルフィーユが鎮座ましましている。苺とカスタードのミルフィーユに、苺と生クリームをあしらい、アクセントにミントの葉を散らしたそれを前に、快斗の顔がぱぁあっと解りやすく明るくなった。
「マキシム・ド・パリのナポレオンでございます」
「うーおー! すっげぇ! 初めて見たー!」
「全部食べても結構ですよ。お土産にひとつ用意してありますから、お母様にどうぞ」
 目を輝かせて切り分けられるミルフィーユに魅入っている快斗の様子を、愛らしい人だと微笑みながら眺めている探の側に、つと女性が一人立った。差し出された一枚の紙に、これは、と目で問えば、女性は素知らぬ顔で囁いた。
「関西弁の方から、くれぐれも黒羽には見せんようにしてやー、と伝言を承っております」
 優秀な女中さんは口調を真似るのも優秀だった。
 ちょっと引きつった頬を持て余しながら、それはどうも、と紙を受け取り広げれば、どうやらそれはファックスで届けられたようだ。携帯電話だけでなくパソコンのメールアドレスも知っているというのに、わざわざファックスで送ってくる辺り、平次も面倒臭がり屋だ。あれで意外と携帯電話のメールを打つのは苦手らしい。パソコンは立ち上げなければならないので、ファックスを選んだのだろう。
 ミルフィーユに夢中になっている快斗に気をつけながら、探はファックスの紙を開いた。大雑把に書かれた、意外と綺麗な文字に目を走らせて、探はくすりと笑みを浮かべる。側で控えていた女中さんに折り畳んだ紙を渡し、にっこりと微笑んだ。
「この送り先にファックスを流してもらいたいのですが」
「畏まりました。どのように?」
「そうですね…。『了解』と、それだけで結構ですよ」
 探の目配せを受け、二人の女中さんはそつなく会釈を残し、カートレイを残したまま部屋を出て行く。カートレイの上には新しく紅茶を淹れ直したティポット、快斗のために選ばれたミルフィーユ、そして探が頼んでもいないのに、探のために用意された比較的甘みの少ないジュレが並んでいた。
 優秀この上なし、と探はジュレを引き寄せ目を細めた。
「黒羽君。工藤君が夕食にと僕達をお招き下さったんですが…。勿論、行きますよね?」
 今の季節ならではの薄水色のソーダのジュレをスプーンで掬い上げて問うと、それもうまそう…、と快斗は探の手元を凝視している。後で差し上げますよ、と付け加えれば、うん、と快斗はいやにあっさり頷いた。
「新一の家ってことは、服部サンの手料理ってことでしょ? うまいんだよねー、服部サンの料理。お好み焼きだといいなぁ」
「そう言えば、お好み焼きは食べたことがないですねぇ」
「え、マジで? 絶対、服部サンに作ってもらうべきだって! そこらの店よりうまいもん! さすが本場」
 そう言いながら快斗の手は止まることがない。ミルフィーユの硬いパイ生地を切り分け、カスタードを絡め、苺を載せて、せっせと口へ運んでいる。
 巣篭もり間際のリスのような仕草に、探は目を細め、工藤邸へ訪れたら一番にそれを頼んでみます、と頷いた。その脳裏には、先ほど目を通した平次からのファックスがあった。どうやら向こうでも快斗の悪戯にはご立腹のようで、今日と言う今日は仕返しをしなければならないと息巻いているようだった。ファックスには『黒羽逆襲計画。魚尽くしの夕食に誘うべし』と書いてあったのだ。だが、平次のことだから、それは建前だけできちんと快斗が食べられるものも用意しているのだろう。そこら辺が、平次と新一の違いだ。恐らく新一ならば、本当に魚尽くしの料理を快斗の前に並べ、残すことを一切許さないだろう。心底本気で逆襲を考えた場合の自分も、どちらかと言えば新一と同じだ。そして、度を過ぎた快斗の悪戯にお仕置きをしなければと目論んでいたのは、探とて二人と同じだということだ。
 さてどうなることやら、と探は容易く想像できる数時間後の光景を思い浮かべ、迫る危機に何も気付かず、ミルフィーユに頬擦りしそうなほど喜んでいる快斗を眺め、こっそりと笑みを浮かべていた。

 基本的に平次が好きなので、新一よりも平次の方が出演率高いのです。つか、白馬が新一や平次を呼ぶときの呼び方は容易く想像できるんですが、快斗のはなぁ。新一は新一と呼んでいるに違いないが、平次はちょっと特別色を出して「服部サン」にしました。快斗→平次も好きなんです(笑)。勿論前提として、平新があっての上でなんですけどね。そして平次は料理をできるに一票。新一はできるけどしないに一票。白馬は知識はあっても台所には近付いたことがないに一票。快斗は……できるんだろうなぁ。できなくてもやりだしたらめきめき上達しそうだわ。手先器用だし。
 そんなわけで、ピサ勇アンソロ編集お疲れ様でした〜w 卯月さんへお捧げいたします! わたくしの愛とともに…!!